第10話 平和な狂人
何度電話を掛けても聞えて来るのは「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……」という機械的な声のアナウンスだけだった。聞き慣れ過ぎて、私はその声にまるで知人のような感情さえ抱いた。メールも届いてはいたが返信は一通も無かった。
そうして女と再び連絡が取れなくなってから一週間後の真っ昼間だった。昼寝をしていた私は携帯電話のバイブ音で叩き起こされた。着信表示に目をやると女の実家からで、重苦しい胸騒ぎを覚えた。
「はい、もしもし」
「ヒロ君?突然ごめんね、あの、ちょっと良いかしら」
電話は女の母からだった。声が何所か慌てていて、困惑している様子だ。
「はい、どうしました?」
「あの娘、そっち行ってないわよね?」
「えぇ、来てませんけど……何かあったんですか?」
「この一週間ね、あの娘と連絡が取れなくって……それで、今アパート来てみたんだけど、あの娘、居る気配ないのよ……車はあるんだけど電気のメーター回ってないし……ねぇ、何か知ってる?」
「いや……俺も連絡取れなくって……」
「ちょっと、それ、何で早く言ってくれなかったの?」
「いや、すいません……申し訳ないです」
「あぁ、あ、謝る事ないわよ、ごめんね、何だか、気が動転しちゃって……」
「今からそっち行きます」
「いいのいいの、いいのよ。ごめんなさいね、今からお父さんと警察行って来るから。また、すぐ電話するから」
「分かりました」
電話を切った私は全身を小さな針でぷつぷつと刺されたような異常なざわめきに襲われた。痛みと痒み、その中間の感覚は私の肢体から動きを奪って行った。立ち上がる事も出来ず、ぼんやりと窓の外を眺めた。
女は、今、私と同じ空を見ているのだろうか。
そんな風に三文芝居もゲロを吐きそうな程下らない台詞がふと頭を過ぎって、私は無感動のままぎこちない動きで痛い様な、痒い様な、肌を擦った。女が部屋で死んでいるかもしれない可能性を、軽く無意識の内に流していた。
夕方前に女の母から連絡が入り、捜索願いを出したと報告を受けた。大家にアパートを開けてもらったが、部屋には居なかったそうだ。当然だろうが、女の母は酷く憔悴し切った声だった。しかし、女が行方不明になってしまったこの事態を、私は現実のものとして受け止める事が何故か出来なかった。
女は友人が少なかった。元々インドアが好きなのは知っていたが、成人になってからは意図的に他者との関わりを避けているようにも思えた。
ある日。ソファに二人で凭れながらテレビのバラエティ番組を眺めている時に、こんな質問をした事があった。
「俺と居る時以外さ、休みの日って何してるの?」
「え?実家帰ってるか、部屋でドラマ観たり……かなぁ」
「友達と遊んだりしないの?レイちゃんとか、どうしてる?」
「あぁ……レイねぇ、居たね。何してるのかなぁ?最近連絡取ってないな。なんかね、幾ら仲良くてもさ、他人とずっと一緒に居るとめちゃくちゃ疲れるんだよね」
ほんの僅かな悪戯心が働き、私は言った。恐れを笑顔の下に隠したつもりだった。
「俺は?」
女は一瞬押し黙ると、ゆっくりと頬杖をついた。長い髪がしなやかに肩に崩れ落ちた。そして、怒りをまるで殺し切れていない表情でこう、答えた。
「……他人なの?」
その言葉の重さに、私は冷やされた棒状の鉄を丸飲みしたような気分に陥った。喉の奥が、急激に締め付けられた。
「だって、他人だろ」
そう軽く答えようと思ったが、私の声はすぐに出なかった。私は、無理矢理に掠れた声を振り絞って言った。
「……まさか」
女は私は見据えたまま、私の左手を取った。重なった唇を女の舌がこじ開ける。前歯の裏を舐めながら、女は私の掌に爪を力任せに立て始めた。
