第4話 死ぬ骨

 悪戯に食べた蜜の味は、まだ手足の伸び切らない私の身体に官能を与えた。

 その衝撃は僅かばかり前に体験した飼いウサギの死をも遥かに越えていた。

 摩擦と抵抗の隙間に身を委ね、人は溺れてやがて欲を擦り減らし、平になり、骨になる。骨になった後に残るのは螺旋を描く模造品の鎖だけで、長い人生すらもその鎖の一部に過ぎない。


 だから、鎖を断ち切る。


 何の役にも立たない、無限にも思える時間をただ凌ぐだけの遺伝の列から私は数年前、自ら外れた。繋ぐことの先に何があるかは誰にも分からないだろうが、この魂の模造の劣化品がまた生まれてしまっては、誠に世に対して申し訳ないと思ったからである。

 私に抱かれる女は災難だ。そして、骨に幾ら秀美な飾りを付けようともそれはただの屍である。


 畳の上に横になったまま、腕を上げる。ボロボロとささくれ立った畳の目が白と黒のボーダーシャツにモザイクを掛けている。蝿が一匹、力なく飛んでいる。飛んでは翅を休め、数cm進んでまた飛び立とうと踏ん張っている。翅を動かす音はブンブンと唸りを上げるが、やはり短くしか蝿は飛び立たない。あの蝿は、もう直ぐ寿命だろう。

 コップで蓋をして、最後を迎える瞬間を眺めようかと考えたが、きっと直ぐに飽きるだろうと思って止めた。

 私が忘れる頃に、きっと部屋の片隅で彼は翅を永遠に休める事だろう。

 命は等しく、美しいのだそうだ。

 翅が足掻く穢らわしきその音を、私は聞きたくない。

 あぁ、あれはいつだったか、どれだったか、誰だったか、何だったか。近頃腐り始めた記憶の束が同化し始め、整理がつかなくなって来た。

 新しく入るものは、もう何もなくて良い。


 死んだはずの島崎が夢の中にいた。

 ススキが茂った野原の中にポッカリと空いた空間に、下半身だけ裸で卓袱台の前に正座をしている。上半身は無地の黄色のセーターを着ていたのだが、ダンゴムシに人間の手足のついた30 cmはあろうかという生き物が島崎のセーターの毛糸を必死に解こうとしていた。

 島崎は私を見つけるとゆっくりと首を動かして正座したまま、首をぐるぐると回転させ始めた。


「死ぬとそんな器用になるんだな」


 私はそう語り掛けたが島崎は何も答えず、ただぐるぐると首を回転させ続けていた。

 すると、毛糸を解こうとしていたダンゴムシが急に私に話し掛けて来た。


「死の冒涜、心休まらず、彼の魂は穢れの中で喘いでいます。あなたは幸せを祈りますか?それでは、イエスタディ、イエスタディ、イエスタディ、イエスタディ、イエスタディ」

「うるせぇ」


 私はクソの説教を始めたダンゴムシを真上からDr.マーチンのブーツで踏み潰した。

 ブチュッと音がして、ダンゴムシは潰れた。それからすぐにコカコーラと鉄の混ざったような臭いが辺りに立ち込めた。私は気分が悪くなり、ススキを数本毟って回転し続ける島崎の頭に擦り付けた。

 すると、摩擦による煙が上がり始め、その煙はやがて美しい羽を持つ天使へと姿を変えた。

 両手を広げながら、天使は言った。


「ユニコーン 」


 私は首を傾げながら冷静になって答えた。


「それは、君。馬だよ」

「そうなんですよね」


 天使はそう言ったきりピタリと動かなくなり、私は回転し続ける島崎の首の根本がどういう仕組みで動いているのか気になってその首元を覗いてみた。


 すると


 夢が覚めた後に、横たわる女を眺めた。黄色の照明が白い背中を薄闇に浮かび上がらせていた。

 その頼りない背骨に沿って鼻先を這わすと、眠ったままの背中がピクッと震えた。背骨の上で鼻を止め、深呼吸をする。「女」の匂いがする。

 汗の中に淡い甘さを持ち、粘性の高さを否が応でも想像させ、それでいて薄い。自然でいる事を否定するような、生まれつきの人工的な匂い。男の肌からは決して生まれない、絶望的な深さを持つ女の匂いで、私は安堵に包まれる。そして、すぐに眠りに落ちた。

 書きかけの日記、という言葉が意識を失っていく隅でぼんやりと浮かんだ。


 一生分の安堵を私は女から与えられた。その時はそう思っていたが、やはりそうであった。

 余りに無防備な悦びの果て、私は人生の終わりに一人きりになり脳が奇声を上げて死んでしまっても構わないとさえ考えていた。 


 それもやはり、そうであった。

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