Lightning Atack!!!

葉月空野

The Greatest Day. その1

1. 20○✕ / 7/7 (月)

 網状のフェンスをよじ登って屋上の端に立った時、東の空の薄ぼやけた月の裏から、塵ほどに小さな光が瞬き、なんの脈絡もなく、真っ直ぐな軌道で遠方の山脈へと墜落していく。

 そして、夏に現れる名前もよく分からない蚊よりは少し大きいくらいの羽虫が、曖昧な軌道を描いて飛んでいる。それは、単に意味の無い、線ですらない、文字通りの無軌道な、単なる飛行にすぎないのかもしれないけれど、例えばそれは、星を覆う透明な膜なのかもしれないと僕は思った。

 羽虫はしばらく失せそうにない。今も膜は描かれ続けている。

 イヤホンジャックから有線イヤホンを抜いて、スマートフォンを投げ捨てる。スマッシング・パンプキンズの「Today」が流れ出す。ビリー・コーガンの澄んだ歌声と凶暴で冷たいファズ、切なくクリーンなアルペジオが、直径コンマ数ミリのスピーカーから、真夏の淀んだ空気の中に混ざり、溶け込んで、引き金を引く寸前の長い深呼吸のように、僕の脳みそを真空にした。

 透明な膜を切り裂くように星は堕ちた。僕は宙に身を投げ出して、目を閉じる。地球は、飛行を諦めた有翼の生物を誘惑する時の、とどめの一念を、僕にも同じようにけしかけた。死ぬ、とは思わなかった。何か、僕なんかには感じ取ることの出来なかった壮大な場所に、吸い込まれ、還っていく、そんな感覚だった。

 数秒で事は済むはずだった。しかし、僕は感じていた。まぶたの裏の黒さ、生ぬるい風の滑らかさと湿った鉄のような匂い、唾液の乾いた口の肉の味……何もかもを感じていた。

 ただ一つ……音だけが消失していた。

 体が風を切る音も、ビリーの歌声も、あの忌々しい無数の喧騒さえも、まるで自由落下の加速によって世界がまるごと置き去りにされたかのように、何も聞こえなくなった。

 目を開ける。

 僕は空を踏んでいた。

「君は実に不運だね。いや、この場合、どちらなのだろうね。君は幸運だった、とも言えなくはないのだろう」

 それは、僕が世界を失ってから初めて聞く音だった。

 緩やかになびく凪のような、美しい声。

 僕は声のする方……つまり下であり上、空色の地上、入道雲模様の屋上、の方に顔を向けた。黒いセーラー服を着た人影が、フェンス越しに僕を見ている。

 ……つまり、僕は浮いていた。

 比喩ではなく、屋上階から一階下あたりの空中に、窓に張り付いたカエルのようにピタリと固定されていた。

「すんなりと飛んだね。憂いなんてまるでないかのような顔で、実にいさぎの良い飛び降り自殺だったよ。その気概を考慮して再評価するのであれば……うん、やはり君は不幸だった、ということになる。そして残念ながら君の願いは叶わない。君の行為を私が認めないからだ。何故かって? 都合があるのさ。なんだってそうだろう? 都合と都合はぶつかり合い、一方が必ず淘汰される」

 僕は声を出して反論しようと口を動かしたが、体が反転しているせいか、喉がつっかえて声が出ない。あるいは、飛び降りた瞬間の離脱感に紛れて死んでいた恐怖が、今更になって蘇ってきたゆえかもしれない。

「とにかく、まずはこちらで話をしよう。この念力、借り物でかつ使い切りの力なんだ。これ以上そこに居られると、うっかり君を落っことしかねない。まあ、君にとってそちらの方がどんなに喜ばしいことかは、察するに余りあるがね」


「音楽は一時停止させてもらったよ。うん、趣味のいい曲だ。美しく歪んだサウンドと、ひねくれた前向きさに皮肉の入り交じった詞のセンスは、私にとっても好ましかったけれど、この爆音で人を集めたくはなかったのでね」

