第9話 プロメテウスの火
出来損ないの夢の塊が濁流に呑まれ、二度と浮かび上がることなく沈んで、やがて跡形も無く消える日を待ち侘びていた。しかし、何も起きない日常の中では、濁流が押し寄せるはずなど無かった。壁に染み付いた期待の欠片と今日も目が遭い、その度に私は眠気を覚える。
身体が熱っぽく、そして怠いと女は言った。私はそれがさして重要な事とも思わず、軽い口調で答えた。
「風邪引いたんじゃない?」
「違うと思う、咳もないし」
「じゃあ、何だろうな」
「妊娠したかな」
小さく笑いながら、まるで他人事のように女は言った。妊娠となれば思い当たる節があり過ぎた。私は女との性交渉の際、避妊具を用いた事がもう何年間もなかった。妊娠、結婚、出産。平凡な「生活」が始まるのだろうか。それを想像したが私はその時、すんなりとその「生活」を受け入れられるような気がした。男は身勝手で、良い。
「もしそうだったら、どうする?俺は別に構わないけど」
「そう?」
「うん、全然良いよ」
「そっか。とりあえず病院行って来るよ」
女は柔和に微笑んだ。白く、きめ細やかな肌が微かに赤く染まっていた。私は特に意味もなく、女の頬に鼻を寄せた。日向に座る、毛の柔らかな猫と同じ匂いがした。
それから数日後、女と突然連絡が取れなくなった。メールを出しても、電話をしても、何の返事も無かった。出っ歯上司に頼まれて倉庫内の動きのない在庫達をリストアップしながら、私は何度も尻のポケットから携帯電話を取り出しては長い溜息をついていた。
「村瀬さん、女っスか?」
その野太い声に振り返ると、後輩の金田が赤いネステナーの前に立っていた。彼は背が高く痩身で、その襟足は金髪に染まっている。その細い眉と目を見ながら、私は笑いながら返した。
「あぁ、そうだよ。クソ出っ歯に頼まれてカウントしてるけど、全然集中出来ない」
「彼女さんと何かあったんスか?」
「まぁな。何、おまえ暇してんの?」
「いやぁ、まぁ……なんていうか、ちょっと相談なんスけど」
「どうしたんだよ?」
「チンコの先っぽがマジ痒くて、小便するとチョー痛いんスよ。これ、やっぱ病気ですかね……」
「心当たりあんの?」
「はい、まぁ……」
「付けないで「する」からだろ。風邪でチンコは痛くならねーよ」
「そうっスよねぇ……村瀬さん、付ける派っスか?」
「当たり前だろ。相手にも失礼だぞ」
人に見えないどうでもいい嘘ならば、幾ら積み重ねても邪魔にならない。
女と初めてした日の夜、女はゴムを酷く嫌がった。互いに、初めてだった。
「ねぇ、ヒロシ。ゴムが擦れてるのかな、凄く痛い。ただでさえ痛いのに」
「無い方がいい?」
「うん、それでしてみて」
「分かった」
女の中に住んでいた少女を呆気なく殺した薄い皮は、ゴミ箱に投げ捨てられた。そうして女の中でそっと瞼を閉じると、何故か赤い光景が浮かんだ。血よりも鮮明な赤だった。そして、その日以来二度と女の前で付ける事は無かった。尚美に対しては、たった零点数ミリの薄い皮を用いた。理性で包んだ堅実な隔たりは、愛の言葉の代わりに安心を生んだ。
金田が股間を触りながら神妙な顔付きで言った。
「何科に行けばいいっスかね?」
「泌尿器科じゃねーの?」
「ヒニョーキカ?あぁ、何か聞いたことあるっス」
「デカイ病院行って、受付の女に「チンポが痛くて爆発しそうです」って言えば大丈夫だよ」
私はそう言って笑い、腹を抱えた。泣きそうな顔で延々と股間を触り続ける金田が実におかしくて、おかしくて、虚しかった。
在庫のカウントが終わった頃、携帯のバイブの振動を尻で感じた。女からの着信表示を見て、私はすぐに電話を取った。
「もしもし?」
「ごめん、ずっと連絡しなくて」
「どうした?大丈夫なんか?」
「まぁ……元気は元気だよ」
「今日、行こうかと思ってた」
「来なくていい」
「そう……あれから病院行ったの?」
「うん。今、大丈夫?」
「あぁ」
私は在庫票を挟んだバインダーを机の上に投げ出し、頭を掻き毟った。冷め切った女の声に、無意識に不安は煽られた。
「結果を言うと、妊娠じゃなかった」
「違うの?」
「……子宮の病気かもしれないって」
「子宮の病気?」
出っ歯がふざけた様子で手もみをしながら近づいて来るのが見えた。私は投げ出したバインダーを指差すと、出っ歯が手刀を切りながらそれを持って行くのが見えた。
「私ね、今度は妊娠出来ないかも」
「え?」
「検査また行かなきゃ行かないから、詳しくはまた後で話すけど……少し忙しくなるから」
「そうか。俺に出来る事あったら、何でもするからさ」
「じゃあ……お願い聞いてもらっていい?」
「あぁ、何でも聞くよ」
「しばらく顔見せないで。お願い」
「……」
「会いたくないの」
「何で?」
「何か……申し訳ないから。よろしく」
「申し訳ないって、そんな……あれ」
言葉の最中に電話は突然切られた。すぐに掛け直してみたが繋がる事はなく、それが女の意思だと私は悟った。目の前を通り過ぎる金田は相変わらず泣きそうな顔で股間を触っていて、私はその姿に無性に怒鳴り声を上げたくなった。
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