余りの痛みに声を上げそうになったが、私は女の中の情欲を引き出す事でその行為を止めようとした。
歯の裏を這う舌を、残された片方の手で摘んで引き出した。飢えた犬のように息をする女の口内から引っ張り出した舌に、私はゆっくりと舌を這わせた。女はピクッと身を捩り、涎を零し出すとますます力を込めて爪を立てた。肌が細やかに、引き千切れるような鈍い痛みが走る。
舌から指を離し、女の小さな顎を掴む。互いの歯がカチカチと音を鳴らすような、出鱈目なリズムの口づけの中で、女は爪を立てる力を弱めて笑った。熱い、息だった。
「ねぇ、痛かった?」
「そりゃ、痛いよ」
「一生残れば良いのに」
女は嬉しそうに、そして実にだらしなく笑った。
女が行方不明になってから10日程経った頃だった。
「念の為ですから」
警察からそう言われ、私は事情聴取を受けた。事件性の薄い行方不明とはいえ、女の死体でも見つかったのなら真っ先に疑わしい人物を警察が当たるのは当然の事だ。その人物は間違いなく、私だった。女を愛しているとは言え、それは幾ら強く訴えようとも目には見えないのだから、クソの言い訳にすらならない。
白髪頭の年配で額の狭い、岩のような顔をした刑事が事情聴取の担当だった。彼の吐き出す言葉は車に轢かれて溶けたゴムようで、ねっとりとして遅く粘ついた口調だった。
「君は、彼氏なんでしょ?どうしてアパートに居ない事に気付かなかったんです?」
「連絡はしてましたよ。ただ、繋がらなかったし……まさか突然居なくなるなんて思わなかったので……」
「そうですか。彼氏なら心配してさぁ、ババッと駆けつけるのが当たり前なんじゃないの?何で?」
「何で?何でって、その前に色々ありまして、まぁ……」
「ほう……それは、つまり別れ話?」
途端に刑事の目が、卑しい憶測で輝き出した。手帳にペンを走らせている。ただの落書きかもしれないが。
「いえ。彼女に妊娠したかもしれないと、そう言われまして」
「妊娠、ねぇ……病院は行ったのかな?彼女は」
「えぇ。電話もらいましたから」
「してたの?」
「え?」
「だから、してたんですか?」
「妊娠ですか?」
「セックスだよ」
私はその時、この刑事によって女の全身を犯されたような気分になった。ねっとりと、ヤニのついた汚い舌で女の白い肌や性器が舐め回されているのを想像した。身体の奥底から自然と怒りが込み上げて来たが、これが彼等のやり口なのだろうと思い気分を鎮めた。横たわる女の背中を、思い浮かべたのだ。
「はい、セックスはしてました。妊娠はしてなかったって、そう言ってましたけど」
「そう。君、彼女の行ってた病院分かるかな?」
「さぁ……近場じゃないっスか?」
「何で一緒に行かなかったのかな?君、彼氏でしょ?責任感じてなかったんじゃないの?そうでしょ?年頃だろうし、まだまだ遊びたいもんな」
「いえ。彼女と結婚するつもりでいました」
「ふーん……そうなんだ」
刑事はつまらなそうに小さく欠伸をすると、爪の間のゴミをほじり始めた。ボロボロと机の上に落とされ続ける茶色のカスを、その口に食わせてやりたかった。それから後は女の趣味や良く行く場所などを聞かれ、直ぐに帰された。
女は、一体何処へ消えてしまったのだろうか。
それから一週間後の週末、女が大阪で発見されたとの連絡が入った。
外は雪が降り積もり、雪の絨毯にタイヤの跡が次々とつき始めていた。青いカッパを着た中年男が、大きな独り言を呟きながら両手を拡げ、くるくると回っている。女の母からの電話で女の事を聞かされている間、中年カッパ男は同じ場所を何度も何度も行ったり来たりしていた。
きっと、頭がイカれているのだろう。気分良く、楽しそうで、何よりだと思った。
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