第9話 逃げても無駄だよ
大して走ったわけでもないのに、冬はひいひいと肩で息をしていて、上手く言葉が紡げないようだ。
普段から力仕事をしないだけあって、体力が徹底的に欠けている。
「わ、わ、わ、分かった。ここまで逃げるなんて、あ、あの娘、なかなか根性あるわね」
滝のような汗をかきながらも、冬は根を上げない。
大した根性なのは冬の方だ、と和久は思った。
今も、これまでも、そして和久と出会うまでも。
和久は強く生きる、という意味では彼女に勝てる自信が無かった。
「気配はしねーけど……」
和久が見回す。
「近くに隠れてるんじゃないのか、あのバカ娘。どうする? 待つか?」
「そ、その必要は、無いよ」
冬は深呼吸で、必死に息を整えている。
「バジル、お願い!」
冬のコートの胸元から、するするとエメラルドグリーンの蛇、バジルが這い出てきた。
雪の上に降り立ち、つぶらな瞳がくりくりと動く。
バジルは、グンプレヒト・グリーン・ピットバイパーたる、古代の原種の特性を引き継いでいる。
それが蛇特有の感覚器官――ピット器官である。
ピット器官は、赤外線を感知する特殊機能がある。
これによってバジルは、温度や熱といったものを感覚で感じ取り、明暗に左右されること無く、獲物の位置を正確に把握することが可能なのだ。
この器官の原理は、古代世界の文明においてもサーモグラフィという技術に利用されている。
バジルは古代の原種に比べれば体が小さく退化していたが、このピット器官に関しては先祖を遙かに凌駕する〝性能〟を有していた。
バジルならば。
闇の中でも人が見える。
右へ、左へとバジルの三角の頭部が動く。
人でいう唇の位置に、ピット器官はある。
それを凍った闇に向けることで、バジルは小町を探しているのだ。
バジルの感覚を映像化出来れば、極低温の青い闇の中に、赤い生命の熱を帯びた太陽の如き人の輪郭が映るだろう。
静寂の中、和久と冬はじっと、動かずにバジルを待つ。
バジルの頭部が、冬達の前方右方向を向いて、止まった。
金属が擦れるような鳴き声で、きしゃーと鳴く。
それが合図だった。
冬は無言で、バジルが示した方向に弓を構える。
ひゅん。
放たれた矢が闇を切り裂く。乾いた空気をびりびりと振動させて、どすんと矢は民家の壁に突き立った。
「きゃあ!」
か細い悲鳴が響いた。
民家と民家の壁の隙間から、雪まみれの小町が、震え怯えながら進み出てきた。
「うう……冬ちゃん……」
小町は強すぎる恐怖のせいか、薄笑いすら浮かべていた。
「大人しくしていろ、とは言わないよ、小町。誰だって死にたくはないものね。殺されるなんて、なおさら」
冬が新たに構えた矢尻の先は、迷うこと無く小町を狙っている。
「うう、う……」
殺意に凍てつく心。
小町を見据える毒蛇。
触れただけで死ぬ、猛毒。
小町は、眼前の恐怖を見据えながら、足に万力のような力を込めていた。
ぎりぎりぎりぎりぎり。
凍った路面にヒビが入る。
「逃げてもいいけど逃げても無駄だよ」
ひゅん。
言い終わる前に、冬は矢を放った。
その瞬間を小町は待っていたようだ。
小町が動いた、かと思うと――雪が爆ぜた。
氷が散った。
風が凪いだ。
片足を軸に、小町は体の向きを変えていた。
冬と和久には、その動きが見えていなかった。
小町は、恐ろしく俊敏な動作で腰を落とし、自分の体にスピンをかけて、矢を避けたのだ。
「こ、こ……殺せるものなら、殺してみろぉ!」
小町が、冬を挑発する。
「和久、矢」
冬は顔色一つ変えず、和久から矢を受け取って舌を這わせる。
小町は目を剥いた。
「ふ、冬ちゃんの力は、私もなんとなくは知ってるよ。でで、でも、その矢、射るごとに舐めなきゃいけないんでしょ? す、隙だらけだから。当たらないから。私、ここまで逃げてる途中で分かった。見ようとすれば、矢の動きぐらい見える。避けようと思えば、それぐらい、避けられる!」
