第7話 風は暗雲を払い流す

 疾く走れ。


 疾く進め。


 風は暗雲を払い流す。


 見上げれば月しか無い。


 見渡せば星しか無い。


 見方を変えれば、世界はいくらでも光輝に満ちている。


 今更、闇を振り返ることは無いのだ。


 その者――


 恩田小町は、両親のお土産であるところのスケート靴を試してみたことで、星の瞬きの美しさを知った。


 朝や昼の情緒ある光は、良い。


 夕空に照らされて斑(まだら)な光も、良い。


 小町が滑る風の中にだけ、夜空をも越える星の光は現れた。


 未だに小町しか知らない、曙光。


 宵闇に包まれる時間に合っても、今の小町は輝いている。


 早く。

 速く。

 この光を皆に知らせたい。


 そう小町は願う。


 だけど今はまだ。

 自分がこの美に浸りたい。


 身震いする感覚、雪上に足をつけて踊る筋肉。


 目覚める肉体、肉体に宿る魂。


 肌に張り付く風、風にぴんとなびくマフラー。


 広がるスカート、スカートの中に集まる氷霧。


 ――酔いしれたい。


 村の道は小町のもの。


 村の星は小町のもの。


 村の未来は小町のもの。


 村は、小町のもの。


 今いる、この見晴らしのいい円形の中央広場も、勿論小町のもの。


 もっと走ってもっと滑って何もかも瞬きだけになるまで――。


「恩田小町、止まりなさい!」


 声が、瞬きの邪魔をした。

 聞き覚えのある声だ。


 いつもなら周りの雑音など耳に入らないのだが、その声には、小町の心の奥に直接揺さぶりをかけるような――

 夢の中にあるような、奇妙な懐かしさがあった。


 体を横にして、靴のブレードに抵抗を与える。


 ききー。ざざー。


 ガラスを研ぎながら、砂を噛むような音。


 ――止まる音は不快だ。


 張りつめたマフラーが精気を失い、広がっていたスカートが、ふわりと羽を休めて――。


 小町は、前方の民家の壁に、思い切り体当たりした。

 どごん、と大砲を発射したような音に、非道く鈍い、何かが裂けるような小さな音が混ざった。


 一拍置いて、屋根からどっさり大量の雪が落ちてきて、小町の体を埋めてしまった。

 一瞬、上下左右が分からなくなった。


「……?」


 小町は手探りに手足を掻き回し、重力に逆らうように雪の中から顔を出した。

 誰かが、心配そうに小町を見つめていた。


「だ……大丈夫?」


 それは、山王Z村郷土史館、館長代理――

 村の全てを管理する者、野村冬だった。


 緑の髪、緑の瞳、真っ白な肌。


 小さく華奢な体は、分厚いコートに守られている。


 村の誰もが、いつの頃からか、何より大切だと思っていた存在。


 村の主。


 その隣には、笑顔が爽やかで快活そうな、けれどもどこか頼りなさそうな、黒髪の少年がいた。

 和久という名の冬の友人だと、小町は記憶の糸を辿って思い出す。


 背中に大きくて長い皮の筒を背負っていて、それがとても邪魔そうだった。


「冬ちゃんだ!」


 小町は声を上げた。

 冬とは同年代だが、小町が見かける時はいつも村の大人達が冬を取り囲んでいたので、遠慮してしまって話しかけたことは無かった。


 小町が前に郷土史館に遊びに行った時に、一度だけ挨拶をしただけだ。


 あのとき冬はちょっとびっくりしながら、はにかむように笑ってくれた。


 その日から、小町にとっても冬は村のアイドルになった。


「そう、冬。私のことは知ってるわね?」


 小町の回想とは違う、引きつった笑顔で冬は言った。


「うん、もちろん。だって冬ちゃんは村のみんなの大切な家族だもん!」


「なら、良かった」


 冬は、小町に手を差し出してきた。

 小町はちょっと緊張して、冬の手を握り返す。


 出会いを祝福する握手だ、と小町は思った。

 冬の握力はイメージより強い。

 左手の甲に爪が食い込んで、少しちくりと痛かった。


「老若男女にモテやがるな、猛毒緑ゴリラのくせに」


 和久が、穏やかな口調で冬の肩を叩いた。


「うるさい、和久」


 冬が冷たく言い放つが、小町には二人の会話の意味が良く分からなかった。


「かなり盛大にぶつかったけど、どこか怪我してない?」


 冬に訊かれて、小町は初めて自分の体の違和感に気づいた。


 右手を上げると、毛糸の手袋の手首の部分が腫れていて、うっすらと血も滲んでいる。


 痛そうに、と冬が母親のように呻いた。


「大丈夫だよ冬ちゃん。これぐらい、いつものことだから……痛てて」


 小町は手を振ってみたが、鈍痛が走った。とても激しくは動かせない。

 当分、力仕事は無理そうだった。


 ――熱い石狩鍋(いしかりなべ)は持てないな。


 大好きな母の料理のことを小町は考えた。


 和久はその後ろの壁の方が気になっているようだった。


「こりゃーまた派手にぶち壊したな。クマかゴリラが突撃したみてーだ」


 小町が突っ込んだ家の壁は、真ん中に大きな穴が空き、そこから縦横無尽に亀裂が広がっていた。


「補修は一筋縄じゃいかないでしょうね……」


 冬が目を細める。


 小町は壁の穴を見やる。


 確かに壊れているけど、だからどうしたんだろう、と思った。


 それ以上の感想を持てない。

 和久は顔を強張らせながら、壁の亀裂に触れている。


「これがスケートっつー文明の破壊力ってわけだな」


「スケート靴は兵器じゃないよ、和久」


「兵器じゃなくても、自覚の無い力は毒になる、だろ? 猛毒少女さんよ」


 含みのある言葉を囁く和久に、冬はぎこちなく頷く。


 矢張り小町は、二人の会話についていけない。


「恩田小町ちゃん」


 冬は厳かな声を出す。


「小町でいーよ、冬ちゃん」


 笑顔で小町は返した。

 呼び止められた時は、呼び捨てだったはずだ。


「……小町」


 冬は緩慢に頷く。


「貴方が村の道路を滑って、この中央広場に来るところ、見せて貰ったわ。そのスケート靴、見事に履きこなしてるよーね」


 とっても綺麗な姿勢だったよ、と冬は微笑んだ。


「でしょでしょ!? 見てるだけでも分かるんだね! やっぱり凄いなあ、このスケート靴って」


 喜色満面の小町は、うっとりと進み出した。


「昔の人達はさあ、この世界の美しさを知ってたんだね」


 おもむろに小町は、冬と和久の周囲を滑り出す。


 ついっ、と片足で。


「こうすれば、光は流れていく」


 後ろを向き、すいすいと。


「こうすれば、堅い石の世界は遠くなっていって」


 手を広げて、ぐんぐんと。


「速く滑れば滑る程、周りの世界は曖昧になって。雪や風だけが、真っ暗な中で輝いて!」


 円形の広場で、小町は自在に滑る。


 マフラーが翻えって、スカートが風を吸った。

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