第19話

 夕実ゆみは兄のタケルより早く帰宅し、部屋で着替えをしていた。

 玄関に兄の靴はなかったのに、隣の兄の部屋から物音が聞こえることを不思議に思い、夕実は声をかけてみた。

 予想通り兄の返事はなかったが、気になって部屋を覗いてみると、知らない女の人が兄のベッドの上にいた。


 あんぐりと口を開けたままの夕実の前で、女は起き上がって何かを探すようにキョロキョロしていたが、夕実が話しかけようとすると部屋の窓から出て行こうとした。


「ちょ、ちょっと! ここ二階だよ! 危ないよ」

「私は兵器」

「平気じゃないよ、落ちたらケガするし。それに、二階の窓から女の子が出入りしてたなんて知れたら、私がガッコで困るんだから」


 謎の女が窓にかけようとした足を引っ張り戻し、どうにか部屋に落ち着かせると、夕実は相手をまじまじと見つめた。


 かつら、だよね。

 ピンク色のウィッグ、見てる方が恥ずかしいほど丈の短いミニスカート、そしてモデルのようなスタイル。

 まるで人形みたいだ。

 どこかで見た覚えがあるような気がして、本棚にある兄がリリィと呼んだフィギュアに目をやった。


「アナタ、ナニ?」

「え?」

 いきなり話しかけられた。

「アナタ、ナニ?」

「……」

 また同じ質問。それにさっきから発音が変だ。もしかして、日本人じゃないの?


「えーと、それは私が先に聞きたいんですけど」

「……?」

 あれ? 通じなかったのかな?

「わたしはお兄ちゃんの、じゃなくて、兄の、いもうとでーす。それも変か……えと兄のタケルの妹、あれ?」

「イモウト」

「イエス、イエス! ザッツ、ライト。いもうと、イズ、シスター、オーケー?」

 夕実は部屋の壁にあったホワイトボードに漢字で妹と書き、文字をトントンと叩いて説明した。

「?」

 あれ? またポカンてしてる。英語じゃダメだった? それとも私の発音のせい?

 

「あなたは、たける?」

「ノー、ノー。タケルは、オニイサンでーす」


 ダメだ。この人全然話が通じない。まごまごしてるとこの人また……。


「ちょ、ちょっと待って! 窓から出ようとしないでってば」


 はあ、どうしよう。お兄ちゃんすぐ帰ってくるよね。それまでなんとか引き留めて、お兄ちゃんにこの人のこと問い詰めないと。っていうかこの人、お兄ちゃんとどういう関係なの? ベッドの上にこんなカッコで……、いやいやいや、お兄ちゃんに限ってそんな。

 それに、なんでお兄ちゃんまだ学校から帰ってないのに部屋にいるの? まさか、昨日の夜から? ううん、今朝私が起こしにきたときは誰もいなかったはず。


 ピンク髪の女は、夕実が握っている腕を振り払おうともせず、タケルの部屋を観察するようにキョロキョロしていた。フィギュアを興味深そうに眺めたり、ゲーム機とケーブルでつながっているコントローラーをつかもうと手を伸ばしたりしていた。


 あれ? この白い腕って。


 夕実は陶器のような白い腕に見覚えがあった。

 今朝兄を起こしにきたとき、ベッドの下に白い棒が転がっていたことを思い出した。夕実はそれを、隙間掃除用のモップか何かだと思っていた。


「うわー!! ムリムリムリムリ、ムリだからー!」


 自分の記憶の中からホラー映画のように登場した女に恐怖して夕実は叫んだ。

 しかし次の瞬間、夕実はピンク髪の女に両手で顔をつかまれた。


「へにゅっ!」


 女は夕実の顔を覗き込んだが、顔というよりも、口や喉を観察しているみたいだった。


「音声の解析完了」

「え、なんなの!?」

「私は兵器」

「あなたの調子は聞いてません! なんなの、いったい?」

 夕実はいきなり顔を掴まれて不機嫌そうに言った。頬を両側から圧迫されているので、マンガみたいなふくれっ面になっている。


「えっとさ、あなた、ゲームやりたいの? さっきゲームに手を伸ばしてたけど」

「ゲーム?」

「そう」

 夕実はピンク髪の女が力を抜いた隙に、その手から逃れてコントローラーを掴み、彼女の手に握らせた。


 そうだ。この人にゲームをやらせておけば、そのうち兄が帰ってくるだろう。そうしたらこの女の人のことを兄に問い詰めればいい。


「私と、勝負してみる?」

「勝負……なら負けない」

「ふふん、じゃあ決まりね」


 こうして、妹と地雷女のゲームが始まったのだった。しかしゲーム機の電源を入れて最初に画面に表示されたのは、可愛い女の子がたくさん描かれた変なタイトルのゲームだった。




