第10話  『土の章』

母の死後、相変わらず私は警備員であり続けた。母の死は転職の理由にはならないものだ。多少は私の傷心を気遣った会社に、休みの融通を利かせてもらったが、中々どうして、「衝撃」が薄れれば、「駅ビー」等を楽しむ余裕さえ生まれた。読者諸氏は「駅ビー」をご存じだろうか?勤務を終えた後にするこの「駅ビー」は非常に愉快であった。勤務場所は「デパートの駐車場」であったので、デパートには付きものの「レストラン街」(デパート閉店後も22:00ぐらいまでは営業している)の客の車を出すために残業する者を除けば、アルバイトたちはかなり早い時間に退勤となる。18:30には退勤であった。なお、残業は非常に気楽で、出入りする客の車は多くても10数台。あとは受付に座って、もう一人の同僚と駄弁っていればよかった。サッサと退勤した私たちは、その日の「残業を射止めた幸せ者」を羨みながら駅にたどり着く。私は自転車で通勤していたのだが、この「駅ビー」のために、しばしば自転車を置いて電車とバスで帰宅したモノだ。

 キオスクで缶ビールを買い、誰かが買ったピーナッツとか適当な乾きモノを円陣の中、回しながら「勤務明けのビールを呷る」わけだ。駅で飲むビールも美味い。疲れ切ったサラリーマンの顔を見ながら飲むビールは美味い。人としてどうかとは思うが、駅で飲むと言っても、350ml缶を1本である。2本目を買うことは無い。若者ばかりのこの職場は本当に居心地が良かったものだ。

 

 ふと、思いだしたことがある。圭子のことである。彼女の高校卒業と同時に縁は切れたわけだが、一瞬だけ「重なった」ことがある。圭子は一部上場企業に推薦で入ったほどの才媛であったが、その職場で恋愛をしたそうだ。ただ、相手が悪かったようで。私はここで疑問に思ったのだが、「取引先の社員」との恋愛を「禁止」とするのは、人権侵害では無いだろうか?相手が反社会的勢力だったなんて場合は仕方ない。その恋を貫くなら辞職するしかないだろう。しかし、単なる取引先の男性である。私はここに「ヒエラルキー構造」を感じる。会社の「格」の違いで、圭子の恋愛は上司によって終わることとなった。そのせいだろうか、圭子はその後間もなく、その一流(笑)の会社を退職した。と、ここまではまあ「よくある話」なのだが、その後圭子はデパートの事務職に就いた。あろうことか、私が警備しているデパートである。私は駐車場専門のような感じで、のちに「施設警備の資格」を取って、夜間常駐の仕事もした。夜間常駐はバイト料が破格に高いのだ。

 さて、ある日のことである。私はその日は休みで、なんとなく街に出て、やはり暇なのでバイト先に差し入れに行くことにした。菓子を持っていけば歓迎される。そのデパートに向かう途中のことである。どうにか乗用車がすれ違えるほどの広さの路地で、道の反対側を歩いてくる圭子を発見したのだ。この時はまだ圭子がデパート勤務とも知らず、ただ驚いた。平日のこんな時間、こんな場所で出くわすとは・・・

 圭子も私に気付いたようだ。反対側を歩いていたが、私の歩く側に進路を変えた。私はと言えば、そんな圭子と交錯するように、反対側に向けて歩を進めた。もう終わった恋だと、家出中も含め、私は心に刻んだのだ。もしもあの時、相対して「よぉ、久しぶり」と声をかけていたら、私と圭子の人生も大きく変わっていたのかも知れない。何にせよ、圭子は私と話をしたかったようだった。

 結局は、圭子も私も独身のままである。圭子は少なくとも35歳までは未婚であったし、かなり「スレた」生活をしているようだった。地元なので、そのくらいの話を聞くことはあるのだ。

 母の死と言う出来事があり、祥子は姿を現わさなくなった。流石にもう切れたろうと思っていたが、甘かったようだ。祥子はきっちり四十九日が終わってから、実家に電話をかけてきた。

 「よーじ、大丈夫?」と心配してくれてるようだ。私も多少は気が弱くなっていたので「大丈夫だけど・・・」と語尾を濁してしまった。

 「遊び行っていい?」と祥子が言う。実家の人間関係は崩壊していたとは言え、まだこの家は私の住む家だ。久しぶりに「私を全肯定してくれる女の子」に会いたくて、私は「いいよ」と答えてしまった。もう家に金を入れる必要もなく、私のアルバイト日数は少なくなっていた。週に3日は休んでいたように思う。家賃も光熱費も要らない生活だ、10万もあれば足りる。そして祥子が現れた。祥子が中学二年生の時に知り合い、相変わらず「白い二本線の入った芋臭い赤ジャージ」が似合いそうであるが、祥子ももう高校3年生だ。恐ろしいことである。祥子の親の方針で、女子高に通っている祥子は、もうこの頃から私への愛情を隠そうともせず、「私、よーじと結婚するの」と周囲に言いふらしていた。海に住むアレである、イイフラシ・・・アメフラシだ、ソレは。私としては迷惑この上ない話だが、実害はないので放置していた。どうせそのうち消えるだろうと思っていたからだ。そう思いながら既に6年目・・・いい加減しつこいと思ったが。高校3年生女子を家に招く。更には自室で二人きり・・・親はいない。大澤は金策に忙しく、弟はまた真面目に塗装職人に戻っている。こんな状態で、何かが起きないことなど、あるのだろうか?


あるのである。


もう付き合いが長過ぎて、祥子の立ち位置は「妹」である。我が家に来たところで、ただ駄弁るだけ。手持無沙汰になったので、ちょっと祥子の乳を揉んでみるなんてことも思いつかず、次回からは外で会おうと決めた。外で会えば、何かしらの「遊び」はあるものだ。私が24歳、祥子18歳の頃の話である。祥子の中では、私は「未来の旦那さん」であった。私はと言えば、取り敢えず風俗で遊んでたぐらいで、恋人はいない。風俗で遊ぶくらいなら、慕ってくる女子高生を押し倒せばいいじゃないかと言う方もいるだろう。しかし、いくら腹が減っているからと言って、貴方は「革靴」(ローファー)を喰えますかと言う話である。まったく食指が動かない。ソレが祥子であった。

 また付かず離れずの付き合いが再開された。面倒な時は祥子を家に呼び、近所の公園でポートレートを撮影したり、結構な田舎なので、ハイキングなども楽しめた。外で遊ぶなら、映画を観に行くとかライブ、遊園地にも行った。某「ネズミの国」に行かなかったのは不思議である。大澤には「他人と住んでも意味が無い」と告げたが、別に害はないので、母が死んだ翌年の春までは実家にいた。弟も同じように実家にいた。家賃無料であるから当然である。大澤も、僅かながらの罪悪感があったのだろう。私たち兄弟にどうこう言うことも無かった。そして年が明け、あの祥子がついに高校を卒業することになった。一時期は会うことも無かった関係だが、今では私は「祥子の婚約者」と目されていた。祥子の卒業アルバムには「よーじさんとお幸せにっ!」みたいなメッセージが溢れていた。今頃、もうアラフィフとなっている祥子は、そのアルバムをどんな気持ちで見るのであろうか?

 さて、芋臭くてションベン臭かったあの中学生も、女子高に進学したと言うことで多少は小奇麗になっていた。化粧っ気は無かったが、若さで張りがある肌はまぁ「至宝」だとは言えるだろう。そしてその日は急に来た。祥子は卒業式の前に我が家にやって来て、「しないの?」とのたまわった。「しないの?」とは、就職のことか引っ越しのことかととぼけても無駄であった。なぜならば、祥子は避妊具を持参して私に手渡したのだ。さて困った。「妹」だと思っている女の子さんを抱けるだろうか?多少は小奇麗になったとはいえ、祥子は祥子なのである。それでも祥子はセックスに乗り気で、まだ寒い春の我が部屋でスカートを脱いでベッドに入ってしまった。私のポリシーで「女子高生は抱かない」と言うものがあったのだが、間もなく卒業。年齢的には18歳なので問題は無い。いや、当時は条例など無かったので、相手が女子高生でも「合意の上なら合法」ではあったが。

 しかし、処女を抱くのは面倒である。処女と言う生き物は「覚悟があってベッドに仰向けになっている」はずなのに、徐々に挿入していくとどんどん「上の方へ逃げてく」生態がある。そのうち、ベッドのヘッドボードに頭をぶつけることになる。若しくは「無理・・・ごめんね」などとほざくのだ。仕方が無いので、挿入を始めたら「肩を抑え込んで」一気に・・・


祥子、経験者。


多分、会っていない時期に処女を捨ててきたのだろう。見上げた心意気である。私は処女が嫌いなのだから。いやそう言う問題か?しかし、5分前までは「妹」だった女の子さんを抱くのは照れた。中学生時代から知っている相手だ、ある意味幼馴染である。勃起はした。しなければおかしい程度には、祥子の顔は「メス」の顔になっていたし、いい匂いもした。1回やってしまえばもう慣れである。取り敢えず、その日は3回ほど撃ち込んでやった。「避妊具」と言ったが、コンドームではない。当時発売されたばかりの「避妊フィルム・マイルーラ」である。素晴らしい避妊具で効果も高いのだが、使い方を間違えた猿男と猿女が妊娠する事故が多発。国内流通が無くなってしまった。膣内に薄い水溶性のフィルムを入れることで「殺精子力」を発揮する。つまり、避妊しながら「生」で出来るのであるっ!


生で出来るのであるっ!


身体の真ん中に3発の「愛」を撃ち込まれた祥子は満足げに帰っていった。もうこうなったら、デートの場所は我が家限定になる。ラブホ代が勿体ない。どうせ昼間は私しかいない家だ。自由に祥子を抱けると言うもの。最初に抱いた時には気付かなかった。あの日はベッドの中にいたから。実は、祥子の身体は素晴らしく均整の取れたモノであった。Dカップで、締まりのある腹とウェスト回り。逞しくも太過ぎない太もも。しかも、祥子は非常に好奇心旺盛で積極的であった。つまりは、「ノーマルの範疇」ならば、どんなプレイも喜んでくれたのだ。

 今、そんな彼女がいたら、きっと穴だらけにするだろうと思う。使える穴は全部使うだろうし。驚いたのは、「ごっくん」することであった。この頃までに私が通った風俗店では「口の中には出さないで」とか「ゴム付」が当たり前で、たまさか口内で出せても、嬢は嫌そうな顔をして吐き出すのが当たり前であった。と言うか、口内に出すのは、恐れ多いと思うのだ。風俗店では「基本サービス」なので気にせず出してはいるが。そんなある日のこと。祥子との睦みあいもひと段落して、腕枕をして寝ていたら。私が高校時代から使っていたそのベッドのフレームが折れた。アレはビックリした。戦争でも起きたのかと思った。何が起きたか理解して、私と祥子は大笑いした。次回からは布団だ、祥子。

 抱き続けていると、どんどん愛おしくなるもので。更には、女の子さんはセックスで綺麗になったりするもので。祥子は「芋臭い子」から、「華麗な蝶」にジョブチェンジした。その頃には、私はもう家を出る段取りを始めていたが、どうせパチンコ店とかである。面接に行けば受かるだろうし、ただ「寮のある無し」だけが問題であった。幸い、近所とも言えないが、ギリギリ徒歩圏内のパチンコ店に就職出来た。もう大澤のいる実家に未練はない。特に大きな荷物も無いので、黙って家を出た。それだけだ。弟も私の後を追うように家を出た。連絡だけは取り合っていた。弟の場合は、母の知人から頂いた家具等がかなりあったので、友人の手伝いで2日かけて引っ越したそうだ。大澤がソレを黙って見ていたのかは分からない。ただ、かなり高価な家具が多かった実家も、全てを廃棄することで清算したらしい。早い話が、大澤は2階の窓から庭に全てを投げ捨てて、ソレを産廃業者に持って行かせただけだ。真月が見せてくれたビジョンでは、乱暴に叩き壊された箪笥とか、様々なゴミが庭に積み上がっていた。「大事なモノ」はレンタル倉庫に預けたらしい。家族のアルバムだとか、母の持ち物などである。私には関係ないし、意味も無いモノたちだ。まあ「母の愛した装身具」ぐらいは、金に換えても良かったとは思う。


パチンコ店勤務は初めてであった。客として打つことはあっても「店員」として店内を歩いたことは無かった。ただ、「随分と楽な仕事だろう」と思っていた。雀荘時代は12時間労働であったし、給料から「負けた分」を引かれるのだから、毎月ピーピー言っていた。面接はその店の「店長」がしてくれた。若いうえに職歴もマトモ(と言う風に履歴書を書いた)なので、その場で採用が決まった。「いつから来れる?」との問いに、「明日からでも」と答えた。既に実家を出る支度は済んでいて、祥子とも遊んだばかりなので、まぁ休み無し1週間ぐらいは余裕であった。ならば翌日の「遅番」から出てきなさいと言うことになった。パチンコ店の忙しい時間帯は当然「遅番」の時間帯だ。寮には翌日の午前中には入った。食堂に案内され、飯を食わせてもらい。

 あとは昼寝して出勤時間を待った。16:00から24:00までの8時間、休憩は無しである。16:00に点呼をとったらそのまま食事をして、あとは店が終わり、閉店後の清掃が終わるまでノンストップで仕事である。立ちっぱなしなので、最初の1週間ほどは辛かった。足が痛くてたまらない。だがこれも1週間で慣れた。休憩が無いと言うのは厳しいように思えるが、実際は「休憩中に仕事をする」感じである。なにせ、仕事中にジュースを飲もうが煙草を吸おうが自由なのである。客に混じって煙草を吸うのである。ただ「座れない」のがキツいだけであった。


当時の・・・そう30年前のパチンコ店を知る人は多くはないと思うが、今では想像もつかない世界であった。先ず、パンチパーマの店員が「鍵束」を振り回しながら店内をオラついて歩いている。客よりも店員の方が威張っている。どうかすればくわえ煙草で接客している。接客とは、トラブルを起こした台のメンテナンスのことだが、くわえ煙草で直して、乱暴に台のガラスを閉じて「コレでいいか?」である。最高の職場であった。最初の1週間は遅番で、翌週からは早番。大体は1週間ごとに早番と遅番が変わる。早番は更にパラダイス銀河であった。何と言っても「客がいない」のである。店の規模は、パチンコ150台ほどと、スロットが30台ほどの小規模店。近所には市内では有名なチェーン店があり、私の勤務する店は閑古鳥であった。一島30数台に客が2~3人しかいない。当時は「大当たりしたらドル箱を持って行く」スタイルであったが、当たることも少なく、暇そのもの。タバコを吸ってジュースを飲んで、たまに店内をうろつくだけで良かった。しかし私はかなりの馬鹿だったので、店長の言う「店員は掃除とにこやかな接客が大事」と言う言葉を信じていた。早い話が、煙草を吸ったりジュースを飲んだりはするが、それは自分で決めた「休憩時間=10分」であり、休憩時間以外は店内を歩いてゴミを拾い、玉を拾って歩いた。暇だったのだ。当たった客がいれば、すぐにドル箱を持って行き、にこやかに「おめでとうございます」と言うことも忘れなかった。


と言うか、コレが「仕事」だと思うんだが?


他の店員はかなり「スレ」ていて、当たった客にドル箱を差し出して、すぐにその場を離れてしまう。不愛想である。と言うか怖い。パンチパーマだし。なお、店員が気に入らない客を追い出すなんてこともよくあった。商売ではないと思う。ギャンブルだから「打たせてもらえるだけでいいだろ?」と言う意識が見え見えであった。そして、良い時代でもあった。今のパチンコ店は「サービス過剰」であると思うのだ。何も、コースに入る時に足を揃えてお辞儀しなくていいのだ。それよりもさっさとドル箱を持って来いである。相対的に客が偉くなったものだから、クレームも増える。つまらないことで揉める。店員は店員で「マニュアル教育」しかされないので、突発的なトラブルには弱い。にこやかな若者に接客されるのも悪くはないが、あんな「ほのぼのとした空間」である必要は無いのだ。客が負けた金で給料をもらってるんだから。勿論、勝つ者もいる。大体だが、客のうち、「勝つのは2割」と言われている。8割の客は負けているのだ。だからと言って、「負けた客に配慮する必要はない」のだ。勝手に打って、勝手に負けているのだからね。私は今でもパチンコと言うか、スロットを打っているが、多分、一般客よりは勝っていると思う。ここ10数年は収支をプラスのまま維持してきた。ただし、額は知れたものである。常連と言うほどではないが、行けば知った顔も多いし、いわゆる「プロ」と言われる若者とも親交がある。彼らはいい奴らだ、店にとっては害虫かも知れないが。


 当時はそんな「プロ」は珍しく、多くは「開店プロ」と言って、新装開店の日だけ打ちに来る。県下のパチンコ店どころか他府県にまで遠征して「新装開店だけ」を狙うのだ。この手のプロは今でもありがたくない連中である。


 少し話を戻すが、実は1年ほどパチンコで食ってた時期がある。元になった資金は20万円ほどであったが、この20万円で1年間生活出来た。私も「パチプロ」(笑)だったことがあるのだ。当然「パチンコ」であって、「パマンコ」ではない。パコパコマ〇コで食えるほど、私の股間の一発台は出玉が凄いわけでは無い。いや、いっぱい出るが、それはまた別の話だ。「パマプロ」とかになれたら良かった・・・

 当時のパチンコ店にある機種はバラエティーに富んでいて、羽根モノと言う、出玉が穏やかで打ちやすい機種とか、アレパチとか「権利モノ」と呼ばれる爆裂台、一発台と呼ばれる、「大当たり穴に玉が入れば打ち止めまで出っ放し」と言うギャンブル台まであった。その中の小さなジャンルが、今のパチンコ店の主流である「セブン機」(デジタル機)である。図柄が揃えば当たり。今のパチンコは大体がコレだ。昔は、パチンコ店に15台もあれば上等な、マイナージャンルだったのだが。


今ほど「パチンコで食う」ことが難しい時代では無かった。「ジグマ」と呼ばれる、その店専門のプロがいて、このジグマに気に入られればもう無敗である。羽根モノは「釘調整」で、出るか出ないかが決まる。運の要素は少なかった。「開放台」と呼ばれる、甘釘台が毎日用意されていた。こんな台に座れれば、その日は負けなかったものだ。当然だがそんな「開放台」は毎日変わる。ジグマだって、その台がどこにあるのか知らない。朝から並んで、そんな台を探すのだ。一般客で朝から並ぶ人は多くは無かった。私はパチンコが好きだったので、無職時代に朝から並んでいただけだ。それでも若いモンが並んでいれば目立つ。しかも負けてると言うことで、ジグマの仲間の人から声をかけられた。「坊主、そんなに負けてて大丈夫か?」いえ、大丈夫ではありません。最近は風俗にも行けてません。このままでは、来月早々に、枝ぶりのいい木を探すようです。「じゃ、コレ打て」と教えられた台が凄く出る。どのくらい出るかと言うと、若かった私が3日間溜め込んだ状態以上に出る(玉が)その台こそが「開放台」であった。甘釘の台は「客寄せ」のためにあるわけだが、客で賑わう前の午前中にジグマたちが「打ち止め」にする。定量制と言って、大体3千発も出したら、その台には「打ち止め台」の札が入って、もう打てなくなる。そして、店が賑わってくると、その「打ち止め台」を抽選開放する。そんな営業形態であった。もう、エロビッチなみにチューリップがパッカンパッカン開くのだ。打ってて楽しい。

 ジグマも馬鹿ではない(と言うかインテリ層が多かった)ので、3千発定量なら、2千5百発出して、仲間に譲る。仲間が5百発も出せばもう打ち止めになるが、「おい、これしか出てねーぞ」と言えば、店は渋々3千発の追加を入れる(コレはコンピュータ制御でやるから確実)で、交代した2人目は、やはり2千5百発も出して、「私は3人目だと思うから」と言いそうな人に譲る。大体、この3人目でその台は何があろうと打ち止めにされるが、その店で食ってるプロを養うには十分であった。


開放台を譲って貰った日から、私はジグマのリーダーたちに缶コーヒーや、好んで吸ってる銘柄の煙草を貢いだ。また開放台を譲ってもらえれば美味しい思いが出来るからである。

「にーちゃん、そんな差し入れはいいからよ。アレ打て」

なんと人情に溢れた人たちであろうか。

 私はジグマの人たちに気に入られることに成功したのだ。数百円の投資で7~8千円にはなるので、多少投資がかさんでも、1日2台を打ち止めにすれば十分に生活で来た。もちろん、自分だけが打ち止めにするわけでは無く、後続に譲ることを忘れなかった。「仁義」である。

