第25話 Kyrie eleison

 安里純子は半年程前から、ホールでライブを開いていた。


 使用する楽器はグランドピアノ一つ、スタイルはシンプルな弾き語り。


 グランドピアノは、ホールの片隅で埃を被って放置されていた物を補修して利用している。

 山王Z村の創設時代からある物だが、これまで扱える者がいなかった。


 そこに現れた純子は、天才的な閃きを持って古文書の情報を研究し、音楽理論をこの時代に蘇らせたのだ。

 玉石混交の古代の民謡等を除けば、山王Z村で音楽を親しむことは不可能に近かった。


 特に足りなかったのが、歌であった。


 冬の力の影響なのか。

 村人達は、自分達の日常を歌曲に託す発想を失っていた。


 そんな状況で純子は、独学で作った新しい歌の数々を提供し始めたのだ。

 その刺激といったら、採れたて新鮮の遺伝子操作野菜をふんだんに使った料理も、足下にも及ばない。


 村人達は、純子の生み出す歌を歓迎した。


 最も純子の歌に感動したのが、何を隠そう冬であった。


 ホールの奥。

 淡くライトアップされたステージの上で、ブルーのドレスに身を包んだ純子が、牝馬が駆けるようにしなやかな指さばきでグランドピアノの鍵盤を叩いている。


 その喉から紡がれる声音は、時に小鳥のさえずりのように優しく、時に地鳴りのような重い響きを持ってホール全体に広がっていった。


『どこから来て どこへ行くのか 風の吹くところ 命は生まれる――Ruwach Ruwach――芽生え 枯れ果て 黄金の秋―Ruwach―』


 うっとりと、感嘆の声も漏らさずに村人達は聴き入っている。

 純子の曲、そして歌の中に聴衆は、失われた『四季』の変わりゆく情景を見いだす。


 純子が今弾いている曲は、純子が古代の文献で知った季節のイメージを再現するために作った曲なのである。

 純子はライブでは必ずこの曲を弾く。


 天上の世界を現した荘厳な曲に神を感じるように、知らないはずの季節を感じて、村人達は酔いしれる。

 その様は疑似的な古代世界の夢に、人々が囚われているかのようであった。


 最前列でかつては礼拝に使われていたという長イスに座り、緑茶をすする冬もまた、例外では無い。

 気持ち良さそうに瞼を閉じ、曲調に合わせて、ゆらゆらと体を揺らす。

 純子の歌声に心から感応し、体の隅々まで堪能している。


 自然にまどろんだ微笑みが、柔らかな照明を照り返していた。


 その隣の小町も、同じように純子の曲に酔っている。

 ぼそぼそと唇が動いているので、どうやら一緒に歌っているらしい。

 冬以上に純子のライブに通いつめていた小町は、純子の代表的な曲の歌詞は、殆ど暗記してしまったようだ。


 ――よくもそこまで入り込めるものだ。


 正直に言って、和久には純子の音楽が全然分からない。


 曲の調子がいい、というのは何となくだが、分かる。

 だがそれが何を表現しているのか、どうしてそこまで心に染みいるのか、というところまでは一切共感出来ない。


 特に頭に入らないのは歌詞だ。

 

 通りすがる風の音のように、耳や意識を抜けていく。

 和久はただでさえ村人とは言語の感覚が違うのだから、歌詞に込められた寓意や意味など、読みとりようが無かった。


 一度和久は冬に、


「なー、どういう意味なんだあの歌? ガキのわめき声ぐらい意味が分かんねーんだが」


 と訊いたことがあるのだが、


「純子さんの作る曲や歌詞を、私がそう簡単に解説出来るわけないでしょ! 体と心で感じればいーの!」


 怒濤の勢いでまくしたてられた。


 冬や小町は曖昧なあの歌詞に聴き入って、意味も分からないのに記憶しているらしい。

 和久はますます理解に苦しんだ。


 共感出来たものと言えば、冬の胸元で音楽などには一切興味無く、ぐっすりと眠っている毒蛇のバジルぐらいのものであった。

 そんなわけで、和久は愉しむことは早々に諦めた。


 今は耳を傾けることもしない。

 ライブに来ている時は、ずっと冬の様子を眺めることにしている。


 間近に見る冬の自然な笑顔は、和久にとって貴重なものだったから。

 今日も純子の歌は、ただただ和久をすり抜けていく。


『Kyrie eleison ――立ちていて、たどきも知らず――Agnus Dei――我が心天(あま)つ空なり、土は踏めども――Kyrie eleison 』


 その曲は、冬が最も愛する曲らしい。

 和久は矢張りぴんと来ない。


 冬の陶酔具合は最高潮だ。

 頬を次第に朱に染めながら、首筋をうーん、と伸ばす。

 晒されたうなじと湿り気を持って光る肌が、妙に艶めかしい。


 じっと見ていた和久はふと照れを感じて、自分を誤魔化すように席の後ろの方を見た。


 違和感。


 ホール内に、曲に酔っているのとは異なる視線を感じる。


 違和の先を目で辿ると、聴衆の背後に菜月が立っているのが見えた。

 菜月は純子のマネージャーを自認していて、子供ながらもこのライブを仕切っているそうだ。


 この村では若い者が自発的に働くことを由としているので問題は無いが、それにしても大人びた仕事と言うか――


 夜の大人達に囲まれた、艶めかしすぎる仕事であった。


 弾き語る純子を見つめながら、口の端を上げて満足そうに笑っているが、その表情は陶酔のそれとは矢張り違う。

 ホール内の空気に、純子の歌声に、目まぐるしく視線を向けて、納得するように頷いている。


 和久はしばらく、菜月の顔を眺めて、考えてみて。


 その笑顔が示す感情は〝誇り〟だ、と気づいた。

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