第17話 ガラスの太陽

 真夜中の国道は人気がなく、私の他に車も殆ど走っていなかった。空と地の境目を失くした暗闇と、テンポ好く並んだオレンジ色の街灯が延々と続いている。ここは、どこなのだろうか。知らない。意思のないハンドルに任せるまま、ここまで来た。道路が続いてさえいれば、もうどこでも良かった。

 女の冷め切った瞼が綴じるのを見届けもせず、私はテーブルの前で煙草をただただ消費するだけの装置と化した。今まで女の秘密めいた行動の真実を知りながらも、今まで直接口には出さなかったのは自分に後ろめたい過去があったからなのだろうか。女は私から目線を逸らすことなく、真っ直ぐな眼差しで言った。


「あんたにもあるんじゃないの?」

「何が?」

「墓場に持って行きたい話のひとつやふたつ、あるんじゃないの?」

「別に……ないよ」

「嘘だね」


 そう断言した女の目には怒りが滲んでいるように見えた。白く、滑らかな肌の奥で、その目だけは赤味を帯びていた。目の奥の感情が諦めではなかったのは確かだ。

 私との関係を続ける中で、女は他の誰かの身体を知るような事はあっただろうか。私の知る限りではない。例えあったとしても、今の私はそれを咎める勇気を持てないでいる。私には、ある。諦めているのは寧ろ私の方だった。

 暗闇の中を、走る。街灯が途切れたら、この車は闇の中へ吸い込まれてしまうのではないだろうか。そんな風に思えて来て、私は苦笑いしそうになる。実際には、クスリ、ともしないが。

 私の車は知らない内に県境を越えていたようだった。ふと青看板を見てそれに気付いたが、女の部屋へ戻る事を考えると途端に気が重くなり、とても引き返す気にはなれなかった。

 前方では型の古い黒いグロリアが、腹を壊したような音を立てながら走っている。私は右側に車線を移し、追い抜こうかと考える。しかし、車は大きな交差点で赤信号に引っ掛かった。二台が並んだ。

 残り少ない煙草に火を点け、大きく溜息を吐いてみた。溜息を吐いても鬱屈した感情は逃げて行きはしないが。

 ふと、視界の左隅で何かが動いているのが気になった。

 左に停まったグロリアの運転手の男が、窓を開けて私に向かって何やら身振り手振りを交えながら叫んでいた。

 まだ二十歳そこそこだろうか。痩身の彼は白いジャージ姿で、頭に剃り込みを入れていた。真夜中にも関わらず、Vシネマに出て来るヤクザのような、四角い大きなサングラスを掛けている。

 私は、助手席側の窓を開けた。すぐに甲高い怒鳴り声が私の耳に届いた。


「さっきから聞いてんのかよ!?おい、おまえ、ナメてっぺ?あ!?」


 私が右車線から追い抜こうとしたのがどうやら彼のプライドを刺激したようだった。この手の人間は世の中に幾らでもいる。歩道の信号が点滅を始めたので、私は身を乗り出して彼に聞こえるように言った。


「お先、どうぞ」

「ふざけてんじゃねー!降りろテメェ!」


 イントネーションにかなり癖がある。これは、そうか、訛りだな。決して訛りを馬鹿にしている訳ではないが、怒りと訛りが織り成す奇妙なコントラストに私は突然可笑しくなり、堪らずに噴き出しそうになった。


「降りろっつってんだよ!聞こえねぇのかダボ助が!」


 私は彼の指示通り、黙って車を降りた。外は何処までも何処までも、暗い空の下で田圃が広がっていた。まるで悪夢のような光景だ。

 不細工な音をゲロのように吐きながら、グロリアはアイドリングを続けている。その運転手もまた、ゲロのように何かを叫び続けていた。

 私は彼の前に立った。そして、彼が降りようとドアに手を掛けたのを見て、私は吸っていた煙草を彼の車の助手席目掛けて放り投げた。


「何すんだっ!テメッ!」


 半開きになったドア。彼は反射的に四つん這いになり、助手席に転がった煙草を拾おうとした。思惑通りの動きだった。彼の細い脚が、ドアの隙間からピンと伸びている。半端な体勢だ。私は、彼の脚を壊そうと思い、ドアを思い切り蹴飛ばした。

 脚が挟まれた彼は短い呻き声を上げる。肘が当たったようで、一瞬だけクラクションが鳴った。顔を歪ませて脚を抑えて運転席に蹲ってはいるが、きっと折れてはいない。私は、彼に知らせた。


