第2話 小学校時代

それは小学1年生、初めての給食から3日後に起きた。

私の机の上に置かれたみそ汁が飛び跳ねて床に落下していった。

 それも華麗に、アーチを描いて落下していった。

 今日がみそ汁のある日と言うのは知っていた。

 私も知っていたし、両親も献立表は見ていたと思う。

 しかし、我が家ではしっかりとしたみそ汁対策が出来ていたことに胡座をかいて給食対策を失念してしまった。

 セラミック製の器が落ちる音は教室中に響き渡り、散らばったみそ汁は、前衛的な花のアートのように床に描かれ、飛び散った茶色の汁が近くにいた友達の靴下と上履きを汚した。

 私は、呆然と飛び散ったみそ汁を見た。

 担任が慌てて私の元に来て、みそ汁のかかった友達が火傷していないかを確認し、みそ汁を丁寧に拭き取った。

「美織ちゃん大丈夫?」

 担任は、優しく聞いてくる。

 わたしは、こくんっと頷いた。

 担任は、安心したようににっこりと微笑む。

「じゃあ・・・ちゃんに謝ろうか。わざとじゃなくてもこう言う時は謝らないといけないのよ」

 担任は、諭すように柔らかく言う。

 私は、その通りだと思い、言われるままに謝った。

 友達も許してくれた。

 本当ならこれで解決するはずだった。

「それじゃあ新しいみそ汁を持ってくるわね。・・・ちゃんはお着替えに行きましょう」

 そう言って担任は、私のみそ汁を取りに行こうとしたので私は慌てて止めた。

「先生、私みそ汁に逃げられるんです。だから持ってこないで」

 今思い出しても意味不明な言葉だ。

 この言葉の意味を正しく理解出来るのは現在でも数名しかいないと思う。

 案の定、担任も意味不明と言った表情を浮かべる。

「どう言うこと?」

「だから、私のところにみそ汁を持ってくると逃げちゃうので持ってこないで」

 担任は、その言葉を私の好き嫌いと捉えたようだ。

 そして一つの結論に達した。

「美織ちゃん。ひょっとして落としたんじゃなくてわざとみそ汁を投げたの?嫌いだから?」

 私は、慌てて首を横に振って否定した。

 しかし、なぜか担任はそれを肯定と取った。

「いい?美織ちゃん。例え嫌いな食べ物でも投げたりとかしちゃいけないのよ。食べ物は粗末にしちゃいけないの。それがお友達にも迷惑かけるのよ」

「だから投げてないもん!」

「嘘はいっちゃダメよ」

「嘘じゃないもん!」

 私は、大声で泣いた。

 赤ちゃんの頃も、幼稚園の頃もこんなに泣いたことはないのではないかと言う程に泣いた。

 他のクラスからも先生たちがやってきて「何事か?」と騒ぎ立てた。

 担任は、私を泣き止まそうとするが一度決壊した感情は治ることがなかった。

 結局、両親に連絡が来て、放課後に迎えに来てもらうことになった。

 両親は、担任に「ご迷惑をお掛けしました」と謝り、私にも謝るように言う。

 私は、母のスラックスを握りしめて小さい声で担任に謝る。

 担任は、苦笑いしながら事情を話す。

 担任としては両親と協力して取り組まないといけない事案と思ったのだろう。恐らく私の情緒面を心配したのだ。

 両親の顔色が変わった。

 しかし、それは担任の思惑とは全く別の意味でだ。

 そして母の発した言葉でまた問題が発生する。

「この子の言ってることは本当です。みそ汁が逃げるんです」

 担任は、唖然とした。

 うちの母は私が言うのも何だが知性的な顔立ちの美人だ。そんな女性からある種変人的な返答が返ってくるなんて予想もしなかったことだろう。

 担任は、父の顔を見る。

 父も母の意見に同意して頷く。

 この時、担任の脳裏には両親を危険人物認定、まさにモンスターピアレントとして認識したことだろう。

 しかし、両親は少し過保護な傾向はあるものの決してモンスタピアレントなどではない。

 むしろ理路整然と課題、問題を伝えていくのだ。

「少しお時間をいただけますか?直ぐに準備して来るので」

 そう言って父は、母に耳打ちして何処かに行った。

 担任は、仕方なく職員室の隣の相談室に私と母を案内した。

 担任は、校長先生を連れ立ってきた。

 恐らくモンスターピアレントへの対応を自分だけでは出来ないと判断したのだろう。

 校長は、柔かに母に挨拶する。

 母も空気を察して柔かに挨拶する。

 その後、父が戻ってくる。

 その手にはコンビニのビニール袋を持っており、その中身はインスタントのみそ汁だ。

「失礼ですがお湯を頂いてよろしいですか?」

 担任と校長は顔を見合わせる。

 恐らく夫婦で何か訳のわからないことを喚き散らすとでも思っていたのだろう。まさか、実物を持ってくるとは思っていなかった。