 今はもう「開放台」と言う概念も消えかけているが、スロットの「高設定台」はお宝台であろう。先ず座れないが、昨年、新台で入った台が打ちたくて、満席のその島をたまにチェックしながら、いつもの極悪台を打っていた。一応は出てはいたが、数千円の浮きと言う感じ。午後に入って数時間、1台が空いたので、椅子に上着をかけて台をキープしようとしたら、その隣で打っていたスロ専業のにーちゃんが「コレ、打ちます?」と、どう考えても高設定の台を譲ってくれた。にーちゃんは2千枚をお持ち帰り。こんなラッキーは無いと、喜び勇んで1万円ストレートに負けた。しかし、にーちゃんが譲ってくれた台だ。この程度で捨てるのも申し訳ない。結局は、その台で1万円ほど勝つことに成功した。夜はデリ嬢を呼んで性交した。どうも私は「男にはモテる」ようである。スロ専業のにーちゃん達とは良い関係を作っている。常連のおっさん連中には嫌われているが。


話を戻すが、その店の店長以下、店員たちは「キャラバン」であった。全員が1つの「チームと言うか家族のように結束」していて、時期が来ればまた全国のパチンコ店を放浪して、また店員として勤務する。キャラバンのリーダーは如才の無い男で、どこの店に入っても、めきめきと頭角を現し、あっという間に店長になるような男であった。もう髪に白いものが混じってはいたが、エネルギッシュな人であった。私はそんな「ファミリー」の一員となってしまったのだ。いや、なったつもりは無いが、あちらさんは私も「一員である」と考えていたようだ。若くて可愛い女の子でもいれば、私も彼らに着いて行って、広島のパチンコ店で子を設けて幸せになれたかも知れないが、生憎とババァばかりで、まだ祥子の方がマシに思えた。そう言えば、このパチンコ店勤務時代に私は祥子の「婚約者」になっていた。まだ祥子の親も、私の人定が定まらず、正式な婚約には至っていなかったが、遅かれ早かれ、祥子が押し切ることは目に見えていた。

 そして、私が勤務していたパチンコ店が、チェーン店に店員そのままで身売りされた。青天の霹靂である。キャラバンのメンバーは夜ごと会議をしていて、私も呼ばれた。まだこの店に入って3ヶ月である。キャラバンの一員だと言う自覚すら無かったが、店長が言うには「この中から裏切り者が出る」そうだ。私が「ユダ」か?そう言う意味だな?そもそも、私は「就職先」としてこの店を選んだだけなので、キャラバンには何の思いも無い。しかし、店長はこの店の次のオーナーから「安元は置いて行って欲しい」と言われていたようだ。そこで、私を呼び出して「キャラバンを裏切るのか?」と、やんわりと詰問してきたわけだ。裏切るも何も、私は無関係だしぃ。

 結局、月が替わり、新体制になると、主任と私だけを残して彼らは広島県へ旅立って行った。私は新しい社長に保護されていた。「裏切り者は赦さない」みたいな話も合ったし、危険はあったのだ。主任は奥さんの身体が弱いのでお目こぼしになったようだ。何故、私だけが新しいオーナーの目に留まったのか?簡単である。

 私は真面目に働き、くわえ煙草もせずに、大当たりした客に笑顔でおめでとうございますと言っていた。その大当たりした客の中に、事前調査で店で客の振りをしていた新オーナーがいただけだ。「良い店員」と言うイメージを与えていたのだ。

 そして地獄が始った。何せ、私と主任以外は全員が辞めた。景品カウンターの親子は残ったが、ホール業務は出来ない。主任は朝一に両替機に硬貨を入れて、あとは店の2階にある寮で寝ていた。主任の場合は、遅番のちょっと前から出て来て、深夜、店が終わったあとの集計業務までやるので仕方が無い。つまり、景品カウンターの心配はないが、ホールにいるのは私だけである。いくら客が少ない店だと言っても、ワンオペで回すには限度があった。昼飯は、店内でおにぎりの立ち食いである。夕方まで頑張れば主任が出てくるので、それまでの辛抱であるが、誇張ではなく、店内を走り回っていた。流石に3日目からは社長(新オーナー)も手伝いに来てくれたし、4日目には近所のチェーン店から応援が来るようになった。やっと「遅番」「早番」勤務に戻れた・・・のも束の間であった。


あ、そう言えばあの苦労の中。社長の兄弟(他のチェーン店の店長たち)が私に言った約束を今でも憶えている。


「そのうちいい女を抱かせてやるからよっ!」


あの・・・まだですか、ソレ。


運営する親会社が変わると言う椿事を乗り越えて、私は馬鹿に見えるくらい真面目に働いていた。いや、仕事をしていないと暇で仕方が無いのだ。暇ならタバコを吸いながらジュースでも飲んでいればいいのだが、私は何かと貧乏性で。暇な時間は積んであるドル箱を拭いたり、台のガラス、椅子なんぞをせっせと拭いていた。客が打った後の台はすぐに灰皿を綺麗に拭きあげたりしていたし、客が少ない時間帯でも「マイクパフォーマンス」をしていた。

 もうこんな「マイクパフォーマンス」をする店も激減したと思うが、当時は店に流れる音楽を「軍艦マーチ」に切り替えて、案内放送をしていたものだ。


「いらっしゃいませいらっしゃいませいらっしゃいませ。本日はお暑い中(雨の日は「足もとのお悪い中」等、アドリブで変える)パーラー●●へのご指名ご来店、誠にありがとうございます。さぁ本日も優秀機優秀台でお客様をお出迎え、1番台2番台、ラッキーナンバー7番台、ダブルラッキーナンバー77番台はもちろん、最終512番台まで、釘は甘く広く広く甘く、スロットも好調設定でのお出迎えとなっております。出ない台はございません。どちらのお客様も、お時間の許します限り、パーラー●●の出玉をお楽しみください。さぁっ!フィーバーコーナーから大当たりスタート。続いて●●からはビッグボーナスと、ラッキーなお客様、上手なお客様から続々と大当たりスタート・・・・・」


と言うようなマイクパフォーマンスをやっていたわけだ。あの「独特の節回し」を憶えている方がいるだろうか?私は初めて勤務したこの店で「マイクパフォーマンスの基本」を憶えた。のちに、他の法人に入社した時には、平気で1時間でも2時間でもマイクで煽ることが出来るようになった。当時は「マイクパフォーマンスの上手さ=仕事の出来る社員」と言う妙な図式があったのだ。


私が最初に就職した店は新たな運営会社となったわけだが、何気にこの新しい会社の社長は「女の腐ったの」みたいな男で。いちいち社員を「試そうとする」悪癖があった。例えば、私がサボることも無く、暇な時間は掃除をしているなんてことは、社長の手下がスパイとして来店してるので、筒抜けであった。私としては「暇潰し」なのだが、評価はうなぎ登りである。体制が変わって1か月後には「主任待遇」となった。職名は「班長」であるが、上に主任がいるので、当分は「班長」で我慢してくれと言う話であった。最初の法人では、平社員→班長→主任→副店長→店長の順に昇進していく。コレは法人によって違うと思う。現に、2回目に就職した法人では、全ての役職に「副」が付く役があった、「副主任」とかである。副店長ではなく、ホールマネージャーと言う役職もあった。私は「主任待遇の班長」であったので、通常は渡されない「現金に触れる鍵」も預かっていた。両替機の鍵や、島金庫と呼ばれる、客が使った金が集まる金庫の鍵である。流石に事務所にあるデカい金庫の鍵は預かることは無かったが。


「社員を試す」と言うのは、つまり「信用していないから」である。例えばこんなことがあった。前日、店の売り上げの集計で過不足が無かった。その翌朝、店の隅にある「紙幣両替機」の中に千円札で20万円ほどが残されていた。当時は現金で遊ぶスタイルだったので、両替機は店内のあちこちにあったのだ。私は「前日の集計で過不足無し」だったので、この20万円を不審に思った。要は「計算外の浮いてるお金」である。コレはポッケナイナイ案件ではなかろうか?しかし、一人で独占するのも気が引けるので、主任に相談して預けた。主任はかなり悩んだようだが、社長(店長として店にいた)が出勤してきた時に、「こんなお金がありました」と申告した。もちろん「安元君が見つけたんですけど」の言葉を忘れない、ナイスガイであった。自分の手柄にしないなんて、奥さんさえマトモならひとかどの男になれただろうに・・・

 もちろん、この「20万円」は、社長がわざとやったことであった。集計に問題が無いと言う条件で、店内に20万円を放置して、そのままポッケナイナイするかどうかの試練である。ポッケナイナイしたら解雇であろう。またある時は、私宛に電話が来た。ホールの方は社員が揃って来ていたので、私は事務所で電卓を叩いていた。事務仕事は結構ある上に、当時は「店舗間の回線」等は無いので、ホールコーンピューターの数字を見ながら「出玉率」を機種ごとに計算して、電話で報告するのだ。怪しげなデータがあればFAXでも送る。そんな時間に電話がかかって来た。私を指名して。話を聞いてみると、近隣にあるライバル店の店長である。私の仕事ぶりが素晴らしいので、待遇をかなり上げてでも当店に来て欲しいと言う「引き抜き」であった。私は迷うことなく、多分光の速さで「今の社長にはお世話になっているので、申し訳ありませんが、この話は無かったことに」と答えた。何にせよ、若い頃の私は速かった。大体は3分以内に発射してしまうのだ。今では、自分で「逝こう」と思わなければ、合致月の状態のまま1時間は耐えることが出来る。先日、数年ぶりに呼んだ「嬢」のテクニックでは5分と持たず、サクッと抜かれたが、あの嬢は悪魔的であるから仕方ない。 

 この「引き抜き話」も店長の差し金である。ここで、金に目がくらんで裏切る社員は必要ないと言うことだろう。本当に女々しい真似をする男であった。そんなことをしなくても、きちんと仕事を評価してくれて、昇進や昇給があるなら、誰が裏切ったりするものか。このような女々しいとか姑息な部分を除外すれば、社長の経営手腕には目を見張るものがあった。運営会社が変わる前には「大入り袋」と言うボーナスがあった。その日の「売り上げ」(利益ではない)が600万円を超えると、社員には「千円が入ったポチ袋」を配るのだ。「忙しい中疲れ様」と言う感じであろうか?月に2~3回は貰えたのだが、トップが入れ替わると、大入り袋は支給されなくなった。驚くことに、毎日600万円を超える売り上げを叩き出すようになったのだ。自然と、忙しい店になったので、社員の給料を上げて、私や主任の手当ても大きくなった。景品カウンターで、ホールコンピューターの端末をチェックしている時に、横に並んだ社長が「見ろ、安元。この多くの客を」以前とは比較にならない稼働率である。席は7割がた埋まっている。「お前はどう思う?」と訊かれた。私は素直に「貯金ですかね?」と答えた。社長は嬉しそうに笑って、「お前は分かってるんだな」と言った。これだけ客が付けば、2~3日ぐらい「タコ抜き」しても、客が飛んだりしない。その「阿吽の呼吸」の中で営業するのが当時のパチンコ店であった。「接客サービス」は二の次、「出るか出ないか?」だけである。そんな営業だから、店員も結構「アレ」だが、それに輪をかけて頭のおかしいのが客である。店員は「店から逃げられない」ので、酷い悪さをしないものだが、客は「店を変えれば済む」ので、マナーの悪い客はとことん悪かった。まぁ店員にも私みたいに悪質なのもいるにはいたが・・・

 当時は現金で打っていたので、台と台の間に「現金を入れて玉を借りるサンド」があった。今はCRユニットになっているが、当時はあそこに100円玉とか500円玉を入れていたのだよ。で、そのサンドも機械なので調子が悪い時がある。電気的に調子が悪い(故障)ならば交換するしかないが、大抵は僅かな「機械的な位置のずれ」で玉が上手く出ないことが多かった。その場合は、褒められた方法ではないが、サンドの「特定の部分」を掌底でドツくわけだ。衝撃を与えれば動く。コレは昭和の家電の常識であった。コレをやると、「客が真似をする」ので、あまりやりたくはないが、クソ忙しい時にわざわざサンドを外して位置直しなんざしてはいられない。

 ある日、私が隣のコースから次のコースに入った瞬間、「サンドから玉が出ない」のだろうか、そのサンドに本気の蹴りを入れてる馬鹿がいた。わざわざ席を立って蹴ったのだ。私は積んであった空のドル箱をその馬鹿近くに放り投げて、先ずは怒りを表明した。ドル箱をぶつけるほど馬鹿ではない。その客は私を見ると、ギョっとして、急に狼狽し、卑屈な笑みを浮かべた。

「出ていけ。あと、レシートを全部出せ。何回か交換してるよな。全部おいていけ」

つまり、出玉没収の上で出入り禁止である。


「そりゃねーよ、出玉持ってくなら、俺が使った金を返せよ」だそうだが、パチンコ店は「客の財布に手を突っ込むような商売はしていない」ので、そんな理屈は通らない。勝手に使った金だろう?しかし、店内設備を蹴っ飛ばす馬鹿に玉を出してやる理由は無い。何なら、お前が蹴っ飛ばしたサンドを点検整備に出してもいいぞ。その間の「補償」と、点検整備代は全部払ってもらうが、それでいいか?と言うやり取りで、このチンパンジーからレシート3枚、1万発分くらいを没収。別に没収したからと言って、私の懐が潤うわけでは無い。店を閉めてからの集計で2万円ほどが「浮く」だけである(正しくは、末締めの景品仕入れの額が2万円減る)


 「一発台」をご存じだろうか?今のパチンコの基準で考えればうんこみたいな台だが、当時は一撃で4千発~6千発出る台は皆無だったので、ギャンブル台として人気があった。狭い釘の間を玉が通り、中央にある「役物」に入り、更には当たり穴に入れば大当たり。店が設定した「打ち止め数」まで出っ放しである。当然、大当たりで1万円になるのならば、1万円使って当たるかどうかと言う極悪な釘調整であった。不思議なことに、「釘の間がパチンコ玉の直径よりも0.01mm」狭い、つまりは通れないはずの釘間をちゃんと通り抜ける玉があること。アレは玉の「勢い」でねじ込まれるのだろうと思う。私も自分の「竿」ならねじ込んできたが、それはまた別の話だ。玉の直径よりも0.02mmも釘間が広ければ大開放台である。こんなギャンブル台を打つのは当然、質の悪い客ばかりである。「当たり穴に入ったのに大当たりにならない」とか平気で噓を言う。そんなわけが無いので、目の前で実験して見せる。何なら「仕組みの部分」まで見せて教えてやる(玉の重さでチューリップが開くだけの構造である)

 そんな一発台も当局の規制(一応は業界の自主規制)でホールから消えたが、すぐに代用出来る台が発売される。当たったら右打ちと言うのは、当時では特殊な打ち方であったが、一発台は全てがこの「右打ち消化」だったように思う。代表的なシステムは、役物内に「3つ穴クルーン」があり、役物に飛び込んだ「ラッキーな玉」は、この3つ穴のうちの1つ、当たり穴を目指すのだ。そう言えば、私もこの生涯で「当たり穴」と言える穴とも出会ってきたが、やはり「当たり穴」と言うのはキツイ(物理)ものである。いや、キツくなく、どうかすれば緩い穴でもテクニック次第で「ラッキーホール」にもなると知ることが出来たこの人生に感謝である。

 当然、クルーンの周りを数周回ってから穴に落ちるのだが、大抵はハズレである。見た目は3つ穴なので、確率は1/3に見えるのだが、ハズレ穴に落ちやすいように役物は設計されている(設計値で1/6~1/10であった)言うなれば、アラフォーの奸計(年の功)は強烈で、多くの玉は吸い込まれてしまう。竿でなくて良かったね。なので、ハズレ穴に入りそうになったら「台をどついて玉をジャンプさせる」と言ういかさま行為が横行するようになる。マイク放送で何度も注意してるのに、やっぱりどつくチンパンジー並みの知能しかないパチンカスが出てくる。「台のどつき」が見やすいように、景品カウンタ前にある一発台。誰がどついたかなんて、すぐに分かる。そんなチンパンジーにはお仕置きが必要なので、何箱積んでいようが、1回のどつきで出玉はすべて没収である。時には万発持ちなんて馬鹿もいるので、不正を疑われないように(没収した分はお小遣いにするんだろうと言う邪推)その場で台を開けて、台裏を通る「ドブ」(玉の回収路)に全部流す。問答無用で流すのだ。ある日、やはりどついた客がいたので、どぶに流した。するとその客が「ヤクザに知り合いがいる。てめぇ、街を歩けなくしてやる」と凄んだ客がいた。はい、ありがとうございます。その場で警察を呼んだ。躊躇う必要はない。ヤクザなんだろ?


3日後、その客が菓子折りを持ってご来店。

「警察を呼ばれるとは思わなかった。本当に申し訳ありませんでした」

 2日間、こってりと絞られたそうだ。当時から「暴対法」で、ヤクザ絡みの事案には徹底抗戦するのが警察だったので。


このように、30年前のパチンコ店では「役職者がルールブック」であった。もちろん、役職者は絶対に不正をしないと言う前提あってのこと。店員さんでさえ、役職者には逆らえなかった。不正とかサボりばかりしてる駄目な役職者は早々に更迭されるけれど。私が「主任待遇」となったことにはもう一つの理由がある。主任を「研修セミナー」に出席させる都合があり、その間の2週間は私が主任代行となるからだ。そもそも、パチンコ店の業務なんざ、2か月あれば全てを憶えることが出来る(実務なら)経営とか営業方針などは経験が無いと出来ないが、店内の仕事なら2か月あれば十分だ。

 怖ろしいなと思ったのが「嫉妬」である。私はいわゆる「通常の班長」では無かったのだが、この立場に嫉妬する社員がいた。景品カウンターのおばさんたちだ。私は業務で仕方なく、事務所に詰めているわけなのだが、コレを見て「安元班長は事務所でサボっている」と騒いだ。椅子に座ってはいるが、ずっとモニタ画面と電卓とにらめっこだぞ。確かに事務所内は防音されてるので静かだが、サボりだと言うなら代わって欲しいものだ。この時点で私と「景品カウンター嬢」(ババァ)との対立構造が出来上がったわけだが、私は特に何もしなかった。社長が「ババァたちがうるさいから事務所に入らなくていいよ」と言ってくれた。コレで社長の仕事が2倍になった。朝一番のデータから、社長が出勤してくる16:00までのデータを、社長が全て計算して、手入力である。一番立腹していたのは社長だろう。

 と言うことで、私の立腹とは無関係の事案で、カウンター嬢は全員解雇して入れ替えとなった。目の前にある一発台。この系統の台は釘調整だけで出る出ないが決まる。「その日最も多く当たってる台」は開放台である。この台の番号を、景品カウンターにあるホールコンピューター端末から盗み見て、客に教えているカウンター嬢がいたのだ。端末は暗証番号でロックされているが、景品カウンターの主任だけは知っている。業務上必要だからだが、この暗証番号の漏洩等、全員を「連低責任」として、解雇した。社長が不正の事実を知った時に、「安元、どうする?」と訊いてきたので、「クビでいいんじゃないですか。不正はお金に直結しますし」と言うことであった。「事務所でサボってる云々」などと、つまらぬ嫉妬で社長にチクったりしなければ、主犯以外は助かったのに。

 ここまで真面目に仕事をしていたが、ある男のお陰で辞めることが出来た。


私は、社長から見れば「特殊な社員」であった。「有能か無能か?」でくくれば多分、有能な社員であったと自負してはいるが、何よりも特殊だったのは、「給料を欲しがらない」社員だったのだ。寮に入っているので家賃光熱費食費は無料である。祥子と言う「婚約者」がいるので、祥子と遊ぶ金さえあれば良かった。恐ろしいことに、私はパチンコ店勤務時代に「祥子の親の公認の婚約者」になってしまったのだ。あのションベン臭い小娘に篭絡され、何よりもその甲斐甲斐しい奉仕と、お口での奉仕に感動を覚えてしまったのが、今にして思えば手痛い失敗であった。でも生で出来るし、若いしソコソコ可愛くなったし、判定はイーブンと言うことで。

 「婚約者」ともなれば、コソコソと隠れて交際する必要も無いので、私は祥子の家庭に入り込んでいた。デートの費用もたかが知れているわけだ。祥子は慎ましやかな女性で、やれグッチが欲しいのシャネルが欲しいのとは言わなかった。もちろん、「ひと繋ぎの財宝が欲しい」とも言わなかった。私は泳ぎが得意では無いので、海賊になったら、仲間を集める最中に溺死しそうである。「親公認」とは言え、あからさまに「祥子さんは本当にフェラが上手いっ!」等と言えば、その場で縛り上げられて、電車のレールの上に置かれるだろうし、祥子の部屋で「行為」に及ぶことは無かった。いやあった。そんな状況なので、給料は月に7万円もあれば十分であった。祥子だって多少の金は持っているし、金に困ることも無い。それが「給料7万円ライン」であった。私は社長に正直に申告した。「婚約しているので資金が必要なんです。給料は7万円だけ支給して、残りは会社で預かってくれませんか?」