「シート、焦げちゃうよ」


 彼はひどい訛りで「なんだらだんだんべえ!」みたいな言葉を叫んだ。そうやって叫ぶ体力はある癖に、大袈裟に脚を抑え続けている。審判にやられた事を訴えるサッカー選手の真似事でもしているのだろう。私はやるべき事がある為に、彼を運転席から無理矢理引き摺り出す。

 路上に転がった彼を無視して、予想に反して綺麗に保たれた車内をぐるりと見回す。きっとあるはずだ。あぁ、あった。

 私はハンドル横に掛けられていたペットボトルのお茶を開け、助手席に転がった煙草に掛けた。嘘臭いビニール皮のシートは多少焦げていたが、燃えてはいなかった。

 その間も彼はずっと


「なんだらだんだんべえ」


 と叫んでいた。初めの内はその訛り方が奇妙で面白可笑しくもあったが、ずっと聞いている内に無性に腹が立って来た。路上に転がったままの彼は、サングラスの奥の小さな目で、私を睨み付けていた。


「何睨んでんだよ」

「あんだらテメェ!タダで帰れると思うなよ」

「帰るよ。だけどさ、このままじゃ俺が悪いみたいじゃん」


 私は彼の顎を掴み、無理にでも起き上がらせようとした。激しく抵抗しているが足が痛むのだろう、決して立ち上がろうとはしなかった。すぐに面倒になり、頬を思い切り殴りつけた。サングラスが飛んで、一重の小さな目が露になった。彼は魚のような顔をしていた。


「おい、訛り坊主。殴れよ」

「あん!?うるせぇ!」

「殴ってみろよ、おい。訛ってる暇あんなら殴れよ」

「そんな情けねぇ喧嘩できっかよ!」


 こういうのを「ガッツ」があるというのだろうか。私にとっては、心の通わないやり取りならば、情けない喧嘩の方がまだマシだと思えた。女は、どうなのだろうか。

 私は、彼を再び殴りつけた。それでも、路上に座る彼は殴られるまま、私を睨み付けるばかりで抵抗しようとしなかった。私は、今夜の様々な鬱憤を晴らす為に、何度も何度も彼を殴った。彼の歯に拳が減り込み、手が切れた。彼の鼻から、口から、次々と鉄臭い血が流れ出て、ぬるぬると、頬や頭は真っ赤に塗られて行く。これ以上は流石に不味いだろうという一線を越えた途端、私は殴る事に全く抵抗が無くなった。彼との間に作ろうとした罪の分配など、どうでもよくなった。白いジャージに血が滲み、漢字の「成」に似た模様が出来ている。彼は真っ赤な口を開いて、呟いた。


「おめ、殺せ」

「あぁ、分かった」


 私は彼に馬乗りになり、血塗れの両手で、細い首に力を込めた。本当に、殺そうと思った。死刑執行時は首吊りによって「窒息死」させるのではなく、落下運動によって「首の骨を折る」と聞いた事を思い出し、両手に体重を掛けた。しばらくして足がバタバタと跳ねるのを感じると、やはり折れてはいないのだと何故か安堵した。私を凝視していた彼の小さな目は、ぐるりと上を向いた。白い目玉が、充血していた。食い縛った歯の隙間と、空気を求める鼻の両穴から血が噴き零れ、彼の息吹を妨げている。こめかみには血管が浮き出し、命の終わりへの抵抗を見せ始める。

 

 すると、私は彼に対して優しく、柔らかな感情を覚えた。母性なのか父性なのか、それは得体の知れない大きな感情で、このまま、思わず彼を抱き締めてやりたくなる。抵抗がピークに達するのを見届ける間、私は楽しくて楽しくて仕方が無かった。真新しいゲーム機を初めて箱から取り出している時の気分にも似ていた。これ程、他人に対して私は優しく出来るのだと、胸さえ張れそうだった。彼の精神は特別興味なかったが、私が首から離れない限り、その身体は命を訴え続けているではないか。何と、憐れで、脆く、愛しいのだろうか。

 彼の身体全体が痙攣のように震え始めると、私はいよいよ後戻りの出来ない扉を開いた気分になった。興奮と緊張で胸が破裂しそうになる、にも関わらず心は優しさで満ちている。いよいよ、名前も知らない相手の最後の呼吸が止まろうとしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る