第11話 情愛の罹患者

 女は「大人」になってからというもの、身に降りかかる喧騒の火の粉から逃れるように波風の少ない生活を慎重に選んで生きて来たように見えた。その生き方は用心深いという類のものというより、まるで得体の知れない大きな恐怖から逃れているようにも思えた。


 私が知らない間に、女は実家から程なく近いアパートに引っ越していた。私に対し、事前の相談は何も無かった。いつの間にかアパートを借りていたのも、小さな車を買った事も、仕事を変えていた事すらも、私は何も知らなかった。女の両親ですら、女が家を出る直前まで何も聞かされていなかったそうだ。


 一度だけ、その事を私は電話で咎めた過去がある。それは、女からアパートに引っ越したと電話で告げられた日の事だった。


「引っ越したって、いつ?」

「先週。周りにごちゃごちゃ言われたくなかったから、誰にも言わなかった」

「言われたくないのは分かるけどさ……全部事後報告かよ」

「言いたい事は分かるけど、あんたが許してくれなかったら私は何もしちゃいけないの?」

「そうは言ってないだろ。あのさ、俺が許すって分かってて言わなかったの?」

「そうだよ」

「喜んでいいのかな、それは」

「そんなん自分で考えりゃいいじゃん」

「そうだろうけど……」

「言っておくけど、あんたとの関係に胡座かいてる訳じゃないから。あんたを信用してるからこそ、言わない事だって沢山あるよ」

「それにしたって、仕事の事も含めて……多過ぎじゃない?」

「ヒロ、私達はシンプルで良いんだよ。だって、愛し合ってるのは間違いないでしょ? だから、私達の間に持ち込まなくていいものなんか、何一つ持ち込みたくないの。分かって、お願いだから」

「なんだか、映画の台詞みたいだな」

「そう? 影響されたかな、こないだヨーロッパの恋愛物の映画観たんだよね。話が長くってさぁ」


 そう言って女は屈託ない笑い声を立てた。わざと話を逸らしたのか、それとも、本当に必要ないのか。女にとって私の必要な部分は、きっと私の、片隅の、本当に愚かな一部だったのかもしれない。


 それから女が行方不明になるまで、私達は会う度に互いの心を奪い合う、酷く暴力的な口付けを交わした。確かめ合うなどと言う夢のような戯事をする余裕も失くしたままに。

 雪の降った日、女の母から電話が入った。

 行方不明になっていた女は、大阪の梅田で無事発見されたそうだ。

 午後。女が保護されている警察署へ、女の両親と共に向かった。降り続く雪はぼた雪へと変わり、街をだらだらと汚し始めていた。


 生活安全課のデスクの並びに、見覚えのある細い肩の後姿があった。

 振り返った女の顔は意外なほど元気そうで、私はそれを見た途端に拍子抜けしてしまった。

 女の両親が女に駆け寄ると、眉を八の字にした女が迷惑そうな顔付きで言った。


「あのさぁ、迷惑掛けたのは申し訳無かったけどさ。私、旅行に出てただけだったんだけど」

「だったら連絡一つ寄越せばいいじゃないの!電話も繋がらないし、あんたって娘は、本当もう……」

「母さん、とりあえず落ち着こうよ。な?」

「私、本当に旅行に来てただけだから。電話切ってたのは誰にも邪魔されたくなかったから。何も考えないで、ただ単に楽しみたかっただけだよ……鍵失くして交番入ったら捜索願い出てるっていうし、ビックリしたよ」

「あんた何言ってんのよ!?ビックリしたのはこっちよ!」

「母さん、大きな声は、ほら。ここ警察署だし、な?」

「お父さんは黙ってて下さい!どうせのほほーん、としてただけなんだから!」

「何だと、そんな訳あるか!俺だってな、毎日毎日ずーっと心配してたんだぞ!」

「嘘ばっかり! 今日、家出る時だってゴルフの番組にずっと齧り付いててモタモタしてたじゃないの!」

「そりゃおまえ、無事発見されたって言うから……」

「そういう問題じゃないでしょ!?」

「お父さんもお母さんもお願いだから静かにしてよ……本当、イライラする……何なの、これ」


 誰も得しない状況とは、正にこういう時だろう。私はとても女を責める気にはなれず、なるべく諭すような口調で言った。


「皆、本当に心配してたって事だよ。でもさ、何でまた急に旅行に出ようと思ったの?」


 私の問い掛けで女の両親も冷静さを取り戻したのか、二人共口論を止めて女に目を向けた。女は口の前で指を組んだまま、私を睨み付けた。情の欠片すら見当たらないその眼差しは、本気で怒っているように見えたし、怨み、とも取れそうだった。女は口の端から小さく溜息を吐くと、物憂げに呟いた。


