第16話 実りは遑なく
明滅する光の中で、季節は枯れて死んでしまう。幾度となく試してはみたものの、芽のなった明くる瞬間には死んでいる。そうして累々と積まれた亡骸の横で、ついに私は時間の流れるのを忘れてしまった。
もうすぐ日が暮れる。心の整理がつかず、何度も帰ろうかと思った。
昨晩、仕事を終えた私はその足で女の部屋へ泊まりに来ていた。次の日、女は昼過ぎに仕事へ出掛けた。夜の九時に帰るから待っていてと言われていたのだが、私は特にする事もなく風呂場を掃除したりテレビを眺めながら時間を潰していた。
昼寝をしようとベッドに寝転ぶと、ふと枕元の横にあった小さな棚に目が行った。ほんの出来心でそれを開けた私は、女の手帳を見つけた。それを捲っていると、白い紙が挟まっていたある時期で私の手がピタリと止まった。
女が失踪していた時期だった。
予定表には「大阪市○○クリニック、AM10時」と書き込みがあった。挟まっていた紙を開いた途端、私は息を呑んだ。
人工妊娠中絶に対する同意書
それには女の名前、住所等が書き込まれていたが配偶者の部分は何の書き込みもなかった。もしかしたらこれは、予備の紙だったのかもしれない。その相手とは、恐らく私だろう。
「妊娠したかな」
そう言われ、私はそうなれば当然産むものだろうと考えていた。女も、そうなれば当然産む事を望んでいるのだと思っていた。あの時、私は女にどうしたいか訊ねたが女は産みたいとは言っていなかったのだ。
その後幾らかして失踪してしまった為、私はそんなやり取りがあった事さえも忘れてしまっていた。一度何かの拍子で思い出したが、その後何も話も出なかったので女の身体が気紛れを起こしたのだろうと勝手に決め付けていた。
あの時、女はきっと本音を言い出せなかったのだ。全てを軽く考え、女との関係が確固たるものだと信じていた私は、女の気持ちなど汲んではいなかった。
シンプルで良いけど、点と線ではない。
私に取っては、やはり点と線でしか無かったのだろうか。
女が帰って来て、それから直ぐに食事の準備をした。女は仕事帰りにワインを二本買って来たと言って微笑んだ。
パスタを食べながら、女はワインをすぐにボトルの半分近くまで空けた。
酒は元々苦手なはずだったが、勢いはまるで落ちなかった。
「ここ最近、飲む量増えてさ」
「その割に二日酔いにはならないよな」
「そうなんだよね。お父さんの遺伝かな?飲まなかっただけで飲んだら意外とイケるんだよ」
「ほどほどにしろよ。身体に響くぞ」
「あんたより強いから大丈夫だよ」
「なぁ」
「うん?」
「大阪、楽しかった?」
「その話、聞きたいの?」
「うん」
「まぁ、ずっと行きたかったんだけどさ。楽しかったと思う?」
「騒ぎになっちゃったし、観光どころじゃなかったか」
「観光、少ししか出来なかったけどね。でも、たこ焼はやっぱ美味しかったよ」
「あのさ、こっちでも良かったんじゃないの?」
「……」
女の気配が止まった。私は禁忌を破った気分になったが、どうしても女の口から正解を聞き出したくてたまらなかった。女は髪を触りながら微かに笑った。
「だって、こっちでたこ焼き食べたってさぁ、美味しくないじゃん」
わざと明るい口調で女は言う。あまりにも下手糞な小芝居が、かえって二人を惨めにさせて行く。
「そんなたこ焼き好きだったっけ?」
「うん。好きだよ、前から」
「まぁ、たこ焼きの話をしたい訳じゃなくてさ」
「何でそんなに全部を知りたがるの?」
「俺にも責任あるだろ」
「決めるのは私だよ」
「それでもさ、大事な事は言ってくれよ」
「あんたにもあるんじゃないの?」
「何が?」
「墓場に持って行きたい話のひとつやふたつ、あるんじゃないの?」
「別に……ないよ」
「嘘だね」
「お互い様だろ」
「は?」
「言わなきゃいけない事だって、あるんじゃないの」
「何それ……」
化けの皮を剥がされた愛は無防備で、すぐに肌が焼きついた。それからしばらく無言のまま、ワインが空になって行った。溢れるばかりの愛は逆さまになり、すぐに底を尽いた。
帰れとも、帰るとも言わずに夜が更けていく。馬鹿みたいに無駄で無力な時間の後に、冷え込んだ空気は硬くなり始めて行く。そうなるともう、壊す事しか出来なくなる。
私は、真夜中に女の部屋を出た。
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