第22話 永遠を保つ譜面

 平穏が恒久的な安定に繋がらない事は生きている限り誰しもが体験し、そしてそれが例え、他人事であっても身につまされる思いを抱いた事があるはずだ。


 この世界に永遠なる安定があるとすれば、それは目も当てられない程に酷く、醜いものだろう。

 口に出さないだけで知っているはずである。日常に見える当たり前の風景達でさえ、状況が変われば狂気じみた風景に変わる事を。埃の積もらない思い出さえ、守り続けた末にたちまち凶器となり、無造作に胸を切り裂く事さえある事を。


 水飲み鳥の玩具のように、私は残されてしまった人生にうんうんと首を縦に振り続けている。抗う事も、受け入れる事もなく、ただ物理的な時間が過ぎて行くのを気味悪く感じ、無防備で無思慮な薄ら笑いをたまに浮かべているだけだ。

 無遠慮な平穏の終焉は、ノックもなしに突然訪れた。


 五月が終わる頃、私は女の部屋の荷物を運び出していた。荷物の殆どが既にダンボールに纏められており、後はもう運び出すだけという状況に、女の段取りと手際の良さを感じた。

 新しいアパートの契約、家具や必要な物の買出し、ライフラインの手続き等、ここひと月の間で暇なく私と女で分担して行っていたのだが、私の荷物はまだ殆ど手付かずの状態で部屋に残されたままだった。

 私の段取りの悪さを女は笑っていたが、繁忙期が過ぎても尚、仕事が落ち着かなかった状況を私は言い訳にした。

 事実、仕事を終えて家に帰り、風呂に入って寝るだけ。という生活が続いていた。しかし、そんな日々の中でも新しい生活の足音が近付く度に、私の心は酒に漬け込まれた肉のように柔らかくなっていったのだった。特に眠る前はすぐ側まで迫った未来を想像すると、安らかなまま深い闇の中へ堕ちる事が出来た。


 六月上旬。互いの荷物を運び終え、新しい住処に私達は期待に胸を膨らませていた。洋間が二部屋、そして多少広めのダイニングキッチン。女の部屋の洋間にはロフトがついていた。

 ローテーブルで珈琲を飲みながら、何ともなしにロフトを二人で眺めていると女が言った。


「あそこで猫、飼おうかな」

「ロフトで?」

「うん」

「猫って梯子乗り降り出来るの?」

「あー、そっか。ロフトじゃダメかぁ」

「いや、分からないけど」


 女は苦笑いを浮かべながら、それでも穏やかな口調で続けた。


「ほら、私達は望めないからさ」

「何を?」

「子供」


 珈琲を飲みながら、女はまるで他人事のような口調で言った。禁忌に近いものだとばかり思っていたが、あっさりと言ってのけた身体の事実に、私はどう冷静にいたらいいのか分からなくなりそうだった。その原因は私にあった。


「ヒロ、驚いた?」

「いや、うん、猫の話しからいきなり飛んだと思ってさ」

「もう婚姻届け出すんだし、話しておかなきゃいけない事だと思ってるんだけど」


 穏やかな口調に任せ、私は倦厭し続けていた扉を開いた。女の胸を借りてしか言い出す事の出来ない、己の不甲斐なさをやり過ごした。


「あのさ、やっぱ堕ろしたのが原因なの?」


 女は一瞬顔を上げ、私と目を重ねた。女の次の言葉に無意識に身体が身構えたが、女は静かに俯き、カップの中をスプーンで掻き混ぜながら言った。その所作が、妙に生々しく思える。


「そうとも言えないみたい。元々子供が出来難い身体って言ってたでしょ?」

「あぁ、そうだね」

「あの時は意地になってた。私、馬鹿だった」

「今もさ、何も言えなくしてた俺に責任があると思ってるよ」

「いいよ、ヒロが私を犯した訳じゃないでしょ。私だって同意の上でセックスしたんだから」

「そりゃそうだけどさ」

「ねぇ、もういいよって思ってよ。自分を許してよ」

「俺が俺を?」

「そう。そうじゃないと私は私を責め続けなきゃいけないんだよ」


 言葉とは裏腹に力のない笑顔を浮かべた女は、ミルクのポーションをゴミ箱に向かって放り投げた。しかし、ポーションはゴミ箱の淵に弾かれてしまい、私の膝の下まで転がって来た。私はそれを拾い上げ、ゴミ箱に入れた。ひとさし指の先に着いた白い液体を、親指と合わせて擦る。

 私は自分の何を許すべきなのか、曖昧なまま苦笑いを浮かべる。責のある自分が、女を繋ぐ為の理由の一つである気がしたのだ。しかし、私は言った。


「分かった、自分で自分を許せるように努力するよ」

「ヒロ。それ、分かりたくない時の言い方でしょ?」

「バレたか」

「それくらい分かるよ。大阪から帰って来て、何で何も言わなかったかって言えばさ、ヒロとは離れないって思ってたから」

「信じてくれてたんだ?」

「何か、その信じるって言い方は好きじゃない。もっと強いの」

「もっと強いって、具体的には?」

「私が言ったワガママ叶えてくれても、私が傷つかない人。絶対そうだって思ってるから」


 一点の曇りも、迷いもない、強引な女の言葉に、私は盛大に噴出してしまった。声を上げて笑った。

 その瞬間、あっさりとついた勝負に、完膚なきまでに負ける心地良さを味わった。

 私は私を許し、女は女を許す。その肯定には互いが必要なのだ。個人で抱える自責の念は、永久に続く責め苦にしか成らない。

 笑い続ける私の姿に、女は誇らしげに笑ってみせた。

 空は晴れ渡っていて、私達は気紛れを起こして花を買いに外へ出た。

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