第36話 双体道祖神

「くっそ、さみーんだよ、いくら慣れててもよ! 手加減しやがれ!」


 和久は走りながら、吹雪に向かって毒づいた。

 体温は相当失われている。凍気で顔の皮膚が切れたが、肌が締まるほどの寒さのせいで血は殆ど出ない。


 固い『しまり雪』が積もる歩道を、和久は北へ、北へと疾走していた。

 数は分からないが、いくつかの気配が自分を追ってくるのが感じられた。


 菜月の目がこちらを向いてくれていると良いのだが、少年とはいえど相手もそこまで愚鈍ではないだろう。

 冬さえ陥落すれば、この山王Z村は菜月の手中も同然なのだから。


 バジルが冬を逃がしてくれていることを願うしかない。

 気配をぎりぎりまで近づけて、北へ。

 更に北へ。


 毒物館から離れ、南部の住宅街からも離れ、村の北にある出口まで、和久は追跡者達を誘導しようと考えていた。

 村の外に殆ど出たことが無い村人にとっては、外の世界は村の中以上の極寒と未知の恐怖が支配する、慈悲の無い大氷河時代である。


 半球型のドーム――バイオプラントを、和久は脇目に見ながら通り過ぎた。

 村人達の生命線であるこの白いかまくらは、今や完全に無人、孤立無援の状態だろう。

 かろうじて自動制御されているナノマシンと菌類によって最低限の農作物は守られているだろうが、それも長くは保たない。


 誰かが、この場所に人間を戻してやらねばならないのだ。

 バイオプラントを越えれば、出口はもうすぐ目の前だ。


 視界の先に、人ほどの大きさの、石碑のような物が見えてくる。


「や、やっと着いたかよー畜生……」


 ほっと胸を撫で下ろしながら、和久はその前まで走っていく。

 石碑に積もった雪を払ってやると、石がくりぬかれた中に、手を取り合って抱き合う一対の男女の石像があった。


 冬の父に訊いたところによれば、それは双体道祖神(そうたいどうそしん)、あるいは賽(さい)の神などと呼ばれ、村の内側と外側を隔てる境界を守る、古い守り神であるそうだ。

 設置したのも冬の父らしい。


 即ち――この石像のある場所こそが、村の出口なのである。


 巨大な塀や門があるわけでもない。

 石像が示す境界が、外世界からのケガレの侵入を食い止め、村人を封じている。


 たったそれだけの観念で――

 冬の父が定めた古い概念に従って、村人達はここから出ることを恐れる。


 この先が外だと知っているからこそ、未知の溢れる外に出ていかない。

 かつてここを通って山王Z村にやってきた、唯一の来訪者である稀人(まれびと)が、和久であった。


「さーて、いっぺん村人じゃなくなってやるか……」


 和久は、平然と石像の前を通り過ぎた。


 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。


 いくつかの気配が、雪を踏みしめる足音が、村の方からやってくる。


 その先兵として、他の気配を遙かに凌駕したスピードで、こちらに向かってくる人影があった。


「やっぱお前が一等賞か、トンデモ暴走馬」


 人影は、スケート靴で疾走してくる小町だった。


 この積雪量でバランスも崩さず、強風にも煽られず――

 レールの上を滑るように、一直線に和久へと向かってくる。


 石像を隔てた和久の手前で、小町は急ブレーキをかけた。

 斜に構えた体勢の小町がポニーテールとマフラーを棚引かせ、無言の三白眼で、和久を睨め付けてくる。


 初めて会った時の、可愛らしくも可憐な美しさの小町とは、印象が違う。

 それは大地に魂を預け獲物を狙う、野性の美しさだった。


 世界を旅していたころの和久が度々遭遇し、逃げ、あるいは食らってきた獣の。


「こっちの側に来られるか、小町」


 和久は目を逸らさずに、はっきり告げる。


「村人にとってはこの場所は絶対の境界線のはずだよな……俺にとっちゃただのしみったれた石像だが、村のルールでは、この先に勝手に出ることは禁じられているはずだな?」


「…………」


 点のような瞳で、小町はちらりと石像を見る。


 だが、どうでもいいことのようにぷいっと一瞥しただけで、すぐに和久を睨み直した。

 視線を和久に固定したまま、足を前に出す。


 小町は、石像の前の雪の上を――

 境界を切り裂くように、つうっと軽やかに滑ってきた。


 和久は苦笑する。


 予想しなかったわけではないが、あっさり越えてこられると、夢が破れた気分だ。


「躊躇いも無く来やがるか……村人の風上にも置けねーな。ここにいりゃ、手は出せねーんじゃないかと思ったが、甘かったか……」


 歩を進めた小町は、じりじりと和久との間合いを縮めていく。

 その背後からもぞろぞろと、菜月の支配下にある村人達が迫ってきていた。


 村の出口に対する恐怖心は、どうやら彼らからは消失しているようだ。

 同じ瞳、同じ思考、同じ自由を求める村人達。


 判を押したような光景。

 