 この申し出に社長は驚いたそうだ。今まで、「給料を貯めておいてくれ」などとほざいた馬鹿は居なかったそうで、コレはチェーン店全部を対象にしても、私しかいない稀有な例であった。金額は省くが、それでもまだパチンコ店が華やかな頃の「主任待遇」である。今のパチンコ店の「店長レベル」にちょっと欠けるほどの給料を貰っていた。このうち、7万円だけを貰えば、あっという間に貯金は増える。退職時に受け取ったのは、「定期預金の通帳」であった。「まだ財形とかの手続きが決まってなくて、仕方なく定期預金にしておいた」そうだ。あの法人で頑張っていれば、きっと今頃は祥子よりも可愛い中国人の嫁を貰い、馬車馬のように働いて、帰宅すると、嫁が給料の大部分を中国本土に住む身内に送金していると言う、爽快な人生を送っていたと思う。寮の生活は快適であった。プライバシーもへったくれもない環境であるが、何せ私はその寮で一番偉いのだ。角部屋を確保して、なるべく静かな生活をしていた。たまに酔っ払った社員が騒ぐが「うるせーぞっ!」と怒鳴れば静かになった。寮母さんと言うか、餌係の女性は、「インドに自分探しに出た結果、諸行無常の境地に達した」ような、小汚い20代であったが、流石に飯が不味いのも困るので、社長が解雇して新たな「料理上手のおばさん」を雇った。つまりタダ飯も美味い。当時の私は晩酌を欠かさなかったので、寮母さんが「安元さん用に」と、酒肴を作ってくれていた。ビールは買いに行くのも億劫なので、近所の酒屋にケース単位で配達してもらっていた。この瓶ビールがたまに減る。私はこの現象を「天使の分け前」と呼んで、犯人探しに躍起になった。飲むのは構わんが、ひとこと言えと。あと、冷えたやつから飲むんじゃねぇっ!と言うことである。当然だが、ビールの代金も徴収した。奢る理由など無いのである。仕事を終えて、深夜の誰もいない食堂で、おばちゃんお手製の肉じゃがとか唐揚げで手酌で飲む。実にリラックスで出来る時間であるが、寮に入ってる社員たちはかなりフリーダムな生活をしていて、遅番勤務の社員は深夜の3時にシャワーを浴びて、私の可愛いビールを盗みに来る。そして私が居ると「ビール、貸してくれませんか?」とのたまう。飲みに行く金も無く、渋々「班長のビール」で我慢しようと言う算段である。「貸してくれ」と言うのは、給料日にまとめて払うからと言う意味である。何で普通に18万は貰ってる独身者が、月の半ばで金が無いのか理解に苦しむが、社員たちも「いい給料のはずの班長が、飲みにもいかずに食堂で飲んでる不思議」に興味津々であった。ある日、ストレートに尋ねられた。「なんで班長は飲みに行かないんですか?」意訳すれば、「部下に奢る気は無いんですか?」である。この店は多少、かなり相当変わっていて、上司が部下を飲みに連れていくことが無かった。社長は車で通勤(アウディからBMWに買い替えた)なので、無理だとしても、主任と私、もう一人の班長ですら、「おい、飲みに行くぞ」などと血迷ったことは言わなかった。「俺さ、給料は7万円しか貰えないんだ・・・」と答えたら、びっくりして「なんでですかっ?」と更に問うので、「高校時代に無免許で人を跳ねて殺しちまってさ、賠償だけで20万円を毎月払ってるんだ・・・」と、嘘を言ったら信じてくれた。馬鹿は騙しやすくていい。


ちなみに私は仕事絡みの「付き合い酒」は大嫌いで、サラリーマン時代の「付き合い酒」は、最初のビール1杯だけ。あとは店のお兄さんお姉さんに「ウィスキーのロックを頼んだら、ウーロン茶を入れて持って来てくれ」と言っていたほどである。飲めないわけでは無い。気分のいい酒なら焼酎のボトル1本は飲めたが、仕事の話をしながら飲む酒は、この世のモノとは思えないほど不味く感じる。

 主任は奥様がかなりエキセントリックで、かなりの美人なのだが色々とアレな人でした。主任は奥様の奴隷待遇で、仕事中だろうが何だろうが「すぐに帰って来てっ!」と言うほどで。キッチンにゴキブリが出た程度の急用である。1回だけ、奥様が救急車で運ばれたと言う理由で、営業時間内に主任が血相を変えて飛んで帰ったことがあったが、それさえも怪しいので、わざわざ営業が終わり、集計も終わった弛緩した時間の中、社長が「なぁ、梶川の話は本当かな?」と呟いた。流石に営業時間内の帰宅は、よほどの理由が無いと認められない。「市の救急隊に「知人が運ばれたみたいで心配なんですけど」って言えば、搬送されたか教えてくれると思いますよ」と答えた。当時は教えてくれたのだ。結局、確かに主任の奥様は「心臓の発作」で運ばれていた。自己申告での「心臓病」なので、検査してすぐに帰されたと言う情報まで入手出来た。あの奥様が心臓を病むとしたら、「剛毛が伸び過ぎで肺に刺さるの・・・」ぐらいのものであろう。2回、誘惑された。ナンボ美人で小顔で髪が長くて低身長で華奢でも、よそ様の奥さんに手を出すほど狂ってはいないので助かった。主任は財布を奥様に握られていて、行動も規制されているので、部下を飲みに連れて行くなど、世界の終わりの日のイベントならば許されると言う感じである。もう一人の班長の高木は、他店から引き抜いてきたので、元に居た店(別法人)の元部下と飲んで歩いているから、この店の子は要らない子らしい。私は高校時代に、無免許で乗っていたコルベットで人を跳ねて殺したので金が無い。


つまりはそう言うことで、パチンコ店近隣にあるスナックとかバーで、社長以下「役職者」を見ることはなかった。何故か、平社員はパチンコ店の客にご馳走になっていたが。そう言う話は全部吐かせて、奢りの代金は店が返していた。勿論、あとから給料から引くのだが、「新たなる前借りシステム」として利用されるだけであった。とにかく、パチンコ店でも雀荘でも「現金が絡む」ので、客との付き合いは避けるべきであった。「貸し借り」さえなければ構わないのだが・・・


 私は社長からの信頼が厚かった。どのくらい厚かったと言うと、例えば朝礼・終礼で社長が主任を蹴っ飛ばしたり、豊富な語彙で「お前はそろそろ死んでもいい頃なんじゃないか?」と熱く語る時も、前もって「な、今日は主任を蹴っ飛ばして、だらけた店の空気を〆るからな。びっくりするなよ?」と通告。憐れなのは主任である。いきなり蹴っ飛ばされて、それでも毅然と社長に頭を下げ、社員たちが帰った後、社長が笑いながら「嘘だぴょん」と言うのだ。社長はとことん私には甘かったと思う。コレもひとえに「余分な給料は貯金してください」とか、飲んで歩かずに食堂で手酌。酒肴を用意してくれるおばちゃんには付け届けを欠かさない「堅実さ」への評価であろう。おばちゃんに現金を渡すわけにもいかないので、ギフト券とか、旦那さんあてに日本酒なんぞを渡すことがあった。コレで上手い酒肴が食えるのだから安いものである。なお、食材費は当然だが「食堂の予算」からであるが、見逃してくれていた。私が免許を持ってないと知ると「仕事中に車校に通っていいから、免許取っちゃえよ。これからは忙しくなるからな」と言ってくれた上に「俺さ、車を買い替えるから、アウディを30万で売ってやるから」(金は取るんだ・・・)とまで言ってくれた。車検2年付きなら安いものだが。その法人では「幹部は外車」と言う不文律があったし。ちょっとややこしいのだが、「法人の社長」は別にいるのだ。その社長の息子たち3人は、研修を経て「独立」して社長となる。当然だが、独立してるので、店舗のローンは払っている。当時で、建物込み・営業権譲渡で3~4億円だったそうだ。今だと、某全国規模のチェーン店が12億で売りに出した店があるとかないとか・・・


社長のお兄さん、いつになったらいい女を抱かせてくれるんですか?もう30年も経ちました。


 こんな「いい店」を辞めた理由であるが、先にちょろっと書いた「ある男のお陰」である。早い話が、社長が他の法人から引き抜いてきて、いきなり班長に据えた高木のことである。立場的には私が2つ上であった。主任待遇である上に、ある程度の営業方針も任されていた。上がつかえているから「主任待遇の班長」であり、その主任も1か月後には「研修」を受け、マネージャーを経て、副店長から店長へのレールが敷かれていた。社長は独立したばかりなので、手持ち店舗は私の勤務する店のみであった。すぐに2店舗を買い取ったので、いつまでもこの店で「社長=店長」をやってはいられないわけだ。なので、新体制を早急に作る必要があった。通常、平社員から班長になるまで1年以上かかる。コレはいくつかの法人を渡り歩いた経験から言っていることで、もっと時間がかかる店もあれば、1年以内に班長になれる店もあるにはある。主任クラスともなると、早くて3年はかかるだろう。

 と言うことで、「仕事が出来る男」を引き抜いてきて、いきなり班長に抜擢。年齢は40台半ばであった。この男がまた馬鹿で。私がパチンコ店で真面目に働くのは「馬鹿に使われるのが嫌だから、サッサと出世したいから」であった。今思えば、偉くなるよりは、のんべんだらりと仕事をしていた方が楽であった。


で、高木と言う名の馬鹿。班長に就任早々、社長からの「安元には逆らうな。お前は安元の下だ」と言うお達しを受けて面白くなかったらしい。そりゃそうだろうと思う。20歳も下の若造に「絶対服従」を誓わされたのだ。だってぇー、私は主任待遇だしぃ、主任が昇進したらすぐに主任になれるしぃ、すぐにまた主任に追いついちゃうしぃ。

ところがあの馬鹿、「役職者は背中を見せながら仕事をするべきだ」と、全く素っ頓狂な主張を始め、驚くことに「役職者の公休日は月に2日もあればいい、早番遅番とかの区別なく、いつでも店にいるべきである」と言い出した。流石に早番遅番区別なくと言うのは「過労死ライン」を易々と超えるので、「準二部勤務」となった。朝一番の8時出勤から夕方まで働いて、4時間休憩したら、また店に出て来て営業終了後の集計業務まで勤務。面白いもので、コレをやると、「役職者が余る」ことになる。社員は混乱するばかりである。誰の言うことを聞けばいいのか分からない。主任と私と高木で、指示が違うことだってある。私は合理主義者なので、台のトラブルは「部品の交換」で対応。高木は「その場で直せ」と言うし、主任は嫁のことを考えて上の空だし。それでも高木が有能ならば納得も行くが、別法人で、単に勤続年数が長いので班長になったクチである。言うことがころころ変わる。指示に一貫性が無い。更にはコイツのお陰で公休日は2日、1日拘束である(準二部なので、休憩時間があるだけ)仕方が無いので、社長が出勤してくる16:00に、祥子を店の裏口で待たせる作戦を敢行した。そりゃ、まだピチピチの18歳が私を待っていれば、社長は「おい、祥子ちゃんが待ってるぞ、今日は上がっていいから」と言うしかない。コレで月に3~4回は早番だけで上がれた。それでも勤務日数から言えば地獄ではあるが・・・

 

 主任が「研修」と言う名の洗脳教育に出征した。社内研修では無いのだ。今で言う「自己啓発セミナー」に放り込まれたのだが、中々に質の悪いセミナーで。目的は「会社への帰属精神を叩きこむ」ことである。手口の詳細は書かないが、「自我を崩壊させて、そこに「会社」と言う存在を押し込む」と言うものだ。徹底的な人格否定と、ちょっとしたご褒美で洗脳する。「ご褒美」と言っても、明日は1時間長く寝ていいぞ」とか「ご飯のおかずが1品増える」、あとは「お前が最も信頼する部下に電話する自由を与える」程度だ。こんな電話を受ける方の身になって欲しい。あそこまで傲慢で理不尽だった上司が「お前さえいれば・・・」と涙ながらに声を嗄らしているのだ。私が出世した法人は2つあるが、どちらもこの「自己啓発セミナー」に放り込んでいた。店長クラスになるには必須のようである。主任は「ロボット」になって帰って来た。研修(笑)を終え、主任が「どうしても安元さんに挨拶とお礼をしたい」と申し出て、終礼の時間に店にやって来た。休んでりゃいいのに。しかも部下の私に「さん付け」である、安元「さん」だろぉおおっ!デコ助野郎!とか言っていない。そして社員を整列させ、私の訓示とか報告が終わると、目の周りを真っ赤にした主任(多分、毎日泣いて過ごしたのだろう)が、私の手を両手で握り「ありがとうっ!ありがとうっ!安元さんのお陰で僕は研修に専念できたし、店の雰囲気も凄く良くなってる」からの、数分間の謝辞である。コレはもう「社畜ロボット」である。私もいつかはこうなるのかと思うと憂鬱になった。ちなみに、この「自己啓発セミナー」に参加した者は、定期的に参加したくなるようだ。ある種のカタルシスを伴うのだろう。

 主任は率先して雑用をするようになった。こう言うと誤解を招くが、役職者ともなれば、店に積んであるドル箱を拭き掃除するとか、台の灰皿清掃なんぞは社員に「やっとけ」で済む話なのだ。偉そうにしているわけでは無い。ただ「雑用をする無能」だと思われて、舐められたらアウトなのだ。そもそも、雑用以外にも仕事はあるし、そっちの方が重要なのだ。なのに、主任はドル箱を拭いている。ソレは社員にやらせればいいと言えば「安元班長は気にならないの?汚れてるんだよ」と、まぁ軽く論破してくるので手に負えない。


そして「事件」は起こった。


高木である。あそこまで「役職者は働く背中を見せるべき」と言っていて、その通りに公休日が2日になった。

 その日、私がいつもの開店前動作(両替金の補充とか、店周りのチェック)をしていても、高木が出勤して来ない。開店前動作自体は一人でも1時間で終わる。高木がいれば、適当に事務所でお茶を飲んでばいい。相手は「格下」であるから当たりまえである。この仕事は「序列」を乱すことはご法度なのだ。まぁ役職者が「ホール業務」なんぞを手伝っていると、社員のストレスはマッハであろうが。


高木は1時間以上遅刻して現れた。禁煙パイポを咥えながら「いや~、二日酔いでよぉ・・・」


私はこの人生で2回だけ人を殴ったと書いた記憶がある。中学時代の番長を殴ったのはノーカンとして。

 私はとっさに積んであるドル箱を掴んで、高木の頭を殴った。角を当てない程度の優しさはあった。身体的なダメージはさして無いだろう。精神的なダメージは極大であっただろうが。高木はその場にうずくまった。その胸元に「金庫の鍵」(役職者専用)の束を投げつけて「お後、よろしく」と言い捨てて、私は着替えて祥子を呼びだした。そのままラブホテルにしけこんで、深夜まで店=寮に帰らなかった。持たされていたポケベルには鬼着信があったが気にしなかった。


店が終わり、集計業務が終わる頃。


私は寮の自室で荷物を整理していた。あの高木とだけはやっていけない自信があった。ほどなく、社長が迎えに来た。ちょっと店に来いと言う話だ。当たり前だ、職場放棄をやらかしたのだから。私はてっきり怒鳴られて蹴っ飛ばされて、恥ずかしい写真とか撮られて、もうエロ本のような酷いことをされた挙句、明日には全裸で市街地に放り出されると思っていた。現に、チェーン店の店長(他店である)は自分の失策で200万円近い損害を出して「行方不明」になった。彼の寮は「誰も住んでいない」状態になった。たった1日で証拠隠滅、そんな人は居ませんでした状態である。

 私は先ず「申し訳ありませんでした」と謝り、しかし高木の「二日酔い」は許容しないことを告げた。社長が言うには、高木は前日、前に勤務していた店の「送別会」に参加して二日酔いになったそうだ。だからなに?それで赦されるんでしょうか?


「なぁ、祥子ちゃんが来てる時は早上がりだってさせてるし、いま辞めたら勿体ないんだぞ。お前は幹部候補なんだから」


そう言われても高木は赦さない。


「祥子ちゃんと結婚したら、今近所で新築してるマンションがあるだろ。あそこに入居させるつもりだったんだ」


いや、高木のあのだらしなさは許容範囲を超えました。


「高木か・・・クビにすればいいのか?」


私はそう言う「取引」は大嫌いです。私と高木、どっちを取るの?なんてくだらない話です。辞めます。私はもう「辞めた気」なので、一切の懐柔策にも応じなかった。かなりな額の提示もあったが、蹴った。

 貯金ならあるし。


「どうしても辞めるか?」


はい、社長には大きな恩もありますが、高木だけは無理です。クビにしてくれなんて言う気もありません。高木「班長」の頑張りに期待した方がいいと思います。

 3日間の間、寮にいた。気が変わったらいつでも電話して来いと言われた。4日目、私は社長から定期預金の通帳と印鑑、退職金とまではいかないが「慰労金」を受け取って店を辞めた。


 なお、この高木とは20年後に別の職場で再会。

その場で辞めてやった。


 仕事を辞めて完全な「無職」となった。私にとっては初めての経験である。高校を出てから、実家にいる間はプー太郎をやっていたが、アレは「実家」に住み家事手伝いでお小遣いを貰える立場だから出来たことで、「無職=収入無し」は初体験だが新鮮であった。パチンコ店勤務で作った貯金やら慰労金でかなりの額の貯金があったので、数か月は遊んで暮らすつもりであった。ちなみに祥子との婚約で、婚約指輪を買っておいたが、社長の知人の宝石商からかなり安く「ダイヤ・プラチナ立爪」を買うことが出来た。今思えば、アレは暴利であろう。よく「婚約指輪は給料の3か月分」などとほざく馬鹿女がいるが、本当に馬鹿で馬鹿で馬鹿だ。考えてみて欲しい。「結婚適齢期の男性」であれば、大抵は手取りで20万は貰っているはずだ。つまり「60万円の婚約指輪を贈りましょう」と言うことだ。そんな金があったら、新生活での諸経費や生活費に充てるべきである。私はたまたま社長の知人に宝石商がいたので格安で買えたが、それでも「手取りの1か月分」では買えなかった。「7万円」の方ではなく、月の総支給額である。しかもである、その宝石商が言うには、「鑑定書さえあれば、後は何を買ってもダイヤは同じ」だそうで、カットされたダイヤモンドの価値はかなり低いそうだ。「最上級のダイヤモンド」はとんでもない価格だったりするが、ならば「裸石」(ルース)で持つべきものだそうだ。ルースの状態で「価値が認められているモノ」ならば資産価値があるが、婚約指輪に使われるレベルのダイヤモンドは安物が多いそうで、現に私が買った婚約指輪は宝石商の勧めもあって、1.5カラットでリングにプラチナを多く使ったモノであった。「定番の婚約指輪ほど儲かるものは無い」と笑っていた。宝石商との直取引とは言え、彼は「指輪商」では無い。石を卸している店を紹介するから、そこで買ってくれとのことであった。祥子を連れてその店に行くことにしたが、祥子はもう「舞い上がって」いた。大好きな洋二さんが「婚約指輪を買ってくれる」と言うことに加えて、それはもう高級な店の「別室」で指輪を選べるのだ。18歳の小娘にこんな贅沢をさせるつもりは無かったが、店に言ったら「お話は聞いております、こちらへ・・・」であった。値札を見て軽く目眩を覚えたが、「大丈夫です、お安く出来ます」と言うことで、祥子はまんまと宝石商が用意させた婚約指輪の中から「コレがいいっ!」と興奮気味に1つのリングを選んだ。


それでも高いことに変わりはなかったが。


 寮を出て、そのまま不動産屋に行き部屋を探した。無職であるが預金残高がモノを言った。そう言えば社長が定期預金にしてくれていたので、定期の解約となったが、銀行は「正当な理由が無いと解約をとことん渋る」モノだと知った。仕事を辞めたので引っ越し費用が必要と言う程度の理由では中々応じない。何故この定期預金があって、本当に解約が必要なのかを銀行が判断するのである。今はどうだか知らないが、ソレは私の金なので自由にさせろやと思った。

 部屋はすぐに見つかった。今思えば「無職である」と言うことで、かなりぞんざいにあてがわれたような物件で、1DKであるが割と狭い。家賃は、今私が住んでいる賃貸マンション2DKと同じであった。キッチンはダイニングテーブルを置くことも出来ないので、小さなテーブルを買ってきたほどだ。部屋は和室6畳で日当たりは良かったが、ちょっとした庭の向こうには病院があって、のちにその裏口から出てくるのは「死体」だと言うことを知った。確かに院内で病死したら「正面玄関から送り出す」のもあり得ない話である。