 以上がタケルが帰宅する前に起こっていた出来事である。

 タケルはそのゲームがちょっとエッチな恋愛シミュレーションゲームで、しかも最悪なことに妹ルートに進んでいることに気づいた。主人公と妹の、ぷっちゅんラブラブなキスシーンだけは妹に見せるわけにはいかないと、タケルは必死に夕実の注意を引こうとしていた――



 ゲーム画面内で、今まさに唇を奪われる覚悟を決めた主人公の妹が、唇を半開きにして目をつぶった。


 しかたない。ここは力づくで!

 僕は夕実のわきの下をつかんで力づくで立たせ、半回転させて自分に向き直らせる。


「ちょ、ちょっと! お兄ちゃん、すごく強引」

「夕実……」

「え? な、なに!?」


 夕実はすごい力で自分の肩を抱き、顔を近づけてくる兄に怖気づいていた。兄を異性と意識したことなどないはずなのに、強引に引き寄せられたことに動揺しているせいか、胸がドキドキして、まるで初めて男性にせまられて体を震わせるヒロインのような、すごく変な気持ちになっていた。


「じ、実はさ、夕実。お前と、ひ、秘密を共有したい」

「ひ、秘密!?」

「そうだ、父さんや母さんには秘密の」

「え? ちょっと冗談はヤメ――」

「冗談なもんか。真剣なんだ」

「し、しんけん、って。だ、ダメだよ、そんな」


 ゲーム画面内ではついにキスが始まっていた。

 ダメだよお兄ちゃん、というセリフとともに、ちゅっちゅっという悩ましい音と吐息が、妹の背後から聞こえ始める。妹がその音を気にして振り向こうとするのを、両手で顔を押さえつけて止めた。


「へにゅ!」


 本日二度目の両手プレス。

 夕実の顔はまたマンガみたいにふくれた。


 タケルが力を入れて妹の顔を引っ張ったので、夕実はつま先立ちになって兄の体にピタリと引き寄せられた。


「まわりなんか気にするな! 僕だけを見て」

「ぅえ、ぅえええー!? はっへ、ふひほいひほは(だって、後ろに人が)! それになんか変な声も、ひゅにゅ!」


 ゲーム画面では、妹がエビぞりで主人公に体を預けてキスをしていた。まるでミュージカルの宣伝ポスターみたいに。


「ぼ、僕は夕実だけを見てるぞ。お前はどうなんだ?」

「わ、わたしは。じゃなくて! 兄妹で。だ、ダメだよ」

「いいや! 僕は夕実だけだ! 夕実だけだー」


 恥ずかしい音声を妹に聞かせまいとセリフを引き延ばす。セリフを歌で話すミュージカルみたいだ。


「にゃーん」

 そのとき、まるでサイレンを聞いた犬が遠吠えするように、子猫がひと際大きな声で鳴いた。


「そう、この子猫を預かっていてほしい」

「ふえ?」

「実はこの子猫、飼い主にいじめられて逃げてきたらしいんだ」

「さっき、飼い主はこの人だって」

「そう、仮の飼い主だ。本当の飼い主は空気銃を振り回してペットを虐待するような奴でさ。そんな飼い主から逃げてる時に、この猫は川に落ちて溺れた。その猫を助けた僕がこの女の人に預けた。彼女は僕に子猫を返しに来てくれたんだ」

「でも、うちじゃお父さんが、へにゅ!」

 思わず妹の顔を掴んだ手に力がこもった。


「わかってる! わかってるさ! 父さんは子供の頃、猫に引っかかれてから犬派に改宗かいしゅうした。だから、とりあえず夕実の部屋で預かってくれないか? 父さん母さんにばれないように。その間に、この女の人には帰ってもらうから」

「ああそう、この人は優しい人だったんだね」

「その通り、それじゃ作戦を開始しよう。夕実は部屋に戻って子猫が落ち着けるカゴを用意して」

「わかった、わかったから、もう手を離して」


 妹はやっと兄の手から解放されると、つま先立ちだった足を戻してため息をついた。


「夕実、大丈夫?」

「妹をもてあそんだ罪は、この子に免じて許してあげる」

 夕実は自分の顔を見て甘える子猫の頭をなでながら言った。

「もてあそんだ? 誰が」


 そして妹は兄をキッとにらんでから、子猫を大切そうに抱きしめてタケルの部屋から出て行った。

 そんな妹の背中を、僕はいたわるように見つめた。


「だましてごめん。これも夕実を危険な女から守るためなんだ」

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