37 閑話:ポセーニアの聖女
◆◆◆
――浮き輪とライフジャケットが売り出されて間もなくの頃。
「チッ、このライフジャケットってのは邪魔くせぇな」
「脱いだら駄目だぜ船長。サンテール会長直々に、絶対に脱ぐなって、きつく言われてるだろう? 脱いだら次からサンテール商会の仕事を回して貰えなくなるぜ」
「チッ、わあってるよ」
副船長の釘を刺す言葉に、船長は舌打ちしながらも、胸の前で解きかけていた紐を結び直した。
コルク片を入れた防水布を縫い合わせてベストのように着られる形に作られたライフジャケットは、船長のみならず、船員達からも不評だった。
着慣れない服を着ているから、邪魔に思えて当然だ。
副船長も同感だったが、これも仕事と割り切って、脱ごうとする船長を始めとした船員達に注意をする毎日だった。
そんな呑気で穏やかな航海が続いたのは最初の三日だけだった。
「風が……こいつは
船長の予想通り、それから数時間も経たず、空は黒雲に覆われて激しく雨が降り、波が大きくうねって、帆を畳んだ全長十メートル程の小型の帆船は翻弄されていた。
「チッ、なんとか抜けらんねぇか!?」
「やってやす!」
雨風と波の音に負けないよう船長が声を張り上げると、操舵手はボートのオールのような
船員達もマストや船縁にしがみつき、振り落とされないように必死だった。
そして、船にドンと大きな震動が走る。
「なにぃ!?」
さらに漂流していた難破船の残骸が船体に当たると言う、不運な事故にまで見舞われてしまう。
不運に不運が重なるが、不運はそれだけでは終わらない。
その直後、一人の船員の悲鳴と水音が上がった。
「船長! ドニが落ちた!」
「なんだと!?」
雨風に煽られながら、なんとか船縁にしがみついて波間を見ると、船員のドニの姿が波間に見え隠れしていた。
「たすっ、助けてくれー!!」
雨風と波が船体に当たる音に紛れて、助けを求める声が聞こえてくる。
しかも、時を追うごとにその姿はどんどん遠ざかって行っていた。
「くそっ! オレが飛び込んで――!」
「やめろ馬鹿野郎! てめぇも波に呑まれるぞ!」
「じゃあどうすんだよ!? このままじゃドニが!」
「空の樽か箱を持ってこい! ドニに投げてやるんだ! 船をドニに近づけろ!」
船の中に這い蹲るようにして戻って、空の樽か箱を探し取ってくる。
たったそれだけの間にも、ドニはどこまで流されていくか分からない。
そして海に投げ入れたとしても、荒れる波のせいでドニの側に流れ着くかも分からない。
「船長! 浮き輪だ! こんな時に使えってサンテール商会から買わされたのが舷にくくりつけてあったはずだ!」
副船長の張り上げた声に、はっと思い出す。
「そいつだ! そいつを投げろ!」
慌てて船員が浮き輪を外し、勢い余って船から落ちそうになりながらも、全力で浮き輪を投げた。
ロープの端は舷に結びつけられている。
その長さは十五メートル程。
防水対策がされて水に浮く軽いロープは、その最大の長さまで浮き輪を遠くへと運んだ。
しかし、浮き輪はギリギリ届かず、ドニの手前に落ちてしまう。
サンテール商会からは、落水者の奥へ投げて落とすように言われていたが、浮き輪を使う判断が遅れたためにドニが遠くへ流されてしまい、ギリギリ届かなかったのだ。
「ドニ! 浮き輪だ! 赤い輪っかが見えるだろう!」
「掴まれドニ!」
「泳げ! 泳げ! 泳げ!!」
船長も船員達も声を張り上げて指さし、その声が聞こえてドニは周囲を見回す。
暗雲立ちこめて暗い空と海の色の中に見えたのは、鮮やかな赤と白いラインが入った浮き輪だった。
ドニは死に物狂いで泳ぎ、その浮き輪に手をかける。
「引け!!」
船長の合図で、船員達は必死にロープをたぐり寄せ、ドニは九死に一生を得て、船へと生還したのだった。
「サンテール会長、あんたのとこの商品、すげぇな!」
後日、船長とドニはサンテール商会を訪れていた。
「波に呑まれて沈んだとき、俺、死んだって思ったっす! もがいてたら身体が浮き上がって顔が出て、浮き輪とライフジャケットがなかったら俺、今ごろ死んでたっすよ!」
「あんたはドニの命の恩人だ、感謝するぜ!」
「ありがとうっす!」
興奮気味に感謝の言葉を並べる船長とドニに、サンテール商会の商会長、ガストン・サンテールは、ご満悦の顔で大きく頷いた。
「それは良かった。だが、感謝をするなら私じゃなく、その浮き輪とライフジャケットを考案し、私に開発と販売を託してくれたお方にして欲しい」
「あんたが考えたんじゃないのか?」
「誰っすか、その人は?」
ガストンは一拍溜めて、それから高らかにその名を告げた。
「何を隠そう、ゼンボルグ公爵令嬢マリエットローズ・ジエンド様、その方だ」
「「ええぇっ!?」」
船長とドニの驚きの声がハモる。
自分達の領主の娘である公爵令嬢ともあろう尊い貴族が、何故こんな平民が使うような品を考え、商会に作らせて売り出したのか。
公爵令嬢はまだ子供だと言う話だったはず。
それら幾つもの驚きに、船長もドニも言葉が出なかった。
そんな二人の驚きように、どこか悪戯が成功した子供のような満足げな顔で、ガストンは言葉を続けた。
「私も驚いたよ。だからマリエットローズ様に尋ねたんだ。『何故そこまで平民のために?』と。そうしたら、どう答えられたと思う?」
貴族など雲の上の存在過ぎて、二人は全く見当も付かず顔を見合わせ、ガストンに顔を戻すと首を横に振った。
「マリエットローズ様はなんの気負いもてらいもなく、ただあるがままに『救える命があるなら、救うでしょう?』、そう
船長もドニも絶句する。
たったそれだけのために、貴族のご令嬢が平民のための商品を考え、自分達の元へ届け、そして命を救ってくれたのだ。
「海の女神ポセーニア様の御使いみてぇな方だな……」
ポセーニアは海と船乗りの守護者として港町では古くから信仰されている女神で、ポセーニアの御使いが溺れたり漂流したりした船乗りや漁師を導き救う話は、子供の寝物語としても語り継がれている。
「……そのお嬢様……聖女様っすか!?」
二人のそれぞれの反応に、ガストンは言い得て妙だと、深く頷いた。
「私もそう思う。とても素晴らしいお方だ」
その後、同様に命を拾った者達の話を幾つも耳にするようになるまで、そう時間は掛からなかった。
その話が広まるのに合わせ、浮き輪とライフジャケット、そしてマリエットローズの名もまた、船乗りと漁師達の間に広まっていった。
マリエットローズの名まで一緒に広まったのは、発端となった船長とドニが、ガストンから伝え聞いたマリエットローズの言葉を積極的に広め、航海の無事を、海の女神ポセーニアと一緒にマリエットローズにも祈るようになっていたからである。
やがて、漁師の夫や親を失った
いつしか尊敬と敬愛を込めて『ポセーニアの聖女』の愛称で親しまれ、その呼び名が広まっていったのだった。
そして『ポセーニアの聖女』の加護にあやかろうと、マリエットローズの絵姿が飛ぶように売れていくのだが、マリエットローズはそれらの事実をまだ知らない。
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