 とにかく私は「自由」であった。期間限定とは言え「無職」でいいのだ。2~3か月も遊んだら職探しをすればいい。何よりもパチンコ店勤務がウルトラ・ハードであったから、朝早く起きなくても良くて、夕方にはビールを飲んでテレビを見る生活には癒された。季節感が無い話に終始しているが、季節は巡って祥子は高卒後にこれまた名の通った企業の「受付嬢」になっていた。社内研修後に配属されたので、季節は6月。受付譲として2年目となっていた。多少、頭とお股が緩い子であったが、どうにか就職出来たようだ。祥子の親の方針で、「馬鹿なら仕方が無いから働け」と言うことであろう。女子高に通っていたが「名門校」では無かったし、中途半端な大学に行くくらいなら働けと言う素晴らしい家風であったらしい。妹はきっちりそれなりの大学に進んでいた。頭が緩いのはどうでもいい。偏差値で言えば50程度で、特に行動に問題があるわけでも無かった・・・と言うことも無かったが。思いだして欲しい、私が初めて祥子を抱いた時、既に「非処女」であったことを。中学2年生の時に私と出会い、そのまましつこく纏わりついてきた割には、ちゃっかり別の男と寝ていたわけだ。コレを「股が緩い」と呼ぶことに何の問題があるだろうか?多分、高校時代に経験を済ませたのだろうが、まだ私との「恋愛関係になる前」であるから、文句も無いが、この「初体験の相手」とはのちに出会うことになる。

 緩いところもあったが、「婚約者」ともなれば健気な娘であった。仕事が忙しくても、休みには必ず私のアパートに来て、洗濯とか掃除をしてくれていた。風呂場にカビさえ生えない「独身男のアパート」を維持するのは大変であっただろう。定時で上がった日にもアパートまで来ては一緒に飯を食っていた。日曜日も仕事があり、休日は平日だったが、必ずアパートに来る。私は自由を謳歌していたので、家に居ないことも多かった。大抵はパチンコ屋に居たわけだが、私はパチンコが好きだから就職先にパチンコ店を選んでいるのだから、コレは当然の帰結である。と言うわけで、私は祥子からポケベルを持たされた。パチンコ店勤務時代は店からポケベルを渡され、無職になったらカノジョに持たされたのである。当時はまだ携帯電話の普及前で、ポケベル文化が花開く前夜であった。ポケベルも爛熟期には「文字を打てる」ようになったが、皆さんはご存じだろうか?「カタカナ」を打てる程度であったが、五十音を「コード」で打つのだ。私はこの世代のポケベルを使ったことが無いのだが、例えば「ア」なら「11」である。「あ行=1,あ段=1」と言う風にコード打ちをするのだが、女子高生は脳内変換で、あっという間にメッセージを作っていた。そう言えば、最近はスマホ全盛であるが、あの画面の小さなキーボードを両手(の指)でマッハで打ち込む姿は、昔の女子高生を彷彿とさせる。「フリック入力」よりも速いのだ。私はパソコン世代なので「フリック入力」は出来ないし、昔のガラケーみたいな打ち込み画面も苦手である。いや、ガラケー時代にはその打ち込み方法に慣れてはいたが。

 パチンコを打っていると「乳首をバイブが刺激する」わけだ。今も私は「乳首舐め手コキ」されるのが好きだが、ポケベルさんが相手では勃つモノも勃たない。パチンコ店で勃起させてる客と言うのも多少「キモイ」と思うが。パチンコ店の騒音の中では「ベル音」が聴こえないのでバイブに設定してあり、当時の私はほぼ必ず「胸ポケットのあるシャツ」を着ていたので、自ずとポケベルは胸ポケットに入れてある。そこに乳首もあるのだ。「お、ブルったっ!」(乳首が)となれば、100%祥子からの着信である。祥子(と祥子の家族)だけが知っているベル番号なので当たり前。私は液晶に表示される「暗号」を見て、ため息をつきながら出玉を交換することになる。10桁表示だったか、その番号によって「メッセージ」の取り決めをしていた。多くのユーザーがそのように使っていたはずだ。電話番号が表示されればその番号に電話すればいいし、例えばカップル(今風に言えばアヴェック)の間で「8871094950」と言う番号を「ハハキトクスグカエレ」(母危篤すぐ帰れ)と決めておけば、「ああ、母が死にそうなんだ」と分かる仕組みである。別に10桁を使い切る必要は無いので「072072」を「アパートで自慰してるので早く帰って来てっ!」としてもいい。祥子はオナニーが好きな子であった。セックスに関してもラジカルでアバンギャルドでフリーダムであった。早い話が「スケベ」であった。祥子がまだ18歳だった頃。卒業後に就職していたから完全にセーフ案件だが、「お尻の穴も使ってみたい」と申告してきた時にはかなり引いた。いきなり言い出すものだから、何の準備もしていないし知識も無い。今なら「エネマシリンジ」とか、ろくでもない知識もあるが、当時はネットなど存在していない。ただ、「アナルでセックス」と言う知識のみがあったようだ。ローションも無いので、サラダ油で代用した。そのままでは挿らないので、揉んで柔らかくほぐすのだが、この時の「学び」として、「拡張するなら指が最適」と言うものがあった。要は指で拡げて、3本目が挿いった時点で、こかんのりびんぐすとん将軍を指に沿わせて押し込めばいい。実践して失敗しても苦情は受け付けないが。そう、私は18歳の少女(既卒・就職済み・婚約者)とアナルのセックスをしたのだ。しかし、ノーマルなセックスは「生」で出来るのに、アナルだと「ゴム装着」であることに納得がいかなかったので、1回だけで辞めた。祥子も尻を押さえて布団に横たわっていたので、懲りたのであろう。感想としては、ゴム着であり、祥子のアナルは入口の締め付けだけが素晴らしくて、後はどうでもよかった。割と真面目な話だが、性的な意味でお転婆な「美少女さん」が相手であれば、わたしのこかんのじょなさんは痛いほどに勃起するであろうが、ソレは「こんな美少女と爛れたプレイがっ!?」と言う雰囲気の賜物である。のちに経験したが、割と個人差があって面白い。

 そんな感じで私は無職生活を謳歌し、祥子は就職後も私の傍にいた。婚約しているのだから当たり前である。月に2~3回は祥子の家に遊びに行った。親公認の婚約者であるから当たり前のように出入りしていたが、実は「正式に?」婚約しているわけでは無かった。「そのうちうちの娘は、この元パチンコ店員の嫁になるんだな」と言う認識が、祥子の両親にあったと言うだけだ。なので、のちに「正式に結婚の話」をする予定であった。祥子の家は木造平屋造りで、6DKであった。何かの折に深夜になってしまい、タクシーを呼んでもらおうとしたら「泊まっていけばいいじゃん」と言われ、使っていない部屋(物置)に布団を敷いてくれたが、祥子は「この部屋でお祖母ちゃんが首を吊ってね・・・」と物騒なことを言う。今にして思えば、私の「嫁」の加護は強力なので気にする必要も無かった。その時は、別に「ぶら下がってる下で寝る」わけでもないので問題ないと判断しただけであるが。


 またある日は、両親どちらかの姉(つまり祥子の伯母)が幼児を連れて遊びに来ている団欒に紛れ込んでいた。私は「幼児の相手をするのが得意」で、つまりは頭は幼児の「逆コ〇ン」であっったので話が通じる。それはもうくだらない遊びで時間を潰せた。そんな幼児が祥子宅で風呂をご馳走になり、リビングを裸で走り回る。ソレを見た祥子の伯母さんが「そんなカッコであるいてると、お姉ちゃん(祥子のこと)におちんちんをパクってされちゃうぞっ!」と脅した。私はその瞬間、「されてぇなぁ・・・」と呟いてしまい、団欒のリビングは一気に氷点下となった。私は祥子に耳をつままれて退場。「洋二、何を言い出すの?」と、拳でみぞおちをグリグリされた。ご褒美である。


「お前のお父さんだって、お母さんにフェラ・・・痛い痛い痛い」(足を踏まれる)


しかし祥子は「スキモノ」である。祥子の部屋は廊下に面していて、「ドア」ではなく、曇りガラスの嵌った引き戸で仕切られている。この部屋で行為に及ぶのは怖かった。なぜならば、祥子のお父さんがパンチパーマだからである。堅気の仕事ではあるが「パンチパーマ」なのである。そんな父親がいる時に、「お口でしてあげよっか?」(するからね?)はかなりのスリルがあった。もしも、あの引き戸を祥子の親が「スッ・・・」っと開けたら、私は翌朝の港に浮くか、山に埋められることになる。

 パンチパーマとは怖いものである。


 行くたびに口で抜いてもらうようになるまですぐであった。ごっくんしちゃうのでティシューも不要だし。きっとコレが今流行りの「SDGs」とか「エコロジー」なのだろう。「環境にやさしい」とも言えるし、「無駄のない生活」とも言える。

 なお、本番はスリルと言うよりも「肝試し」であった。正常位は流石にヤバいので、騎乗位となるが、祥子の「嚙み殺した喘ぎ声」を思いだすと、今でも勃起しそうだ。ちなみに祥子の妹にはバレた。「お姉ちゃん~」と、いきなり引き戸を開けたら、お姉ちゃんは私の股間に顔を埋めている。この状況で出来る言い訳と言えば「ズボンの中で飼ってるハムスターを見せていた」ぐらいしかない。妹さんは当時「中3」であった。多少、空気が凍ったが「後でまた来るから」と言って、シタタッ!と廊下を走り去っていった。アレでチクられたらアウトであるが、妹さんは姉に似ず、至極マトモであったので助かった。

 自分の実家でもこの体たらくである。もしも祥子が今の時代の女子高生であったなら、確実に海外の「大人の動画サイト」にその姿を見ることが出来たであろうし、「パパ活」もやりかねない勢いであった。私はそんな祥子を愛していた。だが、本当に女子高生時代は「健全デート」をしていて良かったと心から思う。卒業後もあちこちにデートで出かけたが、遊園地の「観覧車1周チャレンジ」とか、2時間後にまたチャレンジとか。どうかすれば物陰で・・・好奇心が旺盛な18歳と若い私の作った金字塔は「12時間で8回」であるとか、様々なことがあった。女子高生時代に肉体関係まで進んでいたら、私の人生はかなり悪い方向に曲がっていたと思う。かなり曲がって今の私が居るわけだが、今よりも酷かったら最低である。


 そんな自由も3か月で終わった。まだ多少は貯金があるうちに再就職をすることにしたのだ。やはり貧乏性である。徐々に減っていく残高のプレッシャーに負けた。パチンコではそこそこに勝っていたので、3か月分の生活費が丸々残高から引かれたわけでは無いが、アパートを借りる時の初期費用はかなりかかっていた。私は祥子がアパートに飯を食いに来た時に「そろそろ仕事を探さないとなぁ」と告げた。もう「夏休み」は終わりだ。職探しの話をして、「でもすぐには決まらないかもなぁ」と言うと。


「パパの会社でアルバイトする?」


祥子、正真正銘の「お嬢様」であった。

 祥子の言う「パパの会社」とは、既に3代続いた「廃棄物処理業」であった。初期の頃の会社の概要は知らないが、先代の社長が逝ったあとに、その妻(つまり祥子の祖母)が継ぎ、祥子の父親が副社長であった。祖母はほぼ「名誉職」であったから、実際の経営者は祥子の父である。つまり「パパの会社」と言うこと。私はこの時まで祥子が「社長令嬢」だとは知らなかった。いやほら、ションベン臭い中学生だったわけで、まさかねぇ・・・

 そう言えば、地方都市とは言え、駅から徒歩5分の場所に平屋6DKの持ち家と言う時点で、あの日曜日の憂鬱を誘うアニメ一家よりも裕福であろう。それで「高卒後は就職」であったのだから、祥子はアホの子である。娘を働きに出さななくとも、養うぐらいは余裕であるが「社会と言うものを知ってきなさい」という理由で就職させた祥子の両親の方針は素晴らしいと思う。私がその余波を受けなければ、だが。いや、余波と言うか、祥子が悪く、もっと言えば私が悪かったのだが。


祥子の父親は高くも無いが安くも無い国産セダンに乗っていた。コレも私が「祥子の父親は普通のサラリーマン」だと思わせた理由である。しかもパンチパーマだし。


祥子の「パパの会社」であるから、面接も履歴書も出す必要が無い。全ては既に知られている。フェラが好きと言うことは内緒であるが、いずれは結婚するわけで、当然いつかはしてもらうことになるのは承知の上だろう。社長だって奥さんにしてもらっただろうし。廃棄物処理業と言ってもピンからキリまで。当時は若干「反社系」の会社もあったし、ぼったくり系の会社もあった。そんな事情も知らずに飛び込んだ廃棄物処理業であるが、仕事は「引き取り」であり、市の委託で家庭ごみの収集もやっているマトモで堅い会社であった。社員には色々と「アレ」な人もいたが。当時私は自動車免許を持っていなかった。会社はかなりの郊外にあるので通勤が大変である。朝の6:00にはバスに乗って、しかも多少は歩くようである。私は歩くことは苦にならないし、朝が早いのなら、早く寝てしまえばいいと言う考えだったので、祥子の申し出をありがたく頂戴した。そして偶然なのだが、私が引っ越したアパートから近いところに社員が住んでいて、駐車場まで来れば通勤の車に同乗させてくれると言う。通勤路は路線バスとは違う道を走るので、結構短時間で通勤出来ることを知った。大回りする路線バスよりも、多少は狭いがショートカットで走れる乗用車が有利なのであった。

 免許が無いので、当然だが「助手」である。市のごみ収集の車に乗ることになった。そして、これまた偶然なのだが、私を通勤の車に乗せてくれる社員の担当助手が欠員していたので、私はそのままその社員の助手となった。

 祥子との付き合いは順調であったが、祥子の妹の「彼氏」と揉めることが多くなった。祥子は平日が休日で、私は日曜日だけが休日である。アルバイトとは言え、私はフル出勤していたのだ。自然と、電話することが増えた。祥子は休日のたびに、帰宅する私を待っていてくれたが、私の休日は会えたり会えなかったりである。そう言えば、「電話」であるが、当時は「加入権」と言う考えがあり、家に引く電話の初期費用が馬鹿にならなかった。公式では9万7千円ほどを徴収するのだ。しかも一括払いのみである。貯金から出すのもやぶさかでないが、別にアパートの前には公衆電話があるので困らない。結局は電話を自宅アパートに引いたのだが、資金はパチンコで稼いだ。機種名は明かさないが、「攻略法」を発見したのだ。当時、パチンコ店にあったデジパチ、今のパチンコ店にある「デジタルが揃えば当たり」と言う機種には、攻略法があるものが多かった。「無限連荘打法」とか、「大当たり直撃打法」とか、名称を聞くと「ヤバそうな攻略法」であったが、要はメーカーが「故意に仕組んだ連荘の仕組み」を狙ったり、大当たりタイミングが「数秒ごとに回ってくるので狙える」と言った類である。どちらもパチンコ店が「対策」出来たので、特に「祭り」になることはなかった。祭りと言えば、私がまだ雀荘勤務だった時に「スロットの攻略法」が巷を駆け巡り、驚くことにたった1日でその機種は使用中止になった。その機種の島は封鎖されたのだ。1日に80万円勝ったと言う話まで聞いた。それほどまでに破壊力のある攻略法であったが、私は勤務日であった。コレは仕事を放りだしてでも行くべきであったと、今でも思う。「4枚入れ」と言えば、それなりに知っている人もいるだろう。あの情報は朝一番で「プロスロッター」に伝わり、昼には全国に広がったほどのモノであった。つまり、「攻略法」とは、知る人が多ければ対策されてしまうものだ。荒稼ぎが出来るわけでは無い。ところが、私が発見した「攻略法」は誰も知らないモノだった。私はパチンコ雑誌の解析記事を読んでいて、添えられた「フローチャート」を見て思いついたのだが、何故あんな簡単な攻略法を実践する人が居なかったのだろうか?コレが「私の思い込み打法」(つまりはオカルト打法)では無かったのは、数年前にやっと「攻略出来た台」としてネットに情報が流れたことからも分かる。この台の攻略法は、撤去から25年経って初めて日の目をみたことになる。そして、この攻略法を知る人はいたが、概して「賢い人たち」で、いわゆる「タコ抜き」をしなかったがために、衆目を集めずに、ひっそりと確実に稼ぎ続けることが出来た。攻略法を知ると、情報が拡散される前に「サッサと勝っておこう」と考えがちで、ソレをやるから対策されるのだ。私は自分で考えた攻略法で、土日だけ「目立たないように」勝つことを選んだ。まだあちこちの店にその台はあったので、1店で数回当てて1万円も稼いだら、今度は次の店と言う感じである。中学時代の友人がパチンコ好きであったので、この攻略法を売ってやった。最初は信じないので、「打つ軍資金は俺が出すからやってみろ。出たら攻略法を買え」と言う交渉の上で、である。そしてこの攻略法の破壊力を知った友人は喜んで買ってくれた。もちろん「一気に稼ぐな、長く使おう」と言う約束はさせたし、他人に売るなとも釘を刺した。中学時代の友達だから攻略法を売ったのだ。拡散されたら困る。私は週末だけの稼ぎで満足していた。いずれはこの台も入れ替えで外されるのだから、仕事をサボってまで打ち込む理由はない。メインの仕事は大事にすべきである。友人はプー太郎だったので、あちこちの店で稼いでいたが。この時の稼ぎで私は自宅に電話を引いた。あとは遊びに使った。「攻略出来る台と、打ってて楽しい台」は別なのだ。貯金を使わずに、それなりに祥子とも遊べたし。そもそも、結婚資金だって必要であるから、無駄遣いは出来ない。遊ぶ金だけはパチンコで稼いでいたと言うレベル。


 家に電話がある。祥子は毎日電話してくるようになった。当時は3分間10円の通話料であったから、1時間の長電話でも200円である。しかも相手は「社長令嬢」であるから、電話代なんぞ気にしなかった。しかし、コレが元で「妹の彼氏」と喧嘩になることがあった。妹さんも「彼氏と電話したい」わけだが、私と祥子が独占している。コレを知った妹さんの彼氏は「安元の野郎、ぶっ飛ばしてやるっ!」と息巻いたと聞いた。多少は気になったが、妹の彼氏?どうせ中坊だろうと思っていた。


妹の彼氏さんは私の1個上であった。


 ロリコン野郎めっ!

