第2話歌垣

「いやあ、馳走ちそうになった」

腹鼓を打ちながら、神祖尊みおやのみことは、満足そうに言った。


「気に入っていただけて、幸甚こうじんです」

「こちらこそ、急に来て、手間を取らせたな」

「なんの、久しぶりに、杯を交わせて、喜んでおりますよ」


「おや? なにやら外が騒がしいな」

神祖尊は、外がザワついているのに気がついた。


 夜の山中には、人の気配などないのが常である。猪や野犬でもあれば、もう少し密やかに動くことだろう。

ザワザワと草を分けるような音と、人の話し声、熱気のようなものが伝わってきていた。


「ああ、神祖尊が御山を言祝ことほいで下さったので、喜んだ民が集まってきたのでしょう。 それに、今夜は新嘗祭になめさいですから」


「ふむ、新嘗の夜に何かあるのか?」

「ええ、歌垣かがいですよ」

「歌垣か」


「豊かな収穫に感謝する新嘗の晩に、近隣の若い男女が、御山に集まって楽しむ祭りです」

「ほう」


「筑波岳は、頂上いただきが二つありまして。高い方に伊弉諾尊いざなぎのみこと、低い方に伊弉冊尊いざなみのみことの夫婦神をお祀りしています。そのご縁もありまして、男女の出会いの場となっています。

火を焚いてそのまわりに集まり、歌ったり踊ったり。見初めた相手があれば歌を交わし…… そして、お互いが気に入れば、木立の中に消えるのが習いです」


「なるほどな、豊穣にあやかって子孫繁栄か」

「そうです。人の子とは、大らかなものです」


「そなたは行かぬのか?」

神祖尊は、少しニヤつきながら、筑波岳つくばのやまの神に言った。


「若い頃は、参りましたよ」

筑波岳の神は、肩をすくめた。


「見初めた娘もおりましたけれど、なにしろこの神気なもので、人は神気に飲まれて、声をかける前に気を失ってしまいます」

「それは、困ったね」


「まあ、私はいいのですよ。それよりも神祖尊は、様子を見に行ってみたらどうですか? 興味がおありでしょう」

「まあな、人のようすは気にかかる」


 朗らかに笑い合う二神であったが、そもそも神々の交わりは、人のそれとはまったく違う。


彼らは肉体を持たず、言わば霊体とでもいうべき存在であるから、神気の交換が、人で言うところの結婚に当たる。触れあう必要がないのだ。


「せっかくの宵だ、ちと見てみよう」

神祖尊は、好奇心に駆られて、やしろの外へ出てみることにした。



 外気は冷たかったが、よく晴れていて、満天の星が輝いていた。

火が焚かれているのは一箇所だけでなく、あちこちに点々と炎が上がっていた。


 その火を囲むようにして、複数の人が集まり、歌う声や、足を踏みならして踊る気配、笛の、手拍子のおと、はやし立てるような笑い声などが、静かな山の中に響いていた。


 神祖尊は、賑やかなのが嫌いではない。むしろ、民草たみぐさが無邪気に笑っているのを見るのが好きだ。

仲間に入ろうかと近づこうとして、待てよと思い直した。


 筑波岳の神も言っていたではないか。神気が強すぎると、民は気を失ってしまうと。

楽しんでいる民の邪魔をしてはまずい。


 神祖尊は、神気をゆるめ、人からは気づかれぬよう、気配を隠して近づいた。


そして、火の側にそっと座り、人の様子を眺めて楽しんだ。


 屈託なく話し合う男女がいれば、別のところでは、はにかんで背を向け合う者もいる。


 おどけて気を惹こうとする男、しなを作って気をもたせる女、手を取り合って頬を寄せている者もあれば、うまく行かなかったのだろう、怒って地団駄を踏んでいる者もいる。


人の交流とは、面白いものだと、神祖尊は思った。


 やがて、ひと組消え、またひと組が去り、しだいに人の姿がまばらになり、燃え続けている火と、気配を隠している神祖尊だけが残った。


 この頃の日本ひのもとは、現代のような結婚制度はなかった。結婚して夫婦が一緒に住み、生活することは滅多になく、夫が妻の家に通う「通い婚」が普通だった。


 そのため、歌垣で生まれた子の父親がわからない場合でも、母親の家と地域が立派に育てる。いわゆる女系家族が一般的であった。


「さて、誰もいなくなってしまったし、戻るか」


 神祖尊は立ち上がり、やしろに帰ろうと後を振り返った。


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