第14話 腹を裂く

 不確かな酩酊という言葉があったなら、観測者からしたならばそれは矛盾なのだろう。不確かであるのに、酩酊。酩酊という前後不覚の状態にあるにも関わらず、それが酩酊か否か不確かであるというのはおかしな話だ。

 しかし、その酩酊者であればその限りではない。酩酊を自己認識しているのであれば、それはまだ意識の淵に縋っているのであるから。これならば、少なくとも酩酊しているのではないと言い切れるのではないだろうか。

 こんなクソの役にも立たない思考を巡らしながら、私は日々の時間を食い潰している。暇があればある程、人は時間を供与する気力を削ぎ、内へと向かう。内へと向かい、まるでブラックホールの様に抜け出せなくなり、やがて光を失う。

 その時は確実な酩酊の果て、意識があった事実すらも消失してしまうだろう。存在の意義など、何も無かったのだ。


 年末年始の連休を取っていた大戸の穴を埋める人材はすぐに見つかりそうもなかった。

 私が知らないうちに、彼は電話一本で退職を願い出たとの事だった。

 沖縄出身の彼は海が見たくなり、お台場へ行ったと言っていた。その時、私は彼にお台場の海の色の感想を訊ねてみた。彼はクスリともせず、真顔で言った。


「人間と同じでドブみたいな色でした」


 連休中に帰った沖縄で何か心変わりがあったのかもしれない。沖縄の美しい景観の中で帰るべき場所を見つけられたのであれば、それはそれで彼にとって幸せな事なのだろう。

 そう考えて、私は彼に対して自分から連絡を取ることは控えていた。

 彼の仕事上での相方役である金田は派遣ギャルの「ゆっこ」とすっかり番つがいのような関係になっていた。ゆっこの相方のギャルは年明けから別の現場へ移ったそうだ。元々人の出入りが多い倉庫業界で、去り行く者を咎める者など誰もいなかった。興味がない、と言えばそれまでだが。

 年末年始で物流はほとんど動いていなかったものの、稼働はしているので私は仕事に出ていた。最低人数を確保する為だけに呼ばれた短期の派遣従業員達は皆、箒と塵取りを手に広い庫内を朝から晩までウロウロと退屈そうな顔で歩いていた。

 正月休み代わりの連休を貰った1月の終わりに、女から連絡があった。


「休みなんでしょ?せっかくだから会おうよ」


 失踪明けから何処か遠慮がちになっていた関係を壊すかのように、女は明るい声で言った。私もそれに応えようと、鍋道具を車に積み込んで女との待ち合わせ場所へ向かった。

 私と女は久しぶりに外へ泊りへ出た。食材と調理道具をホテルへ持ち込んで、酒を飲んで過ごしたのだ。

 久しぶりに重ねた身体に私は安堵を抱いた。しかし、それは掴み続けていなければすぐにでも離れて行ってしまいそうな、安堵だった。


「ヒロ、最近さ……私達、手繋がなくなったね」

「車の移動が多くなったからかな」

「……」


 そうだったのか。

 寂しい思いをしているのは自分だけじゃない。それにばかり気を取られ、私は女の抱いていた不安から目を離したままだった事に気付かされた。いつから、こんなにも気付けなくなってしまったのだろうか。

 天井に向けて絡め合った互いの指を眺めながら、私は強烈な遣る瀬無さや不甲斐なさに襲われていた。

 この女を、こうさせてしまっていたのは私自身なのだ。女の許可がなければ、女の手すらも握る事の出来ない人間になってしまっていた。いつの間にか出来上がっていた不必要な遠慮の塊に、私は怯えた。

 ふと顔を横に向けると、女は薄っすら涙を浮かべながら絡み合う私達の指を眺めていた。

 こんな瞬間だけは、きっと同じ気持ちでいるのだ。


「相変わらず白くて細い指だな」

「温かい?」

「あぁ、とっても」

「ヒロも温かいよ。相変わらず、あんたは暑いくらい……」

「俺達はシンプルでいいんだって、前に言ってたよな。今でも思ってる?」

「そんなの、ずっと思ってるよ」

「そっか……」

「でもね、それって点と線だけじゃないんだよ」

「うん」

「私がいて、ヒロがいて。それだけで良いけど、関係性で言えば簡単な意味のシンプルじゃないから」

「……おまえだけは、失いたくない」


 女を失いたくはない。それは本音だった。しかし、私が言葉にした途端に女は指を解いた。


「ごめんね」


 女はそう言って、背中を向けた。私は何も言い返せず、煙草に火を点けた。

 ガラクタのような言葉を吐いて安心されられる程、女とは安い関係ではない。

 二つの意味を持った女の言葉に、心がひりつく。失う予言と、言わせてしまった後悔。

 何も言わずに抱き締めて、女を染め上げた不安を欲望で塗り替えられるくらいの自信は、もうこの手から離れてしまっていた。

 この手が最大限出来る事は、吐いた溜息を誤魔化す為に点けられた煙草を口へ運ぶ事だけなのだ。

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