 

さて、仕事の方は順調で。アルバイトの気楽さである。正直、私が「社長の娘の婚約者」だと言うことが知れ渡るまでは気楽であった。誤解を招かないように、私は「アルバイトである」ことを選択した。まさか「跡継ぎ、逆玉狙い」と思われるのも癪である。1年ほどアルバイトをして、結婚する前には辞めるつもりであった。しかし事情が変わった。コレは本当に「偶然」なのだが、私が引っ越したアパートの近くに住む社員は「主任」であった。私は入社後3年目にその人が「主任である」ことを知ったのだが、この主任の「助手」としてトラックに乗っていた。この間、主任は私の仕事ぶりを観察し、「根性入ってる」と判断したのだろう。入社して3か月、私は事務所に呼ばれた。


「費用は会社が出すから免許を取れ。正社員にする」

いやちょっと待って(笑)

 私はアルバイトでいいんです。そのうち辞めるんですから・・・とも言えず(相手はパンチパーマで、この頃には口髭まで生やした浅黒く日焼けした強面)

 費用を出してくれるなら・・・と言うことで車校通いが始ったが、容赦はなかった。最短で免許を取れと言う命令である。遊ぶ暇も無いのである。送迎してくれる「主任」は、帰りは車校で私を下ろすのだ。その日受けることが出来る「教習」は全て受ける義務が生じた。どうしても「取れない」コマもある。特に「シミュレーター教習」は空きが出るのを待つ状態で、こんな場合は「仕事を休んでいいから受けてこい」である。効果測定も路上も卒検も最短の待ち日数で受けた。実地では「ダブって補習」などと言えば、「この馬鹿」と言われそうである。プレッシャーがエグい。幸い、一切のダブりも無く免許を取ることが出来た。同じ時期に祥子も免許を取ったが、学科試験で4回落ちていた。思うのだが、「学科で3回も4回も落ちる人」には免許を与えない方がいい。実地だって、路上でダブりまくる人には「運転適性が無い」のだから、さらに厳しいカリキュラムを受けさせるべきである。免許は「誰でも取れるモノでは無い」はずなのだから。実際は、車校に入れば取れてしまう。それで事故を起こすのだから、警察も少しは考えを改めるべきであろう。当時は普通免許で、今で言う「中型」まで乗れたのだから。然るに、私の免許は「中型限定」となった。総重量8トンまでは運転出来る。簡単に言えば「4トントラック」までは乗れる。


免許は取りました、自家用車も買いました。いや、免許を取る前に車は買ってしまったが。知人がローン苦で手放したいと言っていた、そこそこにお高いRV車であった。車庫証明の関係で、私の自家用車は会社の駐車場に仮置きしてあった。アパートには駐車場が無い上に「最短で免許を取れ」と言う絶対命令があったので、GW中も毎日車校通いである。駐車場を探す暇も無かったのだ。知人は駐車場を解約したがっていたし。


免許を取得してから初めての出勤日。何故かいつも送迎してくれる社員(主任様)は早く出勤したようで、いつもの駐車場に車は無かった。仕方ないのでタクシーで出社したら、ものの見事に「誰もいない」状態である。市のごみ収集は朝7:30には出庫するので、タクシーなんぞを拾ってる隙に全車、出庫済みであった。助手は余り気味なので、主任は他の誰かを乗せて出たようだ。仕方ないので、待機室兼休憩所で煙草を吸っていた。遅刻をしたわけでは無いので余裕である。そこへ「別の主任」から電話がかかって来た。この主任は若く、かなりの「イケイケ系」であった。ぶっちゃけ怖い人であった。その怖い方の主任が「〇〇って会社は知ってるよな?」はい、何回か午後の仕事で行きました。「2トン車を持って来い」いや、私はまだ一人で運転した経験は無いのですが?「いいから乗って来い、乗れば慣れるから。いいな?」

 教習所では必ず横に「教官」がいて、ドジでのろまな亀の私の亀は大きいで?一人で運転をしたことが無い。自家用車も会社に仮置き状態だったので、この日初めて運転する予定である。そんな初心者に「トラックに乗れ」とか、私は某ロボットアニメで、父親に呼び出された14歳のサードチルドレンなのですか?初号機は青いトラックなんですね、現実だと。

 走り出すまで時間がかかった。ミラーがよく見えないので、自分で乗り降りを繰り返して調整。そしてエンジンをかけてっと。なんでシフトレバーが無いんだろう。いや知ってる知ってる。「コラムシフト」ですよね。主任の横で見てましたけど、操作したことが無いんです。ニュートラルはどこですか?抜けばいいんですか、ちんちんと同じですね。で、2速はどこに入れればいいのでしょうか?ちんちんなら穴ですが、シフトレバー周辺には「ギアのポジション図」すらありません。適当に押し込んだら2速に入ったようですが、3速はどこだろう・・・


 と、ちょっと駐車場(広い)で試運転して出庫しましたが、走り始めて50mでミラーを壁にぶつけて壊した。乗用車しか乗ったことが無いんです。車の幅の感覚が異次元です。あと、古いトラックなのでパワステもありません。帰庫するためのUターンが大変でした。帰庫して自分でミラーを交換してやっと道路に出ることが出来た。こんな仕打ちなのだろうか。どこの会社でも「乗れば慣れるから」と言って、運転させるのだろうか?やっと現場に到着すれば「遅ぇーよっ!」と怒鳴られるし。私の運転の始まりは前途多難となった。市のごみ収集はかなり腕が必要で、簡単にはハンドルを握らせてもらえない。皆さんも見たことがあると思うのだが、「なんでこんな狭いところにトラックが入って来れるんだろう?」と。市のごみ収集は住宅地の奥まで入って行くので、マトモな神経では運転出来ない。「ミラーを畳んで入る狭い道」とか、「タイヤ1個分の幅で進入ラインがズレると詰む」とか、本当に狭い。挙句、当時は「ゴミステーション」があり、市民の方々はそこにゴミを出す。収集車はその「ゴミステーション」を全て憶えているわけだ。毎日走るコースは変わるので、大体600か所は憶えないと仕事にならない。他の収集車の担当場所も憶えておかないと「応援」に入れない。ごみの多い日は「収集し切れない」場合もあり、そんな日に自分の担当地区だけ片付けて帰庫したら「薄情者っ!」と恨まれるのだ。私は午前中は大人しく助手に徹して、午後からの粗大ごみや産廃の収集の時だけ、ハンドルを握って運転を憶えた。2トン車の運転を憶えた。2トン車の運転だ。


 ある日、また出社したら誰もいない。遅刻では無いのだ。のちに私もやることになるが、「今日はゴミが多い」と予想出来れば、出庫時間を早めるのだ。仕方ないので、待機室兼休憩所で煙草を吸っていたら、怖い方の主任から電話がかかって来た。


「○○、知ってるよな?」はい、何度か現場を踏んでます。「そこに4トン車を持って来い」あの、私は4トン車童貞で、ちょっとどころかかなり怖いんですが・・・「2トン車と同じだ、デカいだけだ。乗って来い」


その現場は、4トン車で、バックで進入して、角を3つ曲がったドン突きにゴミの集積場所がある。初めてのバック挿入、しかもおっきいのを入れるのだ。

馬鹿じゃないかと思う。

 何でもかんでも「乗れば慣れる、何でも同じ」だなんてスパルタ教育で事故ったらどうするんだろう?


しかし、それでもこなしてしまうから、「期待を背負う」ことになる。


免許取得から半年で、私の土曜日の担当車は4トンになった。若葉マークを貼った4トン車である。

 私は頑なに「若葉マーク」を貼り続けていた。貼らないと捕まるものでね。ある日、車を停めて缶コーヒーを買って戻ったら、お巡りさんが立っていて、「免許証」とぶっきらぼうに言った。免許を見せたら「初心者がこんな大きな車に一人で乗るもんじゃないよっ!」と説教されたが、違反ではないのですぐに忘れた。


会社の方針なんだから仕方が無いわけだし。


知らず知らずのうちに、私は祥子の父親の会社に取り込まれていった。信じられない偶然だが、借りたアパートの近くに住む社員が「主任であった」のが良かったのか悪かったのか・・・

 その社員は鈴木さんと言う。私は鈴木さんを平社員だと思い込んでいた。その会社には「役職」等と言うものは無く、年功序列があるのみで、偉いのは等々力さんと言う若い主任だけであった(と思い込んでいた)等々力さんと組んだ社員は不幸になると、もっぱらの噂であった。等々力さんの助手は頻繁に替わっていたが、最終的には等々力さんが自由に動けると言う理由で、助手も免許持ちの社員になった。等々力さんは勤勉で仕事も出来るので、あちこちの現場に行く。つまり、その日は担当する市のごみ収集車のドライバーが不在になるのだ。助手もゴミステーションの場所を憶えているので、ドライバーか助手が居れば困らないとも言えるが、やはりドライバーが仕事の主導権を握った方が良い。怠惰な助手は効率の悪いコースを作りたがる。市のごみはその日によって収集するべき量が変わるのだ。前週が祝日だったとか、雨降りだと翌週のごみが増える。こんな量の多い日(2日目ではない)は通常とは違うコースを通り効率を上げるのだが、この「効率的なコース作り」が出来るようになるまでかなりの経験が必要となる。故に、勤続の長いドライバーは優遇されていた。30年前の話だが、毎年4月に昇給があった。1万円ずつ上がるのだ。世の中、ベアで騒いでいるが、私のような社員は定期昇給1万円である。ボーナスこそ少なかったが、それでも採用時で手取り19万円である。私はアルバイトから昇格したので初任給が高かった。若い社員のいない会社であった。主任は若いが、それでも私の5歳年上。他に若い社員は存在せず、たまにアルバイトで若い人が入ってくるが、仕事のハードさで辞めていく。とにかく「筋肉」である。どの程度かと言えば、私は身長164cmで55kgぐらいの割とヒョロガリのチビであったが、とある工場の休憩所の横に置かれたジュースの空き缶入れ、つまりは「ドラム缶」なのだが、ジュースの缶でいっぱいになったドラム缶を「あらよっと」と持ち上げて、収集車のごみ投入口に中身をぶちまけていた。そう言えば、その後のパチンコ店勤務でも、4千発箱を一気に5箱持ち上げて運んで周囲を驚かせていた。パチンコ玉は1玉5gであるから、4千発で20kgである。コレが5箱で100kg。なお、他の社員が真似をして腰を壊すので、持ち上げて運ぶのは2箱までと言うルールが出来た。4箱あたりから、ドル箱の持ち手が割れそうな音をたてるし。

 助手のアルバイトであった頃はコレで通じた。若さに任せて筋肉勝負。あとはひたすら愚直にドライバーに従っていればよかった。若いアルバイトでさえ数少ないのだ。重宝されたものである。特に等々力さんに。特にパワーが必要でハードな現場に連れて行かれることが多かった。午前中は市の収集車の助手だが、午後は産廃の引き取りに駆り出される。ドライバーは毎日のように変わる。鈴木さんは50代のおじさんなので、割と軽めの現場か、市の収集車に午後も乗っていた。午前中だけでは収集しきれなかった「戦後処理」である。その鈴木さんだってパワフルで、腕相撲で勝てたことが無い。


免許を取ってからもしばらくは鈴木さんの「助手」のままであった。鈴木さんの助手も「長続きしない」と噂されていた。とにかく、優しい笑顔で鬼畜な指令を出すのだ。「別にいいだろ、仕事なんだから」と言いながら、あり得ない仕事量をこなす人であった。通常は、収集車のキャパシティは大きくない。鈴木さんの乗る収集車は2トン車ベースなので、すぐに満杯になる。集めたごみは市の施設に運んで下ろすわけだが、この収集地区と市の施設の往復を午前中に3~4回するのだ。他の車は2回、多くて3回であるのに。当然だが、積み込み速度が尋常ではない。市の委託でごみ収集をしてる会社は複数あったが、ある時、営業停止になった会社があった。当然だが同業他社が応援で「出向」となる。私は既にドライバーになった時期であるが、ゴミステーションを教えるために乗った他社の社員はビビりまくっていた。運転が荒いし、積み込みは速いし。運転は荒いが正確である。単に時間節約のために、ハンドルを切りながらブレーキを踏んで停車させるから車体が揺れるだけである。お上品に「減速してから」なんて運転は教わっていない。

 そう、私は運転のイロハを鈴木さんから教わった。鈴木さんの運転センスは抜群で、過去に鈴木さんが乗っていたトラック(市の規定期間を超えたり、装備が変わると車両は産廃用に転用される)は本当に「素直」であった。変な「癖」が無いのだ。市の収集車は10台ほどあったが、多くの車はクラッチがイカれていた。「半クラを使う」と、積載の多いトラックのクラッチは簡単に壊れる。床まで踏み込んでも完全に切れないクラッチとか、常時「滑っておるような気がする」クラッチとか。ところが「鈴木さんの車」はクラッチのフィーリングが素晴らしいのだ。パワステも「据え切り」をしていないので調子がいいままである。駄目な車は運転中に若干怖いことがあった。そんな鈴木さんに運転を教えてもらえて、私は幸せでした。叱られて叩かれて・・・本当に何回叩かれたか分からない。多分2千回は叩かれた。徐々にハンドルを任されるようになったわけだが、鈴木さんは助手席に「竹製の30cm物差し」を持って座っている。「駄目な操作」をすると、その物差しで私の左太ももを叩くのだ。これが妙齢の・・・いや若い女性なら喜んで急ブレーキを踏み、壁にミラーを擦り付けるついでに、いきり立った私のこかんの15cmもその女性に擦り付けるところだが、生憎と鈴木さんはジジィである。そして、物差しは容赦なく痛い。


「いってーっ!」と言うと、涼しい顔で「痛くなけりゃお仕置きにならんだろ?」と言う。なんて悪魔的なんだ。キンキンに冷えてやがる・・・わけでは無く、スパルタでもいいから、私を早く一人前にしたかったようだ。


特に厳しく指導されたのは「半クラッチ」である。とにかく、他の2トン車ドライバーは車検ごとにクラッチの交換が必要だってほど、下手糞であった。そう、クラッチは左足で踏むわけだが、鈴木さんの物差しも左側でスタンバイしている。「安元~、半クラを踏むなと言ってるだろ~」(パシっ!)容赦無く痛い。教習所では「発進時は1速で半クラ、動きだしたら2速に入れて速度が乗るまでは半クラ。シフトチェンジ時も半クラでそっと繋げ」と教わると思うが(今はもうAT車限定の時代か)トラックは全然違う。「半クラを使うのは素人扱い」である。乗用車にでも乗ってろと言われる。発進時は2速であるが、踏み込んだクラッチを「繋がる位置」までスっと緩めて、ちょっとだけ回転を上げたらスパッと繋ぐ。半クラはマジで一瞬である。すぐにシフトチェンジするからと、クラッチペダルに足を乗せてるだけで物差しで叩かれる。「クラッチには極力触るな」と言うことである。もしかして、敏感乳首よりも危険物なんですか、クラッチって?


 とある現場での話だが、そこでは平地をバックで下がって行って、90度直角に曲がると「奈落に落ちるような急坂」になる。初めてそこに運転していった時、鈴木さんは「安元。絶対にクラッチを切るなよ」と言った。急坂なので、クラッチを切るとエンジンブレーキが効かないので一気に加速するのだ。バックで加速するのは可愛いお嬢さんの背後だけでいい。ブレーキを必死に踏んで車を停めても、今度は「バック発進」となる。いきなりのバックはやはりお互いをよく知ってからの方がいい。ちょっと考えれば理解出来ると思うが、歩いて登るのも嫌になるような急坂での「坂道発進」である。私はまだ初心者だったので、こんな急坂での坂道発進とか普通に詰むわけだ。ギアをバックに入れたまま発進させるのも怖い。あれは「加速する」から、またブレーキを踏んでクラッチを切って・・・の繰り返しで、その施設の壁にぶつかった社員がいたそうだ。

 ハンドル操作もかなり指導された。いわゆる「据え切り」は禁止であった。パワステ車だと、車を停めてからハンドルを切ることがあるが、アレは車軸や油圧装置を傷めるので注意が必要だ。トラックでは尚のことである。狭い場所での切り返しの場合、「逆切りしておく」ことを教わった。車が停止する直前にハンドルを僅かでいいから「逆に切っておく」のだ。私の運転は「せっかちだ」とよく笑われた。帰庫して所定の場所に車を入れるわけだが、バックで入れる直前、車が停止する直前に、早々にハンドルを逆に切る。それが「慌てて切ってるように見える」らしい。コレが間違った操作では無いのは、のちに私が「新車担当」になった事から分かる。私の運転は「巧くなっていった」のである。そうして、徐々に市のごみ収集コースの難所がある曜日でもハンドルを握らされるようになった。そう言えば、鈴木さんは「鬼」ではなく、要所要所で「抜くこと」(性的な意味ではない)も教えてくれた。市の収集では「開始時間」が決まっている。朝早くから集めてしまうと「出せなかった」という苦情が出るからであるが、そんな場合でも鈴木さんは早めに出庫していた。そして車を停車させ、「安元、1杯入れてくれ」と言う。鈴木さんはいつも水筒に入った「甘いコーヒー」を車に持ち込んでいた。そのコーヒーを飲む時間が必ずあったのだ。またある時は「午後の現場」を緩い場所にしてくれた。毎日過酷な仕事ばかりでは死ぬわけで。しかも、鈴木さんが担当している現場があって、そこが楽なのだ。その現場まで譲ってくれた。ただし、バケットを運転出来なければ無理だが。その運転も教えてくれた。ブルドーザーみたいな車体で、車両前に「バケット」と呼ばれる「ゴミすくい」がある。コレはもう半クラ全開である。エンジンパワーが油圧に逃がされてパワーが足りないので回転を上げるわけだ。


なお、その現場でも死にかけた。袋小路にトラックをバックで入れて、使いかけの廃棄塗料などが入った一斗缶をトラックに満載するのだが、季節は盛夏であった。息苦しいうえに暑い。2時間後には熱中症になった。まだ気温自体は今ほど高い時代では無かったので、トラックの下に潜り込んで、水をがぶ飲みして1時間耐えた。2トンの「深ダンプ」等と言う荷台に一斗缶を山積みする仕事はキツかった。


市のごみ収集では「難所」が3か所あった。一つは幹線道路から進入する狭い道。ミラー横に10cmの余裕もない。徐行すれば誰でも入れるだろうが、こっちは修羅場ってる日も多い。かなりの速度で突っ込むことだってある。見通しはいいので危険はないが、どうかすればミラーが吹き飛ぶ(両側はコンクリートの壁)もう1か所は「ミラーを畳まないと通れない隘路」である。今のように電動で格納出来るミラーでは無いので、運転席側のミラーを「よいしょ」っと畳む。畳まないと右側の生垣にミラーを持って行かれる。最大の難所は急坂を一気に駆け上がって、平らな道に直角で曲がる。やはり道は狭過ぎるので、本当に走行ラインがタイヤ1本分もズレると曲がれない。そう言う場所は、いつも鈴木さんが運転しながら「ここはこうする」と、実地で教えてくれて、運転がそこそこに出来るようになると走らされる。厳しいが優しい人であった。ある日のことだ。鈴木さんは古株なので、社長ともツーと言えばカーの仲である。当然だが祥子のことも知っている。そして、コレは本当にありがたかったのだが、「祥子の婚約者である」なんてことで特別扱いをしなかった。逆に物差しで叩かれた。であるからして、その日は最後の1台(3往復目)を早めに積み終わったので、車を停めてコーヒーブレイク。


「なぁ安元。祥子はもう抱いたのか?」


 コーヒーを噴くところだった。そ、そんな質問なんて・・・と耳を赤くするほど初心ではない。「良かったっすよ」と答えたら、最高の笑みで「この~♪」とパンチしてきた。私と鈴木さんはいいコンビになっていた。もう走れない場所は無い。私の乗る車は「ダブルドライバー」となった。助手もドライバーも同じである。こんな車はかなり重宝される。ドライバーの貸し出しである。多くの車は助手が免許を持っていないので、ドライバーが休むと出ることが出来ない。そんな時にダブルドライバーの車から引き抜いて行くのだ。私は鈴木さんの指導で「乗れない車は無い」腕になっていた。2トンほどではないが、狭いコースを走る4トン車であろうが、4トンダンプであろうが何でも乗れた。そんなことは普通であるが、本来のドライバーの「癖」が付いた車は運転しにくい。露骨に「アイツの車は駄目だよ」と言う社員までいる始末だ。

 夏休みに入ると、毎年アルバイトに来る高校生がいた。多分、社長の紹介と言うか、知人の息子さんで「体力勝負」に特化した高校生である。私はその高校生を助手にして走ることが多かった。「若いモンで行ってこい案件」ばかりである。その高校生を乗せている時に、急な飛び出しをされて急ブレーキを踏んだことがあった。当時はまだ助手席はシートベルトは「努力義務」であったし、業務用車である。当然だが高校生はフロントガラスに向かって飛びそうになった。瞬間、ブレーキを緩めてフロントガラスが割れるのを回避した。その程度には運転が出来るようになっていた。ごみ収集では3回、車の荷台を燃やした。春先に多い事故なのだが、灯油が残ったままのストーブを平気で捨てる人が居て、そんなストーブに着火用の電池まで入ったままだと、稀に荷台で着火ボタンが押しっぱなしになり、燃えることがある。


「安元さんっ!荷台が燃えてますっ!」(春休みアルバイトに来てた高校生)


「ん?そうか、じゃどこかに停めるか」と慌てずに言うと、高校生は「大丈夫なんですか?」と繰り返す。まあ爆発さえしなければどうにでもなる。荷台に詰め込まれたごみを押し出して、消火器で消火して、近所の家に水を借りてぶっかける。あとは積み直すだけである。帰庫したら報告すればいい。慣れたものである。


そんな日々に闖入者現る。


なんと、因縁の相手である、祥子の妹さんの彼氏がアルバイトで来るそうだ。電話の件で「ぶっ飛ばしてやる」と息巻いていたあの彼氏である。しかしここは会社だ。私は正社員で担当の車まである。ここは先輩風を台風どころか竜巻並みに吹かせて、アンパンとコーヒー牛乳でも買いに行かせて「社会の厳しさ」を教えてやってもいいかなと思った。


「あー、バイトで来る坂崎は、結構前から夏休みのバイトで来てるから仕事は出来るぞ」


すいませんすいません、私が悪うございました。


更なる因縁も知っていた。祥子の初体験の相手もこの坂崎だ。中学生時代に祥子を喰ったらしい。そして、祥子どころでは無い美少女となった妹さんに軽やかに乗り換え。軽自動車感覚である。つまり、あの可愛い妹さんも「経験者」と言うことになる。

 タダで食う「姉妹丼」は美味かったか、恭介?


