第39話 歌に勝る

 夢のような、安里純子のラストライブから数日が経った。


 雪の降りはしばらく大人しいようだが、相変わらず極寒のマイナス気温には変わりない。


 小町を含む、菜月の言霊に操られた村人達は以前の〝正常〟な意識を取り戻し、自分達の生活へと戻っていった。

 バイオプラントも今は正常に機能している。


 和久は毎日、村を回って人々の生活を確認した後、毒物館を訪れていた。

 今日も毒物館は敬虔な静謐に包まれている。


 入り口から館長室の前まで、一直線に和久はやってきた。


 どうせノックをしても返事は無い。

 勝手に扉を開けて中に入ると、ぐったりとソファにもたれかかって虚空を見つめる冬と、その傍らで心地よさそうにとぐろを巻いた、バジルの姿があった。


 テーブルには緑茶が置かれているが、湯気も立っていないところを見ると、完全に冷めてしまっているのだろう。


 あの日から一人一人、休む間も無く村人達にかけられた暗示を解毒していった冬は、疲労から殆ど動けなくなっていた。

 冬の蠱毒の力は、事後処理には向いていない。


 体力以上に、冬の精神は非道く疲弊していた。

 冬が最も忌み嫌う理不尽な凶事である、村人の連続死が、冬の心を苛んでいた。


 罪の無いプラント農家の男の事故死。


 自分と村人が愛する歌手の自死。


 そして冬自らが手を下した、まだ年端も行かぬ少年。


 冬が村人に望む、自然の成り行きの末である死が、そこには一つも無い。

 冬が落ち込むのも当然だった。


 父を失ったあの少年はバイオプラントで働くことを望んでいたが、結局母親が代わりに働くことになった。

 幸いなことに、母親が家にいない間は少年の面倒を見る、と小町とその両親が申し出てくれた。


 小町も弟が出来たことを喜んでいる。


 山王Z村の村人は、隣人に優しい。


 それだけが救いだった。 


 和久が無言でソファに腰掛けると、さえずりのような声が聴こえた。

 呆然としているのかと思った冬が、歌を口ずさんでいたのだ。


『Kyrie eleison ……立ちていて、たどきも知らず、Agnus Dei……我が心天(あま)つ空なり、土は踏めども……』


 菜月が最後に冬に捧げた、あの、冬が最も好きな歌だ。


「気に入ってるんだな、その歌。また言霊とやらでおかしくなっても知らんぞ」


「だからー、あの言霊ってのは菜月くんと純子さんの二人じゃないと使えないってば」


 気怠そうに冬は呻く。


「本当に好きだったのにな、あの歌。懐かしくて、落ち着いて……」


「お前のために作られた歌、らしーからな」


「んー……でもそれだけなのかな、って思う」


「…………」


 押し黙る和久は、冬の疑問を恐れていた。


「私の蠱毒の力は、お父さんに村を守るために与えられたものだけど、菜月くんの言霊の力は、どうして急に目覚めちゃったんだろ?」


「偶然だろ」


「それとさ、私ならまだしも、和久にも言霊が全く効かなかったのはどうしてだろ?」


 冬はぷらんぷらんと首を傾げ続ける。

 いくつもの疑問によって動かされた振り子が止まらなくなっていた。


「だからそれは、俺が外から来た人間で、くだらねー音楽なんかに全く興味が無かったからだろ……俺はお前らバカ村人とは、言葉の感覚がかなり違うらしーからな」


「そうかなあ。そういう問題かなあ……あのさ、バジルにも言霊は効かなかったよね?」


「そりゃ、バジルはケダモノだからな」


 ぴくりとかま首をもたげたバジルを、どうどう、と和久は手で制した。

 この毒蛇は、冬以上に地獄耳であるらしい。


 冬が朗らかに笑う。

 バジルの反応に、心を少しだけほだされたようだ。


「あのね。私が和久を助けに行った時、何匹かネズミが襲いかかってきたんだよ」


「ネズミ? 雪の中でか?」


「うん。あれ、多分菜月くんの歌に反応してたんだと思う。言霊の力は汎用性が強い、って菜月くんも言ってたよね。音楽と一体になった言霊は、動物だろうと効果があるんじゃないかなあ――ねえ、なんで和久とバジルだけ全然効かなかったの?」


 ねえねえ、と疲れを忘れたかのように冬は身を乗り出してきた。


 和久はその追求から逃げるように、顔を背けて誤魔化す。


「分かんねーって。自分の足りない頭で考えろよ、愚鈍ミドゴリのドクヅメ女」


「なんか、またいっぱい毒舌が混ざってる! ふん。もう訊かないよ。和久のバカやろ」


 冬はふうっ、と一際大きなため息を吐いて、再びソファにもたれかかってしまった。

 考えるのに疲れてしまったようだ。


 実を言うと和久は――

 何となくだが、自分に言霊が効かなかった理由には感づいていた。


 例外がバジルと自分だけ、ということが恐らく鍵ではあるが、何のことは無い。


 単純な理由だ。


 和久もバジルも、純子の歌を無意識レベルですら、聴いていなかったのだ。


 和久達は、歌よりも別の物に夢中になっていた。


 殆ど娯楽の無いこの村で、純子の歌に聴き入って、どんな時よりも、如何なる時よりも――

 幸せそうな笑顔を作っている、一人の少女に。


 歌が殆ど耳に入らないほどに、長い長い時間、和久とバジルはその少女の笑顔に魅入っていた。

 それしか、頭に入っていなかった。


 歌が少しでも耳に入ったのだとしても、菜月の歌を聴いたとしても、むしろ自動的に、反射的に――。

 脳裏にその笑顔が浮かんできてしまっていたのだ。


 歌に勝る、笑顔。


 ――本当にただそれだけのことなのだろう。


 確かに、言葉や音楽の力は強力らしい。

 人を感動させ、生きる力を与え、殺す力も与える。

 それでも、絶対では無い。


 どんな歌にも感動しない、和久のような〝残念〟な人間もいる。


 和久の人格は人の創る芸術、人が育む文化、人が与える幸福を否定するにも等しい人間性かもしれない。

 そういう意味では和久は、菜月が罵ったように汚れている。


 それでもこの山王Z村には、そんな残念な和久だからこそ、守れる希望がある。


 冬が蠱毒という、忌むべき呪いの力で村を守るように。


 そう自分に言い聞かせながら、毒舌すら吐けないでいる和久に向かって、バジルがきしゃーと舌を出しながら頷いた。


 お前も大変だよな、とでも言っているかのようだった。

 奇妙な同類に向かって、和久も「お互いにな」と気が漏れるように笑いかけた。


 冬はそのやりとりを不思議そうに見て、


「なんか仲良くなったね」と微笑んでから。


 すぐにすーすーと小さな寝息を立てて、眠りについた。


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