第18話 契

 三月の闇の奥底で、私は名前も知らない男の首を絞めていた。始めは恐る恐る、しかし、次第に何かが憑依したかのように、私には優しい気持ちが芽生え始めたのだった。真に、生きていると感じられた。


 まだ少年とも呼べそうな男の首を絞め続けていた私は、その股の間に置いた太腿に妙な熱を感じ、視界を下ろす。そして、それに気が付くと彼から急いで離れた。


「うわ、マジかよ! なんだよ、冷めたわ」


 息を盛大に吸った彼は路上で転げなら、染みの出来た股間を隠しもせずに咽せ始めた。彼は、小便を漏らしていたのだ。私は自分の車中に戻り、血の付いたダウンを脱ぎ捨て、ウェットティッシュで太腿の辺りを拭った。

 さっきまでここにあったはずの、優しい感情は突然跡形も無く姿を消してしまった。以前にも、こんな気持ちを抱いた事があった。あれは、いつだっただろうか。そうだ、尚美だ。


「友達だよ」


 と、呪文のように繰り返し言い続けていた彼女を、ベッドの上で執拗に責めていた時だった。あれが正常な性行為だったとは、言い難い。

 私は頭が、性的対象が、何処か壊れているのではないだろうか。

 非常にばつの悪い気分になり、私は両手で自分の顔を覆った。鉄の匂いがした。


 車を降りると、彼は路上に座り込んでいた。いつの間にか脱げていたようで、彼の履いていた汚れた白いスニーカーが私の車の助手席側に転がっていた。私は靴を拾い、ウェットティッシュの入れ物と一緒に彼に向かって放り投げた。座ったままの背中が、ビクッと跳ねた。振り返った顔に生気はまるでなく、死んだ枯れ枝のように見えた。


 私は彼の傍に座り、声を掛ける。


「おい」

「な、何?」

「殺せなくてごめんな」

「は、はぁ……」

「おまえ、小便漏らすのが悪いんだぜ」


 私は軽い冗談のつもりで笑いながらそう言ってみたが、彼の顔は緩むどころか、硬く怯えているように見えた。


「あの、絶対サツには言わないんで……もう行っていいっすか?」

「は?」

「いや、真面目っす。真面目に、誰にも言わないんで」

「馬鹿かよ。真面目な奴は言うんだよ」

「本当っす、本当、マジすいませんでした。死にたく、ないです」


 私は、私なのだ。しかし、その「私」は何処に行ってしまったのだろう。他人を恐怖させ、それに意気揚々と興奮を覚える。それが、私なのだろうか。私は、私であって、他の誰でもなく、私。私、という存在は何なのだろう。存在とは?存在とは、何だ?恐ろしい、怖い。私は、自己認識がゲシュタルト崩壊を起こし掛けた頭のまま、私自身を止める為に彼に言った。


「聞いてて」

「は、はい?」


 携帯電話をポケットから取り出し、血が付いた指で、一か八か女に電話を掛けた。呼び出し音三回で女は電話に出た。


「……はい」


 その声を聞いた途端、私は私自身の存在の意味など、どうでも良くなった。この女の喜びも、絶望も、その全てを知りたくなった。抱き締めたくなった。耳馴染みがあるはずのその声を、懐かしいとさえ感じた。


「ごめん、寝てた?」

「起きてたよ。あんたが出てった時も起きてた」

「なんか、そんな感じした」

「あんた、帰ったの?」


 無意識に出たのだろうか、不安げな女の声に私は特別な赦しを得た気分になる。私は、何と愚かな生き物だろうか。一人の人間を殺し掛けてしまわないと抱けなかった感情を、私は女の声たったひとつで。つくづく、自分という人間の弱さや浅はかさを思い知る。女の弱さから目を逸らし続けていた事にも、愛欲めいた感情を抱きながら、いじけていた事にも気付かされた。

 女に伝えるべき事があった。女と共にありたいと願う私が私で踏み止まる為にも、伝えるべきであった。


「急に出てって悪かった。ちょっと、色々考えたくてさ、ぶらぶらしてた」

「そっか。私もまぁ、少し冷静になりたかったから。最近当たり強くて、ごめん」


 女の謝る言葉は、沢山だった。そして、これから先はその口から謝るような言葉を聞きたくなかった。聞いた所で、その根源にあるのは私なのだ。


「あのさ」

「うん?」


 ウェットティッシュで顔を拭う彼は、困惑した表情で私を眺めていた。血の付いたティッシュが、胡坐を掻いた足の中で溜まって行く。

 私は女にこう、続けた。


「今までありがとう」

「え? 何、それ」

「色んな事我慢させたり、押し殺したりさせてただろ」

「まぁ、それは……言わない私が悪かったよ」

「それでも、そんな思いしても、俺の事を大切に想ってくれてたんだろうと思って」

「それは、だってさ」

「いや。本当、悪かった」

「いいよ、別に」

「良くないよ、それは」


 女から返事がないまま、数秒。女が小さな溜息を漏らして、言った。


「じゃあ、どうするの?あんたはこれから、どうしたい?」


 微かに苛立っているようにも聞こえたが、これからの言葉を予想して身構えているのだと感じた。その予想を裏切る為に、私はドライブにでも誘うつもりで伝えた。


「結婚しよう」

「え?」


 女の声と同時に、隣に座る彼が動揺するのが判った。ウェットティッシュを鼻に突っ込んだまま、口を半開きにしている。


「だからさ、結婚しよう」

「……ずいぶん急だね」

「こういうのって、多分どれも急なもんなんじゃない?」

「そうだろうけど、えー」

「どうだろ?」

「どうって……」

「……」


 しばらくの沈黙の後、電話の向こうで女が小さく笑いながら言った。


「あの、よろしくお願いします」

「良かった。これからもずっと、よろしく」

「早く帰って来てね」


 私は何か返そうと思ったが、電話は切られた。すると、喜びが硬い心の底を突き破って湧き上がって来るのを感じた。真夜中の田圃の側で、私は居ても立ってもいられず、小躍りをしたくなった。

 私は財布から数枚、千円札を取り出して嫌厭する彼に無理に押し付けた。


「立会い、ありがと」 

「これ、あの、真面目にいらないっす」

「いいから、取っといて」

「なんか、意味分らなくて怖いんすよ。人殺し掛けた後にプロポーズとか、え? 真面目に、怖いっす」

「結婚はタイミングだって言うだろ。な? とにかく、ありがとな」


 私は彼の肩に手を置き、微笑んだ。残り二本の煙草を取り出し、火を点けた。残りの一本を彼に向けると、彼は首を横に振りながら私から離れて行った。


「いや、すいません、すいません。失礼します!」


 彼は片足を引き摺りながら運転席に乗り込むと、グロリアを急発進させた。とうとう金を受け取らず、彼は行ってしまった。腹の壊れたような音が、闇の向こうで響いている。

 私は血の付いた数枚の千円札を拾い上げ、笑った。闇を壊すように、高らかに、声を上げ、真夜中に笑い続けた。

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