第16話 音
外の気温は相変わらずで、呼吸する度に肺に負担がかかり、自分の白い息で視界が濁る。
空は珍しく澄んでいる方だ。
少ないながらも、陽を浴びた家々が気持ち良さそうだった。
ただし若干霧がかかっているので、足下には注意が必要である。
和久はいつも通り、ブーツを踏みしめて慎重に歩く。
小町は外では常にスケート靴を着用しているらしく、徒歩よりは遙かに早い。
勿論、目にも留まらぬスピードは冬によって禁止されている。
雪かきされているとはいえ、歩道の表面はそう簡単に人間がスケート靴で滑れるほど、平坦には見えない。
小町は重心を巧みに傾け、障害物を数百分の一ミリ単位で避け、自分だけに見えるリンク――
いや、コースを通っているのだ。
矢張り小町は、古代にもいなかったほどの天才的な才能の持ち主なのだろう、と和久は改めて思う。
生まれる時代を選ぶことはどんな人間にも出来ない。
得られる才能を選ぶことも。
和久が置いていかれないように足を速めると、小町はくるくると和久の周囲を旋回して待つ。
その動きがいちいち様になっているため、和久は自分が大きなブーツでとぼとぼと歩いているのが惨めになった。
「こうやって滑りながら、荷物運ぶのを手伝ったりするんですよー。みんな効率がいいって喜んでくれるし、子供は嬉しそうに拍手してくれてですねー」
ブレードを僅かな陽光に煌めかせて、無邪気に小町は笑う。
確かにスケートは、物資の運搬には優れている。
遙か古代の人々は、多量の荷物を持って凍結した河川や湖を越える時は、スケートやソリなどを用いていたそうだ。
本来の利用法としては、小町のスケートは充分、村に貢献しているようだ。
「……殺されなくて良かったな」
和久が呟くと、小町がぐるんと旋回して振り返った。
「なんですかー?」
「な、なんでもねーよ」
なるほど成長している、注意力も申し分ない。和久は冷や汗をかいた。
和久と小町は、一緒に数件の家を周り、何人かの村人に話を訊いた。
被害者となった村人は複数いて、エディの隣家を含む近所の住人が殆どだった。
皆、小町が言っていた謎の本を朗読させられていたそうだ。
思っていた通り、エディを憎む者はいない。
村人達のエディへの印象には、気になるところは無かった。
言葉は少ないけれども、栗色の髪が清潔そうな、優しくて良い子。
顔立ちが綺麗な、柳腰の美少年、らしい。
厭われる要素は無い。
子供に懐かれていたこともあり、イメージは良かったのだろう。
気になる情報は、他にあった。
暴力を奮われたと証言した村人達は、誰も怪我を負っていなかったのである。
小さな怪我も、大きな怪我も無い。
ある村人はこう言っている。
「まあ、多少は痛かったけどねえ。後に残る怪我みたいなもんはしてないなあ。音はでかかったけどなあ」
ただ、音だけが。
村人達の印象に強く、焼きついていた。
叩かれた時の派手な音が、耳に残っている、と村人達は口々に言ったのだ。
しかもエディは、体の同じ部位を何度も叩いたり、何もせずに首を傾げたり、奇妙な行動を取っていたそうだ。
エディは一体どうして、相手を痛めつけない、それでいて派手な音という証拠はしっかりと残すという暴力を奮っていたのだろう。
人の急所を探ってでもいるのだろうか。
和久は首を捻るばかりだ。
「なー、メス暴走馬。お前なんか思い当たることねーのか? ついこの前まで暴力奮ってた身分としてよ」
「うーん……無いです。私の場合は、人に怪我させてたことに気づいてなかったんですから。そのエディさんは、堂々と、人の頭を殴ったり胸や背中を叩いたりしてるんでしょう?」
小町は和久の、心を貫くような暴言にも平気で応じた。
まだ毒舌に反応するほどには、自意識が目覚めてはいないのだろう。
「分かってて人を攻撃してる――お前とは違う、むしろ逆っつーことか?」
「分かんないですけどねー」
小町は呑気に言う。
結局村人に話を訊いただけでは何も分からない、ということが和久にも分かった。