「別に。前から一人で旅行してみたかっただけ。ていうか、何であんたまで居るの?」

「何でって……心配してたからに決まってんだろ」

「そ」


 私は女の素っ気なさに呆気に取られ、掛ける言葉を失った。そして、無性に女の頬を引っ叩きたくなった。血が溢れ、歯が抜ける程の痛みを味合わせてやりたかった。


 その瞬間、私は女という沼の深みを知った。最早私は、沼に浸かり、溺れ、沈み込んで呼吸すら出来なくなっているではないか。

 そう考えている内に怒りが自然に収まると、諦めの後に優しい気持ちが訪れ、女を殺したくなった。

 母は女の前に立つと、静かに言った。


「ヒロ君にも心配掛けて、あんたって娘は……謝りなさい」

「……」

「何、不貞腐れてるのよ。あんたもう大人なんだから、どれだけ心配掛けたかくらい分かるでしょう!?」


 女は母と一切目を合わそうとせず、横を向いたままだった。そして、歪んだ笑みを浮かべて言った。


「そうだね……すいませんね、本当に」 


 心にもない、屈従な態度の謝罪。私のまるで知らない女が、そこに居た。火の粉を振り払って生きて来たはずの彼女は、目の前で轟々と焼かれていた。

 私はすぐに気が付いた。女はその時、悲しみよりも怒りよりも真っ先に、恥を感じていたのだ。

 きっと悔しくて、堪らなかっただろう。恥を悟られまいとする余り目に涙すら浮かべられず、悪いのは自分では無いと抗議する為に敢えて卑屈になる子供のようだった。


 私は女の所在なさげな顔を見詰めている内に、妙な性的興奮を覚えた。他人に迷惑を掛けまいとする真面目な本音が仇になるとは。実に恥を殺すのが下手糞な女だ。

 私は不貞腐れた表情をする最愛の女を眺めながら、その両親の前で、次々に罵倒の言葉を女に浴びせ始めた。詰りに詰った。女が作り上げた大切で小さな日常を、クソを踏んだ靴で粉々に踏み付けた。


 あぁ、おまえが愛しい、愛しい。おまえで頭が、身体が、いっぱいだ。何と、この女は愛しいのだろうか。溢れんばかりの愛しさの余り、おまえの言葉を拾う余地は何処にも残されていないくらいだ。

 愛、故に生まれ続ける新鮮な気持ちに、私は思わず心が震え上がり勃起した。先が濡れているのが分かった。それを知らずに、女は頑なに不貞腐れ続けている。


 私は息を静かに、そう意識しながら女に微笑んだ。せめて、恥の上辺だけでも救いたかった。そして、両親の前であるのにも関わらず制御出来ないそれを無理にでも鎮めたかったのもあった。私は、言った。


「まぁ……おまえは悪くないよ」


 この言葉で女がどれだけ恥から逃れられるのかは分からなかったが、少しはマシになるだろうと掛けた精一杯の言葉だった。女は、私に向き直ると聞えるか聞こえない程の声でこう言った。


「なら、あんたが悪いのかもね」


 その言葉に私は衝撃を受けなかった。何故?とも思わなかった。怒りの矛先が分からないなら、私にぶつけたら良い。それで良いのだ。理由を探るのは野暮だ。私は、女にとっての空の器で有りたかった。どうか、おまえの持つ行き場の無い感情で私を満たしてくれ。


 警察署から女を引き取り、関東へ向けて帰っている間中、やがて見慣れた街並に景色が変わってからも、女は私と一言も口を利かなかった。気分を伺おうと何度か声を掛けたが、まるで反応が無かった。


 余りに強情なその姿に、私は「偉い」と心の隅でそっと呟いた。冷たくびちゃびちゃに濡れた街、ほそぼそと続くテールランプが眠気を誘う。朝方の空は黒いまま、ザラついてしまった女の心の肌を、私はただ静かに愛でていた。

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