第6話 暖まってはいけない

 舞いおちる雪のひとひらひとひらが、その大きさを増してきた。

 風が強いためか、粉雪(パウダースノー)も目立つ。


 民家が密集する村の南部側は、村人達の雪かきも行き届いていて、散歩するのにも適している。

 もっともこの村で、散歩を好む者は少ないが。


 並ぶ家々の窓には、ぽつぽつと薄灯りが見える。

 家の主人の帰宅が近いので、夕餉(ゆうげ)の準備が行われているのだろう。


 山王Z村では、男手の殆どは農業に従事している。

 季節は常に冬だが、復活した古代の技術の中には、低温での室内栽培を可能にするバイオプラントがあった。

 それらの設備の管理と収穫量のコントロールが、この村での農業のスタイルだ。


 野菜や果物は、古代の時点で遺伝子組み替えでの生態系の操作が徹底され、人類の大半が滅び去っても寒さの中で逞しく生き延びた。

 誰もが人体への影響を懸念した遺伝子組み替え野菜は、誰もが予想しなかった氷河期を生き延びるための人類の生命線となった。


 また、村の北部では畜産も行われている。

 言うまでもなくそちらで飼育されている家畜達も、効率的に精肉されるために、遺伝子操作が施されている。

 最近では合成肉の製造の工程が記された文献が見つかり、遠くない未来に村内での畜産のスタイルが、大きく変化する可能性もあった。


 足が三本ある鶏が生まれる日もやって来るのかもしれない。


 どの技術もどの知識も、一部の村の人間が古代の遺産を発掘し、文献を読みとき、寝食を削って蘇らせたものである。

 山王Z村の技術と文化のレベルは、この通りちぐはぐでツギハギだ。 


 文化習俗は古代の更に古代の時代に参考を置き、素朴に、質素に。

 その生活を支えるのは、土の下から気紛れに湧き出てくるロストテクノロジー。


 手探りに見いだしたそれが、この村が氷の時代で生き残る手段だった。


 冬がマフラーで顔を庇いながら、一歩踏み出す。

 よろよろと歩道を進んでいくその様を、心配そうに和久は見つめる。


 子供の鼬のように小さく細い彼女の両足には、先程『よろず屋せんじー』で借りてきたスケート靴が装着されていた。

 和久も同じ物を履いている。

 冬の方は女の子らしい赤色、和久の方は黒い無地のデザイン。


 売れた方のスケート靴はチェック柄だったらしい。

 

 和久の足には少々この靴はきつかった。

 かかとがぎゅうぎゅうに締め付けられる。


 恐らく冬の年代の女の子では、丁度いいサイズだ。


「よっと……ほっと……すっと」


「寝起きの芋虫みたいに慎重にな。立つだけでも難儀だったんだからよ、お前の骨みてーな足じゃ」


 余裕が無い冬が無言で頷き、足下を注視しながら、更に歩を進めた。


 本当にスケート靴は、使う者を選ぶ道具なのか。

 千藤が老いているだけで、実は誰でも使いこなせるのではないのか。


 そう考えた和久と冬は、実際に実験してみることにしたのだ。


 ――と言うわけで、実験結果、歩行開始から三十秒後。


「あひゃ」


 という叫び声を最後に、冬は思いっきり、地面に熱烈なキスをした。

 足下を注視しすぎた冬は前方にのけ反り、受け身も取れずに全身で転んだのだ。


 冬の貧弱な胸と地面に挟まれ、潰されかけて驚いたバジルが、コートの裾からするすると脱出を図った。

 冬はバンザイの格好のまま、雪に埋まっている。


 和久は苦笑しながら、手を取って起こしてやった。

 慈しむように、白と緑のマーブル模様になった髪や、コートに付いた雪を払う。


 冬は申し訳無さそうに、されるがままにしている。


「ゴリラみてえな図体でぶっ倒れてんなよ。緑色のゴリラの凍りづけになるぞ」


 その言葉で、冬の中の感謝の気持ちは見事に吹き飛んだようだ。


「黙って起こしてくれたらいいのに……」


 愚痴りながら、冬は背を向けてしまった。


「ま、ジジイと緑ゴリラが履きこなすのは難しいみてーだな」


「和久はどーなのさ。ふん」


 面白く無さそうに、冬は鼻を鳴らす。


「俺か? そーだなあ。何回か練習すればもうちょっと上手くなれる気がするけど」ゆっくりとだが、和久は器用に歩き回る。「いきなり、すいすいとは無理だな。そもそも雪道で履く物じゃないんだろ、このスケート靴ってのはよ」


