第34話 魂の創出

 悲鳴は上がらなかった。

 誰もその場を動こうとはしなかった。


 村人達は憐憫――

 あるいは眠そうな目で、崩れ落ちていく純子を見つめていた。


 小町も同様だった。


 和久だけが、感情を露わにしていた。


「どけよ、てめーら!」


 叫びながら、座ったままの村人達を避けるように走り、純子の元へと向かう。


 ステージに上がった和久は純子を抱き起こす。

 その様は倒れた妻を気遣う夫のようだ。


 それを照らす淡いライトが、その場から変に現実感を奪う。


 この状況も何もかも、最初から演出されたイベントの一部であるかのようだった。


「おい、しっかりしやがれよ! おい!」


 すでに純子は、呼吸を止めていた。

 錆びた鉄の匂いが鼻につく。


 数秒前まで村人達を陶酔させていた艶のある白い喉から、鮮やかな赤い血液が流れ続けていた。


 和久が必死に傷口を抑えるが、止めどなく溢れ続ける。

 口からもごぼごぼと、零れ落ちていく。


 零れてはいけない歌声がごぼごぼごぼごぼ零れていく。


「何だよこりゃ……お前が、お前の歌が原因なんじゃねーのかよ! 俺は、いざとなったらお前の命を奪うつもりで――おい、お前の歌が、毒の素じゃねーのかよ! 答えろよ、卑怯だぞ! こんなシメは、卑怯だッ!」


