第7話 The spell she cast.

 北海道へ発つ数週間前。私に対して「友達だよ」と、尚美の唱えた呪文。夜の一線を越え、それでも唱え続けた彼女の呪文は、子供染みたまじないにすらならなかった。私の口や手が、彼女の小さな呪文を嘲笑い、壊してしまったから。


 秋を感じさせる澄んだ空の下、私は「女」とは別の女と人混みの中を歩いていた。しかし、違和感はあまり感じなかった。気が付けばいつもそうするように私は道路側を歩き、手押しのドアを開いて尚美を先に行かせたりしていた。

 最愛の「女」に与えるべき権利を他の女に対して行使している事に初めは戸惑いや微かな罪悪感を抱いた。しかし、それはすぐに「男」としての役目という下らない大義名分によって消し飛んでしまった。


 菓子屋横丁を過ぎて、蔵造りが並ぶ景色に入った。その漆黒の壁を尚美は熱心に眺めている。


「ねぇ、何で揃いも揃ってみんな壁が黒いの?普通さ、土蔵の壁って白くない?」

「あぁ、確か空襲から守る為だとか」

「ふーん、黒いと燃えないのかな?塗料が火に強いとか?」

「さぁ?上から見え難いとかじゃない?けど構造上火災には相当強いらしいよ。空襲の前にも江戸の大火とかもあったけど、それでもまだ残ってるんだから」

「へぇ、色々と考えられて造られてるんだろうね。なんだかロマンあるね」

「昔の物が今も現役で生きてるって凄いよな。作った人はもうこの世にいないのにさ」

「凄い事だよね。私も何か遺してから死にたいなぁ」


 尚美は黒い壁を触りなが自信なさげに微笑んだ。きっと、心の奥底では本気で想っているのだろう。その顔にふと、堪らない愛しさを感じて私は思わず唇を噛んだ。瞬間、鉄の味がした。

 通りは狭い割りに交通量も人も多く、まさに「観光地」と言わんばかりの賑わいだった。尚美の数歩先を進んでいると彼女は突然「あー、芋アイス!」と小さく叫んだ。尚美は思い切り背後を振り返った拍子にバランスを崩し、よろめいた。そこへ通りをノロノロと進む赤いセダンが突っ込んで来た。あと数センチで撥ねられる所だったが、私はその手を掴んで思い切り引き寄せた。女の手より小さく、暖かな手だった。私は少し角の立つ言い方を尚美にした。


