第37話 緑の雪月花

 ――いい加減室内で休ませてくれ。


 根を上げそうな和久であったがそうもいかない。

 またしても吹雪に晒されて村まで戻るのは、非情に身体に堪えた。


 菜月は、得意の言霊を含む歌を歌いながら村を練り歩き、瞬く間に村人達の魂を支配――

 冬の施した毒から解放したようであった。


 村のそこかしこから、冬と和久への敵意の視線が向けられてくる。


 現状の山王Z村を司る意思は、すでに菜月の物であるようだ。


「私が守ってきた村だもの。渡すもんか」


 冬は唸るように何度も呻きながら歩く。


「お前がそーしたいなら俺だって渡さん」


 和久も応じながら歩いた。

 端から見れば、口喧嘩をしながら歩いているようにしか見えない。


 村人達の攻撃的な気配は濃厚だが、肝心の菜月の歌声はなかなか聞こえてこない。


 和久と冬は、歌声を辿って山王Z村を探索するしか無かった。


 動く度に菜月の言霊に操られた村人が襲ってくるが、和久に矢筒を預けた冬は、動揺もせずに軽く毒矢でいなしていく。

 淡々と冷酷に、流れ作業の如く。


 けれど決して殺さずに。


 普段ならすぐに体力不足で値を上げる冬が文句一つ言わずに、矢を放ちながら歩き続ける。


 ――意地の塊みたいなヤツだ。


 呆れながらも、和久はいつも通りに誇りに思う。


 微かに聞こえてきた歌声を頼りに和久と冬が行き着いたのは、村の北部、出口とは全く逆の場所――

 南部の果て、民家が集中する更に奥の、村の行き止まりだった。


 数十人の村人をコーラス隊のように率いて、ぬくぬくと。

 逃げ道など計算せずに。

 村の主としての自分を、喧伝するかのように。


 菜月はあの人を食ったような笑顔と、黒々と輝く右目で、泰然と冬を待っていた。


「遅かったじゃないですか」


 菜月は嘲笑する。


「僕を探しているようでしたので、こうして待っていたのですよ」


「あーそうかい。クソ寒い中ご苦労さんだったな」


 和久が腹立ち紛れに荒っぽく賞賛するが。


「ご心配無く。冬姉さんの姿が見えるまでは、近くの民家で休んでおりましたので」


 澄まし顔で、菜月は笑う。


「菜月くん、君の行動が原因で村人が死んだわ。もう私も容赦しない。君が罪を自覚して変わろうとしても、もう許す余地が無い」


 冬は厳格な口調で告げる。


「そうですか」


 宣告を受けた菜月は淡々と述べて。


「冬姉さん。貴方は何故、そこの和久さんと一緒に行動しているのです?」


 唐突に訊いてきた。


「な、何故って……?」


 冬は思いもよらぬ詰問に面食らっている。


「冬姉さんだって、僕の詩――言霊の魅力に、溺れていたはずだ。貴方の、その蠱毒の力は、僕の言霊を相殺するほどに強いのですか? ほんの少しでも僕の言霊が通じているのなら、僕を敵に回すなんて発想は浮かばないと思うのですが」


「…………」


 答えない冬の横で、和久も黙る。


「まあ、仮に冬姉さんの蠱毒の力がとてつもなく強力だったとしましょう。しかし……そうだとしても、何故和久さんの言葉を許すのですか? 彼の言葉は――こう言っては何ですが、非道い。非常に汚れている」


「……うん、和久はひっどいよ。いっつも傷つく。最低なの」


「他人に届かない言葉しか紡げない、そんな人間を放置しておいて他の村人は殺すなんて、僕には理解出来ない。それどころか、共にこの村を守ろうとしている。傷つくのなら――」


 殺せばいいじゃないですか。

 冷淡に菜月は言い放った。


「殺したい時が来たら殺すよ」


 冬も冷淡に言い放った。


「……殺すのかよ」


 本人を前にしてよくそこまで言えるなお前ら、と和久は続けた。


「僕には和久さんの言葉で冬姉さんが、本気で泣いているように見えるのですがねえ」


 菜月はのほほんと訊く。


「殺したい時とは、いつです? 早い方がいいですよ」


「……そんなこと、君に教える必要無い。その前に、今、殺さなければいけない人間がいる。村の人間の心を操り、才能ある歌手を利用して死なせた君は、この山王Z村の歴史始まって以来の〝心の毒〟よ。だから私は――」


