六時限目 青春の始まり

気づけば、周りの女子はかなりしっかりした形でグループを作っている。

そう、クラス替えした直後に友達作りのスタートダッシュは切られていたのだ。

自己紹介を淡々とよろしくお願いしますのみで済ませた私は本当に孤立している。つまり交流目的で自ら私に話しかけてくれる人はいないのだ。

悩んだ挙げ句、絶望したあとに諦めた。

というわけで私は一人で帰ることとなった。いつも通り。

性格のせいかはわからないが、私はうつむき加減で歩くくせがある。

なので小学生がいきなり視界に入ってぶつかることも・・・

ドン。

「はぅ!?すみません!」

確実に小学生ではない相手・・・殴られるかも・・・

「謝ることはない。私からぶつかったんだから。」

見上げてみると、ちょっと高身長なスタイルのいい、メガネお姉さん・・・月浦さんだった。

「以後、どうかね。友達はできてなかろう?」

居たらどうするんだ。とんでもなく失礼な発言になるんだが。・・・まあ、いないんだけど。

「・・・ま、せいぜい頑張れ。私は帰る」

そう言って月浦さんは満足げに回れ右して足早にどこかに消えていった。

やはり終始全てがわからない謎の人だ。

私は小学校の頃から気味悪がられて友達のTの字すらなかった。目つきが悪いし日陰ができる場所で永遠と本を読んでいたからだ。

なお、目つきの悪さは多少軽減されどもしっかり残っている。

誰も気にしない漬物石だから別に見た目にこだわる必要が無いので、少したりとも気にしていない。これもまた、女子らしくない。

友達の作り方がやはり全然わからない。ネットで聞いてもテンプレートのような文章とできるかどうか不明な方法が帰ってくる。みんな自然に友達を作っているから分からないのかも知れない。

元々人間はコミュニケーションをとり大きな群れを作って生き延びる生物だった。

大昔に行われた実験で「赤ちゃんと全くコミュニケーションやスキンシップを取らずに育成する実験」では、全赤ちゃんが一年も足らずに死亡したらしい。

つまり、友達がおらずコミュニケーションを最低限以下しか取らない私は生物的に人間じゃないのだ。

間違ってるかもしれないが、凡愚高校生であって学者ではないのでOKだ。問題ない。

なぜ人間社会はこうも生きづらく溺れやすく詰まりやすいのだろうか。

もっと動物的に生きれば全てを考えずに済むのに。なぜ進まなければならないのだろう。

「ここに行け」「前にならえ」「最低限ぐらいこなせ」「いい学歴を持て」「出来ないんじゃなくてやりたくないだけだろう」

アレを頑張ってやっと開放されたと思ったらまた次のモノ足を引っ張り、行きたい道から引き剥がそうとしてくる。

人間はすべての目的を失って迷走をしているんだ。生きて繁殖して死ぬということでは知能のせいで飽きてしまい、娯楽、快適を求めるうちに体の強靭さが失われていき、それを補うためにまた進化を求め、どんどん間接的に体の一部が機械になっていく。もはや生物として必要なもの以上を求め続け、意味を失い迷走をしている。遠くない未来、全てを機械がするようになった頃、人間は完全に機械に存在意義を奪われてしまい、テセウスの船のように本当に人間か分からなくなってしまう。

死ぬのを待つ死体になるのだ。

そう難しいことを考えていると、ある一つのことに気づく。

生物全体はもう、「死ぬのを待つ操り人形」なのだ。まだ動いているものの、結局は死ぬのを待つのみなんだ。

結論、私は生きる意味、すなわち「生きがい」を考えなければならない。

とりあえず、

しばらくは「友達を作る」というのが生きがいになりそうだ。

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