第33話 キス
天気が天気である故に、日が傾いても闇の深さが多少増しただけだ。
日時の特定は困難であったのだが、ホールの前の行列は盛況だ。
客である村人の顔触れは、先週と大差は無い。
だからこそ異様さが際だつ。
彼らの表情は一様に――
彼らの動作は一様に。
彼らの心は同様に、生を促す『気』というものが無かった。
ぼそぼそと口元だけが動いている。
世間話でもしているのかと和久は思ったが、互いの視線は交わらない。
後ろから並んでみて初めて、彼らが純子の歌を口ずさんでいるのだと気づいた。
この光景に似たものを、和久は見たことがある。
村で亡くなった人間のための、葬列だ。
和久の祖母が死んだ時は、そのままの姿で氷の海に沈めただけであったので、死を何日もかけて確認するかのような葬儀にはなかなか共感出来なかった。
今は違うが。
あるいは『気』の無い彼らこそ、冬の父が言っていたケガレそのものなのだろうか。
「ごめんなさい、遅くなって」
背後からの声に振り向くと、小町が立っていた。
着ぶくれなのか、いつもよりマフラーが膨れているように見える。
「……冬は来ねーのか」
「うん。あの子のお父さんのことは話したんだけど……」
気まずそうに小町は目を伏せる。
「村の一大事かもしれねーってのに、まだ拗ねてやがるのか。期待はずれのブス豚め」
「でも、ほらこれ」
小町はマフラーをトントン、と指でついた。
不審そうにその様子を見ていた和久を――
マフラーが睨んだ。
「わっ!?」
和久が仰天すると、マフラーの間から一匹の毒蛇がするすると這いだしてきた。
「バ、バジルじゃねーか。お前、ご主人様の所にいなくいいのかよ?!」
バジルは和久を見た瞬間にきしゃー、と牙を剥いた。
相変わらずの嫌われっぷりだ。
「冬ちゃんがね、『私は行かないけど、バジルだけ貸してあげる。小町の言うことは聞くように言ってあるから』って」
小町は臆することなくバジルを撫でている。
バジルの方は慣れていないのか、くすぐったそうにしていた。
小町に特別懐いてるわけでもないようだ。
勿論、和久ほどは毛嫌いされてはいないだろうが。
「ふん。中途半端なヒキコモリ緑猿め、蛇で誤魔化しやがるか」
それに俺の言うことは聞かないのかよ、と和久はバジルの丸い瞳を見つめた。
その通り、とでも言うようにバジルは舌を出す。
嫌われたり無視されたりはしているが、言葉を使わなくても、和久とバジルは意志疎通が取れていたりする。
「似たもん同士ってか、このバカ蛇」
そんなこと無い、と言うようにバジルがまた牙を剥く。
和久はつい笑みを零す。
愚直で素直な毒蛇に、心がほだされてしまう。
バジルの相手をしていると、ホールの扉が重々しい音を立てて開いた。
「みなさんお待たせしました。安里純子ライブ、開演致します」
澄んだ声とつぶらな右目の少年、菜月が無反応の村人達に告げた。
ホールは全席満員だった。
丸一日陽光を目にしていない分、ステージを照らすオレンジのライトがやけに新鮮に感じられた。
純子の演奏は、いつもと何ら変わりないように思える。
聴き流してばかりの和久がそう感じても説得力は皆無なのだが、恐らく、純子の指に狂いは無い。
アゲハ蝶のような黒レースのドレスに身を包んで、羽ばたくように軽やかに、鍵盤を叩いている。
ピアノの前奏が終わり、純子はゆるやかに歌い出し始めた。
『母は待っている、運命の月で――その鼓動をただ感じていて、私が抱いてあげるから――Qis-Mah――』
広いホールの天井に、壁に、床に、空間に。
特大のキャンバスに多彩な色を付けていくかのように、歌声が染み渡っていく。
――まあ、他の奴らにとっては感動的なものなのだろう。
そう思ってしまうのが和久の感性である。
異様だとすれば、矢張り村人達だ。
村人達はただただ茫漠と、純子を見上げている。
荘厳でありながら包み込むような旋律にすがる、ここは祈りの場だ。
最初は引き締まった顔で椅子に座った小町も、やがて恍惚とした表情で純子の歌を口ずさみ始めた。
その中で和久だけが何も感じていない。
いつものことだ――
と思っていたら。
小町のマフラーから這い出たバジルが退屈そうに、小町の膝の上でとぐろを巻いて眠り出した。
頼れるというかなんというか。
風変わりな仲間が出来てしまった、と和久は苦笑するしかない。
一つの曲が終わり、村人達が次の曲を心待ちにしていたとき。
純子は突然ピアノを背に立ち上がって、ステージの前に出てきた。
「みなさん、こんばんは。今日もありがとう」
覇気の無い、爛熟した声で告げる。
和久は面食らう。
それはとてつもなく、奇怪で特殊なことだったのだ。
純子が曲の途中で語りを入れるなんて、珍しい。
――いや。
今まで純子は曲の紹介も、口頭での挨拶も、ライブ中には一切してこなかったはずだ。
それらのアナウンスは全て、あの菜月の仕事だった。
ライブの形式など、和久は他には知らない。
これまで純子が、ステージ上で歌以外の言葉を一切発さないのも、当然のことだとしか思っていなかった。
「おい、こんなこと今まであったのか?」
「いや、知らない……」
小町は目をとろんとさせながらも、首を傾げていた。
オレンジのスポットライトを全身で受けた純子が、古代の司祭が説教をするかのように、神妙な表情で村人を見回す。
「私の曲を受け入れて下さってありがとう。私の歌に聴き入って下さってありがとう。けれど、私の歌には力なんてありません。全ては借り物です。私は、曲を付けただけ」
抑揚の無い声で、純子は淡々と語った。
村人達は淡々と、生気の無い顔で聴いている。
歌い手と聴き手が――
鏡合わせのように似ている。
「私はもう、自覚しました。私が歌ってきた歌にとって、すでに私自身が、邪魔になってしまっていることに」
ステージ上、純子の胸元で何かが煌めいた。
逆光が強くてよく見えない。
――アクセサリだろうか。
「だから私は」
光は、純子の手元にある。
純子の手に、一振りの、果物ナイフが握られている。
和久は反射的に立ち上がって。
「止めろバカ野郎! それを手から離せ!」
絶叫した。
何よりもあってはならないことが起きてしまう。
純子は一瞬だけ和久の顔を見たが、すぐに目線を外して。
「私は、預かっていた歌を天に返そうと思います」
はっきりと言ってから。
『この乳房で眠りなさい、側にいてあげるから。貴方は言葉、宝物のような――貴方は魔法、豊かな土――側にいて、ずっとずっと側にいて――Qis-Mah……Qis-Mah……………………それが私達の、初めからの運命(キス・マー)――』
ぼそぼそと掠れた声で、自分にしか聞こえないぐらいの声量で歌った。
和久は村人を掻き分けて、ステージに上がろうとしている。
純子は、ホールの入り口で満足そうに微笑む菜月を見て、母親のように微笑む。
そして一気にナイフを持つ手に力を加えて――
超然と、笑顔のままで。
自分の喉を刺し貫いた。
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