第12話 毒舌男
しんと毒物館は静謐に満ちている。
館内の毒性生物――かつて蠱毒の術のために集められた――の何種類かは、夜行性という厄介な習性のために、ケージの中で元気に動き回っているが。
手の甲に一対の穴を開けた和久は、それをまじまじと観察しながら毒物館の回廊を歩く。
そんな和久を、冬は愉快そうに後ろから眺めていた。
小さな足を大きく開いて行進するように歩き、和久に追いついてくる。
「これで七度目だな……バジルに殺されかけたのはよ……」
和久はため息を吐いた。
冬に解毒してもらえなければ物の数分で死んでいただろう。
バジルの牙は、間一髪どころかストレートに和久の手に食らいついた。
殺されかけたどころか、バジルには必殺にして漆黒の意志が確実にあった。
「小町ならちゃんと避けたんだろうね。和久はつかえねーなー」
冬がけらけらと笑う。
ちなみに小町は、またソファで眠りこけてしまっていた。
人間の限界以上の運動能力を発揮して、あの特殊なスケート靴を履きこなしていたのだ。
その上、致死量の猛毒に全身を冒されていたのだから、体力は限界だったのだろう。
和久と冬は、一晩あのまま眠らせてやることにした。
「黙れ緑猿。お前がちゃんと教育しとかねーからだ」
そう言う和久も笑う。
「それにしてもさあ、小町はどうしよっか? もうスケート靴で暴走なんてことはしないだろうけど、村の主としては悩むところだよ」
冬の毒の力にも、小町は気づいてしまった。
ギリギリで生かしたこともあり、冬は今後の責任の所在に悩んでいるようだった。
「別にいいじゃねーかよ。四の五の言わずに、使いっぱしりにでもすりゃーよ」
「……そう簡単に決めていいことじゃないもん。村のことは慎重に決めるよ。ルールがある以上、私がテキトーに破っちゃいけないから」
まだるっこしいなあ、と和久は軽口を叩く。
「人を傷つけないと決めた人間が手伝いたいって言うんだから、手伝わせときゃいいんだよ。この頭の堅い緑ゴリラのバカ女」
「…………」
険しい顔で冬が押し黙り、立ち止まったことに、和久は気づかない。
「大体お前、あのバカ娘にそのクソったれな毒液流した時点じゃ、ちょっとチャンス与えようとしてやがったんだろ?」
「…………」
「そのしょーもない頭でよ、ションベンくせー女友達でも作れればいいって魂胆だったんじゃねーのかよ、死にかけの唐変木がよ」
「わ、わ……」
あーん、と適当に返事をして振り返り、和久はようやく冬が自分を睨みつけながら、肩を震わせていたのに気づいた。
「わ……和久は、さあ……いっつもいっつもそうやって、毒舌ばっかり吐くけどさあ……今回は、人を殺すべきかどうかってところで、何とか殺さずに済んだのにさあ……」
「お、おい……冬、待て、待てよ。俺のこの言葉が、わざとじゃないってことぐらい、クソったれのお前も知ってるだろうが」
和久が青ざめる。
まずい、と思ったがもう遅かった。
冬の唇はわなわなと痙攣し、目にはたっぷりの――
緑色の涙が溜まっていた。
「クソってゆーな……それに私だって、殺さなくて済むように、いっつも悩んでるのに、上手く助けられたのに……こんな時ぐらい、元気づけてくれてもいいのにさあ……」
「分かってる、分かってるって!」
クサレ脳味噌が。和久はニッコリ笑って言った。
とどめの一撃だった。
「……そんな非道いこと言わないで、黙って誉めてくれても、いいじゃないかあー!」
大口を開けて、大声を上げて、わんわんと冬は泣き出した。
直線的な、大号泣だった。
「し、しまった……!」
――近づけない。
本当にどうしたらいいのか、和久には分からないのだ。
緑色の瞳から、エメラルドの光沢を持った涙がぽたぽたと床に流れ落ちる。
冬が心の底から流した涙だ。恐らく近づくことすら危険な猛毒である。
もう誰にも、涙を拭いてやることも出来ない。
いや。それ以前に。
和久は、冬の傷ついた心を癒すための言葉を、知らなかった。
――分かんねーんだよ。どうして、俺の言葉でお前が傷つくのか。
和久はいつも笑っている。
和久はいつも卑屈にならない。
和久はいつも冬を尊敬している。
ただ。和久にはこの村の言葉が、良く分からない。
和久がこの村にやってきたのは、僅か一年ほど前だ。
和久は、冬が生まれてから、殆ど初めてと言ってもいい外部からの来訪者であり、世界に唯一と言ってもいい、旅人だった。
和久は滅びに瀕した外の世界を、名前という概念さえ知らず、名字だけを背負って、旅していた。
この山王Z村のようなまとまった集落は、希少すぎるほど希少だった。
和久は、ここ以外には一度も見たことが無い。この村に来るまで、人間も一人しか知らなかった。
その人間は和久の祖母であり、その祖母は、言葉が――乱れていた。
この村で言う〝毒舌〟でしか、祖母は和久とコミュニケーションを取ろうとしなかった。
和久にとっては、言語とは祖母の毒舌であり、それは決して忌むべき悪ではない。
毒舌は、和久の孤独な倫理心に染み着いた母語だ。
悪い言葉なんて一つも無い。
祖母が死に、一人で旅をして、この村に偶然辿り着いた時に、和久は初めて自分の言葉で人が傷つくことを知ったぐらいなのだ。
――あのとき。
冬は初対面の和久との会話で、非道く傷つき、ぼろぼろと涙を流した。
幸か不幸か、村の人間達は、和久の毒舌に拒絶反応を示さなかった。
心に毒を持たない人間達は、言葉で傷つく、という心理が理解出来なかったようなのだ。
和久の言葉で泣くのは、この村では冬一人だけだ。
人を数秒で殺せるほどの猛毒を持つ冬は、和久の毒舌がとても苦手だった。
今回もずっと、冬は傷ついていたのだろう。
それは分かっていたが、和久は自分の言葉のどこで、冬が傷つくのかが分からない。
どれほどこの村の言葉を習っても、どの言葉が悪いのかと聞かされても、未だにピンと来ないのだ。
もう、一年になるのに。
――あのとき。
冬も、和久を殺そうとはしなかった。
和久が決して、村の人間を傷つけようとはしない、心に毒を持たない人間だと冬は分かってくれた。
たった一人の旅人だった和久は、たった一人で村を守ろうとしていた冬と出会って、共にこの村を守ろうと誓ったはずだったのに。
冬は未だに、和久の目の前で泣き喚く。
「和久のバカ! バカやろー! もう和久なんて嫌だ! 死んじまえ!」
冬はいつの間にか覚えてしまった、稚拙な毒舌を吠えている。
「……ったく、このダサくてきたねー、クソったれ緑め」
聞こえないように呟きながら、和久は静かにその場を去った。
毒性生物の館の中心で傷心する冬が、これ以上傷つかないように。
「バカ! 毒舌男! さっさと私の村から出て行け!」
冬の泣き声はずっと遙か遠く、夜明けの雪景色にまで響いていた。
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