第20話 赤い月

「もしもし?」

「ヒロ、何も言わないで急に辞めたりして、本当にごめんなさい」

「いや、気にしないでいいよ」


 気にしないでいいよ。どの口が言っているんだと、自分で呆れそうになる。きっと金田も、同様だろう。心配そうに電話を眺めているが、少しでも動かせば突然怒り出しそうな雰囲気があった。


「あの、書いてもらいたい書類があるんだけど」

「ごめん、何枚かまだ書いてなかったよね、ダメだね、私は、はは」


 ごめん。共に新しい日常を踏み出した女に言わせたくない言葉を、私は他の女の口から聞いている。ゆっこに対してではなく、私は静電気のような小さくも痛い怒りを感じた。


「謝らなくていいよ、本当に」

「ううん、私、馬鹿だから」


 金田に目配せすると、彼は小さく頷いた。


「謝らなきゃいけないのは俺だからさ。本当、ごめん」

「そんな、今更カッコつけるの無しだよ」

「俺さ、ゆっこちゃんの気持ちから逃げてたから」

「うん、知ってたよ」

「本気で想ってくれてても、俺やっぱり自分の彼女が大切だったんだよ」

「私、知ってて言ってたもん」

「本当、今まで逃げててごめん。俺さ、ゆっこちゃんの気持ちには一切応えられない」

「ハッキリ言うんだね。なんていうか、電話で良かった」

「本当、ごめん。それから、金田と連絡取ってやってくれないかな。あいつ、ゆっこちゃんの事は本気だからさ」

「ヒロに言われなくたって知ってるし、ちょっと馬鹿だけどマジで好い奴だよ」

「あいつは、俺より馬鹿じゃないよ」

「はぁ!?だっさ!あー、もうマジで嫌、無理。何なの?」

「本当、申し訳なかった」

「自分がスッキリしたいからってさぁ……」

「ちゃんと言えなくて、本当にごめん」

「だったら、もっと早く傷付けてくれれば良かったのに」


 その言葉の後、私の頭はほんの束の間、見事なまでの空白になった。彼女から逃げ出そうとしつつも、心の隅でその関係をキープしようとしていたのだろうか。彼女の存在そのものを浅く考え、そして完全に下に見ていたのだ。分ってはいたが、そこに誠意など始めからまるで無かった。自分の後ろめたさに殺されたくないが余り、恥を、薄気味悪い月のように真っ赤な恥を、掻いた。


「金田君、近くにいるの?」

「隣にいる」

「代わって」


 電話を受け取った金田は神妙な面持ちで、静かに話し始めた。しばらく経つと少しずつ、表情が崩れ、やがて目頭を押さえ始めた。しかし、表情は嬉しそうだった。


「いや、え?それは村瀬さんに聞かないと分からないけど……え、じゃあ」


 戻って来た電話を耳に付けると、私と話した時とは違う楽しげなゆっこの声が聞こえて来た。


「ねぇ、仕事辞めるのナシに出来る?」

「まだIDとパスワード生きてるし、会社としては大歓迎だと思うけど」

「だったら私、現場戻る。もう会いたいって言わないから安心して」

「いいの?」

「ヒロに会いたいからじゃないからね。私、そこの仕事が好きだから」


 思わず、出荷の終わったがらんどうの作業場を眺める。大戸の代わりに入った福山がフォークリフトのバッテリーを何やらチェックしている。出っ歯のクソ上司が掲示物を剥がしている。他に数人、それぞれが仕舞い仕事をしていたが、そこにゆっこの姿は無い。そこへ戻りたいと言う気持ちが、素直に嬉しかった。思い返せば、ゆっこは見た目こそ派手だが、仕事は入った当初からとても丁寧で真面目だったのだ。


「ありがとう。総務には伝えておくから」

「ヒロ、じゃなくて村瀬さん、よろしくね」

「はい」


 そうしてゆっこは数日後、現場復帰を果たした。私は贖罪のようなつもりで、交際を続ける二人の関係に目を瞑るつもりだった。しかし、私が心配するまでもなく、二人は仕事場ではそんな雰囲気は一切見せもせず、真面目に取り組んでいた。普段から女を前にするとヘラヘラしていた金田の変わりように、滅多に現場に顔を出さない出っ歯の上司でさえ、感心していた。


「村瀬くぅん、金ちゃん生まれ変わったんじゃん? ミスも全然しないしさぁ」

「どうです? 久しぶりに見て驚いたんじゃないですか?」

「うん!」


 皮肉めいてそう言ってみたものの、出っ歯に皮肉はまるで通じていないようだった。

 評価の上がった金田と、現場復帰を歓迎されたゆっこはすぐに同棲を始めた。二人肩を並べて出勤しても、それを茶化すような人間は誰もいなかった。その光景を眺めるとほんの僅かに、針の先に刺されるような痛みがあったが私はそれを受け入れた。それでも、この頃はまだ季節の過ぎる様は穏やかだった。


 入籍に向けて準備をしていたある日。私と女は女の実家に招かれ、夕飯を食べる事になった。そうなると必ず酒も入るので、そのまま泊まって行くというのがお決まりのパターンだった。既に酒の入った女の父親が空の瓶を振りながら、わざとらしく「あれれー?」と惚けて見せた。それを見た私は立ち上がった。