 念力によって屋上に引き戻された僕は、跪く姿勢のまま女を睨みつけた。最初に目に付いたのは、左前腕を覆うように巻かれた白い包帯。レースのカーテンのようになびく黒髪、容貌は幼さのなかに利発な印象を含んで端麗で、よく手入れされた楽器のようなシャープで品のいい体躯。このような形で出会わなければ、かなり好感をもてたであろう。「力の消費は手痛いアクシデントだったが……思わぬ形で有用な素材を手に入れたと思えば、採算は合う。舞台は整った、といったところかな」

「お前は何者だ」

 気力を振り絞って乾いた喉を震わせる。その様を嘲るかのように、あるいは無感情に、「外星人」

 少女は僕の問いに応答した。

「この銀河の外より飛来した、君たち地球人類にとって未知の知的生命体」

 それはつまり……「宇宙人、と言えばわかりやすいか」「そこまで補足されなきゃ呑み込めなさそうな馬鹿に見えたか?」

 声を荒らげると、少女……宇宙人は眉をひそめ、少し考える素振りを見せた。ややあって、彼女は丁寧なお辞儀をし、顔を上げてもう一度僕を見た。

「礼を失する発言だった。謝罪する。しかしね、私の知る一般的な地球人類であれば、優れた容姿を有している以外にはどこからどう見ても普通の女子高校生にしか見えない地球人類のメスが、いきなり自らを外星人だと自称した場合、少なからず動揺したり、状況を呑み込むのに時間がかかるものだと思うけれど」

「あんな力を平気で使っておいて、今更何言ってんだよ。起きたことが事実なら受け入れるしかない。僕はあの時、確かに屋上から飛んで、浮かされて、連れ戻されて、死ななかった。その結果が、大体のことを証明しているだろ」

「信じるんだね? 有り得ないことが有り得たことを」

「そう言ってるだろ」

 僕が反抗的に声を荒らげると、宇宙人は顎に手を当てて、また少し何かを考える素振りを見せた。

「面白い……だが、ある意味では面白くない。なんというか、興が削がれた。君のような地球人類に対峙した場合、地球の特にメスは、オスに対して"モテないのではないか"と疑問を呈する権利を有するのだったよね?」「よね? くない。それが事実であるかどうかはさておき、そういう物言いは少なからずオスを傷つけるんだよ」

 あとお前、自称が確かなら地球のメスじゃないだろ。

「ためらいもなく飛び降り自殺を敢行しようとするような人間が今更何を言っているんだか……」

「ああ、そうだな」

「いやなに、今更取り繕うことはない。どうしたって君はもう死ねないだろう。それは私の都合を抜きにしても有り得ない」

 宇宙人は冷めた表情でそう言った。……確かにそうだ。

「いや、今ちょうどフェンスを登るとこさ……」

 両の足が震え、腰は砕け、頭の中は真っ白で、立つことすらままならない。たった一回きりの、たった一瞬の苦しみなら、と身を投げはしたけれど、それは覚悟ではなかった。ただ、何らかの契機があった。ほんの少しの、あるかないかも曖昧な、微かな契機があって、それが今失われたのだ。

「君は飛ばないよ」

 そうだ、僕はもう、宙を飛ぶことは無い。首を吊ることもなければ、浴槽の中で眠ることも、暫くはないだろう。僕のような臆病な人間にとって、あれはとても希少な状態だったのだ。

