ビターテイスト・ホーム
不幸な女を見ると気が滅入る。
俺の母親がそうだった。彼女はいつも文句ばかりを言っていた。あれがイヤ、これがイヤ、と。最後は生きているのがイヤと病気になって死んでいった。急性進行の胃ガンだった。不幸な女の中の女、そう、その手の女王とも。
当時、そういう母親の姿を目の当たりにして、俺はとても気分が沈んだものだ。
原因は父親だ。
父親は身近にいる人々を不幸にするタイプの男だった。
父親の母、つまり俺の祖母は彼が18のときに自殺している。父親が18の誕生日を迎えた当日、彼女は首をくくったらしい。
「産まなきゃよかった」。これが父親の母の遺書。洗面所の鏡に口紅で走り書きされてた、と。ルージュの伝言だ。
たそがれる。
ある日、父親といっしょに夕焼けを見る機会があった。確か父親に誘われたんだと思う。俺たちは夕刻、近所を散歩した。あれは俺が、高校卒業後の進路のことで、メンタルをヤラレていたころだ。
そのとき、父親は彼自身の生い立ちを教えてくれた。
父親は幼いころ札幌の大きなホテルで迷子になったという。
あるお姉さんに助けられた、と。お姉さんは笑顔でとても柔らかい態度だった、と。当時の父親にはそのお姉さんの背中に羽根があり、頭上にはリングが浮かんでいるように見えた、とも言った。
夏休みの家族旅行。見知らぬ街、自由、みんなの笑顔。
迷路のような巨大ホテルの内部で家族を見失う幼児の父親。
「あれから私は、ホテルに取り憑かれてしまった」
その通りだった。父親は自分でホテルを経営するために、家族を
ホテル内で迷子になった父親を助けたお姉さんが、ホテルの従業員だったのか、単なる客だったのか、今となっては不明だ。
「別に受験勉強していい大学に入る必要はないよ」
「それより」
「……それより、誰かが道に迷って困っていたら、やさしく助けてあげられるような人間になってくれ」
父親がハゲた頭で夕焼けを反射させながら言った。
高台の遊歩道から見た風景。空全体がオレンジ色だった。遠くの山々の向こうにある太陽がいっそう輝いている。すべての東側が影になり暗い。それがなおさらに西の空を燃やしているかのようだった。懐かしい。
今は複雑な心境だ。
父親には俺が幼いころよく頭を殴られた。だから嫌いだった。
しかし晩年、父親はすっかり人のいいオヤジさんになっていた。
父親は俺が高校生のとき、天国へ逝った。
若いころ、父親は小さなホテルを経営していた。
だが駅前再開発計画を前に父親のホテルは、全国チェーンホテルを展開していた大企業に乗っ取られてしまった。優良立地と田舎ホテルの経営ノウハウをただ同然でむしり取られた。とはいえ、父親が抱えていたすべての借金も肩代わりしてくれたので大げさに騒げないが。
それからは、昼間から酒を飲みながらエドワード・エルガーを聴くのが日課だった。書斎で、黒い革張りの一人掛けイスにすわる父親はいつも酔っていた。そして、ふて寝しながら、大音量で『威風堂々』を聴くのだった。
最近、俺はマハラージャンやKitri 、植田真梨恵……いわゆるJ-POP に飽きると、たまにエドワード・エルガーを聴く。
誰かに、あんな激しい感情を抱くことはもうないだろう。今でも悩む。父親を愛すべきか、憎むべきか、と。
母親はいい迷惑だったろう。
父親は反社会的組織から違法な借金をしていた時期がある。
ある日、スーパーマーケットへ買い物に行った母親がなかなか帰って来なかった。
珍しく自宅の卓上型電話機が鳴って母親が暴力団員らに誘拐されたことを知る。
「ママを救いたければ借金を返せ」と。ところが母親は監禁されていた暴力団事務所で貧血を起こしぶっ倒れてしまった。翌朝、困った誘拐犯らが母親を連れて我が家を訪ねてきた。「勘弁してくれ」だと。
そのころ父親は、彼のホテルに併設されたレストランの女支配人と痴話喧嘩していたという。
不幸な女を見ると気が滅入る。
だから俺は instagram で幸せそうな女たちを見るのが好きだった。インフルエンサーたちはスマホの電源を切っているとき、摂食障害のせいで、便器に頭を突っ込み嘔吐しているのかもしれない。それでも俺はキラキラした嘘に騙されていたかった。
たそがれる。
人生は幸福と不幸の繰り返しだ。いいことがあれば、悪いこともある。父親と母親からは天国と地獄を経てもなお生きのびる術を学んだように思う。彼らが特別何かを教えてくれたわけではけれど。俺のライフスタイルに両親の生き様の影響があることは否定出来ない。
たそがれる。そう、人生はたそがれの連続なのだ。少なくとも俺みたいな祭りのあとを生きる人間にはね。
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