第8話 毒の名を
尚美が消えてから、私は女の元へ何気ない顔で訪れた。日常の中で見せた女の行動、粘液の音が作る世界。私は、一体何をしているのだろう。
冬。女の家へと車を走らせた。時折頭を過ぎる尚美の焼け焦げた記憶が脳裏にこびりついたままで、中々落ちはしなかった。二人で作った頑固な汚れの記憶は、二人でないと消せないのかもしれない。そんな事を考えながら信号待ちをしていると、携帯が鳴った。職場からだった。すぐに出ようと思ったが左前方のフェンスの奥に隠れ切れていない白バイの姿が見え、電話に出るのを止めた。
路肩に車を停め、電話を掛け直すと通称「出っ歯」の現場上司がすぐに出た。通称通り、歯茎を剥き出しにした見た目も性格も酷い出っ歯野郎だ。
「村瀬君、休みの時に悪い」
「どうしたんすか?」
「いや、実はちょっと不味い事になってさ。労働時間管理とかの帳簿あったよね?」
「あぁ、ありますよ」
「あれどこにやったかな?」
「2番ゲート前のキャビネットに入ってますよ。鍵は事務所です」
「助かるわぁ、ありがとさん!」
「何かあったんすか?」
「いやぁさ、別部署が監査で引っかかっちゃって。参ったよ」
「そうっすか」
「出勤したらまた打ち合わせするけど、上手い事、口裏合わせてくれないかな?本部長にもさ」
「え?まぁ、いいっすけど」
「悪いね、これも仕事だからさ。じゃ、また週明けに!」
「はい」
返事とは裏腹に靄のように立ち込めた感情。嘘をつけというのだろう。そんな事は仕事を通じて何度か、あった。重ね続けられる嘘はいつか真実になり、そしてそれは正義という名に変わっていった。少年だった頃、大人のつく嘘が嫌いで嫌いで仕方が無かった。大人となった今は、その嘘の中を泳いで生きている事さえも慣れてしまった。知って損する真実ならば、知らない方が身の為だ。息を吐くように、嘘を付く。ホモサピエンスが他の霊長類と異なり現代まで生き残ったのは嘘をつく事が出来たからだ、と何かで読んだ事がある。嘘に良いも悪いも無い、血に染みた習性なのだ。
職場でつかなければならない嘘を休みの日の私がいちいち考える事ではない。そう自分に言い聞かせ、私はアクセルを踏んだ。
女がソファに横たわっている。私は差し入れたケーキを冷蔵庫に仕舞い、ふと女を眺める。目が合った瞬間、女が言った。
「そういえばさ」
「うん?」
「こないだあんた、どこ行ってたの?」
「いつ?」
「この前の週末、連絡取れなかった日」
「あぁ、川越行って飲んでたんだよ。原口と……あと、合流した何人かとさ」
「へぇ。どうせまた飲み過ぎたんでしょ?」
「はは、まぁね。終電逃してカプセルホテル」
「深酒気を付けなよ?まぁ、男同士の遊びの事だからあんまり深くは聞かないけど」
「別に何もないよ」
「何かあるなんて思ってないよ」
私は首を振って笑い声を小さく上げた。ふとゴミ箱を見やると、女の物ではない煙草が捨てられているのが目に付いた。その途端、身体が思わず震え上がりそうになった。恐怖か、嫉妬か、怒りか、いや、何なんだ、これは。落ち着け、落ち着け、落ち着け……いや、これは。これは、彼女の父親が吸っているキャビンじゃないか。吸い始めて数口で消してしまう癖があり、どれもこれもまだ吸えそうな吸殻がそれを物語っていた。あぁ、なんだ。そうか、そうだったか。安堵の後、ふと尚美の泣き顔が頭を過ぎった。
私は、疑いを掛けられても仕方のない人間なのに。何故なら、逸脱はもう済んでしまったのだから。女を疑い、そしてそれを知った所で私は何がしたいのだろう。どうなるのだろう。怒り狂うのか?それとも、泣き脅しにでも掛かるのか?何の権利もない癖に?女に尚美の事など一生話はしない癖に?北海道に帰ってくれて良かった。心の奥でそう思っているじゃないか。抱き締める事をしなかった、それが唯一の免罪符だとでも?気が狂ってる。狂ってるから、分かったから、もういい。私は目を背けよう。
「ヒロ、どうしたの?」