 貴方を毒殺します。


 冬は断言した。 


「僕か冬姉さん、どちらが村の毒なのかは、彼らが決めてくれますよ。今度の歌は、毒への恐怖など取り去ってくれるでしょう」


 すう――


 っと菜月が冷たい空気を吸い込んだ。


 そして、あの透き通るボーイソプラノで歌い出した。


『zazas zazas――その手を掲げるのなら――nasatanada zazas――空への扉も開かれましょう――』


 冬は苦い顔をした。

 恐らくその歌は、純子がライブで歌っていた、冬にとっても村人にとっても既知の名曲なのだろう。

 和久は全く覚えていないが。


 歌声が響くと共に、菜月の周囲で文句も言わずに風雪に晒されていた村人達が、にわかに動き出した。

 和久と冬に視線を向けて、同じ歩調で、同じ歌を囁きながら向かってくる。


「冬、注意しろ。矢だ」


 和久は矢筒から矢を取り出し、冬に渡そうとする。

 しかし冬は、


「いらない」


 ぼそりと言って弓を和久に預けた。


「和久、私の爪に、素手で触れないようにね」


 冬の指先、爪の先から、輝く緑色の体液が滴っている。


「はあ? お前、弓無しでどうやって……って、お、おい!」


 冬は、一直線に村人達の中に飛び込んでいった。


 多勢の村人一人一人に向かって手を振りかざし、顔や腕に触れている。

 ばたばたと村人が倒れていく。

 どうやら直接、爪から相手に毒液を流しているようだ。


 恐らくは冬が「気軽に触れない方がいい」と言っていた花、アネモネのような種類の――

 その、もっと強力な性質の毒だ。


 舞い散る緑の毒液が外気で凍りつき、雪の結晶と混じり合う。


 エメラルドの泡。

 緑の細雪(ダイヤモンドダスト)。

 新緑の氷霧。


 形容しきれない光景であった。

 菜月は怪訝な顔をしながらも、冬から適度な距離を置いて歌い続けていた。

 それに村人の輪唱が重なり、世にも美しく残酷で奇妙な、氷上のショーが和久の前で展開されている。


 和久がうっかり見とれていると、村人の一人の拳が、冬の首に振り下ろされようとしていた。

 いくら冬の毒に即効性があろうと、村人の数が多すぎる。


 冬の背はがら空きだった。

 ごすん、と鈍い音がした。


「――ぐ!」


 苦悶の呻き声を上げて、冬が崩れ落ちそうになる。

 冬の胸元にいるバジルは、顔だけ出して威嚇するだけで、何故か出てこようとしない。


 和久はハッとなって冬の元に駆け寄り、冬に覆い被さろうとする村人を蹴り飛ばした。

 村人は、歌いながらごろごろ転がっていく。


 幸い、冬は気を失っていなかった。

 その手を取って起こした和久は、冬と背中を合わせて村人達を睨み、牽制する。


「和久は、あっち行っててよ!」


 冬はしわがれた老婆のような声で叫んだ。


「何言ってやがんだお前は? お前の毒は、一度に大勢の人間に使えるようなもんじゃねーだろ! 間合いを取って矢を使えよ!」


「嫌だ! あの子の前で、菜月くんの前で、私はきちんと自分の手で、みんなに毒を流す!」


 叫びながら冬は、突っ込んできた村人の顔面を鷲掴みにした。


 五本の爪から一気に毒液を流され、村人はびくびくと痙攣して卒倒する。


「何の意味があるんだよそりゃ!?」


 背中合わせのまま、互いの顔をなかなか見られずに和久と冬は叫び合う。


「人が死んだんだもの! 痛い思いして死んだんだもの! 私がサボったせいで!」


 横顔でちらりと見えた冬は。


「私は死んだ人の思いを何百分の一でも味合わないといけないもの!」


 煌めく緑色の。


「それに人が傷つけ合うなんて、痛くて下らないってことをあの子に分かってもらわないと」


 辛苦の涙を目に溜めて。


「殺される辛さと死ぬ苦しさが、伝わらないでしょ!」


 冬はひたすら手を振りかざし、爪を振りかざし、傷を与えて、傷を負う。


「相変わらず思いこみが激しくて、強情なヤツだ……死人が出た途端、抑えが利かなくなりやがって」


 和久はため息を吐く。


「なら俺も手伝ってやるから、さっさと終わらせろ!」


「それも嫌だ!」


「お……お前なー! 嫌だ嫌だって猿のガキじゃあるまいし」


「和久が死んだらこの先、私は誰と一緒に頑張ればいいの?」


 菜月の歌声にかき消されかねない小声で、冬は囁いた。


 ――和久は絶句する。


 その背で、冬は向かってくる村人の頬を切り裂く。


「お願いだから離れてて。終わるまで見ててよ!」


「……お前のお願いを訊く義理はねーな、クズ緑猿。めそめそ女の陰で、アホみたいに悩むような男と一緒にすんな! 俺らは同等なんだ! 村の主が村人より上だと思うな! 甘ったれるな! 自分だけ命賭けて村長ヅラすんな、クソったれが!」


