第4話

 増水した川の中を歩くのは、まるで強風の中で綱渡りしているみたいだった。風に負けないように体を傾けると、そこに風をはらんで体が浮き上がりそうになるんだ。


 糸の切れた凧みたいに飛んでって、二度と帰ってこれないなんて遠慮したい。

 流されないように。浮かないように。足をすくわれないように。

 慎重に……。慎重に……。


「どわっ!」


 足元の石がグラついてバランスを崩した。でも両手で水をたたいて派手な水しぶきをあげながら、なんとか持ちこたえた。男子高校生が川で溺死という新聞記事が頭をよぎったよ。


 でも、なぜだか僕は死ぬかもしれないという恐怖よりも、初めて空を飛べたみたいな喜びを感じていたんだ。

 ああ、これが二度目の兆候かな。


 水面ばかり見ていたら平衡感覚を失って回転する洗濯機の中を泳いでいるみたいな気分になった。僕は自分のジャイロセンサーをリセットするために周囲を見渡す。すると少し上流の空中に吊り橋がかかっているのが見えたんだ。


 まあその時は、自分がそこから飛び降りることになるなんて思ってなかったけど。


 次の一歩を踏み出した時だ。

 石が浮き上がって僕の足を持ち上げたんだ。僕はその足を無理に戻すことなく、体をひねって片方の足でなんとか体を支えた。

 流れに逆らった動きをすれば、一気に体がもっていかれるからね。



 向こう岸に着いたとき、僕はなんで自分がズボンも履かずにパンツ姿なのか、川を渡って何をしていたのか、まるで思い出せないほどヘトヘトだった。

 親猫の顔を見てやっと思い出した。すぐに上着をほどいて子猫を出してやったよ。

 親猫はそれを待っていたように、一匹ずつ子猫の首根っこをくわえて離れた場所に運んでいった。

 二匹目をくわえた親猫を見送ったあと、僕はその場に倒れて目を閉じた。


 不思議な感覚だったね。

 さっきまで死にそうな目にあってたっていうのに、助かったっていう感動も達成感もない。

 でも何もかもから解放される心地よさみたいなものを、確かに感じたんだ。



 それからの記憶があいまいなんだけど……。

 えっと、そうだ。僕は一人の女の子のことを考えながら獣道を歩いてた。彼女の名前は小原朋美こはらともみ。中学のころから僕が片思いしてた女の子だ。たった一度だけだったけど……デートもした。まあ結局フラれちゃったんだけどね……。

 あれ? おかしいな。

 小原さんのことを思い出そうとするとノイズみたいなものが入るようになったぞ。

 彼女のことを思い出すと胸が痛くて痛くてしかたがなかったはずなのに、その痛みも消えようとしている。


 ああそうか。

 これは走馬灯なんだ。

 そろそろ時間切れってことなんだね。


 そして気が付いたら僕は例の吊り橋の上にいた。

 しかも手すりのに。

 そのあとは最初に話した通りだよ。

 僕は吊り橋から落ちて桃に激突した。


 さようなら現世、そしてこんにちは次の世界。



「ゴホッゴホッ……ごほ」


 僕の体は何かを吐き出そうとして覚醒した。でも体力が足りないのか、僕はうずくまるようにして重力の助けを借りなきゃならなかった。


 口から吐き出したのはゼリーみたいな白い粘液だ。


「なんだこれ?」


 指から糸を引いて流れ落ちる液体は、よく見ると体中に付着している。まるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいだ。


 天国に到着したら白い光に包まれて穏やかに目覚める、なんて思ってたのに、とんだ見込み違いだ。天国に来てまでこんな苦しい思いをしなきゃならないなんて先が思いやられるなあと思っていると、耳に詰まっていたゼリーが抜けたのか、川の音が聞こえてきた。


「は?」


 はっとして顔を上げると、巨大な桃色の球体が鎮座していた。

 まるで僕に見られるのを待っていたように、球体がガクガクと揺れて地面を揺らす。そしてゆっくりと、みかんの皮をむくみたいに桃の上部が開き始めた。

 中は半透明の物体が詰まっていた。

 その中には複数の未来ガジェット的な機械がワイヤーでつながれて浮遊していて、まるでクリスマスツリーに巻きつけるイルミネーションみたいだ。いや、この不気味さは子供のころに衝撃を持って観察したカエルの卵の方が近いかもしれない。


 僕は口をパクパクさせた。

 だってこんな場面で言うべき言葉なんて思いつかないじゃないか。


 でもこの先、僕はもっと驚くことになる。

 目の前にあるのは大きな桃なんだから、あの可能性を忘れちゃいけなかった。

 そう、元気な裸の男の子が出てくる可能性だ。


 まあ実際に出てきたのは、裸は裸でも女の子だったけどね。

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