「いや、ちょっと考え事。仕事場でちょっと……監査に嘘つけって言われててさ」
「マジ?良いの?それって……」
「良いも悪いも無いよ。仕方ないんだから」
「この世に仕方のない事なんてあるのかな?何の為にルールがあるんだかね」
「壊す為だよ」
私は無意識にそう呟いた。もう既に、ひとつ壊してしまったが。女は何も言わないだろうと思った。しかし、女は予想外に突然大きな笑い声を立て始めた。ケタケタ、と横になったまま楽しそうに笑っている。
「あんた、ばっかみたい!あー、おかしい!」
「そう?」
「真面目な声で「壊す為だよ」だって!あー、はははは!」
「そんな面白かったか?」
「おかしいよ!あー、今年一番笑ったかも!はははは!」
「あぁ、まぁ、そう」
女はひとしきり笑い終えた後、横になりながら隣に腰を下ろした私を見上げて言った。
「ヒロトさ、何か雰囲気変わったね」
「え?髪切ったからかな」
「違う。まぁ、人は変わるものだからさ」
「変わらず俺達は一緒にいるじゃん、それは変わらないでしょ」
「……そうかな」
「そうだろ」
「自分にそう、言ってるんじゃなくて?」
「は?まさか」
女は私の言葉に反応はせず、テレビ画面に目を向けたままだった。それから、一時間近くもそうしていた。テレビの中の笑い声にも、風景にも、何の反応も女は見せない。顔を動かす事なく、トイレに立つ事もなく、画面に集中し続けている。
居心地の悪さを感じた私は何気なく、立ち上がろうとした。腰を浮かした瞬間、私は女の手によってソファの上に引き倒された。
女が私の顔を逆さまに真上から覗き込んでいる。突然の出来事に唖然としていると、そのまま女の薄い唇が落ちてきた。こじ開けられた口の中に熱い唾液が流れ込む。
女は顔を離すと地獄に現れた仏のように、穏やかに微笑んだ。穏やか過ぎて、私は内心驚いた。
「これ、好きでしょ」
「好きだよ」
「好きだよね、こういうの。私は知ってるよ」
「うん」
「これから先、何があってもざまぁみろって私は思うよ」
女の目が、底意地の悪そうに弧を描いた。
「ざまぁみろって、それは俺に?」
「あんたと、その他の人達にね」
「……」
「殺してやろうと何度も思ってる」
「誰を?」
「あんたを」
そう言って女は私の腕を取り、足の奥の間に埋めた。ジーンズ越しでも熱く、湿った感覚が伝わる。
「おまえに殺されるなら、それでいいよ」
「その冷静さがムカつくんだよ。分かり切ったようなような顔しないで」
「俺は……」
「愛してるけど、それを理由にしたくない」
言葉の裏で下ろされたジーンズが、ソファから零れ落ちた。互いを確かめるように唇を重ね、指先は熱くなり過ぎた粘液を冷ますように吸い付き、女の意思を吐き出して行く。そうでもしなければ、喰われてしまう。爪痕が背中に残るほどに抱き締め合う。女の爪が食い込むと、それに負けじと私は女の美しい背中に爪を立てた。
永久に抜けない毒は死を迎える瞬間、その病床から解放される。依存と呼ぶには余りに軽々しいその正体は「つがい」になった片方が離れても、死んでも、その毒は死ぬまで残り続ける。
その毒に名をつけるなら、一体何なのだろう。その毒の名は、分かり易く簡単に言えば愛なのだろうか。
女の粘液が掻き回される音が鳴り響き、その隙間にワイドショーのコメンテータの言葉が入る。寒気がきつ過ぎて、野菜が高騰しているらしい。短髪のコメンテータは画面の向こうに媚を売るように無理したような情けない声を出していたが、それでも野菜は来年も成るだろう。
キャベツ、粘液、トマト、吐息、白菜、唾液、苺、粘液。
そして、女は言った。
「痛いよ」
身体だろうか、心だろうか。私は女を抱き締める事で生まれる悦びの前に、考える事を放棄した。
爪痕すら残らなかった、尚美を思い出す事もないままに。
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