第3話 喰い粕
温泉街のすぐ側を流れる川は遠くから観ても透き通って見えた。その美しさを手に取ろうと、女は珍しくはしゃいだ声を上げながら川へと続く遊歩道を進んで行った。
川は近くで眺めるとより一層美しかった。穢れた事のない、源流の水だ。女は数枚写真を撮るとカメラを私に手渡した。
「ねぇ、撮ってよ」
「川をバックに?」
「うん」
女にピントを合わせ、シャッターを押す。カシャっという音がして女がフィルムに焼き付いた。
二人だけでフィルムに収まる事は滅多にない。今回も、それぞれが別々にファインダーに収まった。積極的に誰かに撮ってもらう事が出来ない、というのも勿論あるが、それ以上に意識しているのは将来の憎悪に対する保険だ。
美しい枠の中の光景すら、蒸し返される瞬間には裏返した岩に張り付く虫を見るような嫌悪感に変わるのだ。
人気の少ない通りに数軒土産屋が並んでいる。紙細工の小さな女の子の人形を顔を寄せ合って眺めていると、女が突然私の耳朶を噛んだ。
猫が戯れている時のような遊び方で、女は私に戯れて来る。私は堪らず、女の鼻に自分の鼻先を擦り付けた。すると、女は首を横に振った。
柱時計の音と、少し時期の早い石油ストーブの匂いに支配された空間で私達は私達の日常を演じ始めた。
土産屋の主人が椅子を立ち、裏へと消えた瞬間に全ての空間は私達の日常へと姿を変えてしまう。
互いの頬を掌で撫で回し、見つめ合う。唇の隙を狙いながら、それを敢えて許そうとはしたい演技が続く。道を外れた欲望は耳朶へと辿り着いたが、この瞬間にはそれが正解なのだ。
女の膝が力を失くし、土産物の置き台にぶつかる。
紙細工の小箱がひとつ落ち、私達は笑いながらそれを拾い上げた。
演技を終えた私達は何食わぬ顔で土産物を選び、店主の元へと運んで行く。女性店主は私達の指を眺めて、微笑んだ。
「まだ若そうだけど、ご夫婦?指輪してるものね」
私達は曖昧に頷いた。女が選んだペアリングは結婚指輪と見間違える程に細く、シンプルな造りだった。それ故、薬指を見る度に私は女の意思を感じ、それを幸せだと感じていた。
韓国へ一人旅に発った女の姉が音信不通になった。
騒ぎ初めのうちは大使館に連絡し、韓国側に捜索願いを出すような話しになったが、数日後に女の姉から連絡が入ったのだ。音信不通の正体は、何てことは無かった。現地で知り合った男と良い仲になり、そのまま結婚する事になったのだという。
その翌年。
私は女と共に女の姉の暮らす家を訪れていた。産まれたばかりの小さな命に女は多少怯えていたものの、抱き上げてからは本能が働いたようだった。
窓辺から射す白い光の中で、女は紛れもなく母の顔を浮かべていた。
白く美しい顔立ちは穏やかに、しかし力強い意志を湛えている。
私は女に赤子を手渡され、恐る恐る首の座らない小さな命を腕の中に収めてみた。目を瞑ったまま、赤子は手足を僅かに動かした。泣き出すのではないかと不安で仕方なかったが、赤子はまるで大人しく、私は思わず微笑んだ。
「ヒロト、うまいじゃん。良いパパになるんじゃない?」
女の姉はそう言いながら女に目を向けた。
「どうだろ?マメじゃないから面倒見なさそうだけど」
そう言って女は笑い、私も笑った。そして今はその光景を思い出しては一人で笑っている。
汚い笑い方で。
嫌悪も疲労も何もなく、緩やかに流れた午後の景色は代償として罪の烙印を私達に焼きつけた。
その後に分かった事だが、女は子供を産めない身体だったのだ。
解れてしまった糸は何度手繰り寄せ、編み直そうとも元の形には戻らない事をその時は気付かずにいられた。
女の姉は当たり前のように言った。
「あんた達いつ結婚すんの?今年24だし、そろそろしてもいいんじゃない?」
「まぁ、そろそろかなぁとは思ってるんですけど」
「でしょ?お互いもうこれから先、誰かイイ人が現れるとかないと思うよ?しちゃいなよ。オヤジもママも反対してないんだし、喜ぶよ」
私と女は顔を見合わせて曖昧に頷いてみせた。結婚について話し合う事は度々あった。勿論、相手は決まっていた。このまま結婚するのだろうという思いがあると、どうしてもそれを先延ばしにしてしまうのだ。いつでも出来るなら別に今じゃなくても良いだろう、と。
確実にどちらかが、いつか罪を犯すであろう執行猶予期間を互いに眺めていた。
その日が来る事自体は恐ろしくは無かったが、喜ばしいものとも言えなかった。
作り上げて来た非日常の愛おしさが、ただの平坦な日常の愛おしさに変わるだけなのだ。
女の家へ向かい、夜は女の父親と酒を酌み交わした。女が先に床に入り、父親と母親と三人で談笑していると私の携帯電話が鳴った。原田からの着信だった。
どうぞどうぞ、と父親が手を差し出したので断りを入れて電話に出ると原田の口調は冷え切っていた。
「ヒロト、もう聞いたか?」
「何、どうしたの?」
「島崎が死んだって。自殺だって」
「あぁ、そうか。よろしく言っといて」
「は?よろしくって、おまえ、誰にだよ?」
「じゃあ」
「おい!」
私はヘラヘラと、薄っぺらい笑顔を父親に見せながら頭を下げてみせた。
そうか、死んだか。しかし、それとは無関係なほどに酒が美味かった。父親の地元、新潟の酒だと言うではないか。赤らんだ頬の前で、島崎の死の知らせは酒のアテにさえならなかった。
翌朝、マフラーを買いたいと女が言ったので二人で街へ出た。女が選んだのはオレンジ色の、如何にも女性らしい色味のマフラーだった。マフラーを首に当てながら、女は私を見た。
「どうかな?」
「たまには明るい色も良いと思うよ」
「ブルーとか寒色の方が合うのわかってるけどさぁ」
「まぁ、そっちも似合うけど」
「女の子って感じの色が似合いたかった」
「そういう風に思ってるんだなって思うと、やっぱおまえは可愛いよ」
頭を撫でようと手を伸ばし、女の細い髪を撫でようとした時に島崎の顔がふと浮かんだ。少しも悲しくは無かった。
ただ、目の前にいるオレンジが似合いたかったと言いたげな女が死ぬ事を考えると、私は悲しみを通り越して死にたくなった。髪に伸びたはずの手が背中に落ち、そのまま抱き締めた。
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