第3話 毒物館
山王Z村の中心部、赤煉瓦の塀に囲まれた場所に、その建物はある。
入り口には『山王Z村郷土史館』とペンキで書かれた素朴な看板。
大仰な名前だ、と和久は苦笑しながら思う。
物々しい鉄扉を開けて中に入ると、かなり広い。
豪奢な宮殿を思わせる円形の構造の部屋が、回廊を通じていくつも繋がっている。
天井が高く、柱がやけに多い。
村の中でも特殊すぎる建築で、はっきり言って浮いている。
以前にここの館長であった人物の話によると、古代では宗教的な施設として利用されていた物を、大幅な改修を行って現在の形にしたらしい。
和久には宗教という概念がよく理解出来ない。
古代に神という者が在ったとしても、文明と共に凍りづいてしまっているような気がした。
和久が見たことがあって今も世界に息づいているのは、神ではなく呪いだ。
受け付けにはカウンターがあるが、そこに常在する人間はいない。
その側には案内板もあるのだが、見てもピンと来なかった。
広さのせいもあるが、和久には地図を見る才能が皆無らしかった。
どうせ把握しきれないので、和久はいつも回廊を適当に回る。
その上で相手がいなかったら館長室に向かうことにしていた。
――それにしても、郷土史館なんて、全くもって名前だけだ。
山王Z村の歴史にまつわる文献や資料など、殆ど展示されていない。
そもそもこの村に大した歴史は無い。
氷河期の生き残りでしかないこの村には、積み重ねられるほどの来歴が無い。
歴史の代わりに、ここにいるのは――
――猛毒を持った、ありとあらゆる動植物だ。
和久は部屋の一つに入って、壁一面に嵌め込まれ、並べられたガラスのケージを覗いてみた。
猛毒のクロゴケグモが元気そうに中で蠢いている。
この部屋は、毒性の節足動物を集めたスペースのようだ。
クロゴケグモはブラック・ウイドウの名でも知られ、男が噛まれればその者の妻は後家=未亡人になると言われるほど毒性が強い、と聞いていた。
丸くて艶のある小さな身体に細長い八本の足、機能的でシンプルな体躯。
不気味ではあるがそれほどの嫌悪感は感じられない。
その横のケージには、全身に毛が生えた大型のオオツチグモの群れが飼育されている。
こちらの醜悪な造形には、思わず和久は顔を顰めてしまった。
オオツチグモはタランチュラの異名を持つが、外見や名前のイメージの恐ろしさほど毒性は強くないらしい。
一通り見回して誰もいないのを確認して、和久は部屋を出た。
他の部屋にも諸々の禍々しい生物達が、ケージで厳重に隔離されて飼育されているはずだ。
毒ガエル、毒サソリ、毒草、毒貝、毒蛇、毒キノコ――数え切れないほどに。
毒性生物限定の動物園にして、博物館。
即ち『毒物館(どくぶつかん)』。
山王Z村の村人の中で、和久だけがこの郷土史館をその名で呼んでいた。
少し回廊を進むと、通りがかった部屋から会話が聞こえた。
「お姉ちゃん、これはなーに?」
和久は様子を窺うように、部屋を覗き込んだ。
部屋の中心に、赤茶けた花壇がある。
その中に土が敷き詰められ、細長く真っ白なキノコがいくつも咲いていた。
空に向かって傘を開いた様は、純白の羽根を広げた鳥の群れのようで、実に優美だ。
それを十歳にも達していないであろう年端もいかない幼女が、興味深げに見つめている。
その横に――
鮮やかな、緑色の少女がいた。
肩まで伸びた緑色の髪。
釣り上がった目尻に、ガラス玉のような緑色の瞳。
細い眉も撥ねた睫毛も、同様に緑色だ。
触れれば折れそうな白く華奢な身体に、クリーム色のカーディガンを羽織っている。白と緑の組み合わせが鮮烈すぎて、十五歳という年齢より幾分か幼く見える。
彼女こそ和久が会いに来た、毒物館の案内人にして館長代理――
野村冬(のむらふゆ)、その人である。
冬は涼しげに、緑の視線を柔らかくして、傍らの幼女に囁いた。
「これはドクツルダケだね。キノコの中でもかなり毒性が強い種類だよ。一本でも食べたら地獄のようにお腹が痛くなって、食べた物は全部吐いて、その後に内蔵が滅茶苦茶になって死んじゃうからね」
恐ろしげなことをさらりと話しているが、ふんふん、と幼女は嬉しそうに頷く。
幼女はこの毒物館の常連客で、毎日のように訪れては、冬に毒性生物の解説を頼んでいるのだった。
和久には全く理解の出来ない好奇心である。
出ていくタイミングを計っていると、冬の方が先にこちらに気づいた。
途端に、冬の視線が強張った。
細い緑の眉も八の字に下がり、口はへの字になる。
露骨に嫌がっている。
拒絶の意思表示がストレートすぎる。
「和久……来てたんだ?」
冬の声は、微妙に震えている。
緊張しているらしいと察した和久は、ごく自然に、平和的な笑顔で。
「おう元気かドブス。相変わらず薄汚い緑色を晒してやがるな。性懲りもなくよ」
開口一番、はっきりと言った。
冬は唖然として、ぽっかり口を開いた。
その口腔の闇に潜む舌も、誰もが見とれる鮮やかな緑色だった。
豪奢な絨毯が敷かれた館長室には石造りの古風な暖炉があり、冷えて疲れた体に英気を取り戻すには丁度良い。