「どうにも腹の虫が収まらない、という顔をしているので、私が君を死なせられないわけを話そうか」

 自称宇宙人は人差し指を掲げて咳払いの仕草をすると、芝居がかった優雅な足取りで僕の正面に立ち、僕を指さした。

「君のようなちっぽけな、この人間社会の中で砂の一粒ほどの価値もないオスの一人が、ほんの一時だけ世間の注目を集める方法がある。自殺だ。派手な自殺だ。このような、公共の学び舎で、白昼堂々、人目もはばからずにガッツリと、自殺をすることだ。それなりの珍事ではあるだろうからね、前例がどれほど多く存在するかについては予想するべくもないだろうが。まあ、地球のトレンドなんだろう、社会の圧力がいたいけな学生を殺すお決まりの筋書きは。すると君は格好のネタということになる、マスコミが寄って集って記事を書くだろう。遺族を苦心させるだろう。クラスメートもさぞ迷惑することだろう。「まるで、なんの罪もない僕たち私たち健常者、の一人一人が、クラスの日陰者でいてもいなくても支障のないような君、が手前勝手に死んでしまったがために、君を自殺に追い込んだ加害者、という肩書きを一斉に背負い込んでしまったかのようじゃないか」と、各々大なり小なり傷心することだろう。まあそれはどうでもいいことだが、すると困るのは、この街が私の意図しない形で注目を集めてしまうことだ。この町の外の人間の関心が私のテリトリーに集まってしまうのは、私にとって都合が良くない。だからね、私個人は別に君のことを嫌っている訳では無いよ。毒舌(これ)はただの物言い……だが、客観的に見ればこういった評価も遠からず的を射て……はいなくとも、射抜きかけているとは思わないか? たとえ君が死んで、その名前が全国のテレヴィジョンやインターネット、新聞記事に公開されたとして、ほんの一時哀れまれても、誰も君を覚えていてはくれない。そこには君という個人を悼む者はいない。それでは、君は君を哀れむ人の数だけ、善意という、脆く陰湿な感傷の"オカズ"に使われるばかりだ。君は本当にそれでいいのか? お茶の間の"オカズ"として一生を終えるなんて、本当のところたまらないだろう?」

 話の間、宇宙人はその悠長な語りぶりの割に随分と冷めた表情をしていた。僕は羽虫の音が気にかかっていた。それは僕の耳のあたりで、うーん、とか、えー、のような音を絶えず発している。宇宙人はまたひとつ咳払いをして、二本目の指を立ち上げた。羽虫は未だ、うーん、えー、と飛び回っている。

「ふたつめの理由は簡単だ。この屋上は特にお気に入りの、私の庭なんだ。誰だって自分の庭が汚されるのは気分が悪いだろう」

 僕は握った拳を宇宙人に向かって突き出した。が、それは無様に空を切り、宇宙人は僕の体をいなして足元に押し倒す。

「嘘はつけないタチでね」

「黙れ」

「私を殺すかい? それなら、君に良い提案があるのだけど、そいつを聞いてから判断してみないか? 私を殺すか、殺さないか」

「僕は一言も、殺す、とは言っていない」

「私の計画を手伝え」

「……計画?」

 うーん、えー、うーん、えー、羽虫が飛んでいる。それは警鐘やサイレンの音に似ていた。僕は間違えてしまう気がする。

「君と、私で……ふたりで、世界をぶっ壊してみないか?」

 少女は、表情ひとつかえなかった。飽くまで冷静に、それを口にした。いくらなんでもそれは不可能だ、ありえない、馬鹿馬鹿しい。

「君のバックには、宇宙船団でもいるのか? スターウォーズみたいな」

「それは秘密だ。話せることは少ない。大抵のことは重要機密なんだ」

 この言葉が本当じゃなかったら、彼女は幼稚園児のおねしょの言い訳程度の嘘しかつけないことになる。

「念力は存在する。それは認めるけれど、君が宇宙人かはやっぱりまだわからない。けれど、人を一人浮かす程度のことにしか使えない、しかも使い切りの超常現象くらいじゃ、世界は壊せない」

「ああ、念力の消費は痛手、などと口走ったのは忘れてくれ。あれは君を助ける際に、私の特異性について説明する過程を省略するのにちょうど良いと思って披露したまでだ。あの力がなくても、私の計画にまったく支障はきたさない。実際、タネのない手品くらいにしか使えない力だ。しかしね、この世界を壊す方法が力のみかと問われればもはやそうでも無いだろう。たとえば情報は人を殺しうる。つまり、私が地球人類の自滅を待つタイプの宇宙人である可能性はあるということだ。ウルトラセブンのメトロン星人のようにね。まあ、それも含めて現時点では手の内を明かせないが、いずれ君にもわかる時がくるよ。実際に壊れた世界を見れば、否が応でも理解してしまうさ」