 菜月の歌声をかき消すほどの毒舌で、和久は叫んだ。


 ――冬は絶句する。


 その背で、和久は向かってくる村人を蹴り倒す。


 二人とも、その後は無言だった。

 背中を合わせたまま、ワルツを舞うように、ただ目の前の村人達を昏倒させていく。


 何人もの村人に掴みかかられ、和久のコートが破れる。

 肌の感覚が薄れる。


 周囲のコーラスの声量が小さくなっていく。

 背中から鼓動が伝わってくる。


 何人もの村人の肌を切り裂いて、冬の爪が次々と割れる。

 毒液が散って雪に染みる。


 狂い咲く緑色の雪月花。


 気づけば立っている人間は、和久と冬、そして菜月しかいなくなっていた。


 菜月は驚きと怒りを隠せないようで、気色ばんでいる。


「これだけの人数を揃えても、村人では敵わないとは。一度に一人にしか使えない蠱毒の力で、よくもやるものですね……」


 和久と冬は、並んで菜月と再び対峙する。


「ここは私の村だもん。私が負けるわけないじゃない」


 冬の言葉は答えになっていなかったが、妙な説得力があった。


「――いいや。僕にはまだこの歌があります」


 菜月は、顔を顰めながら歌い出した。


 腹の底から声を出している。


 歌というよりも、魂から発せられた咆吼だった。


 冬は黙していたが、その歌を聴きながら、ゆっくりと瞼を閉じていった。


『Kyrie eleison ――立ちていて、たどきも知らず――Agnus Dei――我が心天(あま)つ空なり、土は踏めども――Kyrie eleison 』


 ――まずい。


 和久は焦慮する。

 その少々難解そうな歌詞の曲は、和久も聞き覚えがあった。


 冬がライブで褒め称え、陶酔していた、冬が最も好きだと言っていた歌だ。


「……どうかな? この歌はね、冬姉さんのためだけに作った歌なんだ。冬姉さんの心を捉えるため、ただそれだけの言霊だ。その毒で己を殺し、友を殺させるための!」


 間奏のように語り、再び菜月は歌う。

 吹雪とのハーモニーが奏でられる。


 冬がゆっくりと瞼を開いた。

 その瞳は他の村人同様虚ろで、緑の眼光が濁ってくすんでいる。


 和久は冬の肩を掴み、乱暴に揺さぶった。


「おい、歌を聴くな冬! うかつな腐れ緑! 村を守るんだろ、俺と一緒によ!」


「ク……は……よけ……」


 冬の唇が小さく蠢いた。


「何だ!? 何つった冬?」


「クソは余計だって…………言ってるでしょうがー!」


 ばしん!


 弾ける音が、歌の合いの手として響く。


 呆けた顔の和久の頬に、冬のビンタが炸裂していた。

 冬の瞳はすっかり、元のエメラルドの輝きを取り戻している。


「あれ……?」


 真っ赤な手形が付いた和久は、それでも呆然としていた。

 菜月も歌を止めて慄然としている。


「効いていない――聴いていないのか?! それ程までに、蠱毒の力とは強力なのか!」


「そういうんじゃないわよ、菜月くん」


 冬は菜月の方へと歩を進める。


「勘違いしてたみたいだけど、君の言霊っていうのは、多分君だけじゃ成立しないんだと思う。だって君は、純子さんの曲に合わせて作詞していたんでしょ?」


「純子さんが、何だって言うんだ……あの人は、曲しか作れなかった凡人だよ。僕の言霊こそ、真の汎用性を持つ、支配者の力だ」


「純子さんが歌うために作られた以上、それは純子さんの声と、純子さんの喉を通らないと完全なものにならないんじゃないかなあ……? 君と純子さんが二人で完成させた力だったんだよ。君が紡いで、純子さんが音にする、それが本当の言霊の力だったんだと思う」


 二人の呪いの力の持ち主の問答に、和久は口を出すことが出来ない。


「僕だけだと、不完全だって言うのか……なら、何故村人達は僕の歌に従ったんだ?」


 茫然自失の菜月は、近づいてくる冬から逃げようともしなかった。


「そこまでは分からない。君の歌でも村のみんなは、それなりに感動出来たんじゃない? でも、私が好きなのは、君の歌じゃなくて純子さんの歌。君の歌は……私の好みじゃないの。それに君の言霊なんてそこの和久の毒舌に比べれば、全然私の心に響かない。痛くも痒くも悲しくも辛くも無い。それぐらいひっどいのよ、和久の毒舌」


 罵倒なのか賞賛なのか分からないが、冬の言葉が和久には信じられなかった。


 自分の毒舌を理解出来るからこそ、冬が菜月の言霊に耐えられた、などとは。 


「毒舌なんかに、僕の言霊が劣るって言うのか……」


 冬は、身動きの取れない菜月の肩を、いたわるように抱きしめた。


「君の言葉は何より正しい。それでもこの村では間違っていたんだと思う」


 呻いた冬は、大きく口を開け、瞼を閉じて――

 菜月の喉笛に、唇を寄せた。


 壊れそうなほど小さな菜月の柔肌に、冬の鋭い歯が突き立つ。


 純子がステージ上で、自らナイフを突き立てたのと同じ位置だった。


 のけ反った菜月の前髪が、だらりと垂れ下がる。


 その左目がほんの少しだけ緑がかっていることに、冬は気づいただろうか。


 赤い体液と緑の体液が混じり合う時、あれだけ激しかった吹雪の悲鳴も止んでいた。

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