第5話 見逃し

 水の引いた朝は強烈な光を放ちながら、街の眠りを暴力的な勢いで引きずり上げて行く。

 タンクトップ姿の女は私の隣で目を覚まし、起き上がると、瞼を閉じたまま慇懃に頭を下げた。


「おはよ、朝から暑いな」

「あぁ……おはよう。あんた、普通だよね?大丈夫だよね?」

「普通って、何が?今は寝起きだから少なくとも普通じゃないよ」

「違う、そうじゃなくて」

「どういう意味?」

「さっきまで夢見てたんだけど、夢の中のヒロって凄く怖いんだよ。今まで言わなかったけど、夢で逢いたくない人No.1はあんたなの。マジで申し訳ないんだけど」

「でも夢の話だろ?夢の中の俺はおまえに酷いことでもするの?」

「そりゃ、もう。さっきの夢は……ただいまって私が部屋に帰って来たら、あんたが玄関まで無言で歩いてやって来て、そのまま私は髪の毛掴まれて……あんた、下駄箱の角に私の頭打ち付けたんだよ。血が噴き出しても全然止めないの、滅多打ち。しかも、暴力振るってる時のあんたってめちゃくちゃ楽しそうなの。私が泣きながら「ごめん、ごめん」って謝ってんのに、今度は首まで絞め始めて……それなのに、あんたは一言も喋らないの。ねぇ、何なの?一体何なの?」

「何なのって……それはこっちの台詞だよ。普段俺にどんなイメージ抱いてんだよ。なんていうか、俺がこうなったら嫌だなぁってのが無意識に夢に出てきてんじゃないの?」

「あんたが普段優しいのは知ってるよ」


 些細で小さな嘘と、大袈裟で大切な真実を私は女に言った。


「優しいのはおまえにだけだよ」

「知ってる。でも、他所ではどうなの?」

「どうって、他人に対して?なら、可もなく不可もないように、皆に平等に接しようと努めてるよ」

「そう……たまにさ、こんなに長く一緒にいるのにあんた、寒気がするくらい冷めた目をしてる時があるよ。それが私と居る時以外のあんたなの?」

「そんな訳ないだろ」

「一緒に居て心地良い反面、たまに凄く緊張するの。それは好きだからとか、そういう種類の緊張じゃなくて。違うの」

「なんだよ、それ……」


 蛇のように伸びる私の腕の気配を、女は感じたのだろう。


「触らないで」


 立ち上がったばかりの腕は軽く払われた。女の声は丸みのない、怯えた声だった。


「いいだろ、別に。不安そうだったからさ」

「なんていうか、たまにあんたが、ヒロが不気味なだけ。ごめん」


 カーテンの隙間から夏の光が漏れ、女に弾かれた私の腕にくっきりと明瞭なコントラストを描いた。

 浅黒く焼けた肌と、白い夏の光。

 それは明瞭過ぎていて、まるでガキの描いた絵のようだ。私はそう思いながら、どうしたらこの状況を濁せるかだけを考え始めた。

 女は夢の中で私に余程恐ろしい目に遭わされたのだろうか、項垂れたまま一切目線を合わそうとはしない。それどころか、全身の肌という肌の全細胞が私を否定している気さえする。

 そんな女を横目に私はそれ以上言葉を紡ぐのを諦め、煙草に火を点けた。女は髪を掻き上げて、私に続いて煙草に火を点けた。鼻を掠めた髪の匂いが、ひどく、ひどく、遠い。


 たまにあんたが、ヒロが不気味なだけ


 それだけだろうか。長年に渡って共に過ごして来た女の本音を、寝起きで聞かされた。いや、寝起きだからこそ聞けたのだろうか。


「何の悪意もないんだよ、ただ、不気味で悪かったよ。ごめん」


 心からの言葉では無かったが私がそう呟くと、煙を吐いた女は身体を崩して私に凭れかかった。甘くて、酸っぱい、夏の生き物の香りがした。


「いいんだよ、ごめん。ヒロ、ごめんね」

「いや、おまえが謝る事じゃないよ」

「ううん、そんな風に思って本当に申し訳ないと思ってるの。無意識なんだよ。本当は違うって分かってるのに、怖いんだよ。だから、触れるのが怖くなる」

「触れてるのに?」

「安心したいの」

「そう」


 抱き寄せた拍子に落ちた灰が布団に落ちた。それからしばらく部屋に言葉は無く、その上に落ちた汗が二人分、滲み始めた。布団に出来上がった黒い染みは写真よりも生々しく、夏を描き出した。