「やってみなよ」
冬が矢を射る。
氷霧が広がって舞い散る。
しかし小町はまたしても、今度は上半身を横に大きく反らしながらスピンして、間一髪のところで矢を避けた。
「ふふふふふ」
狂気じみた目で小町は笑っている。
「見えるし、避けられる。冬ちゃんの動きなんて全部読めちゃう!」
小町は冬に背を向け、疾走を始めた。
更にスピードを増し、降りしきる雪の中を突っ切る。
波紋を受けた水面のように、雪の層が何重にも渡ってたわむ。
「おお……すげえすげえ、あのバカ娘。しっかし、真っ直ぐ進んでも出口は無いのによ、単純バカ――」
和久は、言い終わる前に口をつぐんだ。
呆然と、小町の軌道を見る。冬も目を見開いた。
小町は――壁を走っていた。
僅かに、ほんの僅かに傾いた民家の壁面を、重力を無視して、滑り、昇っていた。
うおおおお、と少女らしからぬ唸り声を上げて。
長いマフラーが、天から地へとなびいて流れる。
非常識すぎるほど美しかった。
「和久……鯉の滝昇り、って言葉が古代にあったって知ってる?」
冬は感心したかのように述べた。
「し、知らん。意味は?」
「鯉って魚が、滝を昇るって意味」
「うん、そうか……まんまじゃねーかアホガエル」
「必死になると人間、あそこまで出来るんだね。スケートって凄い」
バジルまでも、うんうんと頷いている。
小町は、地面を滑るかのように壁面を滑って移動していく。
「いや……あれは凄いってレベルじゃねーんじゃないかな、多分」
和久は呆れながら首を傾げる。
「どう見ても人間が出来る動きの限界を越えてるぞ。あのバカ娘が古代に生きてたら、そのスケートって競技じゃ英雄か実験台になれる気がするんだが」
「ふうん。そういうもんか。でも、古代じゃ英雄でも、今では暴走馬だよ」
冬はそう吐き捨てて、新しい矢を弓につがえる。
射る。
小町が、後ろを向いたままジャンプした。
三回、いや四回ほどは回転しただろうか。
矢は虚空に飲み込まれて消えた。
チェック模様の小型の竜巻が、よろめきもせずに地面に降り立った。
はらり、と髪の毛が雪と共に舞った。
「……惜しい。本当に凄いな、文字通り間一髪で避けてるのね」
冬が感嘆して呻く。
小町は、はあはあと真っ白な息に表情を隠しながら、冬を睨む。
そしてすぐにまた疾走した。
大きな民家の壁を、殆ど地面とは垂直に昇っていく。
ガリガリと壁と氷が削れる音が響いてくる。
和久の言う通り、身体能力や技術というものを完全に超越していた。
「おい冬、あのバカ、このままの勢いじゃ……!」
和久は驚愕して、小町を追いかけようとする。
だが冬は何故か、手を出して制止した。
その間に小町は屋根に上がって、星空の高みから冬達を見下ろしていた。
マフラーとスカートに、ばたばたと強い雪風を浴びて。
「ここまでは追いかけては来られないよね、冬ちゃんだって。私、まだまだ辞めないよ。殺されたりもしない」
小町は、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「……だってよ。どーすんだ、冬? このまま村の外に追い出すって手もあるか」
それともやっぱり殺すか、と和久は低い声で言った。
冬は何も言わない。
矢を向けようともしない。
小町は怪訝に様子を見ながらも、動こうとしていた――が。
「あ……れ……?」
がくりと力が抜け、バランスが崩れた。
「!」
和久が駆けつける間も無く、小町は自死するかのように、屋根の上から真っ逆様に落下した。
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