ほとんどジジィしかいない我が社に若者のアルバイトが来る。私はこの報せに一瞬心を躍らせたが、名前を聞いて軽くドン引きした。

 坂崎恭介(26歳)この男は祥子の妹さんの彼氏で、祥子を中学時代に喰って(性的な意味で)、その頃には「本物の美少女」に育っていた妹さんに、軽自動車感覚で乗り換えたと言う


生粋のロリコン野郎であった。


 妹さんも中学時代に喰われたので、恭介は「家族ぐるみの付き合い」と言う立場を悪用して、あろうことか、親の友人の娘さん二人を喰ったのだ(性的な意味で)挙句、長女である祥子の「正式な婚約者」の私に向かって、「長電話ばかりしやがって。ぶっ飛ばしてやるっ!」と息巻くと言う悪逆非道っぷり。そんな男がアルバイトに来る?私の1つ上?アルバイトなんだから使い潰してやろうかと思えば、坂崎はアルバイトとは言え、経験が長い「先輩」だと言う。本当に始末に困る男である。そもそも、「ぶっ飛ばしてやる」とほざいていたので、なんなら出社してきたらすぐに駐車場に呼び出して、この空手黒帯の私の返り血で染めてやろうかとも思った。

 本当はもの凄く緊張していた。アルバイトに来るようになって3日間は目も合わせなかった。チラチラと観察すると、これが意外にナイスガイで、仕事も出来る。あの等々力さんと平気で組んで仕事が出来るのは、社内では私とか、アルバイトで来る高校生くらいのモノであった。しかし、聞き捨てならぬことを聞いた。高校時代は「野球部」であったと言う。私の中で、「野球部員」と言うものは、在学時代にマネージャーを喰ったか(性的な意味で)童貞のまま卒業し、大学も童貞で過ごし、内定を貰った企業があるのに、急に内定を断る電話をして、応対した30代のロリババァの「はぁ?」の声が忘れられなくなる人生の中で、細やかな幸せを見つける人物であって、少なくともこの私と面倒臭い関係になるような人物ではないはずだ。しかも、周囲の社員たちも扱いに困る代物で。この時には既に、私が社長の長女の婚約者であることがバレていて、そりゃもう虐められたものだが、本当に老害はあと先を考えないのだなぁと思った。万が一、私が「逆玉狙い」であったなら、理不尽な虐めをしてきた社員は真っ先に解雇するだろうとか考えないのだろうか?虐めといってもかなり危険な行為ばかりで、例えばトラックの荷台に登って作業をするのは身軽な若者の仕事だが、下から「おい、投げ上げるぞっ!」と言いながら、5~6kgはある鉄塊を私に向けて投げて来るとか、当たれば怪我するじゃないか。端っこに投げ上げるのが「作法」である。そこへもってきて、今度は「次女の彼氏」までが入社してくると言う。この時点では恭介は「アルバイト」であり、高校時代から来ていたからと言う認識であったが、「次女の彼氏」で、どう考えてもこのまま社員になりそうだ。実際、2か月後には社員になったので、周囲の老害社員たちは恐れおののいた。長女・次女の彼氏が社員として働いているわけだから、どう考えても「現場を知ったうえで」将来的には重役候補になる。私は祥子と結婚したら会社を辞めるつもりであったが、恭介の考えは知らない。ただ、少なくともこの会社で勤め上げればそれなりの地位は約束されているだろう。


ロリコンだがなっ!


 緊張感が伝染する。私と恭介の「アリの門渡り」よりもデリケートな関係を知りはしないだろうが(尻との間だけに)若者同士なのに目を合わそうともしない二人。等々力さんと鈴木さんはこの緊張感の根源を知っているようだが、どうにも出来ないと悟ったのだろう。最悪の結論を出しやがったのだ。

「午後の○○現場には、若いモン二人で行ってこい」である。もう当人同士で決着を付けろと言うことだ。その現場までは距離があるので「若い二人だけでお話しする時間もたっぷりある」と、余計なおせっかいである。現場自体は楽ちんである。ぶっちゃけ、私一人で十分な現場なのだ。通常はジジィどもが取り合いをするようなぬるい現場に若者二人を投入。しかも乗っていく車は2トンダンプである。つまり、運転席が狭い。それまでは休憩室の対角線ほども離れていた私たちが、いきなりキスだって出来る距離に近づく・・・私のロマンチックは止まらなくなった。


(最悪だ・・・)


この思いだけは恭介と共有出来たと思うのだ。まだ恭介はアルバイトであるから、ハンドルを握るのは私だし、一応は仕事では「目上」にあたるが、そんなことは関係ない。私はただ寡黙に仕事に打ち込んでいたから「評価されていた」わけで、誰かに指示を出しながらとか、本当に面倒で嫌であった。しかし、等々力主任の「配車」である。逆らったら殺される。私は壁にあるボードからトラックの鍵をもぎ取って、恭介に「じゃ、行きましょうか。遠い現場だし」恭介も「はい」と何となく敬語っぽい。完全に赤に他人の会話である。どうかすればこの先「義兄弟」になるのに、いきなりコレである。走り出して数分後。「安元さんは煙草を吸うんですか?」と訊いてきたので「あ、はい」と答えた。恭介は元野球部員なので、割と健康ヲタクであったが「気にしないで吸ってください」とか言う。私は吸いたくもない煙草を咥えて深呼吸。なんなんだ、この浮気がバレた直後のアヴェックのような微妙な空気は・・・


殴れぇぇえっ!恭介、今すぐ私を殴れぇぇえ!その方がよっぽどすっきりするわぁああっ!と叫びたいような衝動を抑えながら、私は目の前に現れたコンビニの駐車場に車を入れると、無言で車を降りて店内に入った。缶コーヒー2本を買った。

 「飲む?」と言いながら(断ったら殺すオーラ全開で)手渡して、その場でいきなりのコーヒーブレイク。しばし無言が続くが、恭介はちゃんとコーヒーを飲んでいる。


「怒ってる?」と訊かれたので「何が?」と答えた。

「電話のこととか」

「俺は気にしてないよ」


(アヴェックの会話であるが、しているのは筋肉二人である)


「いいヤツだよね、安元さんって」ソレはこっちのセリフだが、聞きたいことがあったのでストレートに訊いてみた。

「あゆちゃん(妹)とは結婚すんの?」さぁ、漢の覚悟を聞かせてもらおうか?

「もうやっちゃったし。しかも可愛いじゃん?」この会話で一気に打ち解けた。男同士である、「女の話」が一番効果があるものだ。そこからはもう「さん付け」ではない。私は「恭ちゃん」と呼んだし、恭介は「安元くん」と私を呼ぶようになった。何でか、長女の旦那になるはずなので、私の方が若干ポジションが上である。まあ私の下の名は「ちゃん付けしにくい」と言うこともあったが。


 そして破竹の行進が始まった。若いうえに仕事は出来る。私は鈴木さんの下で経験を積みまくっていたし、恭介はアルバイト歴が長い上にナイスガイだ。ロリコンだけど。社内に敵がいない状態である。圧倒的強者である、倍プッシュである。積み込みをしている時に、等々力さんに「おせーよっ!」と何度も煽られた。無言でガンガンと積み込み待ちの荷物(ゴミ)を背後に積むと言う高度な煽りまでされたこともある。立場逆転だ。今度はこっちが煽ってやる。とも言えずに、それとなく煽るだけであったが、休憩所で恭介と話していて「もう等々力さんだって煽れるよね」と、等々力さんに微笑み返しはやってみた。「おー、やってみな、生意気言いやがって」と苦笑していた。実際、若者二人に煽られたら、等々力さんだってキツいと思う。タイマン勝負だと、未だに等々力さんに敵う者はいなかった。本当に等々力さんと鈴木さんは「人格者」であった。たとえ社長の娘の恋人だろうが婚約者だろうが「特別扱い」はしなかった。どちらかと言えば、しんどい現場にばかり飛ばされていた。日によってはぬるい現場に行くこともあったが、ソレは鈴木さんの心配りであったのだろう。恭介も等々力さんの「ぬるい配車」をたまに受けていたので、なんとなくだが「若い社員だから大事」と言う感じでは無かっただろうか?運転技術も向上していった。産業廃棄物の引き取りも仕事なので、「特装車」がある。ダンプもそうだし、荷台だけを下ろせるアームロール車。ユニックは無資格では動かせない装備だが、そんなことを言う人はいない。ユニックの操作も出来るようになった。恭介は多少、私よりも運転が下手であったので、「担当車」が無かった。大抵は誰かの助手として乗務していた。午後になれば逆に「スーパースター」なのだが。とにかく老害どもが定年退職しないと「専属になれる車」に空きがない。私は運良く鈴木さんと組まされ、その指導で腕を上げていたので、鈴木さんの乗務する車が私の担当車であった。ダブルドライバーであることで、かなり便利な車扱いであった。恭介も等々力さんの担当車の助手に固定されるようになっていった。故に、等々力さんの担当車は「トリプル・ドライバー」である。通常、4トン車は3人常務なので、全員が免許持ちである。かなり異色な2台であった。仕事は順風満帆である。ただ、多少仕事ばかりにかまけていたことは反省すべきなのだろうか?男は仕事してナンボじゃないかと思う。結婚すれば家族を養わなければならないし、家やら車やらのローンだって抱えるかも知れない。しかも、社長は婚約者の父親である。コレで「僕はプライベートも大事なので」などと口走ったら、軽く2~3発はボディを殴られて、蹲ったところで縛られて、屋根裏部屋でエロ同人誌みたいなことをされるに決まっているのだ。


 ある日、出勤したら誰もいない。またフライング出庫だよ・・・と思いながら、何か配車はされてるだろうと休憩所に行くと、鬼が座っていた。パンチパーマに薄茶のサングラス、口ひげを生やした上に浅黒く日焼けした「鬼」が待っていたのだ。早い話が社長である。しかも、何故か作業着を着ている。昔は現場でブイブイ言わせていたと噂は聞いていたが、今更現場に出るわけが無いと思っていた。この時の私の気持ちを簡単に述べると、雨の日に裸足でコンビニのトイレに入ったら滑って転びそうになった気持ちと言うのが近いだろう。どうも、鈴木さんの評価を自分で確かめたくなったようだ。現場が「手積み」の産廃である。まぁ当時の私にとっては「嫌な現場」では無かった。もっとえげつない現場の経験の方が多い。社長は4トンダンプを指さすと「乗れ」と言った。「乗らないなら帰れ」とも言いそうだった。その4トン車は新車で、ほとんど使われていなかった。たまに等々力さんか鈴木さんが運転するだけであった。私は車両操作になれるためにその助手をしたことがあった。アームロール車って、操作とか独特なので割と大変である。後日、馬鹿な社員が荷台をダンプさせた時に「荷台を落とす事故」を起こしたって程度には慣れが必要。


 社長がハンドルを握る。そう言えば、私はこの社長と長話をしたことが無い。祥子の母とは世間話もする関係だが、社長は家に帰ってくるのも遅いので、会話と言うよりは挨拶程度ばかりであった。「慣れたか、仕事」とか訊かれる程度である。その社長と二人きりでドライブデートである。もうどうにでもなれっ!

 社長、運転が荒い。空荷のダンプカーの加速力は凄い。ディーゼルなので回転が伸びないが、加速力は2000ccクラスの乗用車の比ではない。マジでシートに押し付けられた。そしてかなり飛ばすのだ。制限速度?なにそれおいしいの?と言わんばかりである。私はそんな社長の横顔を見ながら、ここで「お義父さんっ!」と呼んだら、このパンチパーマはハンドルを誤ってガードレールに飛び込むかなぁと思いながら、「すいません、煙草吸っていいですか?」とチキンハートを露呈した。「吸え」マジでちょー怖いんですけど。現場に到着して、乗ってきているのがアームロール車であるから、荷台を下ろして積み込み開始。空のドラム缶ぐらいなら一人で運べるので、勝手に運び始めたら「安元は力があるんだな」と驚いていた。そりゃもう、鍛えられましたから。ただ、ドラム缶は持ちにくいっすね。ちゃっちゃと積み込んで、社長の手を煩わせないようにして。帰りの社長は割と上機嫌で、「祥子とはどこで知り合ったんだ?」とか、尋問が始まった。ここで答えを誤ると、走行中のダンプから放り出されるのは理解出来たので、「ライブ会場で出会いました。その後、終電が無くなったのでタクシーに乗り合いで帰宅させました」


山田よ、ありがとう。お前のアイデアで苦境を凌げたよ。


「そうか。で、清い交際なのか?」出た、お父さんの心配事No1の質問だ。どう答える?ここの答え方で明日の朝日を拝めるかが決まるぞ。

「在学中は手も握りませんでした」と模範解答。今はお互いに「大人」なのだから察して、お義父さん。

「そうか、在学中ね・・・在学中か・・・今は?」このポンコツ親父はなんてことをっ!

「今ですか。結婚を考えていますので」濁せ濁せ、話を濁すんだ。

「うんまぁ・・・そうだよな」


 この時に、私はやっと正式な婚約者となったようだ。祥子の両親も漠然と「婚約を認める」ような立場であったが、この時の会話で「結婚、させねーよっ!」とは言われず、漠然とだが「肯定」されたのだから。ちなみに祥子の母は「婚約を認める」とはっきり言っていた。だがしかし、この時既に「終わりの始まり」が。

 社長は浮気をしていた。ソレを知った祥子の心は千切れんばかりであっただろう。祥子はパパもママも大好きなのだ。そんなパパがママを裏切った。どうしたらいいのか分からないが、取り敢えずは私を頼って来た。「パパに浮気は辞めてって言ってっ!」


 いや、言えるわけが無いでしょ。私は確かに祥子の婚約者であるが、同時に祥子の父の経営する会社の「ただの社員」でしかない。結婚後なら言えるかも知れないが、この時既に私の考え方は非常にドライなモノであった。私は何度も男女が裏切り合い、罵り合い、果ては憎み合うところを見て来た。家族でさえ、そんな男女関係に口をはさむことは無駄である。「大人が決めたことや行動」は、本人が考えを改めなければ変わらない。そして、考えを改める大人は居ないものだ。第一、「浮気」なんざ病気と同じで、治ったかと思えばまた罹るモノである。もちろん、「浮気をしない人」も多い。

 まだ「他人」である私が、社長の行いにご意見するはずがないだろう。私は祥子のこの悩みを突き放していた。大人同士で解決するべきだと。コレが拙かった。祥子は相談相手に「会社の同僚」を選んだのだ。その同僚は普段から祥子に「好きだ」だのなんだのと、婚約者がいる相手にほざく馬鹿であった。そんな馬鹿だから、祥子のお悩み相談に乗れば、祥子にも乗れると考えたのだろう。甘い慰め言葉を囁き、挙句は口説いた。

 祥子の20歳の誕生日を来週に控え、私は自宅アパートで祥子と真剣に話をしていた。そろそろ頃合いである。仕事でも一定以上の評価をされている。辞めるにしろ続けるにしろ、婚約自体は完全に認めてもらおう。祥子の誕生日に、この婚約指輪を持って、ご両親に挨拶に行くことで、結納と言えば大袈裟だが、その代わりにしようと。


「実は・・・好きな人が出来たの・・・」


青天の霹靂とはこのことである。まさか、高校生になってすぐに「安元さんと結婚するの」と言い続け、ついには本当の「婚約者」になった祥子が、いよいよご両親に正式に挨拶しに行くと言う熟した時期に・・・

 話を聞けば完全に「浮気」であった。何度も泊りで遊んでいたと言う。私は仕事の忙しさにかまけていて気付いていなかった。だたそれだけの話である。普段から顔を合わせていれば「微妙な変化」にも気付いたかもしれないが、「婚約者である」と言うことで完全に安心しきっていた。もちろん、休みの日には私のアパートに来ていたし、夕食を共にすることもあったが、頻度は減っていた気もする。とにかく「浮気」していることは置いておいて、その浮気相手と結婚するなどと言うことは承服しかねるので、早い話が「裏切りは赦さない」ということで、「別れて来い」と、祥子を部屋から叩き出した。


 3時間も待っただろうか?祥子が泣きながら帰って来た。「別れることは出来ない」と。この時の私は、本当に祥子を愛していたので、男泣きに泣いた。あり得ないだろう。長い付き合いで培った絆がこんなにあっさり切れるなどと。正直、この部分を書いていて、多少鳥肌が立った。「愛してる」とか「絆」とか、そんなもんは「ピュアで熱いハート」を持つ輩に任せておけばいい。しかし、当時の私もまた「ピュアで熱いハート」の持ち主だったのだろう。

 その日の話し合いは「物別れ」に終わった。そもそも祥子はこの日の「カミングアウト」で終わらせるつもりであったのだろうが、私は諦めが悪かった。数日後、また祥子を呼び出した。話し合うなら私のアパートが最適であろう。しかし祥子は頑なであった。「別れることは出来ない。もうよーちゃんよりもあの人の方が好きなの」この言葉が私に更なる涙を流させた。もう仕方が無い。セックスをしよう。今思えば最低だが、今の私と同じ思考回路である。「タダで出来るうちにやっておこう」と言う考えであったが、何故か勃起が弱い。やっと挿入出来ても、今度は逝く気配がない。そして私はボロボロと涙を流しながら祥子の身体を抱きしめていた。避妊はしていなかった。

 しかし、射精にいたるような営みではない。祥子は仰向けになりながら「もう・・・どうなってもいい・・・」と呟いた。この一言で私は完全に理解した。私と祥子の仲は終わっているのだ。そそくさと着衣を直した祥子は、無言で私の部屋の合鍵と車の合鍵を置いて、そっとアパートを出て行った。

 

 このようなことがあっても、私は仕事を欠勤することは無かった。抜け殻のようになりながらも、担当地区を走り続けた。食欲は無いので飯は食わなかった。煙草と缶コーヒーだけで3日間過ごして、4日目に猛烈に腹が減って、サンドイッチを買って食べたが、半分食べて、もう入らなかった。社長はもう事情を知っているだろう。いや、社員全員が知っているだろう。あの日から1か月間はまさに「針の筵」であった。辞めるのは簡単だった。社長が事情を知っているのだ。辞めると言えば、大歓迎だろう。「昔の婚約者」なんてモンは扱いに困るであろうから。しかし、私は辞めなかった。ココで辞めたら「逆玉狙いの若造」扱いである。辞めた後にどう噂されようと知った事ではないが、私の「男としての矜持」が辞めることを許さなかったのだ。壮絶な「いじめ」が始った。誰も話しかけてこない。恭介だけは気遣ってくれて、「安元くん、車においでよ」と誘ってくれる。車の中で他愛ない雑談や、ちょっとだけ祥子のことを話したりした。まだ帰ってくるかもしれないと、私は家の電話の留守番転送でポケベルが鳴るように設定していた。もちろん、鳴ることは無かったが・・・

 現場では、等々力主任の助手になることが多かった。もう問答無用でキツい現場ばかりである。午前中の市のごみ収集から外されることが無かったのは、鈴木さんの擁護があってのことだったろう。午後から「一人現場」に飛ばされることも増えた。最高に痛快だった「いじめ」は、一人で2現場任されたことだ。市のごみ収集は始業時間が早いので、15:00には退勤時間となる。そして、多くの社員は午後に1現場を片付けて終業である。14:00には休憩所で煙草を吸って時間潰しをすることが多かった。私も、祥子と別れる前はそんな時間潰しが好きだった。用事があれば、現場さえ片付ければ帰れる社風でもあった。そんな「暇そうな社員がいるのに」私は4トン車に一人で乗って、産廃を積み込んで焼却場におろし、そのまま今度は駅の空き缶が積んである集積場に走ることになった。どう考えても1人でやれることではない。配車は等々力さんがやっているので、この時点で「安元をいじめ倒して辞めさせよう」と言う了解が、社長と主任たちの間にあったのだと思う。しかし、同じ主任である鈴木さんは違った。なんと、2か所目の駅の現場前に鈴木さんが居たのだ。自分の現場を片付けて、そのまま駅まで来てくれた。「おい安元。サッサと詰み込まないと捨て場に下ろせないぞっ!」とちょっと怒りながら言うと、積み込みまで手伝ってくれた。更には「この後は俺がやっておくから、お前は捨て場まで走れ。時間が無いぞ」とまで・・・

 駅の集積場は厄介で、施錠されてるので鍵を事務所まで借りに行く。そして積み込んだあとは「掃除」までしてから鍵を返しに行く。鈴木さんは事後の処理を全部やってくれた。ハンドルを握りながら、熱いものが頬を伝った。

 その後も小さないじめはあったが、「安元は根性が据わってる」と言うことで、逆に虐めてきた社員たちが私にへーこらし始めた。社長も「娘と別れたのに、仕事は真面目だし恨み言一つ言わない」と、私を見直したようだ。恨み言は言わないが、恭介が愚痴を聞いてくれていた。


 別れから2か月が経過した。もう仕事は以前通りになった。いや、あのいじめでさらに鍛えられた分、怖いものなしになっていた。社長はたまに私を飲みに連れて行ってくれた。その席でも私は祥子の話題を出さなかった。もう終わったことだと、別れから2か月で完全に受け入れることが出来た。それに、社長と飲む時は必ず「女性」を伴っていた。社長の友人なので「妙齢」とでも言おうか。私にとっては「おばさん」としか思えないが、そんなおばさんにも「妖艶な人」がいた。私は酔うと「甘える」ようになった。以前はそんなことは無かったのだ。きっと祥子との別れが、私の弱い部分を引き出したままにしたのだろう。妖艶なおばさん・・・いや女性は「社長には内緒だよ」と、私をホテルに連れ込んでくれた。正直、「セックス」したいとは思っていなかったが、フル勃起していた。ここでその女性にハマっていれば、私の性癖も多少はマトモになっていたと思うが、未だに私は若い子にしか興味はない。


 プライベートでは一人遊びが多くなった。一人で飲みに行ったり、可愛い子がウェイトレスをしている小さなレストランで食事をすることが増えた。本当に可愛いウェイトレスだった。出会った時には高校2年生であった。