「芋アイスじゃねーだろ!危ねぇな!」

「はは、ごめんね……マジで、ありがと」

「気を付けろよ。せっかくの楽しい休みが台無しになる所だったぞ」

「楽しい?」

「え?」


 私に怒られたせいだろうか、尚美は泣き出しそうな顔で言った。


「ヒロちゃん、楽しい?」

「そりゃ、うん、楽しいよ」

「あぁ、良かったぁ!」


 そう言って尚美は両手で口を覆ってその場に座り込んだ。通行人が怪訝な顔を浮かべながら横を通り過ぎていく。通りが狭いので、とにかく邪魔なのだ。


「ナオちゃん、立てよ。マジで邪魔だから」

「あっ、そうだよね。ごめん、何か安心しちゃって」

「安心?遊び来てるんだから、そりゃ楽しいよ」

「だって、なんかさぁ……いや、いいや。良かったぁ」


 尚美は笑いながら立ち上がり、私に向かって右手を差し出した。

 だって、なんかさぁ

 その続きが容易に想像出来たが何も言わない事にした。してしまった。

 私は差し出された手に右手を差し出すと尚美はただでさえ大きな目を丸くして見せた。


「えぇ!?それ!?」

「何で?助けてくれてどうも、の握手じゃないの?」

「嘘でしょ、天然?」

「え?」

「じゃあ、左手出して」

「え、こう?」

「そう。行こう」


 尚美は私の左手を右手で取ると、そのまま楽しげに歩き出した。横並びになると背が頭一つ分小さいのが良く分かった。

 不思議と緊張はしなかった。意図的に女以外の女と手を繋ぐのは、生まれて初めての事だった。

 これも遊びのうちに含まれているのだろうか。だとしたら、とことん楽しまなくてはならない。私はもう、既に大切なものを削がれていた。


 鶏腿の料理が有名な大衆居酒屋のカウンターで二人でジョッキを傾けていると、尚美は着ていたハーフコートを脱ぎ始めた。


「ヤバイわ、やっぱ関東暑いわ」

「暑いか?さすが道民だねぇ」


 私はハーフコートを掛けようと後ろを振り返ると、既に満面の笑みの店員が立っていた。


「彼女さんのコート、預かりますよ!どうぞごゆっくり!」

「あぁ、どうも」


 店員の様子を尚美は楽しげに眺めていた。


「はは、彼女さんだって」

「違うけどな」

「弟に見られなくて良かったね」

「うるせぇな」


 女と過ごしている時、以前食堂の店員に姉弟と間違われた事があった。その事を尚美は知っている。


「私達はただの友達だからね」

「実家帰るまでの、期間限定のお友達だろ?」

「そう。だからいーっぱい楽しまないと」


 並べられた皿に目をやると、尚美は香りのきつい食べ物には一切手を付けていなかった。バンドの話しや実家のある北海道の話をしているうちに時間は過ぎ、やがて終電の時間が近付いて来た。

 友達としての遊びの範疇を越えないよう、私は意識して尚美を見て言った。


「ナオちゃん、終電何時?」                 

「さぁ、知らない」

「そういう嘘つくなよ。何時?」


 答えの代わりに尚美はグラスを空にして、喧騒の中で宙を眺め始めた。酒に入っていたチェリーの香りが鼻の前を掠めて消えた。


「ねぇ、ヒロちゃん。私、自分でも馬鹿なんだと思う」


 質問とまるで違う答えが、尚美の答えだった。不正解をも正解とさせてしまう彼女の唱えた呪文。

 昼とは打って変わって振り出した雨の中、私と尚美は駅とは間逆の方向へと足を運ばせた。ただただ楽しく、そして、二人で居る事がかえって無性に寂しく思え、仕方なかった。

 薄暗い部屋の隅へ、尚美は追い込まれていた。それは私の熱によって、壁の隅まで押し退けられた尚美の残骸だった。

 私を私だと外に認識される為の道具、尚美を尚美だと外に認識させる為の道具。それらは無防備に、乱雑に折り重なって捨てられていた。


「ヒロちゃん、友達だよね?」

「そうだよ」

「友達だもんね。凄く大切な、大切な友達だよね」

「そうだよ。ずっと大切な友達だよ」


 重なった唇の先、互いに捻じ込まれた舌は甘く、重たかった。


「どんな私でも、友達でいてくれる?こんな私でも」

「形なんかどうだっていいよ」

「情けなくない?」

「そんな事あるかよ、だって、友達だろ?」


 私に頭を壁際に押さえ付けられ、愛撫され続ける尚美は笑いながら、泣き出した。

 本音を隠しながら身体に快感を与え合うより、本音を吐いて抱き締める事の方がよほど痛く、恐ろしかった。


 一晩で尚美の身体の隅から隅を知った。背中に数本、古い火傷の痕のようなものがあった。余りに痛ましいその痕を、私は尚美を背後から突きながら問い質した。揺れる背中のその痕に、指先を這わせる。


「どうしたの、これ」

「言いたくない」

「言えよ」


 私は奥深く、尚美を責めた。


「言いたくないよ、だって、引かれる」

「……言えよ、友達なんだろ?」

「やだ……絶対、嫌」


 尚美は否定の言葉を吐息と高い声を交えながら呟いた。それが私を苛立たせ、苛立ちの熱は尚美を只の性の道具へと変貌させて行く。執拗に熱を込め、私は尚美を責め続けた。


「本当の事言えない、そんな友達が、友達?」

「違う……の」

「なら、だったら、言えよ。言ってみろよ」

「……虐待、ストーブの、痕」

「そう、ありがとう」


 そう言いながら、私は悲しみと怒りの入り混じった感情を尚美に放った。快感を通り越し、悲鳴にも似た声を上げた彼女は泣いていた。子供のように、ぐずぐずと、泣いていた。私は、笑った。

 抱き締める事は、朝が来てもしなかった。


 それから二週間後、尚美は北海道へと帰って行った。最後に電話で連絡を取り合った時ですら、彼女は気丈な声で「ずっと友達だよ!」と笑っていた。しかし、その声を聞きながら頭に浮かんだのは彼女の泣き顔だった。

 更に数週間が経った頃、私と尚美が出会ったあの店は突然潰れ、跡形もなく更地になっていた。

 店、なくなったみたいよ。

 そうメールをしてみたが、返って来たのは送信不可のエラーメッセージだった。知らないうちに、電話番号も変わっていた。


 こうして私は、一人の友達を失った。

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