 腕の中で冷たくなっていく純子に向かって、和久は必死に問いかける。


「そうではありません」


 返事はホールの奥から聞こえてきた。

 葬列を、ずっと見守っていた者の声だった。


 少年が――


 湯沢菜月が、口元を歪ませ、愉快そうに笑いながら、ステージの方へと向かってきていた。


 あのつぶらだった右目に、強い意志の光が灯っている。


「ハナタレクソガキ……今なんつった? いや、お前、この女がこんな状況だってのに、何でそんなに落ち着いてやがるんだ」


「歌えない歌姫に価値などあるでしょうか、和久さん?」


 菜月は人を食った笑いを浮かべたまま、逆に問いかけてきた。


「ガキ、てめぇ…………」


 和久は言葉を続けられない。

 沸々と、わけの分からない怒りが込み上げて、手が震えた。


 ステージ前へ辿り着いた菜月は、睨め付けるように和久を見上げて、


「とある歌について話しましょう」


 澄みきった声で語り始めた。


「この山王Z村には、音楽が大好きで大好きで仕方がない女性がおりました。


 女性は独力で音楽理論を身につけ、短い間に様々な曲を作れるようになりました。


 ですが、その女性は悩んでもいました。


 複雑で凝っていたその女性の音楽は、けれどもどこか軽薄で、真に迫るような内容が無く――

 一言で言うと、浮ついていたのです。


 女性は、自分の音楽に意味(メッセージ)を乗せられたら、といつも考えていました。


 そこに、一人の少年が現れました。


 村で生まれ育ったというその少年は、人の魂に直接語りかける言葉を紡ぐことが出来る、という特別な才能を持っていました。


 少年の方は自分の言葉をどうやって使うのか、どうやって生かすのか、さっぱり分かっておりませんでした。


 女性は一目で、その少年の才能を見抜き、自分の側に置きました。

 自分が作る音楽に、特別な言葉を加えられたら、どんなに素敵でしょう。

 どれだけ無敵でしょう。


 少年は少年で行く宛ても無ければやることも無いので、女性に言われるがまま、女性の音楽のために言葉を乗せることにしました。


 こうして小さな小さな山王Z村で、女性〝作曲家〟と少年〝作詞家〟は出会いました。


 出会った二人はあっと言う間に数多の名曲、多くの歌を生み出していきました。


 それらの美しい楽曲を、村のみんなに聴いてほしいと言い始めたのは、少年の方からでした。


 女性は近所の村人に自分達が作った歌を披露するだけで、満足していたのです。


 女性の作る曲が大好きな少年は、その力を試すだけ試してみたいと考えていました。


 少年は女性を説得し、自分は〝作詞家〟としては前に出ないことを約束して、女性を表舞台に立たせたのです。


 村のホールを貸し切ったライブは、回数を重ねるごとに村人達を魅了していきました。

 その中には、郷土史館の館長代理、野村冬も含まれているほどでした。


 しかし女性は、己に集まる注目の視線とは裏腹に、逆に苦悩するようになりました。


 自分が思っていた以上に、少年の言葉の力は、強すぎたのです。


 どんな旋律を描いても、どんな和音を重ねても、どんなリズムを刻んでも――。


 曲が言葉に負けてしまうのです。


 女性は、気がついてしまいました。


 少年の言葉を欠いた曲を、一切作り出せなくなってしまった自分自身の感性に。


 その時から、女性の精神は摩耗していきました。


 始まりには何があったのか。


 自分が作った音楽とは何だったのか。


 魂の創出であったはずのそれらの楽曲の正体は何だったのか。


 自分が惹かれた物は何だったのか。


 言葉の付随物として音楽があるのか、音楽を彩るものとして言葉があるのか?


 何もかも、分からなくなって、自分自身も分からなくなっていました。


 迷いを拭えなくなった作曲家の女性は、最後に――。


 自分が作った曲だけを真実としてこの世に残すために。


 迷える作曲家である、自分を消す覚悟をしました。


 そのころには、作詞家の少年は己の役割、力の意味を自覚していたのでしょう。


 少年の無意識の内の願い。


 それは即ち、自分の言葉をより多くの人間へと浸透させること。


 洗練された曲の存在が、それを可能としました。


 最早、歌い手は女性である必要すら無くなってしまったのです。


 歌と共に、少年が紡いだ言葉は、村人達自身によって広がっていきます。


 村人が歌を口ずさみ、己に言葉を投げかけることで、その言葉は知らず知らずの内に、自身の精神を支配していくのです。


 作詞家の少年は、あらゆる歌に必ず強烈な言葉を、メッセージとして残していました。


『自由を勝ち取れ、悪しき毒に打ち勝て、考えろ――』


 少年は、村を支配する自分とは別の存在、別の力を知っていたのです。


 それが野村冬の、蠱毒の力――

 

 あらゆる毒を操る力でした。


 野村冬はその毒を持って人の心を縛ることが出来ましたが、少年に生来宿っていた力は、それとは別の方向性を持つ力でした。


 最も真実に近い、根元的な言葉を放ち、人の心を奮わせる。


 つまり、心を感動させて支配する。


 少年は、そんな自分の力を指す名前を、生まれながらに知っていました。


 それは古の時代に、〝言霊(ことだま)〟と呼ばれたものでした」


「言霊、だぁ……」


 絶命した純子からそれでも離れられず、和久は菜月を見下ろす。


「そうです。何故僕にこんな力があるのかは知りません。しかし、僕にはどうやら、古代の更に古代に万能の呪術とされていた、言霊を操る力が宿っていたようです」


 涼しい顔の菜月は、純子の死に顔を一瞥すらしない。


 村人達も小町も、曖昧模糊とした表情のまま、機械的に視線だけを和久達の方へと向けている。

 和久は視線の奔流に飲まれぬように、誰とも目を合わせないようにした。


「人間を追いこんでゴミのように死なせてまで、何がしてーんだこのクソガキ……」


「死は不可抗力です。先程も言いましたが、僕は村を自由にしたいのです。冬姉さんの毒から」


 聞き慣れた言葉が、菜月の口から発せられる。


 和久は強い違和を覚えると同時に、深い畏怖を感じた。


「テメェはどうしてそんな、冬を否定するような発想を、簡単に考えられるんだ。村の出身だろう?」


「だから、言っているじゃないですか。僕には言霊があるんだと。言霊とは、どう言えばいいのか――とてつもなく感動する、説得力のある言葉で、真実を自覚させた人々を操る力とでもしましょうか?」