 ある日、どこで電話番号を知ったのか分からないが、私の高校時代の知り合いから電話がかかってきた。いや、その小さなレストランであった時に電話番号を教え合ったのかも知れないが。あくまでも「知り合い」である。割と可愛い女の子だったので、電話があれば多少は心がときめくが、「昔の知人」が電話してくる・・・あっ(察し


 そう、某ウェイとか、マルチ商法の勧誘である。当時の私は今ほどスレていなかったので、彼女の話を丸ごと信じた・・・わけではないが、会えるなら行こうかと思った。「凄い人に会わせたいの。だから、当日はちゃんとスーツを着て、清潔な感じでねっ!」と言われた。スーツと言われても、ライブハウスで写真を撮ってる時に来ていた「バブリーな茶色のダブル」しか持っていない。わざわざ買う気にもなれないので、そんなバブル真っ盛りな格好で愛車を転がして、その女性、優子を迎えに行った。聞けば、そのままちょっと離れた市で「凄い人」と待ち合わせのセッティング済みであるらしい。(俺は足かよ)と思いながらも、このちょっと可愛い優子とドライブ出来るならと、不肖不肖に頷いた。待ち合わせ場所は会員制のクラブ・・・ではなく、ファミレスであった。当時から細かいことばかり気になる質で、なんで「凄い人」がファミレスなんぞに来るのだろうと思いつつ、店に入るとすぐに優子が「〇〇の者ですけど」と名乗る。ウェイトレスは「承知しております」と訳せばいいのだろう、満面の笑みで案内してくれた。その席は店の奥にある「角の席」で、L字に曲がったベンチに4~5人は座れて、テーブルを2つ挟んで4人が座れる「グループ用特等席」であった。県下ではこのような贅沢な造りのファミレスが結構あったのだ。一般に「マルチ商法」と言うと、某ウェイを思い浮かべる人も多いかと思うが、某ウェイは健全な会社である。単にその商法が「マルチ商法」と似ている部分があるだけだ。本社が「会員」に、自社製品を売る契約を取り付ける。この商品自体は悪いものではない。そこそこに優れた商品もある。ただ、本社は直接会員に売らない。間に「問屋」を挟むのだ。この問屋は「小売り」に強制的に買わせる権利を与えられる(契約で)なので、「問屋」になれば、あとは抱えてる「小売り」が多ければ多いほど儲かる仕組み。「小売り」も、新規会員の勧誘等で実績を積んで「問屋」になることを目指す。ざっくりと説明したが、大体はこのような感じだ。


しかし、「マルチ商法」は訳が違う。先ず入会時に支払う額が桁違いだ。今の若者を食い物にしている「ネットワークビジネスの商材」みたいな感じである。買えば「会員」になれるが、その先は知らないよと言うことである。自分の商才で頑張れと言うことで、ココで頑張れば「親」になれるってこと。優子が紹介してきたのはまだネットワークビジネスなどは無い頃である。日本では「ねずみ講」は法的に禁止で罰則もあるが、「マルチ商法」の場合は、「商取引の連鎖」があるだけで、多くは無規制であった。会員になるためには、カタログから最低でも50万円相当の「買い物」をしなければならない。当然だが、このカタログは末端の小売の仕入れ先でもある。優子はこの組織のヒエラルキーでは最下層であった。まだ「会員を勧誘しないと儲けにならない」わけだ。定められた人数を勧誘して初めて「会員の買い物からのキックバック」を貰えたり、本部の「親」から報奨金が貰えるのだ。だから必死で会員を集めたい。そこに、鼻の下を伸ばして引っかかった馬鹿が私である。そして、「凄い人」は現れることは無い。数人の「上位ヒエラルキー」の会員たちに両側を挟まれてベンチシートに座らされる。あとは勧誘勧誘、また勧誘である。ここで投資した50万円なんかすぐに稼げると熱弁するが、どうにも私を連れてきた優子が「ミリオネア」には見えない。どちらかと言えば、余裕が無くてキィキィと鳴いている子ネズミに見えるのだ。しかし相手はマシンガントークを続ける。優子は「アシスト役」に徹している。上位ネズミが「〇〇だからさぁ?」と言えば、優子も「そうそう、すぐに〇〇よっ!」と追従するのみである。多分だが、ここにいる「優子以外のネズミ」は、優子が新規会員を上手く勧誘出来れば、多少の稼ぎになるのだろう。口説き文句がチンポじゃなかった、陳腐で笑いをこらえるのに必死であった。「上司の〇〇さんは、東京の港区にマンションを持っていて~」とか、「白いテスタロッサに乗ってるんですよっ!安元さんも成り上がりましょう、テスタロッサに乗りましょうよっ!」と言った調子である。「マルチ商法だと思ってませんか?私たちの会は違いますよっ!」とか、まぁ当時の私の知識でも「マルチ商法」は違法ではないと言う認識であったし、そもそもこの「会」の場合は、正統な一流メーカー品を買わせるので、割とまともな方であった。価格は「メーカー小売価格+手数料」と言う感じであったが。東京?住みたくないです、自分の生まれた街だが大好きなんです。白いテスタロッサに?私の自家用車は白い〇〇〇ですが、大変満足しています。成り上がり?上昇志向?そんなもんは額に汗して手に入れるモンです。


この「ファミレス」での説得行為は、あとからあとから応援が来るので厄介だ。今も、とある喫茶店で行われてるらしいが、この説得方法を「ハメ殺し」と呼ぶ。大人数で「型にハメる」と言う意味だ。


しかし、私は一切応じない。5時間後、この「ハメ殺し」は失敗に終わった。50万も持っていないし。外に出て、煙草に火を着けて、目の前にある電話ボックスを見た。そこでは優子が誰かに電話していたが、その目付きは「氷のように冷たい捕食者の目」であった。きっと「取り逃がしました」ぐらいの報告をしているのだろう。私はその電話が終わるのを待っていた。


「よぉ、乗ってけよ。電車じゃかったりぃだろ?」


 私はあの「氷の表情」を見て決めたのだ。何があってもこの女を抱くと。それほどまでに腹が立っていた。夕方から夜の10時過ぎまで、訳の分からないチンピラに「安元さん」とか呼ばれ続けたのだ。意趣返しはするべきであろう。しかし、強引に抱いても無意味である。「自然な関係の中でセックスする」のが目標である。ぶっちゃけ、「会員になってやるから抱かせろ」と言えば、二つ返事で股を開く女であろう。それでは駄目なのだ。1発50万円とか暴利だし、一晩に3発撃ち込んでも、1発単価は16万円もする。そこまで「上等な女」ではない。そこそこに可愛いだけである。幸い、もう祥子もいないし、こんなゲームに興じるのも悪くないだろう。暇だし。私はその日、私のポケベルの番号を教えた。当時は携帯なんぞはまだ一般的では無かったのだから仕方ない。「何か用でもあったら鳴らせよ」と念を押しておいた。しばらくは音信不通であったが、優子はそのマルチの会で稼げなかったようで、今度はまぁ「ギリギリ合法」だと思えるアルバイトを経て、「訪問販売」の仕事を始めた。どこまでも守銭奴、ソレが優子と言う女の本性であった。最初は「ご飯食べに行かない?」ぐらいの話だったが、段々と図に乗って来て、訪問販売で〇〇町にいるから迎えに来てとか、アッシー・メッシー扱いになった。それでも私はニコニコ笑いながら送り迎えも食事の世話もしていた。「安元ってさぁ、本当に田舎の男って感じだよね。純朴で明るくて」だそうだが、お前の身体だけが目的で芝居をしてるんだよ。そんなある日のこと。その頃通っていたカフェ(酒を出す方)で飲んでいて、そのまま優子が私のアパートまで来たことがあった。その時の「やれると思った?残念でした」と言う人を人と思わない言葉が私の闘志に更なる燃料をくべた。もう絶対に抱く、この女だけは抱いて、私のこかんのマルチ棒の虜にしてやる(訪問販売もやってます)


 私のアパートに来たと言う時点で「半落ち」である。あとはタイミングを図って押し倒せばいい。そしてその通りになった。優子は昼間の居場所を探していた。家に居れば両親に叱られるわけだ。いい歳をして無職なのかと。かと言って、訪問販売の成績も振るわないわけで、喫茶店の硬い椅子よりも、男の一人暮らしとは言え、アパートの部屋の方が居心地がいい。私は最高の微笑みをプラスしながら、「早く言えよー、ホレ、合鍵」と、アパートの鍵を渡した。これで「完落ち」である。宿代に身体を寄越せと暗に迫るだけでいい。すぐに肉体関係になった。抱き心地は良くなかった。クンニする気もしない程度に臭いし。風呂なんざ貸さないですよ、抱いた後はそのまま自宅に送り届けた。泊りはさせなかった。朝の早い仕事なので、女の相手をする時間が惜しい。夕方遅くにはアパートで抱いて、サクッと送り届けて夜の9時。ちょうどいい感じである。私がここまで冷たくあしらい続けたことには理由がある。出会いが「マルチ商法」であったことも一因だが、これだけ会っていれば多少の情も移る。もしもこの時、優子が私のことを「好きだ」と言えば、結婚していたかも知れない。しかし、優子はいつだって「私は安元の恋人じゃないから」と言うのだ。これほど便利な女がいるだろうか?抱きたきゃ抱けるし、ほっときゃ勝手に生きて行けるだろう。


 決定的だったのが、優子の「元同僚」(マルチの)の話である。いつものカフェで飲んでいたら、優子がその同僚を連れて飲みに来た。この同僚が最強に美形であった。アイドル以上である。もちろん、「マルチの女」なので、銭ゲバである。そんな元同僚が私に興味を示した。もちろん「勧誘する気ではない」わけだ。私はあの「ハメ殺し5時間」を耐え抜いた男である。優子が「安元って言う男を飼ってるんだけど、すごくエッチが上手いの」とか自慢していたらしい。だったら試乗してみたいと思ったのだろう、優子がトイレに行ってる隙に「携帯電話」の番号を教えてくれた。この元同僚はマルチの会の上位ヒエラルキーに昇ったらしい。小金を持っているのだろう。優子とは月とズッポシである。後日、改めてお会いして、話は早い方なので、ラブホテルで「身体で会話」してみた。延長1時間、ハメ殺しならぬ「舐め殺し」を炸裂させてやった。いや、ハメ殺しもしたが。何と言っても、綺麗な身体に超が付く美形である。何度だって抱ける気がした。ただ、残念なことに「緩かった」ので、もう2度めは無いなと思わせる子であった。その時に、「優子さぁ?あんたのこと「犬」とか「しもべ」と呼んでるし、好きな男は別にいるってさ」と言う貴重な情報を頂いた。まぁそんなものだろう。私はひたすら忠実な家来であり続けたのだから。で、本懐を遂げたので未練もない。まだ関係は続いてるので、適当に遊び相手にしてればいい。

 よく一緒に食事をした小さなレストラン。ここの女子高生ウェイトレスが可愛かった。不細工なウェイトレスもいたが、そんなもんは眼中に無い。ある日のことだ。食事に行ったらウェイトレスが居ない。まぁ買い物か遅刻かどっちかだろうと思いながら、しょんべんをするためにトイレのドアを勢いよく開けたら、そこでその不細工な方の高校生が着替えをしていた。


「鍵くらい閉めろよ、馬鹿」


 私は何と言う酷い男であったのだろうか?着替えを見られて固まってる女子高生に「馬鹿っ!」と言うなんて・・・今でも言うな、このくらいは。

 優子ともマンネリ気味になり、私を気持ちよくさせるテクニックを仕込みだしていた。世に言う「調教」であるが、アブノーマルな行為を求めたりはしなかったので、「恋人同士なら必ずやること」だと思う。


マンネリ優子と超可愛い女子高生アルバイト。

 落すべきはどっちだろうか?


ドラム缶体型の優子か、美少女女子高生か?


答えは出ているものの、どうやったら女子高生を口説けるのかと言う根本的な問題が解決出来ていない。若い頃は女性とお付き合いすること自体は難しくなかったが、ターゲットを絞ると、コレが中々難しい。なんとなくお互いに「好意がある」なんて場合ばかりであった。勿論、行為があればお付き合い出来るし「行為」も出来る。この「行為」出来る関係に持ち込んでしまえば、大抵の女性は私の股間の「ワンオブサウザンド」に夢中になったものだ。今でもテクニックには自信があるが、使う相手がいないのが悩みの種である。風俗嬢が相手では、こちらの分が悪いと言うものだ。素晴らしい女性も多いし。

 風俗嬢と言うと、色眼鏡で見る人もいると思うが、彼女たちだって私生活では「恋する乙女」である。職業に貴賤は無い(政治家みたいな賤しい老人は除く)わけで、差別などあってはならない。中には質の悪い女性もいるが、概ね「いい子」ばかりである。


 さて、女子高生の名を「実登里」としよう。実登里はそこそこ優秀な生徒が集まる県立高に通っていた。可愛くて優秀であるから、彼氏ぐらいいるかと思えば、いないと言う。そんなわけあるかと思ったが、アルバイトの頻度や、勉強時間のことを考えれば、デートする暇はなさそうである。アルバイトの子なのであまり会話は出来ないが、週に3回は通っているレストランである。顔見知り以上の関係であるが「友達以下」である。私も27歳になっていたし、年齢的な釣り合いを考えれば「まず無理」だと思っていた。仕方なしに優子と遊んでいたようなものだ。相変わらず「洋二は彼氏じゃない」と言う主張を繰り返していたが、肉体関係はかなりの頻度であった。アパートに来れば必ずであるし、週に2回はアパートに来ていた。何度も抱いていればマンネリともなるが、そこは教育を施して、私好みのプレイを教えた。かなり上達したので飽きが来ない行為が可能だった。

 県内での「冬の遊び」と言えばスキーである。私をスキーに連れてってである。このワードに反応した御仁は、そろそろ人生についての総括を始めた方がいいかも知れない。私は既に始めている。この小説がそうである。スキーは餓鬼の頃からやっているので、いわゆる「ホーム」があった。そこそこにスキー客が多いゲレンデであったが、県人会に入れるような私たちの「日帰りスキー」には最適な距離にあった。多少の「旅行感」を味わえて、朝一番から滑れる。午後の早い時間には撤収する。道路の混雑を避けるためだが、県外から訪れた客のお陰で渋滞がひどい時もあった。優子はその体型に似合わず滑りが加齢であった、いや華麗であった。私もそこそこには滑れるが、優子には敵わなかった。のちに私はスノーボードを始めようと思ったが、スキーが上手いとスノーボードは非常に習得が難しかった。優子と二人で月に2回はスキーに行っていたと思う。完全に「割り勘」なので経済的負担は小さかった。リフトの1日券は勿体ないので、回数券で2千円ほど。往復の軽油代と高速代は割り勘なので数千円。あとはゲレンデの高くて不味いラーメン代くらいのものである。5~6千円もあれば楽しめた。本当に優子が私のことを「好きです」と言えば、結婚していたと思う程度には親密になっていた。しかし「彼氏ではない」と言うことで、いつでも抱ける女性と言う「セフレ」関係となっていた。結婚しなくて本当に良かったと思う。私にはどうも「人格的な欠陥」があるようで、「親になる」のは無理であったと思う。それに「真月」が私の結婚を許すはずもなく・・・


 実登里が受験のためにアルバイトを辞めたいと言い出したのは、多分年が明けてからであったと思う。受験するならもっと早くアルバイトを辞めておくべきだと思ったが、このアルバイトの「後釜」が決まらない。その小さなレストランはランチタイム営業が11:00から14:00まで。この時間帯はオーナーシェフの奥さんが手伝っていた。ここでは「マスター」と呼ぶが、そのマスターの奥さんは、私の評点では70点であった。可愛いと言える顔立ちで、プロポーションもドラム缶ではない。お子さんが二人いると言う時点で私の眼中には無いわけで、コレが70点と言う厳しい評価の理由である。ランチタイムが終わると、マスターは休憩に入り、ディナータイムまで寝ている。いつも寝ていた。ディナータイムは17:00~21:30である。このディナータイムのアルバイトを実登里がやっていたわけだ。他のアルバイトは一人だけで、実質2日に1回はアルバイトである。そりゃ受験のために辞めたいと言い出すわけである。このレストランの歴代アルバイトは殆ど知っているが、女の子だけである。実登里が辞めた後、どんな子が入ってくるのか楽しみであった。女の子しか雇わないのはひとえに「マスターが女好き」であるからであろう。そして新しいアルバイトが決まった。驚くことに男性で、年齢はもうおっさんと呼んでもいい27歳である。名を「安元」と言う。


早い話が、私がアルバイトをすることになったのだ。ここで実登里に恩を売っておくのも「落とす手段」だと考えた。マスターは私の申し出に数秒考えて「じゃあ安元君にお願いしようか」と言った。私は15:00で仕事を終えるので、ディナータイムには十分間に合うのだ。金に困っていたわけでは無い。時給800円のアルバイトは遊びみたいなものであった。ただ、他の常連が「うわー。安元さんが厨房にいるっ!」と若干ドン引いていたが、いつか毒を盛ってやればイーブンであろう。店の業務自体は知り尽くしている。自分で伝票に記入してオーダーを通していたほどである。週に2~3回のアルバイト。もう一人の女子高生アルバイトは、ビデオテープから出て来て、男子の「いいとこ探し」をしそうな「愛ちゃん」と言う名前であったが、名前負けしていた。それもダブルスコアで負けていた。小さなレストランなのでトイレは男女共同であった。そのトイレで着替えるのだが、先述した「トイレのドアを開けたら女子高生が着替えていた事件」の加害者である。もう一度書く。「加害者」である。不細工の着替えを見せられるなんて、どう考えても人生で30番目にランクインしそうな「不幸」であろう。愛ちゃんは加害者であった。愛ちゃんは日曜日は必ず休む子であった。驚くことに「デートする」んだそうだ。誰とするんだろう・・・と思っていたら、日曜日のディナータイムに「彼氏」と一緒に食事しに来た。当然男子高校生である。私の高校時代と比較すれば、その男子高校生の方が上位ヒエラルキーだと思えた。何故、このような素敵男子が愛ちゃんと?しかも奢っていた。決っして安い店ではないのに、食事を奢るなどと、今日日の男子高校生は金を持っているなぁと思った。

 アルバイトを始めて2か月が過ぎる頃である。急に店が休みになった。翌日には通常営業をしていたが、何か問題が生じたのかと、少し心配した。マスターが浮気してバレたとか(笑)


その通りであった。


 私は何も知らずに仕事してアルバイトして、優子の教育に時間を割いていたが。マスターがレストランのある市内に引っ越してくると言う話が持ち上がったことがあった。借金をして出した店である。引っ越し費用も惜しいのだろう。「安元君、手伝ってくれないか?」とほざく。私は祥子のパパの会社では信頼が厚いので、休日にトラックを借り出すこと自体は可能であった。そんな小遣い稼ぎを何度もしていたし。私は引っ越しの規模を聞いて、4トンで間に合うなと考えたので、マスターのためならトラックを出しても良いと思った。コレがトラック2台とかと言う話になると、恭介あたりも駆り出すようであったが、軽い仕事である。当日はマスターの友人が積み込みをやるそうなので、私は運転だけすればよい。それで日給2万円は美味しいアルバイトであった。なお、引っ越し専門会社に依頼すれば10万は取られるので、マスターと私でWinーWinである。運び込みもマスターの友人がやるわけで、私はトラックを停めたら遊んでいればいい。そんなマスターとの良好な関係も「浮気事件」で終わることとなった。よりによって、マスターは実登里と不倫して、挙句妊娠させたのだ。どこまでも非常識である。私の人生は少しだけ波乱もあったが、友人関係で「浮気した、された」なんて話に「女子高生を妊娠させた」などと言うヘヴィな案件は無かった。避妊もせずに女子高生とセックスだなんて、当時の「イケイケ」であった私でもしない所業である。もちろん、実登里には「妻とは別れるつもりだ」と言っていたらしい。100%嘘である。世の中の女性はこの言葉に騙されるようだが、不倫している男のセリフは羽毛よりも軽い。子供が居たらなおのことである。不倫がバレて数日後。実登里が私のアパートにやって来た。優子が連れてきたのだ。話を聞くと、マスターの旧住所の隣に住む人があのレストランの「スポンサー」らしい。なので、その旧住所を教えてくれませんかと。私は二つ返事で地図を書いて渡した。住所自体は知らなかったので仕方ない。そして、マスターの奥様が逆ギレである。まるで実登里がマスターを誘ったみたいな話になりかけていた。もちろん、浮気したマスターが全面的に悪いわけだが、世の奥様は自分の旦那さんよりも「浮気相手の女性」を攻撃したいらしい。ディナータイムが終わってから、実登里の住むマンションに突撃すると宣言した。その頃には、そのレストランのアルバイトは誰もいないので、奥様が手伝っていた状態である。実登里は私に電話してきた。「怖いから助けてっ!」だそうである。今の私であれば「頑張れっ!」とエールを送り、たまたま居合わせた優子の服を脱がし始めるところだが、当時の私はまだ「人の心」があった。用心のために、左わき腹あたりに雑誌を挟んでおいた。上からジャケットを羽織れば見えない。実登里は姉と二人暮らしであった。コレでは確かに怖いだろう。男手が居ないのだから。しかしだ、私に助けを求めておいて、何故警察にまで通報したのだろうか。私が駆けつける頃には、マンションは警官隊が包囲と言うかガードしている状態で、オートロックなので、道に警察官が溢れていた。マンションに近づけば当然だが誰何される。私は正直に「このマンションに住む実登里さんから頼まれて来たんですけど」と言ったのだが、話が通じない。「ちょっと待って。今その方と連絡を取りますから」と言われたタイミングで。


ショボクレ、登場。


 最高に笑える姿であった。浮気がバレて、しかも相手を妊娠させた馬鹿が、怒り心頭の奥様の後ろをトボトボと歩いている。私はあの光景ほどの笑いを誘うシーンにまだ出会えていない。私は奥様に睨みつけられながらマスターの前に立った。「奥さんを連れて消えろ」と言うつもりであった。しかし予想外なことにマスターが先に口を開いた。「なんで安元君がここにいるの?」それは実登里に呼ばれたからだが、私の言葉が終わる直前に、マスタの渾身の「リバーブロー」が炸裂した。本当に危なかった。雑誌を挟んでいた私の危機管理が優っていたとしか言いようがないが、それでも衝撃が背中に抜ける一撃であった。もう遠慮は要らない。先に殴って来たのはマスターの方で、リバーブローをマトモに受けた私が平然としているのを、ポカン顔で見ている。この場で叩きのめすっ!

