第23話 雪解を歌う

「信仰の始まりは蛇であって、人はその毒を畏(おそ)れたのだよ」

 

 落ち着いた、バリトンの効いた声だった。


 最初は冗談かと思ったが、言葉尻が引き締まっているように感じるので、恐らく真剣に語っているのだろう。

 意味が分からなかったので、和久(わく)は声の主に向き直った。


 外は猛吹雪。


 ごうごうと悲鳴のような共振が、窓から見える闇を乱舞している。

 とても外には出られそうにはないので、今夜は泊まっていくことになった。


 ここは四方を氷雪に閉ざされた『山王(さんのう)Z村』、その更に奥にある館長室。


 暖炉で爆ぜる火花のおかげで凍えることは無いが、ソファの上で縮こまって風の音を聞いていると、捕らえ所の無い不安や、理由の無い居心地の悪さが押し寄せてくる。


 冬(ふゆ)は、眠気に負けて自分の部屋のベッドで眠ってしまった。


 今ここにいるのは和久と、彼――

 冬の父親、二人だけである。


「俺が蛇みてえな不気味な生き物を見たのは、この村に来てからが初めてだけどな」


 和久が祖母と二人、必死に世界を旅していた時には、蛇という生物の名前も知らなかった。


 変温動物である蛇は寒期に耐えられず、人の文明の崩壊より一足早く地の底で眠りについていたのである。


 名前の無いものは存在しない。

 名前を知ったからには存在する。


 シンプルかつ卑小で矮小な考え方だが、世界を俯瞰して考えられるようなコミュニケーションの取り方を、和久は知らなかった。


 そう述べると、冬の父は僅かに微笑んだ。


「不気味と見るのは、人間の心に蛇への原始的な畏れが宿っているからに他ならない。和久くんも生まれた時には、すでに蛇に対する畏怖を知っていたはずなのだよ」


「名前を知るより前に、怖がってたってことかよ? 分かんねーものを怖がるなんて、ただのバカじゃねーのか?」


「人間は、分からないものを恐怖する。分からないということは、生きる上で不安に繋がるからね。人間は経験を積み、未来に起きることを予測することで恐怖を克服することが出来るのだ。では、人間が永遠に分からないものとは何かな?」


 冬の父は両手を広げて、おどけるように訊いてきた。


「くたばったら、どーなるかだろ」


 和久がすぐに答えると「その通りだ」と冬の父は満足そうに頷いた。


「人間は知性を得て己が死ぬということを理解した。その瞬間、死んだ後にはどうなるか、という命題を永遠に理解出来ないことに気づいてしまった。だからせめて、死の概念を操ることで誤魔化すことにしたわけだな。そこで利用されたのが、蛇だ」


「なんで蛇なんだ? バジルなんかちっぽけで、冬にくっついてるだけだぜ」


「蛇という生物は、成長の過程で脱皮する。遺伝子的操作を受けた、バジルも例外では無い。蛇は皮を脱ぎ捨て、新たな体を得る。即ち、死して再び生まれる存在なのだ」


「へっ」


 和久は嘲笑した。


「脱皮なんて、他の生き物だってするんだろ? 俺はあんまり見たことねーけどよ、大げさすぎる言われようじゃねーか」


「また――蛇は毒を持つ。生物界においても特異なほどに強力な、かつ、分かりやすい猛毒だ。他の生物には逃れ得ぬ死を与え、己は再生し続ける。終わりの無い無限を司る蛇の伝説は、古代の更に古代に遡る。同時に蛇は大地を這い、人を害する獣を食らう、益獣でもあった」


「殺したり助けたり、忙しいヤツらだな……」


 和久は呆れた。

 蛇の習性にでは無く、蛇の扱いをころころと変えた人間達に対してだ。


「ああ、忙しいな。更に蛇は、その煌びやかな鱗から太陽の神ともされ、水場を好む習性から雨の神ともされた。その姿から男性の神であるとされ、女性の神であるとも言われる」


「待った待った。さっきから矛盾っつーか、何でもありすぎやしねえか? クソ蛇ごときが」


「クソと言う言葉はさすがに良くないな」


 冬の父が苦笑する。


「まあ、何でもありだね。善も悪も――そして生も死も。全てを押しつけられる格好の存在が、人間にとっては蛇だった。蛇を騙(かた)ることで死を誤魔化し、畏れた。その万能すぎる毒に、己が身を滅ぼされないように」


「なるほどねえ。俺は別にどうとも思わんけどもな。どうでもいーしよ」


「そう」


 冬の父はすかさず答えた。


「君は蛇の毒を畏れない。そこが重要だ」


「……何が重要だって?」


 和久は訝しむ。


「君は外からやってきた。私が苦労して創り上げた、この村のルールを一切無視出来る、圧倒的な他者だ。山王Z村の村人は私の娘、冬を敬い、無意識では畏れているが、君は違う」


「ああ、冬か。まああいつの猛毒体質にはびびったし、俺は人間と喋ったことが全然無かったからよく分かんねーけどよ……別に怖いヤツではねーだろ。あのクソ蛇、バジルが噛んだ傷も何とかしてくれたぞ。ババアみてえに顔に皺寄せて、嫌そうだったけどよ」


「あのように冬が、本心から怒りの感情や不快感を見せたのは、君が初めてだったよ」


「……そうみてえだな。あの緑猿は俺のこの言葉が嫌で、怖いんだろ? だったら、この村に後から来た俺の方が、よっぽど危ないヤツなんだろ。ケッ。何が毒舌だよったく、クソが」


「ふふ、そうだな……」


 冬の父親は、眉根を寄せて天井を見上げて、述懐するように。


「初めに言葉があった、というのは嘘だ。言葉は、毒の後からやってきたのだよ」


 と言った。


 冬の父が病に倒れる、数日前の会話である。

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