和久と小町は、直接、エディの家にやってきた。
大胆すぎる気もしたが結局のところ、本人に何をしたいのかを訊き出すのかが一番早い。
何の自覚も無く他人に暴力を奮っていると確信出来れば、冬に報告に行こうと和久は考えていた。
何かあったら、小町に少々急いでもらって、冬を呼んできてもらえれば良い。
しかし、エディは留守だった。
玄関のドアには鍵がかかっていない。
エディが不注意なのでは無く、この村では鍵をかける習慣が無いのだ。
和久と小町は、失礼ながら勝手に家にあがることにした。
一人暮らしのエディの生活は、粗末なものだった。
和久とは対照的に、家の中は散らかり放題である。
元々は両親と過ごしていたのだろうからそれなりに広いが、物を整理した形跡も無い。
掃除も滅多にしていないと見えた。
木の床には埃がそこかしこに積もっていて、ふわふわした灰雪(はいゆき)に埋もれているようにも見える。
小町が一瞥して、頓狂な声をあげた。
「うわー……和久くん、私、お掃除してあげていいですか?」
結構本気そうだった。
「何しに来たんだよお前は……余計なことしなくていーんだよ。この家の主が、冬にお掃除される予定なんだからよ」
「それもそうですね……って、まだ分からないじゃないですか」
小町が悲しそうに抗議する。
冬を手伝う、とは言うが矢張り人を罰することには全く慣れていないのだ。
和久も、慣れているわけでは無いのだが。
部屋の奥に進むと、床やテーブルの上に何冊も、本が溢れていた。
表紙や中身を見てみたが、和久には全く読みとれない。
古代に使われた先史文字らしいが、そもそも和久は殆ど字が読めない。
「おい、この本読めるか、お前?」
促された小町が本を手に取り、舞い上がった埃に包まれて、けほけほと咳をした。
涙目でじっと表紙を見つめる。
「〝お〟……〝い〟……〝千〟……? 駄目です、読めません。私もあんまり本は読まないですから。平仮名以外は苦手です」
「そうか。しかし、隣の家のクソガキは朗読出来たんだろ? 何でだろうな」
小町はマフラーで喉を埃から守りながら、
「エディさんが自分で書いたんじゃ? 翻訳、って言うんですかね。本の内容を、分かるように書き写したとか――本人がその本を持ってるなら、ここには無いでしょうけど」
くぐもった声で述べた。
なるほど、理が通った推理だ。
「冴えてるじゃねーか暴走馬。無能で思いこみの激しい天然のバカだとばっかり思ってたが、ちょっとは使えるな」
「そうかな~? それほどでも無いですけどー」
明らかに毒舌の方が多い賞賛に、小町は恥ずかしそうに身をよじる。
「しかし読めないとなると、何がしたいのかはさっぱり分からねーな」
本人に訊くしか無いなあ。
和久は残念そうに呟く。
この件は思ったよりも、遠回りで時間がかかるようだ。
真実が目の前にあるのに到達出来ない、霧に包まれているような印象だ。
「……和久くん、これは何でしょう?」
いきなり囁いた小町は、部屋の隅を見て怪訝な顔をしていた。
視線の先には、何やらゴミとも判別のつかない物が、無造作に置かれている。
和久はゆらゆら揺れる小町のポニーテール越しに、それをまじまじと見た。
初めは丸められた棒に見えたが、違った。
形状が蛇腹になっている。
折り重ねて畳み、片方を固めて手に持って使うようだ。
幾重にも重なった刃のような凹凸が、実に不気味だった。
使い古されたのか、捻られたかのように折れ曲がっている。
「こりゃ何だ? ……道具か?」
戦慄した和久が、ぼそりと呟く。
「もしかして、人を殴るための、ですか?」
小町は目を白黒させて言った。
改めて言われれば、和久にもそう見える。
何かを強く殴ったり叩いたりしない限り、あのような形に折れ曲がったりはしないだろう。
何かを、強く殴ったりしなければ。
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