「……凍結した水面の上とかで本領を発揮する、ってせんじーは言ってたね」


 戻ってきたバジルの顔を撫でながら、冬は答えた。


 運動が得意な和久でも、この程度なのだ。

 数日前に初めて履いた人間が、目にも留まらぬ速さで履きこなすなど、信じられないことだ。


 和久が今歩いた場所には、うっすらとだがあの轍と同じ跡が出来ている。だが、そちらも軌道がよろよろと蛇行している。

 犯人にはよほどのバランス感覚があり、そして迷いが無いのだろう。


 ――この場合、犯人はひき逃げ犯と呼べばいいのだろうか? 


 と、和久がどうでもいいことを考えていると。


 冬はこちらに背を向けたまま脇腹をさすっていた。

 さっき転んだ時に、痛めてしまったのだろうか。


 背中が丸まっていて如何にも苦しそうだが、冬は口に出さない。

 悟られないようにしているのだろう。


 和久は気にかけてやるべきかと迷ったが、このように機嫌の悪さを露骨に出している冬に下手に話しかけると、余計に機嫌を損ねることの方が多い。

 気まずい沈黙の時間を救ってくれたのは、数人の村人達だった。


 農作業から帰ってきた村の男達が、わらわらと通りかかったのだ。

 冬に気づいた彼らは、一様に親しげに話しかけてくる。


「おー誰かと思えば冬ちゃん!」


「こんばんは、みんな」


「郷土史館にはいなくていいのかい?」


「うん。ちょっと用があって」


「お腹減ってないか? うちで野菜スープでも飲んでいくか?」


「嬉しいけど、やることがあるんだ」


 温かい言葉ばかりだ。

 冬は破顔する。

 村の者達は皆、冬を実の娘のように大切にする。


 千藤も含めて例外はいない。

 その様子をニコニコと見ている和久の心には、羨望や卑しみの気持ちはかけらも無い。


 ただ純粋に、冬と村人達の親睦を愛おしげに眺める。


「じゃあ忙しいから」


 冬がこの場を去ろうとすると。


「そうそう冬ちゃん、今日うちの嫁が怪我をしたんだがなあ」


 一人の村人が、唐突に呼び止めてきた。和久も冬も緊張する。


「奥さんが……?」


 恐る恐る冬が訊いた。


「ああ、朝から家の前で雪かきをしてたんだが、いきなり誰かに突き飛ばされたらしくてなあ」


「……嫁さんは、相手のツラは拝んだって言ってたか?」


 和久はやおら決然として、会話に割り込む。


「いやあ、一瞬のことだったんで顔は見てないってよ。気づいたらもういなかったそうだ。こう、地面の上を飛ぶような速さで消えちまったって……派手なマフラーと寒そうなスカートだけ見えたって言ってたかな」


