鯉が登る

牛尾 仁成

鯉が登る

「どうして鯉のぼりって言うか、知ってるか?」


 すっかり日の短くなった教室を夜が取り巻く頃、西島は教室の電気を付けながら、後ろにいる僕に目掛けて言った。


 僕は誰もいない教室の自席に荷物を置くと買ってきたミルクティーの紙パックを開けて、努めてそっけなく知らないと答えた。


 西島は得意げな顔で、頼んでもいないのに説明を始める。


「ことわざに『鯉の滝登り』ってのがある。鯉が滝をのぼって門を通れば、その鯉は竜となるっていうヤツだ。この『登り』と旗竿に掲げる『のぼり』をかけた縁起物として、鯉のぼりと言うんだ」

「へぇ~、西島さんってば物知りでござんすねぇ」


 3年生も夏と秋が終わり、この西島も含め部活組はいよいよ受験に向けて本気を出し始める今日この頃。3年間、みっちりと部活に体力も知力も総動員してきた彼らは恐るべきスピードとスタミナで受験へと参戦していた。


 当初、僕はそれが意味するところをさして考えもしなかったのだが、最近になって脳みそが野球で一杯だった西島が妙にアカデミックなことをしゃべり始めて面食らうことがあった。コイツは確実に知恵を付けてきている。先週出た模試の点数が明らかに跳ね上がっていて、僕は少し焦った。


 いや、少しじゃない。かなり焦った。ほとんどと言っていいほど、西島の学力は僕に追いつき始めていたからだ。だから、僕は差を付けられないようにと放課後の教室で自習に励もうとした。なのに、だ。


「で? 野球部のエースがしがないクラスメイトその1を捕まえて話すのは鯉のぼりの由来だけなの?」

「えっ? 他のも聞きたい?」

「いや、そうじゃなくて。僕はこれから自習をしようと思っていたんだ。悪いけどおしゃべりには付き合えないよ」


 僕の言葉にトゲを感じたのか、西島は屈託なく「おう、悪いな。邪魔して」と言って、自分の席に座った。どうやら彼も自習をする気らしい。


 しばらくはシャーペンが走る音と紙をめくる音、そしてカチコチと時計の針が律儀に時を刻む音のみが教室を満たした。


 集中すると時間を忘れがちになる僕は、実は西島が僕の隣の席にまで来ていたことに気づいていなかった。それに気づいたのは、視界の端に長い脚の白い靴のつま先が見えたからだった。


 西島は参考書を片手にこちらを少しきまり悪そうに見ていた。


「な、なに?」

「集中しているところスマン。ちょっといいか」


 いつでも明るい西島にしては珍しく、真剣な言い方だった。その態度に僕は思わずシャーペンを置いて向き合った。今度はただの雑談ではなさそうだ。


 西島が言うには、どうも集中力が続かないらしい。部活と違って体を動かすわけでは無いから、すぐに飽きてしまうそうだ。1~2時間集中して勉強したら休んで、ゲームとか漫画を読んでしまう。ちょっとだけ、と思っても1~2時間ぐらい無駄にしてしまい、結局勉強時間を稼げない。仕方がないから夜中まで、3時近くまでするそうだが、そうすると日中に眠くなるらしい。


「日下ってメッチャ集中して勉強してんじゃん。日中寝てるとこ見たことないし、自習室から10時間近く出てこないって話、結構有名なの知ってるか? 何か集中のコツとか、良かったら教えてもらえないかなーって」


 この時、ふと僕の頭にある考えがよぎった。


 受験のライバルになる相手に塩を送ってやることはない、と。


 何か適当なことを吹き込んで、そのまま放っておけばこれ以上、差を詰められることは無い。ただでさえ体力自慢なのだから、これ以上勉強の効率化や手法の整理なんてさせたら手に負えなくなる。


 なんとか、鯉のままでいてもらいたかった。


「……ずっと苦手な科目をやり続けるのは辛いから、一問とか一単元とかやったら次は得意科目に逃げるかな。んで、得意科目をさらーってやって気が済んだら、また苦手科目に戻る。こっちの方が休憩挟んで抜け出せなくなるよりかは、効率が良いんじゃない?」


 僕のちっぽけなアドバイスをふんふん、と大型犬のように聞き取ると西島は日焼けが抜けてきた顔を綻ばせた。


「そうか、なるほどな。ありがとう! これでもっと勉強がはかどるよ」

「いいえ、大したアドバイスにもならず」

「メッチャ参考になったって! 卑屈過ぎる性格は直した方がいいぞ」

「昔からですから」


 僕はそう言って、窓際に置いてあったミルクティーを一口飲んだ。


 鯉のままで、というのは我ながら何ともちっぽけな願望だ。コイツはそういうタマじゃない。西島は鯉は鯉でも輝く鯉だ。僕程度にアドバイスなんてもらわなくても、自力で僕を追い越して行くだろう。なんだったら、僕以外の人からアドバイスをもらえるはずだ。人柄の良さとか親しみの持てるキャラクターを周囲に認知されている。それも彼がこの3年間で積み上げてきた紛れもない人間力という奴だ。それらをフルに使って、西島は更に学力を伸ばすだろう。


 では、僕はどうだ。僕には西島の様な体力も無いし、取っつきやすい性格というわけでもない。要は人間力は低い。じゃあ、僕には何があるんだろう。


 僕は鯉だ。それも泥臭く、目立たない鯉。竜にはなれず、池を泳ぐだけの鯉だ。


 でも、鯉は鯉なりに生きてきた。遊びはしたが、遊びに夢中になることはなくコンスタントに勉学を重ねてきた。そして僕にはこの集中力がある。それをもっと高めればいいだけだ。それしかないのなら、それをもっと伸ばしてやる。


「西島くんは要領は悪くないから、すぐに伸びるよ」

 

 僕は努めてそっけなく、かつトゲが入らないように気を付けながら言った。

 そう言いながら、自分の口の端が吊り上がりそうになるのを必死に抑える。


 そうだ、何もまだ僕が竜になれないと決まったわけでもない。

 

 まして、竜が2匹になってはいけない道理もない。


 泥臭い鯉も、滝に挑む権利ぐらいはあるんだ。


 西島が帰った後も、僕は自分の席を立たなかった。

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鯉が登る 牛尾 仁成 @hitonariushio

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