第23話 タナトスの指先
「これ、ポトスって言うんだな。雑草の仲間かと思ってた」
「ヒロ、マジで言ってんの? あと、雑草にだってちゃんと名前あるよ」
「植物に縁のない家で育ったもんだから、知らないんだよ」
「じゃあこれから知ればいいよ」
私の部屋の片隅に、観葉植物を置いた。良く見る植物で、名前はポトスと言うらしかった。植物に興味がまるでない私は、花も草も殆どの名前を知らないままでいた。
名前すら知らずに通り過ぎてしまうもの。それはまるで人のようだ、と思いつきで考えたが特に口にする事はなかった。
窓辺のポトスが新しい生活の象徴のようにも思え、私はそれをなるべく忘れずに世話してやろうと心に釘を刺した。
婚姻届を提出し、正式に夫婦になった私と女だったが、日常の中で互いの関係においては大きな変化は無かった。朝が来れば互いに出勤の準備に追われ、夜が来ればテレビを観ながら酒を飲み、食事を摂った。家事の分担は互いで決めた訳ではなかったが、掃除が嫌いではない私が主に風呂やキッチン周りを担当した。ゴミ出しと言えば世間的なイメージで夫が行いがちなものだったが、ゴミの分別が好きな女は火曜と金曜の朝になると意気揚々と70ℓのゴミ袋を抱えて玄関を飛び出して行った。煙草の紙箱と銀紙を一緒くたに捨てる私は、しょっ中、女に注意されていた。
「あー、ほら、また一緒に捨ててる」
「ついついやっちゃうんだよ、気を付けるわ」
「もう、次やったらマジで罰金取るからね?」
「肩たたき券じゃダメ?」
「ダメです。子供じゃないんだから」
「分かったよ、悪かった」
「言っても直らないでしょ?全く……あ、そういえば土曜日、花火大会だね」
「あー、そうだっけ? せっかくだから打ち上げてる所の近くまで観に行くか」
「そのつもり。ビールでも飲みながら散歩がてら行こうよ」
「いいねぇ」
「その日さ、お昼にパソコン買いに行こうと思うんだけど」
「約束してたヤツね。大丈夫、半分出しますよ。俺も行こうか?」
「いいよ。お昼、都内でお姉とご飯しようって話ししててさ。こっち帰って来るって」
「あぁ、そうなんだ。お姉さん元気?」
「旦那さんと韓国で仲良くやってるって。喧嘩して帰って来る訳じゃないからね」
「それならいいけど、会えなくて悪いけどよろしく言っといてよ」
「うん、夕方までに帰ってくるからさ」
「掃除でもしながら待ってるよ」
「ピカピカにしといてね」
晴れ渡った土曜日。朝から降り注ぐ強烈な陽射しに、私は目を顰めた。これから迎えるうだるような夏を連想させる、そんな陽射しだった。
食事も早々に、着替えを済ませた女は昔と変わらない香水を腕に付け、私の傍に立った。
「ねぇ、ヒロ」
女はそう言って私の腕を取りながら、目を閉じて顔を突き出した。子供のような分かりやすいその甘え方に私は微笑み、唇を軽く重ねた。
「気を付けて行って来いよ。お姉さんによろしく」
「うん。あんたが引くくらいの、めっちゃ高いパソコン買ってくるから」
「あぁ、今月苦しいなぁ……だけど、まぁ約束だから、いいよ」
「ふふ、多少のお金はあるの知ってるよ? お掃除よろしくね」
「オッケー、任せといて」
顔がつきそうな距離で、目の前の女の眼が悪戯そうに笑った。
「あのさ」
「うん?」
「ううん。まぁ、花火観に行く時にまた言うよ」
「なんだよ、気になるな」
「悪いことじゃないよ、凄くいいことかもね」
「そう? 楽しみにしてていい?」
「うん、いいよ。ヒロ、愛してる」
「俺も愛してるよ」
私は女の名を呼びながら、その細い体躯をこの手の中に収めた。しばらくそうしている内に互いの熱で暑くなり、身体をゆっくりと引き離し、私は女の頭を撫でた。
「髪、乱れるから」
「はは、大丈夫だよ。綺麗なまんま」
「本当? じゃあ、行ってくるね」
「あぁ、行ってらっしゃい」
女は白いサンダルを履き、小さく手を振って玄関の扉を開いた。溢れ出した夏の光はあまりに眩く、一瞬、女の姿を掻き消した。
私は女に小さく手を振り、その背中が角を曲がるのを確かめてから玄関の扉を閉じた。
世界でたった一人、抱き続け、守り続けたいと願える人の姿だった。部屋へ戻ると、開け放たれた窓辺に置かれたポトスが、夏を弾きながら揺れていた。まるで、女の微笑みのようだった。
そして、女との会話はそれきり最後となってしまった。何故なら、女が笑いながらこの部屋に戻る事は二度と無かったからだ。
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