 嘲るように笑いながら、あくまで丁寧に菜月は続ける。


「その力の意味が分からなかった時は、使い道も分かりませんでしたが……言霊の存在を自覚した途端に、僕は、僕の心に仕掛けられていた毒を、無意識に打ち消していました」


「そりゃー万能なクソったれ能力だな……反吐が出る」


「汎用性があるでしょう? 一度にたった一人にしか仕掛けられない冬姉さんの毒とは違って、一度に大勢に作用するのが言霊の本領です――ほら、こんな風に」


 菜月は村人達に向き直り、おもむろに歌い出した。


『ful-weh――ゆらゆらと、夢から帰って、ful-weh――起きあがって、望むなら――ゆらゆらとful-weh――』


 ボーイソプラノの高くて透き通る歌声が、ホールの隅々に響き渡る。


 純子の歌とはまた違った魅力があるのだろう。


 無論、感動など和久はしないし、したくもない。


 歌の盛り上がりに合わせるように、村人達が――

 小町が、ぞろぞろと立ち上がり始めた。


 全員まばたきもせずに、人形のように和久を見つめている。


「おーおー……今度は俺のファンにくら替えかよ、おめーら。俺の歌は、自分で言うのも何だがロクでもねーぞ。お前等みてーなブタの群れも、木に登るぐらいだ」


 和久の意味を為さない毒舌は、一切小町や村人達の耳には届かないようだった。


 歌を止めた菜月だけが、くすくすと笑っている。


「見ての通りです。僕の言葉は強烈でしょう? 冬姉さんが仕掛けた毒は、全て消してあげましたし、僕が歌えば何でも言うことを聞きますよ。まあ、彼らは純子さんのライブでずっと僕の言霊に晒されていましたから、暗示をかける下地は出来ていたんですけどね」菜月は実に愉快そうに、整然と立つ村人達を眺めている。「無防備な人形を作るには、準備が必要ですから」


 ライブに来ていた村人達が、個人差がありながらも無気力になっていたのも、この菜月の計画の内であったのだろう。

 彼らは冬が仕掛けた毒を、歌に隠された言霊の力で無効化された。


 古代の言葉で言えば〝初期化〟されていたのだ。


「……おかしくねーか」


 和久は素朴な疑問を口にした。


「俺だって、ライブにはずっと来てたぜ。冬の付き添いだがよ。何でさっぱり、お前の歌が効かないんだ」


 余裕たっぷりに、菜月は「そうそう」と頷く。


「それが僕にも分からないんですよ。そこの小町さんは思ったより心が鍛えられていたようで、言霊が効きづらかったというのはあるんですが……」


 菜月はちらりと、棒立ちの小町を見る。


「全く効かないというのは考えづらい。貴方に仕掛けられた、冬姉さんの毒はそれほど特別なんですか、和久さん?」


「冬は、俺の頭には何も仕掛けてねーよ」


「えっ」


 菜月は子供らしい、純粋な驚きの声を上げた。


「そうなんですか。それは知らなかった……あの冬姉さんが、村人の中に例外を認めていたとは、意外です」


 菜月は本当に意外そうに、右目を丸くしていた。


「俺は村の外から来た人間だからな。お前ら無知で脳天気でテキトーな村人とは違う、完璧な異邦人だ。冬も様子を見ているんだろうさ、俺っつー人間の」


 いろんな意味で俺は例外なんだろうな、と和久は付け足した。


「確かに言霊を試したのは村人に対してだけですから、例外の可能性は考えていませんでしたが……」


 なんだか腑に落ちません、と菜月も付け足した。


「効かねーもんは効かねーんだから仕方ないだろ。それか、大したことないんじゃないのか? お前のその――ただ歌って感動させるだけの力ってのはよ。ふん」


 和久は深く息を吸って、大きく鼻を鳴らした。


「本当に口の減らない人ですね……」初めて菜月が、不快そうに笑顔を歪めた。「……まあいいでしょう。貴方に僕の言霊が効かないというのなら、自分の意思で僕に協力して下さい。冬姉さんの歪な支配から、この村を解き放つのです!」


「嫌だね」


 一瞬の静寂。


 人々の呼吸と、照明や音響機材の機械音が、空疎なホール内で行き場を失った。


「即答ですね……」


「俺は冬と出会って、この山王Z村っつーチンケな村を、冬と一緒に守るって誓ったんでな。鼻クソの一粒になったとしても、お前のつまらんチャンスには乗れねーな」 


「……哀れな変人がいたものです」


 表情を強張らせ、菜月は深くため息を吐いた。


 そして――また歌い出した。


『立ち上がってful-weh――ゆらゆらとful-weh――』


 歌に合わせて、小町と村人達が、緩慢な動きで和久に迫ってきた。


 その口元がぼそぼそと、菜月と同じ歌を口ずさんでいた。

 囁き声による輪唱が波のように広がっていく。


「けっ、起きあがった死体って感じじゃねーか。薄気味悪ぃ」


 ゾンビという言葉を和久が知っていたら、確実にそう形容しただろう。


 菜月を通り過ぎ、村人達はゆっくりとステージに上がろうとしてくる。


「油断しない方がいいですよ。何度も言いましたが、彼らは冬姉さんが封じていたもの――人が人を傷つけたい衝動を、解放されているのですから」


 和久が逃げようとした時には、村人達はステージを取り囲むように円陣を組み、その円を縮めてきていた。

 緩慢ではあるが、統率されていて無駄が無い。


「チームワークだけはケダモノ並じゃねーかよ」


 身動きが取れないまま、和久は緊張感を張り巡らせる。


「そうですね、僕もびっくりしてます。言霊を込めた歌で、簡単な命令を与えただけなのですが。彼らの本能は、貴方を追いつめる効率的な手段を選び取っているようですね――」