「俺、買いに行きますよ」

「悪いねぇ、でもヒロ君も飲むよね?」

「もちろんです」

「ははは! 待ってるよー!」


 豪快な笑い声を背に玄関を開け、外へ出ると五月の湿気を帯び始めた空気が伝わって来た。眩いオレンジに照らされた道路に、思わず目を瞑る。小さな川沿いの道を歩き出すと、後ろから思い切り背中を押された。驚いた拍子にフェンスにぶつかりそうになる。振り返ると、女が笑い声を立てていた。


「驚き過ぎでしょ! 何、今の顔! あー、おかしい」

「あぶねぇだろ! ショック死したらどうすんだよ!」

「そんなヤワな男、旦那に選んだ覚えないから大丈夫。でも、今の顔、ひっどい!」

「驚かすなよ、ったく」


 私達はそのまま、手を繋いで歩き出した。風の凪いだ柔らかな夕方で、遠くで子供達のはしゃぐ声がする。花火で遊んでいるのだろうか、空気の端で火薬の匂いが微かにした。

 並んで歩いていると、突然女がきゅっと、強く手を握った。


「ねぇ、何であんなに面白い顔出来るの?」

「あのさ、わざとそういう顔した訳じゃないんだよ? マジで驚いたんだよ」

「死ぬかと思ったんでしょ?」

「内臓飛び出たかと思った」

「ふふ、意外と小心者だよね」

「悪い? 警戒心が強いんだよ。歩くセコムみたいなもんだよ、安心だろ?」

「何それ、どういう事?」


 夕陽に染まった女の髪が揺れ、柔らかく、美しく笑う。以前よりも、女は笑う回数が増えた。

 曲がり角の向こうで自転車のベルが数台分鳴ってからすぐ、子供の群れが私達のすぐ横を通り過ぎて行った。ある太っちょの少年が「カップル、カップル!」と私達を指差すと、女は「夫婦ですから!」とムキになって言い返した。今まで見た事のなかった女の素振りに、私は心が和らいだ。


「あんたも何か言いなよ」

「デブ! とか、死ね! とか?」

「ひどー」


 そう言って軽く笑った女は爪先で小石を蹴飛ばすと、急に立ち止まって私の顔を何故かまじまじと覗き込み始めた。


「何だよ、急に」

「んー? 別にぃ?」


 そう言いながらも、女は私の顔を覗き込んだままだった。私は徐々に照れ臭くなり、女に言った。


「なぁ、キスしようか?」

「じゃ、やめる」

「何だよ。別にやめなくて良かったのに」


 私の言葉に女は首を振ったが、楽しげな様子で再び歩き出した。


「ねぇ、あんた私の事好きでしょ?」

「好きだし、愛してるよ。愛し合ってるから結婚する訳だしさ、当たり前だろ」

「それって当たり前? 実は凄く貴重なんじゃない?」

「まぁ、確かにね。お互いの愛がピッタリ合うなんて事の方が珍しいのかもな」

「そうだよ。私さ、あんたの事とんでもなく愛してるのよ」

「ずいぶん素直だね」

「嬉しい癖にねぇ? いざ言われると弱いよね? そこが良かったりするんだけど」

「今日はずいぶん言うなぁ」

「んー、天気が穏やかだからかな? 好い気分だよ。ねぇ、さっき死ぬかと思ったって言ったじゃない?」

「あぁ、マジで死ぬかと思ったよ」

「じゃあさ、私が死んだらどうする?」


 それは予想外に重い質問だったが、女はなぞなぞを出す子供のように、いかにも楽しげな表情を浮かべていた。私は口篭りながらも、ありのままを素直に答えた。


「それを受け入れるのは無理だよ」

「あんたにとっては私が生きる意味なの?」

「それが大半。死んだらなんて、まさか」

「ふーん。それはまぁ嬉しいんだけどさ、私が死んでもあんたは絶対生きててよ」

「何で? 嫌だよ」


拗ねた口調でそう答えた私に、女は「子供かよ」と笑いながら、続けた。


「あんたまで死んだら、一体誰が私達のお墓を建ててくれるの?」

「墓の問題?」

「墓建てればいいってもんじゃないんだけど、死んだ後すぐにあんたに死なれたら、私は死んでも死に切れません。でも」

「でも?」

「後追って死ななくていいから、私の事は覚えててよ」

「忘れる訳ないだろ」

「ずっと?」

「うん。ずーっと、死んで魂になっても、ずーっと」


 女は繋がったままの手をさも機嫌良さそうに大きく振ると「だったら」と、言って私を見た。


「ヒロは私が愛した人。それもずっと、忘れないでいて」

「何で過去形なんだよ」

「え? だって死んだ後の話しだもん。約束ね」

「分かった、絶対約束するよ」

「まぁ、心配してないけどさ」

「なぁ、これから結婚するのにもう死んだ話ししてるって事はさ、俺らって案外計画性あるのかな?」

「はは! あんたに無いんだから無いでしょ」

「そうか。でも、約束は守るよ」

「絶対ね」


 そんなありふれた会話が、耳の奥を通り抜けて心を揺らし続けていた。子供のように振舞う女は、きっと私達の愛に安心しているのだろう。私も同様に、ようやく愛が腰を下ろした実感を持てたのだった。空気も、匂いも、全てが穏やかだった。それは、まるで綿毛の上の舞踏会。これが幸せでないのなら、この世にはきっと不幸しかない。そんな風にも私は本気で思えた。

 眩いオレンジ色の夕焼け。その次の日は雨だったか、晴れだったか、そんな事を考えながら私は少しくすぐったい気持ちになり、笑った。

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