第30話 不協和音
安里純子の家には誰もいなかった。
何か重大なトラブルでも起きたのか、と和久と小町は危惧したが、隣家の住人に話を訊いてみると、
「いつもの、スタジオって所にいるんじゃないかな」
とのことだった。
言葉の意味も分からずに、教えられた場所に向かってみると、そこには村人達が物置に使っている倉庫がたくさん並んでいた。
その内の一つの倉庫の前に、『スタジオ用』とごくシンプルに書かれた立て札が出ていた。
子供が作ったような牧歌的でレトロな木製の立て札だが、赤く塗られた三角屋根が付いていて、雪が積もらない程度には工夫がしてある。
倉庫自体には入り口が無く、シャッターも下りていた。
特に派手な装飾があるというわけでも無く、色も外観も地味で目立たない。
「……ただの倉庫だよなあ、小町?」
「……ただの倉庫だよねえ、和久くん?」
和久は小町と顔を見合わせる。
村一番の歌い手が倉庫の中で何をしているのか、さっぱり想像がつかない。
目の前にいても物音一つ聞こえないので、小町は不審そうに和久を見た。
「もう一度、純子さんの家まで戻った方がいいのかなー? 行き違いになったのかもしれないよ」
「かもな。その前にとりあえず、調べてみっか」
おどけた仕草で微笑む和久は、倉庫のシャッターをがんがんと叩き始めた。
ぼた雪が降る静けさに満ちた山王Z村に、心ない騒音が響く。
「わあ、和久くんったら強引で乱暴……」
うっとりと感心する小町である。
以前に笑い(コメディ)の技術を蘇らせようとしたエディならば、絶好のツッコミどころであった。
しばらくしてから、
「ちょっと、うるさいですよ!」
聞き覚えのある怒声が発せられた。姿が見えないので和久達がきょろきょろと見回すと、
「こっちですこっち!」
更に怒声が重ねられた。
和久と小町が声のする方を追いかけて裏手に回る。
倉庫の脇に小さな扉があった。
すでに閉じられてしまっている。
「隠し扉だね……!」
張りつめた声を出す小町を無視して、和久は扉をノックした。
すぐに扉は開いた。
和久が真っ直ぐに奥を見据えるが、誰も見えない。
「……?」
「どこを見てるんですか」
声の主である小さな輪郭が下方にあった。
前髪の隙間から見上げてくる、つぶらな右目。
菜月だ。
安里純子のマネージャーを自称し、ホールでのライブを仕切る少年である。
「わ、菜月くんだ! こんにちはー!」
小町は早くも緊張がほぐれている。
「あ、こんにちは。毎回ライブに来られてる方ですね。それと貴方は……」
菜月は和久の顔を窺う。
「和久さん、ですよね?」
「俺のこと知ってんのか、ガキ?」
「それは有名人ですから。冬姉さんの次ぐらいにはね」
すかしたような笑顔で、菜月ははきはきと答えた。
プラントで会った少年と違って、物腰がずいぶんと大人びている。
「冬姉さんなあ。あのへんてこ緑猿も慕われたもんだな、小町」
「だって和久くん、そりゃ冬ちゃんだもの」
答えになっていないが、村人にとってそれ以上の答えは必要が無い。
「何の用か知りませんが、せっかく来たのですから中にどうぞ。騒音は勘弁して下さいね」
菜月はそう言って、和久と小町を迎え入れた。
倉庫の中は、外観からは想像もつかないほど整然としていた。
相当の時間をかけて改装を施したのだろう。
和久や小町には未知の光景だが、それは古代の者が見れば一見してスタジオブースと分かる風情であった。
エレキなどの各種ギター、ドラムセットなど、楽器や音楽機材がそこかしこに置かれている。
――この資源の無い山王Z村で、よくもここまで揃えたものだ。
まるで最初からそこにあったようだ。
そのど真ん中にあるシンセサイザーに座って、だらりと鍵盤に体を預けている、痩せた女性がいた。
生気が無さすぎて、シンセサイザーの一部とすら見えた。
「あっ……純子さん……」
小町が、押し殺すように呻く。
「へ? マジかよ?」
和久は臆面無く言った。
「あれが、か?」
女性は安里純子、その人だった。
ステージで見た艶やかな印象とはまるで違う。
メイクもしておらず、髪もボサボサに伸ばし散らかしている。
和久達と大して年齢は離れていないはずだが、若さを感じない。
毎週のように彼女を見続けていた小町が、顔を凝視してようやく気づいたのだ。
「菜月、何で入れんのよ……」
だるそうに純子が、鍵盤の上で体を動かす。
その度に不協和音がシンセサイザーから響く。
「純子さん、最近人と喋ってないでしょう。たまには人と触れあって言葉を話さなきゃ。それにこの人達、ライブの常連さんです。一人はあの冬姉さんのお友達ですよ」
「こっ、こんにちはー」
小町が深々と頭を下げた。
和久は特に挨拶もせずに、純子の挙動を観察する。
冬の名を出されても、何の表情の変化も無い。
それどころか、「ふん」とふてぶてしい態度で鼻を鳴らす。
ここ最近、多くの人物から感じる奇妙なデジャビュを、和久は純子にも感じた。
「それにしてもすっげー楽器の量だな、純子さんよ。俺にはガラクタにしか見えんが」
