第15話 落ちた釣り鐘

 居酒屋のトイレへ続く廊下の壁に、ゆっこの頭は押し付けられている。抵抗するどころか、唇を離されまいと必死にしがみつく。


「セット直したんだけど、変じゃないかな?」


 そう言いながらはにかんだ彼女の髪は、たちまち鷲掴みにされ、乱され、通り過ぎた他人の好奇な目に晒されている。

 助けて欲しいと懇願しているのか。見ないで欲しいと訴えているのか。その目が好奇な目を向けた者の後を追うと、彼女は頭を更に激しく掴まれた。

 掴んでいたのは、私だった。


 大戸の穴を埋めたのは私の職場の先輩で、他部署へ異動になっていた福山という男だった。背は高くないが横にはかなり大きく、歩く時も蟹股で歩く。口は悪いが面倒見が良く、私も面倒を見てもらっていた一人だった。


「やーっぱ俺がいなきゃ回んねぇかー。村瀬君、ただいま!」

「福山さん、マジでおかえりなさい! 本当助かります」

「じゃあ早速俺の歓迎会やらなきゃなぁ! もちろんやるっしょ!?」

「ははは、すぐにでも」


 酒の席が好きな福山の一声で、その夜私達の居る部署の飲み会が行われた。しばらくの間は今後の人員配置についての話し合いのような会話が続いていたが、酒が回り始めるとすぐに場が和み始めた。


 金田は帰りにゆっこを送って行くと言っていた為、酒は一滴も入れていなかった。隣に座るゆっこを構いたくて仕方なさそうな様子だったが福山による説教が始まった為、彼は大人しくしくウーロン茶を申し訳なさそうな顔をしながらチビチビやっていた。


 私は小便が我慢出来なくなり、席を立った。同時に、ゆっこが立ち上がるのも目に映っていた。飲んでいる間、何度も何度も目が合っていた。

 後を追って来たのが分かっていたので、彼女を先にトイレへ行くように促した。そして、私がトイレから出ると彼女は髪を弄りながらはにかんで見せたのだ。


 粗雑に扱われる彼女の唇から離れると、私はすぐに目を逸らして吐き捨てるように言った。


「こんなんだよ。嫌だろ?」

「別に、嫌じゃないよ」

「何で笑ってんの?」

「嬉しいんだもん」

「おまえ馬鹿だろ。髪直せよ」

「あはは、ひっどーい!」


 笑いながらトイレへ戻る彼女を確認して、私は宴へと戻った。無性に苛立って、度数の高い酒を飲んだ。

 髪を直して戻って来たゆっこの目が泣いていたようにも見え、それに対して私は怒鳴りたくなるような感情を抱いた。何も知らない金田が、すぐにゆっこに声を掛けた。


「どうしたん? え、泣いた?」

「違う違う! コンタクト超ズレちゃってさ。何飲もっかなぁ」

「大丈夫なん?」

「全然へーき!」


 そうやって、何事もなかったかのような光景が目に映る。実際に何もなかったかのように思えて来る。そして無意識に苛立ちを覚え、目の前で全てをぶちまけたくなる。

 案の定、飲み過ぎた私は知らない天井で目を覚ました。福山の部屋だった。


「起きた? ペース考えて飲めよなぁ。まぁ、めっちゃウケたからいいけど」

「え? 俺、何かやらかしました?」


 あの後、ゆっこに何かしたのだろうか。そうなれば金田が黙っていないだろう。


「村瀬君、突然吐いてさ。店員がモップ持って掃除しに来たらそれを泣きながら奪って掃除し始めたんだぜ?」

「え?」

「お願いですから俺に掃除させて下さいって、ゲロ塗れで泣き喚いて店員に土下座までしてさぁ! 笑ったなぁ」

「いやー、マジっすか……すいません、お騒がせして……」

「現場で笑われると思うけど、まぁこれも勉強っつー事で」


 何て馬鹿な酔い方をしたのだろう。店員もさぞ不気味だったに違いない。しかし、やらかしたのがその程度の事で良かった。責められるより、笑われた方がよっぽど気が楽だった。

 福山は私を駅まで送って行く車中で、自らの酒の失敗談を私に笑って聞かせた。

 初めて買った車の納車祝いで飲酒運転をして車をすぐに潰した事や、スナックで暴力団に喧嘩を売ってしまいボコボコにされた挙句、その繋がりの運送屋で一か月ほぼ無給で働く羽目になった事。

 彼は心底楽しそうに、声を上げて笑いながら、私に話して聞かせた。どの話も、既に整理がついているのだろう。客観視出来る事象は、歳を重ねる毎に増えるのが希望にも思えて来る。


「じゃ、しばらくはマーライオンってあだ名で」

「勘弁して下さいよ」

「はっはっは! 村瀬君にちゃんと飲み方教えなきゃなぁ。また近いうち飲み行こうぜ」

「次は吐かないっす」

「それはどうかなぁ?」


 近頃、その頃の福山とのやり取りを反芻する機会が多くなった。その数年後、私は職場を離れたが面倒見が良かった彼は職場に残り続けた。そして、雪の残る寒い夜に、彼は自ら命を絶った。

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