 いよいよ奇異な目で父と母を、私を見る。

 担任は、職員室からお湯の入った給湯ポットを持ってくる。

 父は、インスタントのみそ汁を開け、具を入れ、味噌を入れ、お湯を注ぐ。

 そして冷めるの待ってから、それを私の前に置いた。

 その瞬間、みそ汁が盛大に宙を舞った。

 勢いよく発射されたペットボトルロケットのように宙を舞い、アーチを描いて床に落下する。

 口をぽっかり開けて声も出せずに驚く担任と校長。

 なぜか勝ち誇ったような顔をする父と母。

 目の前で起きたのに信じられなかった担任は、自らみそ汁を作り私の前に置くも結果は同じ。

 タネも仕掛けもございませんとはまさにこのこと。

 担任は、身体を震わせて私を見る。

 その目はまさに悍ましいものを見るかのようだった。

 心がちくんっと痛んだ。

 それに気づいた校長が担任の背中を叩く。

 それでようやく正気に戻った担任は、椅子に座り、肩をしぼめる。

 校長は、小さく深呼吸し、両親と私に向き直る。

 表情には動揺こそあるものの目に怯えはなく、じっと私達を見据えた。

 さすが、校長になる人物である。

「・・・この現象はいつからですか?」

「・・・いつからとは言えませんが離乳食時期には見られました」

 父は、答える。

「こんな言い方は失礼なのは重々承知ですが。何か霊的なお祓いとかされたのですか?」

「神社とお寺に。どちらにも何も悪いものは憑いてないと言われました」

 母が答える。

「このことで何か大きなトラブルはありましたか?」

「特に。驚きはしますが。

あっでも1番のトラブルと言ったら今がそうなるのでしょう」

「なるほど」

 校長は、腕組みする。

 本当に真剣に悩んでいるように私には見えた。

「最後に・・・この件に対する対処方法はお持ちで?」

「対処方法と言えるような大袈裟なものではありませんが家ではみそ汁はまず作りません。外食では和食レストランには行かないし、旅行先でも汁物は吸い物かの確認をしますし、パイキングのスープコーナーには我々が取りに行くようにしてます」

「その対策のお陰でトラブルはなかった、と」

「はい。ただ、今回の件に関しては我々も慣れすぎて油断してました。迷惑をお掛けし申し訳ありません」

 父は、校長に頭を下げ、それに続くように母も頭を下げる。

 校長は、しばし熟考し、小さく唸る。

 そして、じっと私の方を見る。

「美織さんは他の味噌料理は大丈夫ですか?」

 父は、校長の言ってる意味が理解出来なかったのか眉根を寄せる。

 母が代わりに答える。

「はい。みそ汁が飲めない反動なのか味噌ラーメンも味噌カツも味噌煮込みも大好きです」

「それらを用意してもあのようなことは起きない、と」

「はい。一度も」

 その言葉を聞いて安心したように校長は微笑む。

「なら、問題ないでしょう。後は今回のようなことが起きないよう学校側で配慮すればいいだけの話しです」

 まるで"喉が渇いたら水を飲めばいい"くらいの簡単な口調で校長は言う。

 校長の反応に両親は目を丸くする。

 校長の隣に座る担任も驚きに口を開ける。

 てっきり気味が悪いとか我が校では受け入れできません等と言われ、大揉めすると想定もしていただけにこの反応はあまりにも考えの外だった。

「この度はお時間を取っていただきありがとうございます。今後とも何かありましたらご指導よろしくお願い致します」

「いえ、こちらこそ娘のことをよろしくお願い致します」

 両者は、深く頭を下げ、この場は解散となった。

 翌日から学校側はしっかりと配慮してくれた。

 美織は、ある一定の調味料に反応するアレルギーと言うことになり、今回はたまたま汁が指に掛かって驚いてしまったのだと同級生にも担任が説明してくれた。だから美織は学校のみそ汁が飲めないのだ、と。

 それを説明する担任の顔は非常に固かったが大半の同級生は信じてくれた。

 しかし、全員が理解してくれた訳ではない。中には子ども特有の嘲りと揶揄いを込めて「やーい味噌っかす」と馬鹿にしてくる生徒たちもいた。

 それが嫌で何回も泣いたし、その度に担任が庇ってくれて同級生達に説明してくれた。

 担任からしてみるとこの要因を作る発端に自分も関わってしまったと言う負い目もあったのだろう。

 そのお陰で登校拒否にもならず、2年生になると途端に治まった。

 しかし、今回の件がトラウマなってしまった私は引っ込み思案になってしまい、友達との関わりや外出に対して臆病になってしまった。

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