 和久は、冬と顔を見合わせて頷いた。


 間違いない。

 犠牲者は現在進行形で発生している。


「奥さんの怪我はどんな感じなの?」


 冬が眉も動かさずに訊く。


「右腕と左足首を強くぶつけて――捻挫しちまったから、動くのが大変そうだわな。家事もいろいろ俺が手伝わなきゃなあ」


 そりゃあ大変だ、と他の村人達がいろめき立つ。


 その中で――冬は。


 顔面蒼白になって、凍てつく地面を見つめていた。

 まるで背教の地で、己の無力さを嘆く聖人のように。


「冬ちゃんも、気をつけてなあ。あんたが動けなくなったら、村の者みんなが途方に暮れちまうんだから」


 妻が怪我をしたという村人が、本当に心配そうに告げた。


「――――と、思う?」


 唐突に、冬はぽつりと呟いた。

 村人達は冬の沈んだ顔を窺っていた。


 冬が泰然として顔を上げる。


「憎い、と思う? 奥さんを、大切な人を傷つけた誰かを。大切な人を、傷つけるかもしれない人を」


 今度は言葉に、凛とした力があった。

 冬は射るような視線で、村人達を見回した。


 全員、呆然としていた。

 冬が一体何を言っているのか。

 何を言われているのか。


 冬の言葉が指す意味が何なのかも、理解出来ていない。

 理解する力を持たない。


 それが、彼らに冬が与えた孤独だ。


「おい、冬……」


 和久は冬の肩を掴んで引き寄せようとするが、彼女は動かない。

 冷たく凍った緑の瞳がまばたきを拒んで乾く。


 睫毛が凍りつく。


 村人達は依然として、言葉を発さない。

 しばらくして「ふ」と、冬が自嘲するように笑った。


「何でもない。いきなりごめんね、みんな。ところで、この近くで、若い女の子がいる家ってあるかな? 私ぐらいの年の子」


「……こ、この辺りじゃ、恩田(おんだ)さんのところぐらいじゃないか?」


 一人の男が、困惑気味に答えた。


「恩田さんか。ありがと。みんな、もう帰っていいから、今晩は家族の誰も、外には出さないようにね!」


 歯を見せて、爽やかに冬は言った。


 村人達はきょとんとしたまま、「おう」「ああ」などと生返事をして、とぼとぼと帰っていった。


 冬は、温かい庇護者の目で、彼らを見送る。


「……いっそのこと、憎んでくれてた方が、情報が集まりやすいのにな」


 和久が冬の背中に語りかけると、冬は瞬時に微笑みを消した。


「あり得ないよ。私がいる限り、この村で人が人を恨むことは許さないから」


 強い口調で冬は断言する。


「犯人をチクることもか?」


「犯人が分かっても、罰しようという心が、みんなには無いもん」


「はは……そうだった。お前のどぎつい毒は、万能だよな。どんな怪物もかなわねえよ。人間は誰も、お前の毒に勝てねえんだよ」


 和久は頼もしそうに頷いた。

 後から考えると、それはとても残酷な賞賛だったのだろう。


 冬がまばたきをした。

 瞳は潤っているが、冷たい風は乾いている。


 打った脇腹がまだ痛いのか、冬は胸をしばらくさすっていた。


 6


 村の一日は、午後という概念が失われかねないほどに早い。

 元々暗かった灰色混じりの紺碧の空が、更に暗くなってきた。


 冬と和久がやってきたのは、粗末で手狭な民家だった。

 玄関先にはいくつもの植木鉢があり、冬も和久も見慣れない観葉植物の花弁がたくさん咲いていた。


 この村で咲く以上、遺伝子操作は為されているだろうが、これほどの数を設備も無い室内で育てるのは至難だっただろう。


 文化や文明が一度は凍りつき、風景にも変化が無いこの村では、村人は各々のプライベートな空間に特有の価値を見いだすしかなかった。

 夜や星空に特別な意味を与えないと耐えられないほどに、古代の旅人は孤独だったと言う。


 凍った世界も、同様に孤独だ。


 家の主人である恩田は、


「その花は全部、娘が育てたんだ」


 と自慢気に言って、冬と和久を、丸太で組まれた質素な手作りの椅子に座らせた。

 冬は同じ丸太組みのテーブルに手を着いて、しげしげと眺めていた。


「滑らかで温かみがあって、いい家具だなあ……」


 相変わらず渋い趣味だ、と和久は思う。

 恩田はテーブルの反対側に座る。


 太い眉と鼻の下にちょっとだけ残された髭が、肥えた中年を愛嬌のある風貌に見せている。

 妻はお茶を入れるために台所に立っていた。


