第2話

「おにいちゃーん」


 これは……。

 そうだね、今朝家を出た時だ。


 僕が水曜授業のいつもより少し軽いバッグと、まだ着慣れない高校のブレザーの上着を背中に下げて階段をおりると『走るな』と書かれた文字が目に入った。

 学校の廊下に貼ってあるようなこの紙は、何日か前に僕がおこした事故のあとに妹が書いたものだ。

 いや、別に走ってたってわけじゃないんだよ?

 ただフラフラ~っと一歩階段を降りたら、そのままドタドタ~って倒れそうになりながら進んで、階段の曲がり角に激突したってだけ。


「おにいちゃんってばー」


 掃き掃除が終わったばかりの玄関で、かしこまった感じに並んでいる家族の靴の中から自分のものを選び、つっかけたまま外に出ようとした僕の背中に固いものがあたった。


「うっ!?」

「動くな!」


 振り向いたら、この春から中3になった妹の夕実が装填済みの指鉄砲をこちらに向けて立っていた。去年まで僕が通っていた中学の制服を着ている。

 いつ見ても『お前はマンガかラノベの妹系ヒロインか』と突っ込みたくなるほどセーラー服がよく似合っているけれど、それを本人の前で口にする勇気はない。

 ヒロインなんて言葉を当てはめてしまったら、まるで僕が妹を恋愛対象として見ているみたいじゃないか。


「これ、食べた後はちゃんと持って帰ってくること!」


 夕実は水色のハンカチに包まれた弁当箱を僕に突き出した。


「夕実、お前そのスカート短すぎじゃね?」

「それ、妹がわざわざ早起きして作ったありがたーいお弁当を受け取りながらいうセリフ?」


 共働きで両親が留守がちな我が家では、妹が二人分の弁当を用意してくれている。

 正直、自分だけ家族の中で役に立っていないことを指摘されているようで、お兄ちゃんはチクチクした気分になるぞ。


「私のはねえ、脚がスラっと長いから短く見えるんだよ」


 片足を膝で折り曲げながら高く持ち上げ、目の前で自慢げに揺らす夕実。

 なるほど。最近身長が伸びたと思ったけど、その分足が伸びたというわけか。


「素足だから長く見えるだけじゃないか?」


 まじまじと足を見つめると、顔を少し赤く染めてさりげなくスカートの前を押さえる。そこで初めて妹が僕を元気づけようと無理をしているのがわかった。


「それじゃありがたくちょうだいいたしますよ」

「ちょっと、何その棒読みな言い方。お礼くらいちゃんと言っても罰は当たらないぞ」


 夕実の言葉を無視して家を出ようとして、ふと思いついて足を止める。


「ホントありがと。それと、いつもごめんな」


 言い終わらないうちに玄関の扉が閉まった。

 夕実が何か言おうと息を吸い込んだ音と、ドアから漏れる空気の音が重なった。


 外に出た瞬間、まるでシャッターが下りるように周囲が暗くなった。

 見上げると、ちょうど太陽が厚い雲に隠れるところで、ゴロゴロと雷の音が空気を震わせている。


 傘持ってない、と思ったのとほぼ同時だった。

 夕実が裸足のまま、音もたてずに走ってきた。


「パス」


 妹の両手が強く握りしめた折りたたみ傘を、背中に伸ばした手のひらで受け取った。


「サンキュー」

「ねえ」

「ん?」

「あの……ほんとに大丈夫? 学校一人で行ける? 私が付き添ってあげよっか? もしね、た、体調悪いんだったら、私が学校休んで看病するから」


 夕実は傘を離さず、僕の答えを待っている。

 妹の声が震えているのに気づいて胸がいっぱいになった。


「何言ってんだ。大丈夫だよ」


 僕はようやくそれだけ言って、力の抜けた妹の手から傘を引き抜いて歩き出した。


 結果から言うと、僕は妹にウソをついたことになるね。

 だって僕はその日学校には行かず、かわりにつり橋から飛び降りて流れていた桃に激突しちゃったんだから。

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