 また、逃げてしまった。肝心な答えには目を背けながら、互いに取って居心地の良い場所を探し続ける。いや、譲り続けているのだろう。削がれ、剥がれ、失われた物は愛の残滓として時に諍いの原因となるのは知っている。けれど、研ぎ澄まされた愛が成せるものの大きさとは一体何なのだろうか。目を背けられた私と、女の、奥深い感情はきっとまだ何処かで眠っている。こちらに顔を向けながら。


 遮断機の向こうでニキビ面で学生服姿の中学生が立っている。その目は列車の通る方向を真っ直ぐに見つめている。

 坊ちゃん刈り、というのだろうか。サザエさんに登場する「タラちゃん」の様な髪をしていて、目は細く吊り上っていて、鼻は上を向いている。

 不出来なその顔は固い決意が宿されているように見え、私はふと優しい気持ちになった。

 もうすぐ、この少年は。

 列車が音を立てて近付いて来る。ガタン、ガタン、ガタン、と。

 少年は目を見開き、足を一歩前に踏み出した。列車が汽笛を鳴らす。

 私は心の奥底でエールという名の叫び声を上げた。頑張れ、あと少しだ!頑張れ!踏み出せ!もう、あと少しだ!

 その白熱具合は真夏の高校球児を応援する時のそれと良く似ていた。応援する側も、負けて欲しくはない。必死なのだ。

 電車が近付いて来る。少年の目は完全に見開かれている。私は必死に応援を続けている。

 そして、列車は何事も無く目の前を通り過ぎて行った。これではコールド負けだ。

 列車の最後尾の車両が過ぎると、いつの間にか少年は別の少年達によって揉みくちゃにされていた。

 金髪の少年もいる。頭を叩かれ、太腿を蹴られ、嘲笑を浴びせられている。

 私は、微かに怒りを覚えた。あのニキビ面の少年が「手に仕掛けた永遠」を奪った代償を、彼を取り囲み嘲笑うガキ共に払えるのだろうか。いや、そんな事は意識すらしないだろう。それこそ、永遠に。

 そうだ、ならばニキビ面の少年も、あのガキ共も、皆揃って死ねばいい。世の中には死んだ方が本人も周りも救われる命もある。

 そう思いながら団子になったガキ共の横を通り過ぎると、金髪の少年から昼に抱く女と同じ匂いがした。

 エタニティの香りだった。私は途端に気分が悪くなり、ガキの舐め腐った面に唾を吐き掛けたい衝動に駆られ、それを必死に抑えた。

 金髪の少年が一番楽しい時を過ごし、それが終わった頃に全てが爆ぜ、ゴミを食って下卑た笑いを浮かべる様な惨めな最期を迎えたのなら、少しは私の気も晴れそうだ。その頃、私はその金髪の少年に興味すら持っていないだろうから。

 金髪のクソガキに肩をわざとぶつけ、通り過ぎた。


「いってぇ!」


 と、クソガキがわざと大声を上げて蹲る姿を想像した。しかし、金髪のクソガキは私に目を遭わせ、ニヤリと笑ったと思ったらニキビ面の背中に蹴りを入れ始めた。

 二次災害だ、そう思いながら私は繁華街へ続く道を急いだ。


 たまにあんたが、ヒロトが不気味なだけ。


 なるほど。路面を打つ足音が自然と軽くリズミカルなものになる。テンポを意識する余裕すら生まれて来る。なるほどね。私は噴出したくて、噴出したくて、堪らない気持ちになった。

 擦れ違った婦人が怪訝な顔を浮かべていたので、会釈をしておいた。どうせもう、一生遭いはしないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る