和久は暖炉の奥で燻る火花をソファから眺めながら、冬が湯呑みに入れてくれた緑茶をすすった。
コーヒーの方が和久は有り難いが、冬は日本茶が好みなのだ。
緑の髪と瞳の少女が緑茶(グリーン・ティー)を飲んでいる光景は、いささか似合いすぎて造り物めいている。
ソファに深く座り込んだ冬は、自分の分の緑茶にはあまり口をつけず、不快そうに腕を組んで和久の言葉を待っていた。
和久は五体の隅々が暖まったのを感じて、ようやく口を開く。
「危ねーものをガキに見せるなよ冬。ドクツルダケとか言ったか。もしあのガキが、興味半分にムシャムシャ毒キノコ食べ出したら、どうするつもりだコラ?」
「万が一そうなったとしても、私が何とかするよ」
冬は唇を尖らせる。
実際に何とかするのだろうから、和久は反論しなかった。
「さすが館長代理ってところだな、忌々しい」
「……ねえ、和久。なんか用があったから来たんでしょ?」
「じゃなきゃこんなクソ寒いのに、こんなクソ危ねぇ毒物館なんか来るかよ」
「クソクソ言わないで。聞くに耐えない。それにこの村が寒いのも、ここが毒の生き物だらけなのも今に始まったことじゃないわ。そもそも私には、この場所は全然危なくないんだから」
不機嫌そうに冬は、足をぶらぶら揺らす。
――そういえば〝クソ〟は聞くに耐えないのだった。
和久は自分の発言を思い返して、勝手に納得するように頷いた。
「……で? 用は何かって訊いてるんだけど?」
「バカのお前でも大体予想がついてるだろうがな、事件だ。村内で交通事故が起きてるぞ。だっせえ人身事故だ」
バカは余計だよ、と冬は小さく抗議して、
「交通事故?」
と訊いた。
「そうだよバカ」
真面目な顔で和久は返した。
冬はもう抗議してこなかった。
「久しぶりに聞いたわ、その言葉。この村で交通事故なんて起きたこと無いよ。古代にあったような車や自転車は、もう村には一台も無いし」
冬の言葉は事実だ。
かつてはこの村にも自動車が何台か存在していたが、化石燃料の不足や整備者の不足という問題もあり、利用する者は少なかった。
何より積もり続ける雪の中で、走行に耐えられる車両は限られていた。
やがて村内で移動するには歩くので充分、荷物を運ぶのも台車で充分という村人達の意向で、全ての自動車は分解廃棄され、資源に変わったと言う。
自転車も同様の流れで、凍結した路面で走る危険を避けた村人達に廃棄された。
このような形で古代の常識や文明は淘汰され、氷の底に記憶ごと沈んでは、忘れ去られていくのだ。
「車や自転車じゃなくても、交通事故は起きるだろーが」
和久は朗らかに述べた。
「歩道をもの凄い速さで、飛ぶようにして歩く何者かに、何人もの村人が突き飛ばされてるんだってよ」
理解出来ないのか、冬は怪訝そうに眉をひそめた。
「……人が人にぶつかった、ってだけ?」
「飛ぶように、だよバカ。それも高速でだぜ。驚いてすっ転んで、少ねー脳味噌が入った頭をぶつけた奴もいる。故意にやってるんだとしたら危険すぎるだろ?」
あり得ないわ、と冬は毅然と首を振った。
「故意に人を傷つける人間なんて……山王Z村に、そんな毒を心に持った村人はいないよ。可能性があるとしたら、和久ぐらいだね。ふふん」
皮肉っぽく冬は鼻を鳴らす。
「それは分かってるがな、万が一ってことがあるだろーがよ、このバカ。いつもそうだろ、緑ブス」
「い…………いい加減に」
して、と冬が和久の放つ言葉に耐えきれなくなった瞬間。
冬が羽織っていたカーディガンの胸元から、紡錘型の影が飛び出した。
和久は悲鳴を上げて、飛び跳ねる。
「あ、バジル、起きたんだ」
冬が影に向かって、明るく声をかける。
その正体は体をぴんと伸ばして跳躍した、エメラルドグリーンの――冬と良く似た緑色の、一匹の蛇だった。
グンプレヒト・グリーン・ビットバイパー。
古代に生息していた希少種の毒蛇、その変種。
名前はバジル。
伝説の怪物バジリスクから取られた名であって、乾燥ハーブが由来では断じて無い、と冬は常日頃から主張していた。
バジルは冬にのみ懐き、冬の言うことしか聞かず、いつもは冬の服の中で冬の肢体に絡みつき、眠っている。
「ふ、冬! バジルをどけてくれー!」
俊敏に床を這うバジルに追いまわされ、和久は慌てふためいて室内を逃げ回る。
「和久が下品なことばっかり言うからだよ。バジルは、私が怒ってるのに気づいてくれたんだね。いい子だねー」
嬉しそうに微笑む冬に応えるように、バジルはチロチロと舌を出し、は虫類特有のつぶらな瞳を更に丸める。
「笑ってないで止めろってば! 俺の言葉がわざとじゃないってことは、テメーも知ってるだろクソったれ!」
「またクソって言った。バジル、噛んじゃっていいよ。ちなみにバジルの毒は、即効性の出血毒だからね、知ってるよね。ちょっとでも噛まれたらもの凄い激痛で死ねるよ」
ひー、と青ざめて和久は逃げ続ける。
「さて……交通事故ねえ。仕方ないなー」
和久の上げる悲鳴に気を留めず、冬は緑色の頭をぽりぽりと掻きながら、重い腰を上げた。
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