ラヴ・オデッタ
去年のクリスマス、風景は白くなかった。気の弛んだ聖夜であった。最近では北海道とはいえ、珍しいことではない。
大雑把に説明すると冬、雪が多いのは北海道の南西エリアだ。それ以外の、右半分は雨も雪も少ない。その上地球温暖化の影響で、俺が住む北国の積雪シーズンも様変わりしてしまった。
やはり雪が降る期間は確実に短くなった。
トランプが気候変動に懐疑的なのは、おそらくご機嫌な空の下で暮らしてるからだろう。クソが。
俺は、年が明けて、なおかつ一週間前に降った大雪が見映えを変えた住宅街の中、仕事を終えて駅前のバス停まで一人で歩いていた。
仕事でクタクタだ。そして身体は油で汚れている。防寒してもかじかむ手指と足に耐えながら家路を急いだ。
今日も工場でコンクリートの建築資材を作った。そのとき、液状のコンクリートを流し込む前に、大きな鉄製の鋳型の内側に油を塗らなければならない。そうしなければ、固まったコンクリートと鋳型がくっついて、取り外せなくなってしまうのだった。
皿洗い用のスポンジに油を染み込ませ、厚手ゴム手袋を履いて作業をする。しかし、ゴム手袋のそで口から黒い油が入り込み、結局手は汚れる。だから手を洗っても洗っても指紋や手相の皺に、油がこびり付いた。
だから俺の身体からはいつも油の匂いがする。
そのまま俺は住宅街を抜け、駅方向へ幹線道路をトボトボ歩き続けた。するとしばらくして、後ろから車のクラクションが短く鳴った。
子供みたいな笑顔の女が、ボンネットが前に突き出たワニ頭みたいなワゴン車の運転席で、ハンドルを握っている。
彼女は一月前、詩の朗読会で出会った織原雪子だ。あれからちょくちょく、主にline でやり取りをしている。
「放っておけないよ」
俺の申し訳なさそうな礼の言葉に、雪子はそう答えた。車のドアを開け、雪子の隣にすわった俺は油に汚れた自分の体が気になった。
雪子の車に拾ってもらうのは今回が初めてではない。彼女の自宅マンションがこの辺りにあって、よく俺が仕事を終えて帰宅するときこの道で出会う。その度に雪子は俺を助手席に招き、そのまま駅まで送ってくれるのだった。
「よく車なしで生活出来るね」
雪子が半分驚愕して言った。
俺は自動車の運転免証を持っていない。市内の移動はもっぱら徒歩もしくは自転車かバスだ。たしかに車がないと不便だ。どういうことかと言うと、生前の父親がピックアップトラック車にとち狂っていた時期があった。だから俺は、その反動で車とは無縁の生活を送っている。
「ホントに北海道は車がないと生きていけないよ」
雪子がボヤく。
運転席は最新のDJ ブースのよう。雪子は重低音のエレクトリック音楽を鳴らしそうな勢いで、運転している。
led の街灯に浮かび上がる積もった雪は作りもののような質感。白雪姫にヒッチハイクされそうな夜。ワニ頭のワゴン車はおとぎ話の中を走る。
本当に春は来るのだろうか?
もしかすると、繰り返し雪が降り、永遠に冬が続くのかもしれない。
「六郎太って暇なとき何してんの?」
「エロ絵描いてる」
「え、まじ、見せて」
「いやだ、スマホの中に入ってるんだ」
「ふぅん」
雪子が黙りこくってしまった。俺は自分が怒らせてしまったか、とビビる。
「……どうした?」
「いや」
「巨石塔が私たちを見てる……そんな気がする」
また沈黙。
見ると我われは巨石塔を右手の至近距離にしながら、街中を車で走っている。
黒く巨大な塔が作る闇は、夜のそれとは別格だった。何というか、幸せ絶頂な誰かを不幸のどん底に突き落とすような感じ。実際、不吉に感じて巨石塔には近づかない人も住民の中にはいる。
とても大きな円錐の塔が街の中心に建っている。巨石塔。この街のシンボル。重い空気。
ワニ頭のワゴン車が向かったのは駅ではなかった。
俺と雪子は、この街の有名なデートスポットから街の夜景を見下ろす。
駅から遠い山の上にある公園。展望台もある。もともとは結核患者専用のサナトリウムがあった場所。一時はここにアミューズメントパークを作る計画もあったが、資金難から中止に。今はただの公園として市民や観光客に開放されている。街を一望出来て、遠くから近くから恋人たちが集まる。
近くで大学生らしき男たちが ふざけて never young beach の夏の歌を大合唱している。ふざけた野太い声が響く。
「ぎゃはははは」
「今、真冬だぞ、おい」
「今度の夏、サーフィン教えてくれ」
「クソ未来の話、そのころ俺はもう大阪の商社で働いてるよ」
「オマエの就職先、何輸入してるんだっけ?」
「うるせーな、東南アジアからコンドーム輸入してんだよ、悪いか!」
誰が誰なのかも解らず、男どもの声が聞こえて来る。
彼らの近くにあるのは、最新型の赤の Tesla 車だった。
「幼いころ、バレエを習っていたの。所属していた劇団で『白鳥の湖』を上演して、私、主役で踊ったの」
雪子が俺を見て微笑む。
「チャイコフスキーの白鳥の湖を聞くと、緊張して舞台に立ったことを思い出すんだ」
雪子が右手を空に掲げた。さりげなく目をつぶり頭を上げる。今もプリマドンナは健在だ。
「私の想い出の曲」
雪子は俺に心を開いてくれた。俺は興奮した。
「そうね、でも、そのころからアレはあったわね」
雪子は、巨石塔のことを言った。
俺と雪子は高台の展望台から遠くのそれをながめた。巨大な円錐形。今は夜の暗闇より黒く、我が街の中心地にそびえ立っている。
夜の街はどことなく静かだ。EV の普及のおかげで街の喧騒も変わった。遠くから聞こえる救急車のサイレンの音が、巨石塔の黒に吸い込まれる。
俺と雪子は巨石塔のせいで若者らしくはしゃぐのをあきらめた。
俺は帰宅してさっそく Apple Music でチャイコフスキーの白鳥の湖を聴いた。雪子の想い出の曲だ。彼女が幼少のころ、バレエの発表会で緊張のあまり膝をガクガク震わせながら聴いた音楽。
雪子の心の大切な部分にそっと触れるような気がした。俺は雪子と sex してるんじゃないかと錯覚した。
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