第2話 和久
雪の降りが弱くなったところを見計らって、和久(わく)は家の外に出た。
今日の最高気温はマイナス何度ぐらいだろうか。
吐き出した息は兎の毛皮のように真っ白で、コートの中に入り込んでくる風は肌を切るように冷たいが、ここ数日ではまだマシな方である。
この前は一日中しんしんと雪が降り積もり、出歩くことすら困難だった。
――午後になる前に外出することが出来て助かった。
フードを目深に被り、そろそろと摩擦係数を減らして、地面を踏みしめるように歩を進める。
凍結した地面で足が滑らないように、慎重に、慎重に。
歩道にさえ出れば、幾分かは歩きやすくなる。
道と各々の家の玄関前は、村人が定期的に雪かきをしている。
丸太で組まれた木造の家々は、脆そうに見えて、外見以上に丈夫に造られている。
かつてロシアと呼ばれた国の伝統的な建築方式を踏襲しているそうだが、後世に発達した外断熱工法なども取り入れられていて、屋内は暖かく快適だ。
窓が近くない屋根からは、積雪との再会を夢見る氷柱が、何本も下がっている。
歩く必要の無い場所には、二メートルほど雪が積もっていた。
長い冬の時代を経たこともあり、村人達は雪との付き合い方が相応に上手い。
どんな場所の雪を除けて、どこを放っておけば良いか、大人から子供までが熟知している。
何しろ――ずっと世界は冬なのだ。
常に雪が降り気温は氷点下、吹雪の壁が村を覆い、雲の繭に包まれた太陽の光は殆ど霞んでいる。
それがこの村を取り巻く〝現在〟だ。
氷河期、と呼ばれる凍てつく世紀。
今から何百年も前に、世界は極度の寒冷化に襲われて、あらゆる文明が凍りつき、生物の大量絶滅が起こった。
古生代以来の厳しい氷河時代がどうして突然やってきたのかは、未だに分かっていない。
原因は判明しているが公表されていない、という説もあった。
最も寒冷化する『氷期』が過ぎたとは言え、かつての暖かい春は、絶望的に遠い未来までやってこないとされている。それでも人類は、極寒に耐えながらも生き延びていた。
ほんの少しだけ。
そんな時代が長く続きすぎたせいで、村人達は外の世界を殆ど知らない。
いや、すでに外に世界は殆ど無い。
大地を人が歩き回っていたことは早い段階で伝説と化し、村の住人達はそんな伝説があったことすらも忘れかけている。
だから村人は、村の周辺を守る針葉樹林の外へは決して出ていかない。
その先には何も無いことを知っているからだ。
村にしか居場所が無いと、知っている。
村しか無いと知っている。
この村、『山王(さんのう)Z村』はそのような忘却の隅にある、孤独な村だった。
和久が目的地である村の中心へと向かって歩いていると、あごひげが似合う中年男の村人、菊田が厚手のコートを着込んでシャベルを振りかざし、家の前の歩道の雪かきをしていた。
目が合ったため、和久は無言で会釈をする。
「よお、和久くん。郷土史館(きょうどしかん)に行くのかい?」
菊田が軽快に声をかけてきたので、和久も頷く。
「そうかいそうかい。和久くんが行けばあの子も喜ぶだろうからねえ。よろしく伝えておいてくれや」
雪まみれの手袋で、菊田は和久の肩を叩いてきた。
重ね着の上のコートを隔てていても、肌にほんのりと冷たさが伝わってくる。
「……じゃ、また」
一言だけ応じて、和久は再び歩き出した。
無愛想に思われたかもしれない、と和久は少しだけ後ろめたくなる。
彼は別に会話を避けているわけでは無い。むしろ、話したがっていた。
人の感情と、触れたい。
――寒空なんて気にせずに、立ち話でも長話でも何でもしたい。
だが、まだ慣れていないのだ。
対人との会話が、和久にとっては難しい――らしい。
下手に歩き回って井戸端会話をしまくれば、確実にこの村の主に怒られる。
それだけは避けねばならなかった。
しなければいけない話も出来なくなる。
今はただ沈黙して、彷徨するように歩く。
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