第19話 借り物競争

 予想外に舞い降りた新しい日常は、二人で住む広めのアパートを見つける所から始まった。取り急ぎ婚約の報告に女の実家に向かうと、両親は頬を緩ませて喜んだ。

 父親が笑いながら言った。


「ヒロ君と一緒なら、もう失踪しないだろ! はっはっは!」


 女は眉間に小さな皺を寄せ、不満げに呟いた。


「マジやめてよ、それ。大丈夫ですから、どうかご安心下さい」


 私達はひとしきり笑った。警察から連絡があった時は死んだかと思ったと、母親の心配から来る冗談も飛び出した。父親は笑いを収めるとお茶を一口啜り、神妙な面持ちになって言った。


「ヒロ君」

「はい」

「こんな娘ですが、どうか末永く宜しく、お願い致します」


 そう言って、母親と共に深々と、律儀に頭を下げた。私も女と共に、頭を下げた。そして、父親の湿った声が、届いた。


「今まで……色々あったけどな、本当、本当に、ありがとな……」


 私は頭を上げる事が出来なかった。私の隣で頭を下げている女が、静かに泣いていたのだ。居間に射し込む陽が穏やかな春の日で、その涙にとても相応しい陽気だった事を覚えている。女の家で飼っているサバトラ模様の猫が、泣いている女の腕に甘えるように頬を寄せていた。女が頭を上げるまで、私は最後まで頭を下げ続けていた。


 近いうちに結婚する事を私は実家の母に伝えた。案の定とでも言うべきか、とても喜んでいた。結婚式はどこでどうするのとか、結納はどうとか、一気に捲くし立てられたが同棲して籍を入れる以外の事は特に予定はなかったので、軽く聞き流した。私に、父親はいなかった。


 二人して顔を並べ、ネットで新しい物件を探していると現実が嘘のようにも思えて来る。当たり前だが、女と私の二人は他の誰かと人間が入れ替わった訳ではない。同じ人間同士で、不幸に喘ぐ侘しさもあれば、幸せに溺れる喜びもあるのが不思議だった。

 女が検索条件を入力し、エンターキーを押す。


「あれ?あー、まただよ」

「どうした?」

「最近パソコンの調子悪くってさぁ」

「キーボードなら外付けの買えばいいんじゃない?」

「ノートにそれ、やりたくないのよ。かさ張るし」

「確かに邪魔だよな。半分出すから、新しいの買う?」

「本当? 言ったね、言ったよね?」

「言ったよ、あぁ、言ったさ」

「言ったこと後悔させてやろうか? ふふ。マックプロ、良いよねぇ」

「ネットしか見ないのにそんなハイスペック要る?」


 女が笑う。何年かぶりにも思えるその柔らかな表情に、私は掛け替えのない感情を抱く。他の誰でもなく、この女が生み出す隙間を埋められるのは、この女の他に有り得ないのだ。私が女を抱き締める時、身体だけではなくそういった感情も含めて愛しさを込めるようになった。抱き合う回数が増え、知っている身体を確かめ合う事に悦びを感じた。心も裸同然になった私達は、諍いを起こす事も無くなった。


 その要因となったのは、互いを探り合って傷付く暇さえなくなったの事も大きく手伝った。三月から五月に掛けて、私達は慌しい毎日に追われた。女も私も、丁度仕事の繁忙期を迎えていた為、文字通り「忙殺」されるような日常を送り始めた。残業が続き、まともに取れない休憩の合間合間に不動産屋と連絡を取り合い、休みの日には女と共に物件の内見や家具を見に回ったりした。時間的なゆとりは一切無かったが、不思議と不満など一つも無かった。


 不満といえば派遣で来ていたギャルの「ゆっこ」が退職した事に金田が激しく肩を落とし、毎日の様に溜息をついているというくらいなものだった。私とゆっことは二度、金田の知らない所で関係を持った。ゆっこに迫られ、身体が応じただけで、私は次第に味の無いガムを口いっぱい食わされているような感情になり、無感動という苦痛を覚え、ある日を境に私は彼女から逃げ出した。連絡が来ていても自然と無視するようになった。

 退職するまでの間、彼女から何度も二人きりで会わない事を咎められていた。正直、結婚する身としては姿を消してくれるのはありがたかった。


 全ての作業を終え、翌日の作業データを取り込んでいると金田がの生気の欠いた表情を浮かべながら隣の机に腰を下ろした。


「おつかれっす」

「あぁ、お疲れ様。何だよ、相変わらず落ち込んでんの?」

「まぁ、はい」

「仕事辞めただけだし、ゆっこちゃんと会おうと思えば会えるんじゃないの?」

「連絡先は知ってるっすけど、繋がらないっす」


 私はわざと眉間に皺を寄せ、腕を組んで言った。


「そりゃあ、心配だね」

「あいつに、一緒に暮らさないかって話してたんすよ」

「何、おまえら付き合ってたの?」

「最近なんすけど……はい」

「へぇ」


 肩と背中が一気に硬くなった。ゆっこは仕事中、隙を見つけては私の元にやって来て「会いたいです」と言っていた。何度も、何度も。最初のうちこそ楽しげな表情を浮かべて言っていたが、返事を曖昧にする私を前にその表情は真剣で悲しげな物へと変わっていった。下手な苦笑いを浮かべなら「そのうちね」と私は幾度となく言葉を濁し続けた。金田はその事も、恐らく知っているのではないだろうか。


「村瀬さん、あの」

「何だよ」

「俺、村瀬さんには多分勝てないっすけど、ゆっこの事、本気で大切にしたいと思ってます」

「うん」


 知っていたのか。私は言い訳をする気にはなれず、ただ彼の言う事を受け止める他無かった。


「あいつと連絡取れなくなった理由って、何となく分かってます。俺が焦って、色々押し付け過ぎたんすよ」

「でも、それだけ本気だったって事だろ」

「そうっすけど、あいつにとってはもう少し軽い感じでいたかったのかなぁって」

「軽い感じ?」

「なんつーか、リハビリ的な」

「あぁ、まぁ、そっか……」

「俺はゆっこに本気っすけど、ゆっこは村瀬さんに本気だったんすよ」

「そう、だったんかな」

「付き合うようになってから何回か俺の前で、泣いたんすよ」

「それでも、好きなのか?」

「はい。本気なんで」

「強いな、おまえは。俺の事は恨んでいいよ」

「あの、正直言ったらボコしたいっす。これはマジっす」

「ちゃんとしなきゃな、俺は……」


 金田が私に求めている事。それを疎かにしたら私は金田をも裏切る事になるのだろう。切っ掛けを探す為にゆっこの使っていた机の棚を開けながら、私は自分自身に呆れ返りそうになる。


 退職時に未記載だった企業情報漏洩防止の誓約書を見つけ、私は金田の隣に戻った。携帯を取り出し、ゆっこの連絡先を見つけた。「前田 徹」が私の携帯でのゆっこの登録名だった。あまりの自分の馬鹿馬鹿しさに、しらける事をも忘れてしまいそうになる。


「村瀬さんからの電話なら、出ます。お願いします」

「あぁ。今掛けてみる」


 頭を丸めた事はないが、そんな気分で電話を掛ける。すると金田の言う通り、すぐにゆっこは電話に出た。その声はやや沈んでいた。

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