「いやあ、まさか冬さんのような子が、うちに来てくれるなんてねえ」


 恩田は、大げさな身振りで笑った。

 バイオプラントで野菜を作っている恩田は、つい先ほど、冬達が来る直前に帰宅したところだったらしい。


 まだ体は冷えているようで、待ち遠しそうに台所から上がる湯気と冬達を交互に見ながら、話し始めた。


「一体何の用なのかな?」


「……私と同じくらいの、元気な女の子がいるって訊いて」


 冬は微笑みかけたが、目は笑っていない。


「小町(こまち)に会いに来てくれたのか? 小町は冬さんの一つ上だよ。もしかして友達になってやってくれるのかい?」


 恩田の目は期待に輝いていた。

 村人から訊いた通り、この付近では小町と同年代の少女がいないようだ。


「うん。仲良く……なれたらね」


「そうだなあ、なれたらいい。小町は親の私が言うのもなんだが、優しい子でねえ。親のためにも早く大人になって早く働くんだ、ってねえ」


 黙っていた和久がたった一言、


「出来た娘だな」


 と呟いた。


「余計なこと言ったら怒るからね」


 冬が小声で囁き、圧迫感を込めて和久を睨んでくる。

 そうしている内に恩田の妻が、お盆にカップを四つ乗せてテーブルに戻ってきた。


「あなた、娘自慢はそれぐらいにね。冬さんが困るわよ」


 妻が苦笑しながら、カップを全員の前に差し出す。

 和久は紅茶だと思っていたが、カップからは清涼感のある、複雑な森の香りが漂ってきた。


 冬の好きな、緑茶だ。


「さあ、お茶をどうぞ。冷めたら不味いですからね」 


 妻の言葉に、恩田は誰より早くカップに口をつけた。

 美味しそうに、ズズズと音を立てて飲む。


 冬も、ふーふーと冷ましながら、自分と同じ色のお茶に口をつけていた。和久もそれに倣う。

 大分濃いが、冬はこれぐらい渋い方が好みだろう。


 体の芯から温まり、四人共に一心地ついた。


「……それで、小町さんはまだ帰ってないの?」


 おもむろに冬は訊いた。


「そうなんだよ」


 恩田は肩をすくめて、ため息を吐いた。


「小町の奴、最近は朝から外に出て、日が沈むまで帰ってこないんだ。困ったもんだよ」


「どこで何をしてるのやら、ねえ」


 妻も困った顔をしている。


「最近、小町さんにプレゼントを買わなかった?」


 冬は無遠慮に訊く。


「ああ、買った買った。せんじーのところで、面白い靴を見つけてね。何という名前だったかな。歩きにくそうなんだが、娘のマフラーと同じようなチェック柄でね」


「あのマフラーは、私が編んであげたのよ」


 重ねるように妻が言った。

 恩田がそうだったそうだった、と笑う。


「あの子は、私らがあげた物はどこでも手放さないからなあ。家の中でもマフラーを捲いてその靴を履くんだ」


 困ったもんだ、と恩田は繰り返した。

 つまり小町は、今も外でスケート靴でうろついているのだ。


 ――野獣を村に放っているようなものだ。


 娘のせいで家事が出来なくなった犠牲者が村に出ている、と聞いたら、恩田夫妻はどう思うだろうか。

 思ったところで、娘の行動のどこに問題があるのか、彼らは理解出来るだろうか。


 困ったものだ、で済ましてしまうかもしれない。

 食卓で子供の悪戯を戒める程度に。


 山王Z村に生きる村人である以上、彼らには限界がある。


 この夫妻には小町を罰することが出来ないことは分かっている。

 だからこそ、和久と冬が事態に立ち向かわねばならない。


「ごちそうさまでした」


 冬はカップを置いた。

 和久が見ると、お茶は半分以上残っていた。 


「おや、もういいのかい? 待っていれば小町も戻ってくると思うが」


 物惜しげに、恩田は引き留めようとする。


「すぐ会えると思う。今日は小町さんの帰りが遅くなるかもしれないから、二人とも先にご飯は食べててね。お茶、美味しかったです」


 冬はそれだけ言うとすっと立ち上がり、振り返らずに玄関に向かった。

 和久も慌てて立ち、恩田夫妻に一礼して冬を追いかける。


 村人達同様、きょとんとしている夫妻の視線が、瞼に焼きついた。

 

 玄関の外に出てから、冬は。


「ここではこれ以上、暖まっては駄目だよね……」


 恩田家の扉に向かって、掠れた声で呟いた。

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