 ……信じられない。信じられる要素がない。しかし、実際に念力はあった。超常現象はあったのだ。僕は死ななかった。これは夢なのかもしれない。僕が死ぬ前に見ている長い走馬灯なのかもしれない。しかし、長い長い走馬灯ならば、長い長い夢ならば……ならば、世界は壊せるかもしれない。いつかは覚める夢だとしても。その荒唐無稽で抽象的な提案は、強かに僕を誘惑する。

「君はこの世界に失望している。退屈で、居場所がなくて、吐き気がするほど無情なくせに、優しくて、美しいこの世界を憎んでいる。そして、ああ……私は、この青く、清らかで、空々しい、地球を壊したくて、たまらないんだ。君もそうなんだろう? だから私は、君が計画に加担してくれることを望んでいる。あとは、君が望むなら、私は強く応えよう」

 こういう時、僕はいつも間違えてしまう。僕の選択はいつだって、値札を見ないで買い物をするように無謀で、非合理的だ。しかし、これは罠だと、はっきりそうだとわかる。見えている落とし穴だ。踏み出さなければ落ちずに済む……けれども、その穴の底には、もしかすると本当に、あるかもしれない欲しいものが奥底に眠っている。「だますつもりは無いからね。だまされたと思って、とは言わないよ」

 顔を上げると、包帯の巻かれた細い腕が僕に向かって真っ直ぐ伸びている。「僕はこの平坦な現実が淡々と、続く限り続いていくことを希望しているような気もする」「それは正しくても、退屈じゃないか。だったら、夢だと思って賭けてみなよ」

「……宝くじかよ」

「文字通りのドリーム・ジャンボさ。夢はでっかく、博打は大胆に。現実は強固だ。誰が手を加えても、簡単に壊せるような代物じゃない。そいつをたやすく壊せるチャンスを、君は今掴もうとしてるんだぜ?」

 僕は腕を振り払って立ち上がった。羽虫の音をかき消すように、階下の喧騒が屋上までせりあがってくる。

「さあ、星は落ちた。繰り返す。舞台は整った」

 少女は僕の顔の真横の空間を指さして、そう言った。その方向へ目をやると、向かいの山から黒い煙が立っている。煙は墨汁で描いた亡霊のようだった。あの山に埋もれた様々な遺恨が一斉に世に放たれていくように、煙は絶えず湧き続けている。

「私は、シキ・ノゾミ。知識の識に、貴い望みで、識貴望。宇宙人だ」

 望はもう一度、包帯巻きの腕を僕に向かって差し出した。あとは言うまでもないだろう、とでも言いたげな、挑発的な視線を投げかけてくる。……その妖艶な宇宙人は、地球の男の口説き方を知っていた。

「キヅ・ナオト。樹木の木に、三重県県庁所在地の津、真っ直ぐな人で、木津直人。凡人だ」

 努めて平静を装いながら、僕は彼女の手を取った。おずおずと手をさしだす僕を見て、望はクックックッと愉快そうに笑った。

「そうか、君は生まれながらに"キズ"なんだね。それなのに、真っ直ぐな人でナオトなんて……君自身、真っ直ぐとは縁遠い性格なのに。いやあ、君の両親のネーミングセンスには感心するよ、縁起いいね」

 望は呵呵大笑すると、あーと呻きながらフェンスにもたれかかった。ひとしきり笑って疲れたのだろう、そのまま横になりながら、微笑んだままで僕を見た。その瞳は、一万光年先の銀河の闇を吸い込んだように真っ黒だった。

「それじゃあ今日から、君は私のキズだ」

 黒煙は、災厄の名残のように、薪をくべられた焔のように、延々と立ちのぼりつづけ、あの透明な膜をうっすらと汚していく。羽虫は死んでいた。淀んだ煙に燻されて、死んだのだ。

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