 なるほど。境界を意識しない者には結界という概念は無いのだ。


 〝孤独〟という己と他者を分かつ境界が無ければ、村を隔てる呪いも通じない。


「さーて、どうしたもんかね……」


 立ち止まった小町が、姿勢を低くした。

 その様は矢張り、小さくとも獣だ。


 小町は風に乗って、垂直に飛びかかってきた。

 後ずさろうとした和久の、ほんの一歩の間に、小町は和久の目前にまで迫っていた。


 吹雪と共に風圧が和久を襲う。


 くるん、とその場でスピンした小町の片足――

 そのスケート靴に着けられたブレードが、和久の頬を掠った。


 動転した和久は、その場に尻餅をつく。


「おいおい容赦ねーな小町、このヤロー! 肉じゃが食わしてやった恩を忘れたかよ!」


 悪態をつく和久だが、生殺与奪の権利は明らかに小町の側にある。

 体勢を整える彼女の背後には、すでに村人達も追いついてきているのだ。


 ただの村人達相手なら、和久でもある程度は相手を出来るだろうが、問題は小町だ。


 ――殺すつもりでかからねば、切り抜けられない。


 和久は、小町の隙を衝けるのだろうか。

 そもそも、小町を手にかけられるのか。


 和久の目的は、菜月の言葉の支配下にある村人達、特に小町を出来るだけ冬から遠ざけることだ。


 ならば――ここまでで、いい。


 バジルから冬に菜月のことが伝わっているならば、冬が小町を救ってくれるだろう。


 小町がいれば。


 毒舌しか取り柄の無い、和久の代わりは充分だ。


「おい小町」


 小町は和久の問いかけを意に介さない。


「俺を殺して正気に戻れたら、あのしみったれた緑猿の手助けをしてやれ」 


 小町は、無言で再び片足を上げる。

 そっと瞼を閉じた和久は、末期の時を――


 ――ひゅん。


 吹雪とは別の方向から、突風が通り過ぎた。


 恐る恐る、和久が瞼を開ける。

 眼前で小町が、肩を抑えて倒れ込んでいった。


「覚悟する時ぐらい、毒舌は控えなさいよね!」


 叫び声がしたのは、追ってくる村人達の向こうからだった。

 風を切る、ひゅん、ひゅんという音が続けて木霊する。


 その度に、村人達が一人、また一人と倒れていく。


「な、なんだあ?」


 呆気に取られて、和久は声の先を見据える。


 声の主は――弓矢を携えて次々に村人達を射ながら歩いてくる、冬だった。


 村人の腕や足を淡々と射っては、毒の唾液を着けるために矢尻を舐めている。


 悶絶している村人達を哀れそうに眺めながら、冬は小町の前まで歩いてきた。


「ったくもー、小町。あんたに毒流すのこれで二度目だよ? 自重しなさい」


 さすがの小町の反射神経でも、背後から突然射られては対応出来なかったようだ。

 肩を矢が掠り、毒が回って動けないらしい。

 新雪に沈み、淀んだ虚ろな瞳で冬を見上げている。


「おい冬……それって、いつだかのヤドクガエルの毒じゃねーのか」


 和久は青ざめる。


 例の毒であれば相当の猛毒のはずだ。

 冬は小町を殺すつもりなのだろうか。


「大丈夫。即効性はあるけど、そんなに毒性は強くないから。アメリカドクトカゲよりちょっと弱いぐらいかな」


 冬は動けない小町の肩を抱いて立ち上がり、慈愛深く微笑む。

 その冬の胸元から、ひょいと得意げにバジルが顔を出した。


「バジルに渡した手紙は読んだのか?」


 和久は冬から小町の体を預かって、肩を抱いた。

 冬の表情が一転して暗くなる。


「読んだよ、勿論。何が起きたのか、全部分かった」


「そうか……あれを読んでも、まだ虫みてーに引き篭もるのかと不安になったぞ」


「あの子のお父さん、亡くなったって」


 冬は息苦しそうに言った。


「峠、越せなかったって。突然意識を失って、そのまま――ここに来る前、あの子に会って訊いた」


 バイオプラントで事故を起こした、少年の父のことだ。話す冬の唇が震えている。


「しみったれ親父……駄目だったか」


 和久は、込み上げてくる悔恨に歯噛みする。


「人が死んでから動くなんて、サイテーだよね、私。こんなことになるなんて思ってなかった」


「ふん、今からでも被害者を抑えるしかねーだろ……クソ。クソが!」


「うん。これ以上、私の村で好きなことはさせない」


 クソと連呼されても、冬は反論しない。

 和久の言葉がどこにも向けられていないからだ。


「ん? しかしお前、何で逃げないでこっちに来たんだよバカ!? 俺が北に行くから南へ逃げろって書いておいたろーが?」


「え? それは、えーと、だって……その、言霊っていうのが和久に訊かないんなら、和久もいた方が得策でしょ?」


 冬は目を泳がせながら、何故か胸の中のバジルをぎゅっと抱きしめた。

 急激な圧迫感に、きぅう~、と聞いたことの無い鳴き声をバジルが発する。


 和久は首を傾げた。


「そうか? 俺なんか助けるよりは、直接あの菜月ってガキの所に向かった方が早かったぞ。まあ、そんときゃ俺の命はヤバかっただろうが。優先される謂われも無いし」


「う……うっさいなあ。こんな所で話してないで、さっさと村の方に行こ!」


「お前が矢で射った村人達はどうする? 置いていくのか」


「多分すぐに目が覚めるよ。来る途中、その言霊ってのに操られてる人に軽い毒を流したら、正気に戻ったんだ。一人一人なら、私の蠱毒の力で元に戻せるみたい」


「おー! さすが、俺が命を賭けて守ろーとした、ハイパー猛毒トカゲ女だ!」


 一縷の希望に、歓喜に震えて和久は笑う。その笑顔を見た冬は。


「誉めるなら毒舌は止めてってば……それにもう人が死んでるから、凄くない」


 一瞬頬を朱に染めたかと思うと、すぐに遠い目で村の出口である石像を見つめた。

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