第3話
カッターナイフの転がる部屋に戻ってきて、葵と対面で座る。窓の外に広がる空みたいに少し暗くなった葵の表情。きっと、俺からの本当の言葉を待っているんだろう。
「俺さ、葵が羨ましいよ」
ちょっとした話から本題に繋げようかと思ったが、俺にそこまでの技術はなくて唐突に話を始めた。葵は、今の言葉に驚いて何か言いたげに口をもごもごさせている。前なら耐えきれずに話していただろうが、今日の葵は黙って続きの言葉を待っていた。
「葵をバカにする気はないんだけど、ずっと小さい頃から変わらない葵に嫉妬っていうか、何というか。そんな風に思ってた――」
葵は小さく頷きながら、時折、目に涙を浮かべて真剣に俺の話を聞いてくれた。
「まぁそれで、あんな風になった」
話し終えたとき、葵は素早く立ち上がって小さくなった俺を抱きしめた。
幼い頃に忘れてしまったぬくもり。葵の腕の中はとてもあったかくて、やさしくて、やわらかくて。気づけば俺の目からは涙が溢れてきていた。俺が嗚咽を漏らす度、葵は小さく頷いて俺の震える背中を優しく摩ってくれた。
「こんなに近くにいたのに、気づけなくてごめんね……」
葵は少し声を震わせながら、柔らかい言葉を紡ぐ。カラカラに乾いた地面に雨粒が落ちたような感覚。心がじんわりと解れて柔らかくなる。
「葵ね、修也はすっごく強い人だと思ってた。いつもみんなの真ん中で笑ってて、なんでも出来ちゃうヒーローみたいな、そんな人だと思ってた。だけど、違ったんだよね……。独りにさせちゃったよね。昔から独りで全部ぜんぶ解決しようとするの知ってたのに、甘えてばっかりで。本当にごめんね……」
葵の言葉でひどく胸が締め付けられる。葵にそのつもりがないのはよく分かってる。けど、謝られると俺の心はまた小さくなっていく。俺がもっと頑張っていれば。そう思ってしまう。
「こうやって葵が話してる時も、修也の心はギューってなってるよね……。『ごめんね』って言われると、なんだか申し訳なくなって、自分がもっとこうすればって思うよね……」
葵は俺の心がはっきりと見えているみたいに話す。抱きしめる腕の力が少し緩んで、葵が俺の目をまっすぐ見つめた。
「頑張り過ぎないでいこう? ゆっくり、マイペースで。急がず焦らず。ね?」
赤く腫れている目。鼻先にも少し朱色が乗っている。葵は俺のことを思って涙を流してくれたんだ。心に真正面から向き合ってくれたんだ。葵の顔を見て、そう思えた。
これまで、誰かに相談なんて出来なかった。相談しても『お前ならやれるよ』『修也君なら余裕でしょ?』そんな風に返されてきたからだ。俺は今話しているみんなと何も変わらないというのに……。心が切なくて、苦しくて。だから、独りで解決する道を選んだ。誰にも頼らず、前を向いてどっしりと。弱い人には寄り添って、話を聞いて――。優等生を演じてたんだ。
でも、そんなつまらない人生はもう辞めよう。周りの意見ばかりに流されて、自分じゃないジブンを作り上げて。そんな生き方は、今日で終わらせよう。
「俺、ゆっくり進んでもいいのかな……?」
消え入りそうな情けない鼻声で葵に聞く。葵は、目じりを柔らかく下げて優しく、
「良いんだよ。修也は修也のペースで」
そう言ってくれた。涙はもう出てこなかった。でもそれと引き換えに、感じたこともない感情が胸の中にフワッと浮かび上がってきた。心が風船みたいに軽くなって、わたあめみたいに甘くなった。この感情の正体。なんとなく予想はついたけど、今のうちは伏せておこう。
「じゃあ、約束しよう!」
葵は世紀の大発明でもしたのかというくらい嬉しそうな顔をして俺に言う。
「なにを?」
「もう頑張らないって。ゆっくり進むって」
葵は短い小指を柔らかく立てて、俺の前にそっと差し出した。
「わかったよ」
少し恥ずかしかったけど、俺は葵の小指に自分の小指を絡めた。葵の小さな手から、大きな優しさが伝わってくる。
「よし、終わり」
葵は嬉しそうに小指を離してそう言った。それから葵は、すごく大きな欠伸を零した。
「いっぱい泣いたら、葵、眠くなってきちゃった」
葵は涙を目に溜めて、俺の肩に凭れた。ほのかな重みが肩に乗る。少し前までは鬱陶しく思えていたけど、今日は心地よく感じる。
「おやすみ、葵」
小さく言った時には、既に葵は寝息を立てていた。幼い時と全く変わってない寝顔。愛おしくて、愛らしくて、子犬みたいなその顔を見て小さく微笑んで、自分もゆっくりと瞼を下ろした。
今までで一番しあわせな睡眠。右側の優しい温もりを大切に感じながら深く呼吸をすると、すぐに眠りに就けた。
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