 面白いなあ、と菜月は余裕たっぷりに腕を組んだ。


 村人の中心に立つ小町は、獣の群れのリーダーであるかのように一定の距離を保って、飛び出すタイミングを図っていた。

 和久の鼓動を感じ取り、全身の感覚でホール内の空気の流れを感じている。


 菜月の歌――

 言霊に従うゾンビでありながら、小町は、自身が封じていた身体性の内に眠る野生を蘇らせつつあった。


 和久の背に嫌な汗がにじみ出てくる。

 和久の運動能力では、小町の超人的な動きには着いていけないだろう。動けばやられる。


 村人の包囲網の外からにやにやと、菜月は己の力の真価を試す愉悦に浸っている。


「クソガキ……そうやって笑ってられるのも今の内だ」


 そうは言っても、策は無い。


 沸き立つ苛立ちと恐怖に、和久はやけになりかけていた。

 いちかばちか、駆け出そうとした和久が足を踏み出して、小町がそれに同調して動こうとする――

 その背後で。


 しゅるるるるるる! 


 目にも留まらぬ速さで、床の上を何かが蠢動していくのが和久には見えた。


 きしゃあ、と壊れたバイオリンのような音。

 しなる弓を誰かが投げ打ったのかと和久は思ったが、違った。

 それは紡錘型の影を持つ、和久の風変わりな仲間。


 冬の第一の守護者であるエメラルドグリーンの毒蛇、バジルだった。


 バジルは村人達の足下を、糸で縫うように通り抜けていく。

 村人達の感覚ではその動きについていけないようだった。


 いや、村人達に本能が蘇っていると言うのならば、この村で冬に次ぐ危険な毒を持つバジルに、村人達は手を出せなかったのかもしれない。


 軽々と包囲網を突破したバジルは、菜月の眼前でかま首をもたげた。

 菜月もあまりに意外な伏兵の出現に、虚を衝かれている。


「お前、いつの間に……い、いや、何故……」


 バジルがきしゃあ、と牙を剥き、菜月を激しく威嚇する。


「そうか、お前がいたんだったな、同類!」


 和久が嬉しそうについ声を上げると、違和を表明するかのようにバジルは和久の方を見て、きしぃぃ、と威嚇した。

 その素早い愚直さに、和久は安心を覚える。


「この毒蛇は……僕の言霊が通じないのか……?」


 たじろぐ菜月を、和久がせせら笑う。


「バカかてめーは、クソガキが。毒蛇のバジルに、言霊なんつー力が通じるかよ!」


 菜月は迷いを振り切るように、ぶんぶんと首を振った。


「違う……僕の言霊はそんな、その程度のレベルじゃない」


 言い終わらぬ内に、バジルは菜月ににじり寄った。


 菜月が、反射的に後ずさる。

 村人の視線がそちらに向かった。

 輪唱が乱れる。


 和久から目を離さなかった、小町の視線も一瞬外れる。

 和久への注意が数刻失せたその隙を、和久は見逃さなかった。


「おりゃあああっ!」


 全力で駈け出し、狭いステージ上から、全身をバネにして飛び出す。

 村人達の頭上を飛翔した和久は、転がりながらホールの床へと着地した。


 気づいた小町が負けじと和久の方へと向かおうとするが、菜月から離れたバジルがしゅるるるる、と追いついた。

 小柄な小町の背を追いこさんとばかりに、かま首をもたげている。


 茫漠とした小町の表情に、若干の恐怖の陰りが生まれた。


「助かるぜバジル! 俺ら結構いいコンビネーションなんじゃねーか?」


 バジルは和久の方を見もせず無視した。


 ――誰かとリアクションが似ている。


「恐れるな! 自由を勝ち取れ!」


 菜月は叫び、またしても美声を唸らせて歌い出した。

 歌声が浸透するかのように、小町の顔から陰りが消えていく。


「バジル、来い!」


 和久は歌が終わらぬ内に叫ぶ。

 小町と対峙していたバジルが、和久に向き直った。


 振り返らずに一直線に逃げていく和久を、バジルが追走していく。 

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