第8話 バトラコトキシン

「……想像以上だな、冬」


 和久は忙しく目を泳がせながら、陶酔している小町の〝演技〟に魅せられていた。


 確かに、美しい。


「うん。この子の才能は本物だわ。そしてこの子には」


 滑っている時の情景しか、見えていない――。


 冬は四方を舞う小町に向かって、言った。


 小町の方には、冬と和久の会話は聞こえていなかった。

 訥々と小町は演技と言葉を続ける。


「――だからね、私、この速い世界のことをみんなに知って貰おうと思うんだ。でもその前に、もっともっと、試してみたいんだ」


「試す?」


 冬はじろりと小町を睨む。 


「どこまで行けるのか? どこまで速くなれるのか? どこまで綺麗に、どこまでこの星空の光を持続出来るかって」


「その裏で、誰かが傷ついてるとしても?」


「へっ?」


 小町は間抜けな顔で呆けた声を出した。その顔のまま、後ろ向きで滑っている。


「小町の速くて綺麗で、けれども曖昧な世界の中には、他人はいないんじゃない? 前へ前へ滑っていくことで、あんたにぶつかられて、苦しんでいる人が後ろにいることには気づいていないんじゃない?」


 小町は首を傾げて、


「誰も傷ついてなんてないよ? 私はずっと、滑ってるだけだもん……滑ってる間は、誰にも会ってなんてないよ?」


 屈託無く言った。

 和久は唖然とした。


「……マジか。ぶつかるどころか、誰にも会ってないなんて思えるのか、このバカは」


 無自覚。


 無意識。


 悪意は無い。


 他意も無い。


 憎悪など微塵も無い。


 人を傷つけているという自覚が――小町には無い。


 自分が毒である、という自覚が――小町には無い。


「これではっきりした。自分の怪我も見えないのね」


 冬が淡々と告げる。

 和久も理解した。


 小町は、怪我をしているのは自分だけだと思いこんでいる。

 人が怪我をしているのにも気づかず、他人の家の壁を破壊したことにも考えが及んでいない。


「……だって、痛くても滑るのが愉しいもん。いけないの? 誰にも迷惑かけてないよ。私、愉しいだけだよ」


 懇願するように小町は呻いた。


 何か大切なものを奪われようとしているかのような、強烈で漠然とした不安が去来しているようだった。

 呼吸が荒くなってきているのも、どうやら自覚出来ていない。


 小町は新しい友人の優しい言葉を待っているようだが、冬はちっとも優しくなかった。


「いけないの。これは許されないこと。小町がしていることは、村に治しようの無い毒を捲く行為。だから」


 貴方を毒殺します。


 冬は断言した。


「和久、弓矢」


 簡潔に冷徹に、冬は和久の方へと手を差し出した。


「おう」


 和久は背にしていた筒――

 矢筒から、木製の弓とそれに結わえられた矢を取り出す。


 しなやかで細い古代の『和弓』である。


 弓を受け取った冬は粛々と、右手で弓束を握りしめる。

 更に矢を受け取り、その矢尻を見つめて、おもむろに――


 舌を這わせた。

 丹念にねぶる。


 唾液をたっぷりと含んだ、緑の舌が、矢尻をてらてらと輝かせた。


「何をやってるの、冬ちゃん? 弓矢なんて、こんな時間に……か……狩りかな?」


 不安が更に大きくなったのか。

 小町はそっと後ずさる。


「うん、狩り。小町を殺すための」


 冬は、弦に矢をつがえた。


「こ、こ、殺す? どうして? なんで?」


 なんで人間を人間が殺すの――


 小町は震える声で呻いた。


 この村では許されない行為。

 この村では誰も行えない行為。


 冬がそれを禁じた。


 人が人を殺す、などという概念を、小町は生まれて初めて聞いたのだろう。


「このままだと、小町が人を殺してしまうから」


「そ、そ、そんなこと……な、無い。するわけ、無い」


「だったら、スケートを辞めてくれる?」


 淡々と語る冬。

 小町は怯えた表情で静止した。


「嫌……絶対に、嫌」


「そう」


 なら死んで。


 冬は小町に矢を向けた。


 きらり。

 矢尻が艶めかしく、月光を反射した。


 一瞬見とれかけた小町は、ハッと正気を取り戻して――。


「嫌だああーーーーーッ!」


 叫びながら、全力で駆けだした。

 踵を返して、スケート靴に一気に重力がかかる。


 爆竹が弾けるように、小町はその場から消えた。


 かつ、かつ、かつ、かつ、かつかつ、かつかつかつかつかつかつかつ。


 靴と路面が擦れる音の間隔が、あっと言う間に遠くなっていく。


「……やっぱり、逃げるよね」


 冬は安心したように呟き、そして矢を放った。


 ひゅん。


 風を切り、冬の唾液が付いた矢が闇を裂く。

 しかし矢は、深い静寂の向こうに消えた。


 小町には掠りもせず、積もっていた雪に突っ込んだようだ。


「お、おい。見えなくなったぞ、あのスケートバカ?」


 和久はそわそわと慌てながら、冬に新しい矢を渡す。


「大丈夫。ちゃんと仕留めるから」


 冬は矢を受け取り、また丹念に矢尻をなめ回した。


 濡れた緑色の長い舌先から、滴る一粒の雫。

 和久は訝しげに見つめて、訊く。



「……今度のそれは、どういう毒なんだ?」


「もうもふやおふあえふ」


「舐め終わってから言え、バカ緑」


 冬はジト目で和久を睨み、しゅぽん、と舌を口腔に戻した。


「……モウドクヤドクガエル系の毒。毒の種類はアルカロイド系の神経毒、バトラコトキシン。触れるだけでやばい猛毒だよ。体内に浸透したら、あっと言う間に筋肉も神経もぎゅっと萎縮して全身麻痺、一巻の終わり。超々古代の民族は、このカエルの毒を矢に塗って狩猟に用いたんだってさ。一匹分で七人ぐらいは殺せるのかな? 殺傷率ばつぐん」


 すらすら饒舌に冬は語った。


「それで〝矢毒蛙(ヤドクガエル)〟か……なんつー凶悪な毒唾液だよ……」


「試してみる?」


 冬は唾液を塗りたくった矢尻を、軽々と和久の鼻先につきつけた。

 和久はカエルのように飛び上がる。


「危ねーだろバカ! ブスゴリラ! じゃなくてブス緑ガエル!」


「うっさいなあ。ちょっとぐらい刺さってもどうにかするってば。カエルで緑色なら普通な方だし。さあ、追いかけよ」


 冬はむくれながら走り出した。

 和久も追いかける。


 小町が通った跡には、昼に見たのとそっくり同じ轍がある。

 追跡は可能だ。


 走りながら、和久が冬に問う。


「……様子を見るとかいう気は、あんまり無いみてーだな」


「無い。あの子の無自覚な毒は、やがて成長して他人を殺す。そうなる前に、私が殺す」


 それは、私だけが出来ることだから――

 冬は声のトーンを落とす。


 轍は広場を抜け、村の北へと延びていた。

 小町は相当なスピードで逃げているようだが、迷いが見える。


 轍が彼女の混乱を示す、ジグザグ線で残っていた。


 山王Z村は村という名前の印象に比べれば、意外と広い。

 若い村人が把握するには難しいはずだった。

 畜産に使われている施設や、民家がいくつもの袋小路を作っている。


 やってきた和久が、轍を観察する。


「ここら辺だな。轍が無くなってる。それにこの道は真っ直ぐいくと、道が左に婉曲してこの場所に繋がる。進んでも戻ってくるしかない」


 一瞬の判断だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る