「でしょうね」
和久の暴言に、純子は投げやりに答える。
「あんた、古代の音楽ってヤツを蘇らせたんだったな? 何がきっかけで、そんなことを始めたんだ?」
気怠そうに、純子が長い髪をかき上げる。
「……昔、ホールにあるグランドピアノを偶然触ったのよ。綺麗な音だな、もっと綺麗な音を出したいけど、やり方が分からないな――って思って。せんじーに頼んで、昔の音楽の本を探してもらって、穴が空くほど読んだわ」
「本だけで、あんな曲が作れるんですか!」
小町が惚けた声で訊く。
「まあね。思ったより書籍は見つかったんだけど、限界はあるわね……そこからは独学よ。楽器持って適当に弾いてりゃ、コツなんかすぐに掴めるわ」
「独学……すっごい、あれだけの曲を……」
驚愕しっぱなしの小町であるが。
「お前だって同じだろーが、暴走馬」
小町のスケート技術も独学と感性で形作られていて、誰かに教わったものではないのだ。
「この村の人間と来たら、メロディも、ハーモニーも知らないんだものね……」
唾棄すべきことのように言って、純子が体をくねらす。
不協和音が重なる。
音楽に疎い和久といえども、尻の据わりの悪い不快さを感じる。
それが耳に入っていないのか、誇り高い笑顔ではにかむ菜月が、胸を張っていた。
「どうです? この通り、純子さんは天才なんですよ!」
「ほー、心酔してるんだな、ハナタレガキ……菜月だっけか」
水を差すように、和久は述べた。
「はい。何と言ったって、僕は純子さんの曲を最初に聴いた人間ですから! あのときから、僕は純子さんの側でお手伝いをすると決めたんです」
眩むほど輝いた目で、菜月が純子を見る。
だが当の純子は鬱屈とした態度で、天井を見上げていた。
「菜月くん、私みたいだね」
小町が声を上げる。
「私もね、冬ちゃんの気持ちに感動して、冬ちゃんを手伝うことにしたんだよ」
「へえ、それは光栄ですね! あの冬姉さんのお側にいられるなんて……しかし」
ほんの少し、菜月の瞳が不審そうに曇る。
「どんなことを手伝うんですか?」
「あーっと……それはね」
「余計なこと喋るんじゃねーよ、ド天然暴走馬」
和久は牽制するかのように、小町のポニーテールを握って引っ張る。
「ご、ごめんなさいー和久くん」
後頭部を抱えて痛がる小町を見上げて、菜月はぽかんと首を傾げている。
冬がしていることを説明しても、菜月を含めた村人は理解出来ないだろう。
話しすぎても混乱を招くだけだ。
「あの、そういえば和久さんと小町さんは、純子さんにお話があって来たのでは?」
菜月の質問に、小町はようやく本来の目的を思い出したようだ。
「そうそう。あのね、この前の純子さんのライブに来てた村の人達が、大事なお仕事をサボり始めてるみたいなの」
包み隠さず、直球ストレートに小町は告げた。
「村の人達が……?!」
菜月はぎょっとする。
「他に共通項がねーんだよ。そこの女の変な曲を聴いた人間だけが、無気力になって仕事サボってるんだぜ」
「そんなことが……し、しかし、この前のライブでは、特に不審なことはありませんでしたよ。ねえ、純子さん?」
菜月は今にも泣き出しそうになっていた。
「……さーて? 何かあったのかもしれないし、何も無かったのかもしれないわねえ」さもどうでもいいことのように、純子は呻く。「心を揺さぶる歌はそういうものであるのかもしれないし……そんなの幻でしかないのかもねえ。ここの天井裏に住んでるネズミ君達なら、私が歌うと静かになってくれるわよ?」
その仕草はあくまでも気怠く、素っ気なく、上の空で、無関心で――
無気力だった。
何らかの感染病に罹患して、熱に浮かされているようにも和久には見えた。
「す、純子さーん……ちゃんと否定してくれないと……」
菜月は震える声で懇願しているが、純子の耳には届いていないようだった。
小町も困惑した様子で、和久に目で助けを求めてくる。
諦観するように、ため息を吐いた和久は。
「最後に訊くけどよ。あんた、冬のことをどう思う? あの猛毒緑ゴリラのことをよ」
淡々と無骨な口調で、純子に訊いた。
純子はゆるりと、和久に視線を向けて。
「この山王Z村のご主人サマ――それだけでしょ」
蔑むような三白眼で、だらりと述べた。
「す、純子さん! この場にいないとはいえ、冬姉さんに何てことを!」
菜月が喚いているが、純子は和久に眠たげな視線を向けたまま。
「私のライブで何か起きるんだとしたら、明日のライブにもまたいらっしゃい……気をつけて聴いていれば、何か分かるかもしれないわね?」そう言って突然。「あっははは……あはははははははっ!! 傑作が聴けると思うわよ! あはははは!」
壊れたように笑い始めた。
とんでもなく高くて声量のある、即興の歌のような美しい哄笑だった。
和久も小町も、そして菜月も、倉庫の中で純子の笑い声を、歌を愉しむかのようにしばらく聴き続けた。
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