 警官隊がいるのを忘れていた。マスターが一撃を放った時点で緊張感はMAXであった。頭にきた私がマスターに躍りかかろうとした瞬間。

 私の方が警官隊に制圧された。冗談抜きに警官に抱き着かれ、羽交い絞めされ、足も別の警官が抱き着いて離れない。一瞬の怒りをやり過ごすことになり、私は冷静になった。そこに警官隊の言葉「もう、君は帰りなさい」


仕方ないの優子が待つアパートに帰った。かなり毒気を抜かれたので、優子を車に積んで送った。抱くような気分では無かったのだ。


そしてまた平穏な日々が訪れた。マスターにはアルバイト料の2万円弱を「貸した」ままであったが、あの品の無い河童みたいな顔を見る気もしないので、回収は諦めた。相変わらず仕事は忙しい。私と恭介は「ホープ」であったから、あちこちの現場に駆り出され、それなりに満足のいく給料を得ていた。アルバイトが無くなったので、また優子が私のアパートに入り浸り出した。私は彼氏ではなく、当然優子は私の「彼女」でもない。なのに何故、優子は「勝負パンツ」を穿いてくるのであろうか?世の女性に警告したい。何と勝負するためのパンツか知らないが、赤のレースでスケスケは性欲を派手に削るので辞めた方がいい。先日、私は風俗嬢を家に呼んだ。その時にオプションで「パンティプレゼント」を追加したが、赤いレースのスケスケは、そんな場合なら効力を発揮することもある。私は性癖的な話で、赤のTバックレーススケスケよりも、やや小ぶりながらビキニではないコットン製の淡いブルーが好きだ。次はちゃんとリクエストするつもりだ。


 赤いスケスケのパンツから陰毛が透けて見えるなんて言うのは、よほどの美少女でなければ醜悪そのものである。しかも優子の体形はドラム缶である。こんなモノを見せられるとは、私の前世はきっと極悪人で、村の2つ3つは焼き払ったのだろうと得心した。世の女性よ、男が皆「露出が多いと興奮する」と思わないで欲しい。まあ相手が女性だってことだけで、鼻の下を伸ばすおっさんも多いが・・・その「女好き」なんて部分は見え見えで、軽蔑されているのに、である。女性のソロキャンパーに近づく「教えてあげるおじさん」も痴漢と同じなので、皆死ねばいい。いや、死ね。


そんなある日のことである。私は暇潰しに駅付近を車で流していた。暴走ではなく、誰か知り合いでもいれば乗せてちょっとドライブでもしようかと言う感じであった。


知り合いがいた。


実登里である。あの日から1か月以上が経過していた。実登里は私の人生からフェードアウトしたはずである。そもそも、不倫の相手にされるなんて女は願い下げである。もっと性悪がアパートに入り浸っているが、そこはまあセフレなのでギブアンドテイクと言うことで納得していただこう。どちらにせよ、優子も実登里も私の「本命」ではない。私の車は前のオーナーの趣味で、「特別塗装色」であった。早い話が目立つのである。実登里は私の車を知っているから、遠くから手を振ってきた。尻の軽い娘っ子であるが、美少女ではあるので、車を寄せて助手席に座らせた。あの「妊娠事件」のせいで浪人中である。全くもって馬鹿な男と女の話である。実登里は「お酒が飲みたい」と言う。車のままでは無理である。仕方ないので自宅アパートの近くに借りてある駐車場まで走らせて、徒歩で自宅そばの焼き鳥屋に入った。帰りはタクシーに押し込めばいいだろう。色々と話を聞いた。「スポンサー」を特定出来たそうだ。そのスポンサーの意向で、あのレストランは閉店するそうで、優子自身もかなりの慰謝料をせしめたようだ。妊娠については口が重かったが、若い身体がストレスに耐えきれず流産したそうだ。若い女性の妊娠はリスキーだと思った。過去に私も彼女を妊娠させた経験がある。確証はないが、4か月生理が無かったのだから多分妊娠させてしまったのだろう。そして流産・・・私はあの時、圭子と結婚するつもりであった。

 酔いが回った頃合いで実登里が大変なことを口走った。「安元さんと結婚したい」だそうだ。いや待ってほしい。私はたまたま出会った実登里と飲んでいるだけであって、しかもココだけの話、実登里はまだ未成年である(18歳既卒)その熱烈なラブコールは周囲の耳目まで集めてしまった。「分かった、結婚しよう」


私の人生で何回目か分からない大失態である。多分、明日にも優子がアパートにやって来る。優子と切れているわけではないのだ。しかし、セフレと、先日まで女子高生だった美少女のどっちを取るかと言う話になってしまったのだ。「どっちを落とそうか」などと馬鹿なことを考えていたこともあったが、いまは「どっちを振ろうか?」である。もちろん、私としては実登里を取った方がメリットがデカい。美少女だ。尻軽だが、会社では足軽の私とは釣り合いがとれるかも知れない。


誰が足軽だ。


 結婚云々は割り引いて考えても、多分、近日中に抱けるだろう美少女。さようならドラム缶。お前の人生はこの先も苦難の連続だがドンマイだ。と言いたいところだが、この場合は例え「セフレ」であっても情がある。優子の方が先約である。うっかり「結婚しよう」と答えてしまったが、酔ったうえでの不埒と言うことで逃げることも可能だし、先ずは優子に相談しよう。私は本当に純朴であったのだ。翌日、アパートに来た優子の舌技に悶絶した後、優子を送った。その車中で「実登里にさぁ、告白されちったよ」と軽い調子で話を開始。優子の返事は。


「おめでとう。好きだったもんね、実登里ちゃんのこと」


「洋二と付き合ってるわけじゃないから」と言う、至極ごもっともな意見である。私は車内で優子に手を差し出して「鍵」と言った。アパートの合鍵のことである。「ソレ、実登里に渡すからさ」と言うと、何故か悔しそうな顔をしながらバッグに手を突っ込んでいたが、何が悔しいのだろうか?ここで「私はどうなるの?」ぐらいのことを言えば、実登里はまた圏外に飛ばされるだけのことであったのに。私は「二股」が好きじゃない。だからこそ、優子にお伺いを立てたのだ。その答えが「おめでとう」ならば、何も躊躇う必要はない。若くてピチピチの身体を貪ろう。暗い車内で一生懸命、キーホルダーを外す優子を横目で見ていた。

 私は自由の身になった。当初の目的、「このマルチの女を抱いてやる」は達したので後悔は無い。情は多少移ったが、最後まで私は優子の「彼氏」にはなれなかったようだし。自由になればやることは一つだ。既に聞いていた実登里の家の電話番号。ココに電話すれば、浪人して暇をしている実登里を呼び出せる。今だから言えるが、当時18歳の女の子と居酒屋デートは褒められたものではないが、若さとはそう言うものだろう。実際、私だって18歳の頃から居酒屋で飲んでいた。山田と共に。

 そう、山田である。いつも金が無くてピーピー言ってる私を気遣って、飲むのはいつも安い居酒屋であった。「つぼ八」と言うチェーン店をご存じだろうか?わが県では大きな駅のそばには必ずあった居酒屋である。今はもう店も無くなったが・・・

 そのつぼ八で飲む時のルールがあった。最初に唐揚げ(ざんぎと呼ばれていた。多分本部は北海道なのだろう)と白飯を頼むのだ。大抵は「お飲み物」からの注文であるが、常連と化した私たちの場合、普通に「今日もご飯からですか?」と笑いながら店員さんがオーダーを取りに来る。若いのでかなり飲むわけだ。しかし、そこまでの金を私が持っていない。先に飯を胃に入れて飲む量を減らす作戦である。この作戦で、2人で飲んで3千円ちょいに収めていた。私は今でも居酒屋で2千円は使わないが、コレは単に酒量が減っただけのことである。


そんな頃の私であるから、18歳の少女を居酒屋に連れて行くのは当たり前であった。実登里はとっくに酒の味を憶えていたので、これまた問題はない。後日、実登里の家を訪れたら、二日酔いで寝込んでいた上に、嘔吐すると言う無様さまで見せてくれた。さて、そこそこに飲ませたところで我がアパートに向かう。もうチョロゲーであった。「安元さんと結婚したい」と言っている女である。しかも不倫と言う修羅場を潜り抜けた女だ。セックスするまでのハードルは低い。案の定、警戒心も無く着いてくる。これからセックスをするのも分かっているはずである。勿論その通りで、抱くまでに余計なムード作りは不要であった。優子と違って、多少はプロポーションにメリハリがある。コレだけで感動ものであった。ドラム缶にしがみつくのと、鶏ガラを抱きしめるのと、どちらを選ぶかと問われれば、私は今でも「鶏ガラ」を選ぶ。男とはそう言うものだ。そう、実登里は「スレンダー体形」であった。若干「痩せ過ぎ」であったし、夜のお菓子で有名な「おっぱい」も小さい。ギリギリで揉める程度の膨らみであった。実登里はそのまま私のアパートに泊まったのだが、翌朝「酔っぱらって初めてするなんて・・・」と後悔しきりであった。「酔っていない状態ならもっと楽しめたのに」だそうである。本当にこの娘っ子はお股が緩い。


 私と実登里は恋人同士となった。一応は本人同士の間に「婚約」と言う縛りまであったのだ。実登里は浪人、私は終業時間が早いので、週に3回はデートしていた。そんなに金のかかるデートはしなかった。県下では「遊ぶ場所」など限定されるものである。飲みに行くか、せいぜいカラオケである。私はカラオケは歌うのも聴くのも苦痛なので、実登里とカラオケに行ったりはしない。腕を組んで街中を散策するだけで実登里は満足していたようだ。登場人物、全員「地元民」であるから、街中でバッタリ優子と出会うことがあった。実登里から見れば、優子は私の「元カノ」で、年上の怖い女であろう。優子からすれば、実登里は「泥棒猫」である。「彼氏じゃないんだから無関係」などと言う詭弁は数日で瓦解している。驚くことに、私が実登里と付き合い始めてからも、優子は私のアパートに来た。大抵は玄関先で話をして、あとは車で送っていたが。


 ある日のことだ、何故か優子は私の部屋に入りたがった。暇をしている日だったので、話し相手程度にはなるだろうと、招き入れたら、どうも「抱いて欲しい」と言う願望を抱えているらしい。私の股間の「ワンオブサウザンド」に魅了されているのだろう。兎に角、セックスをしないと帰ってくれないようだ。そんな妖怪が東北地方に居たような気もするが、「セフレ関係」だけは維持したいと言う考えのようだ。しかしここで問題が生じた。実登里を抱いた後である。もうドラム缶では勃起しないのだ。ソレを優子がテクニックで勃たせるが、クララは勃ったがよちよち歩きである。すぐにへたり込んでしまう。なお、ハイジでは勃たない男。ソレが私である。哀しそうに脱いだ服を身に着けて座っている優子。本当に空気が重い。今更「抱いてくれ」とか、この女は何を考えているのだろうか?私にだって都合とか、好みがあるわけで。私が優子に無条件の愛情(みたいなもの)を注いでいた理由は、「マルチ商法でハメてやろう」と電話をしてきたこの女を抱くことでやり返したかったからだ。「昔の知人に50万円の借金を背負わせる商売」をしていた女にはちょうどいい仕打ちだったと思う。それだって、情が移れば「きちんとしたお付き合いをしてもいい」と思ったし、ソレを嘲笑うように「恋人であることを否定し続けた」のは優子の方である。もう、あの頃の「優しい私」は居ない。注ぐ愛情があるならな実登里に注ぐのが当たり前である。しかし優子は諦めない・・・

 そんな矢先に街中で出くわした。実登里は私の腕に掴まりながら後ろに隠れる。優子は実登里と腕を組んで歩いてる私を一瞥した後、実登里を視線で威嚇する。なんで女性はあのような時に「ビーム兵器」で戦うのだろうか?実登里も負けじと視線ビームで応戦していた。挟まれている私はハチの巣である。「仲がいいね」と優子が言う。お陰様でラブラブの毎日です。サッサとその場を離脱した。実登里は「何なの、あの人」と憤慨していた。もう切れた(はず)の女なんで気にするなと言っておいた。私と実登里の関係は順調であった。たまにメンヘラ発言をするので、そこだけが気になってはいたが。

 そして仕事で問題が生じた。私は鈴木さんの「助手」であった。市のごみ収集車では鈴木さんが「正ドライバー」であり、私は副ドライバーであった。コレは年功序列から言っても、鈴木さんが主任であると言う立場であることから言っても「当たり前」のことである。その年の春。市から「新たな収集車を増やせ」と命令があった。その新たな収集コースに鈴木さんが行くことになった。その時、「安元はもう一人前だ。この車はお前に託す。今まで通り、損な役目も受け持てよ(笑)」と言われた。鈴木さんの運転していたこの車は、本当に損な役回りばかりであった。他の収集車が車検で1日無い時は、そのコースに貸し出してしまう。鈴木さんと私は、自車が無いので、性能の低い古い車、時には収集車ですらない「2トンダンプ」に手積みでごみ収集をしていたのだ。「深ダンプ」での収集は本当にしんどい。機械がかき込んで圧縮してくれるわけでは無い。せっせと荷台に投げ込んで、一杯になってきたら一人が荷台に上がって、ゴミを整理しながら足で押し込んでいく。コレを午前中に3回も4回もやるのだ。そんな車であったが、私は大好きだった。その収集コースを完全に任されたのだ。思えば長い道のりであった。祥子の紹介で助手のアルバイトになり、社長の長女の婚約者であることでいじめにも遭った。更には婚約を破棄されて、さらなる苛烈ないじめに遭ったこともあった。全社総出で虐めて来た時も、私は自分の「矜持」を護るために歯を食いしばってきた。そしてやっと周囲から認められ、ついに担当を任された。これほどの歓びがあろうかと言う話である。しかし、問題は残った。私には「助手が居ない」のである。恭介は別の車の専属になっていたので、私の横には座らない。仕方ないので、アルバイトを助手にする毎日であった。やりくりが付かない日は、3人乗車の4トンから一人借りてくる。ここでほぼ「正規の助手」となった男がいる。皆勤には程遠い、糖尿病持ちのおっさんである。毎日出勤してくるわけでは無かったが、私の車に乗るようになって、多少は真面目になったアルバイトだ。私はアルバイトだろうが正社員だろうが気にしなかったから、固定された助手がいることに多少の安堵すら覚えた。この小野寺と言う男は、若い頃はやんちゃばかりしていたようで、身体に筋彫りがあった。そんなもんは見慣れているので気にもしなかったが、あろうことか覚せい剤に手を出した。私が車を任された4月に、新入社員で入ってきた不良が「バイニン」だったのだ。それまでは、多少変わった社員もいたが平和だった会社も、一気にきな臭くなった。小野寺は免許持ちであったので、交代でハンドルを握ることもあったが、出勤してこない日もあるので、私の負担は増えていた。そこへ持って来て「覚せい剤」である。噂で聞いたと言うレベルでは無いのだ。私がハンドルを握っている時に、いつも持ち歩いているセカンドバッグから覚せい剤の結晶を取り出して、私の飲んでいる缶コーヒーの飲み口に近づけて「入れちゃおうかなぁ」と底意地悪く笑う。「俺は安元の彼女が住んでるマンションを知ってるんだよねー」と脅しをかけてくる。早い話が、この会社で最も若く、最も信頼されている「平社員」の私を舎弟にしたいのだ。勿論お断りだが、トラブルを起こして実登里に手を出されても困る。私は数日は我慢した。たったの数日であるが、葛藤はあった。


 優子と実登里、そしてポン中の小野寺。私のストレスはかなりのもので、ある日いきなり下血した。大腸に潰瘍が出来てしまったらしい。「や・・・やだ。生理?」とかほざいてる場合ではない。血圧計で計ったら、上が50も無い。まだ意識はあるしどこかが痛いわけでも無いので、実登里を呼んで、もしも私の体調が急変したら救急車を呼んでくれと言って、その日は床に就いた。翌朝は普通に目覚めたので、会社に事情を説明して、自家用車で大きな病院に向かった。結果「緊急入院」となった。血圧が急に下がったので出血が止まったのだろうと言う見立てであった。そこからは完全絶食である。飲み物は許可されたが、固形物は一切禁止。点滴のみで栄養補給である。1週間後に大腸の内視鏡検査を行うと言われた。急変があると命に関わるので入院生活となったわけだ。実登里は毎日、午後になると見舞いに現れた。朝は起きられないらしい。酒ばかり飲んでるからだろう。そんなある日のこと。どこで知ったか、優子が見舞いに来た。コイツも午後になってやって来たものだから、見事に実登里とバッティング。火花散る病室の一角(金が無いので4人部屋である)そこへ「私は3人目だと思うから」と、かなりの美少女が登場。


「こちらに安元さんと言う方はいますか?」


室内はブリザードが吹き荒れ、室温は一気に氷点下である。美少女を見た後、実登里と優子は私を睨みつけた。


(この男は3人目にも手を出してるのか・・・しかも美少女にっ!)


私には覚えが無い。こんな美少女と関係を持ったことは無い。とにかく可愛い。黒い髪を背中の真ん中まで伸ばし、色は白くスレンダー体形ではあるが、服の下から乳が存在感を放つ。実登里も美少女だが「品格」が段違いだ。


「あ、安元さん」と、私を見て声をかけてきた。この美少女は私をしっかりと認知しているらしい。どこで出会ったか、記憶を絞り出そうとするが、やはり憶えが無い。


「恭ちゃんがコレ、持ってけって」と言いながら見舞いの品(雑誌とお菓子とエロ本)を差し出してきた。恭ちゃん?恭ちゃんと言えば私の同僚に同じ名前の男が居て、あの男はロリコンなので、確か祥子の妹と付き合って・・・


「あー、祥子の妹さんかっ!」

「もうっ!忘れたんですか。あゆみですっ!」


以前、祥子が自室で私の股間にいるハムスターを愛でている時に、部屋の扉を開けて、逃げるように去って行ったあの中3の美少女の妹さん。

 恭介め、ハズレを捨てて上手くやりやがって。ここまで美しくなるとは思っていなかった。私の人生で付き合った女の子さんランキングでも上位に入る容姿である。しかも「ご令嬢」の品格まである。私は失言をしたことに気付いていなかった。この状態で4thチルドレン「祥子」の名前まで出してしまった。(この男、まだ祥子と切れてないのか?)と言う仄かな疑惑、冷えた眼差しを添えてと言うメニューを注文したようなものであろう。疑惑は早々に晴れたが。「恭ちゃんが心配してるよ。早く元気になってねっ!」と、世界でこれほどまでに健全な女の子さんがいるのかと思うほどの鮮やかな去り際であった。


考えてみれば、この妹さんも初体験は中学時代で、ロリコンの餌食か。


様々な問題を孕む人間関係だなぁ・・・みつを


病室を一陣の涼風が駆け抜けた。しかし事態は好転していない。端的に言えば、私を諦めきれない元カノと、今カノが鉢合わせしているのだ。強風の中、空に舞い上がるゲイラカイトのタコ糸のような、いや、薄氷をスケート靴で踏むような緊張感は緩んでいない。しかし、数分後、「ふいっと」優子が病室を出て行った。良かった、前カノ鉢合わせとか無かったんだね。

 そして元気に帰ってくる優子。「洋二はコレの方が好きなんだよねっ!」と、缶コーヒーのジョージアを買ってきた。このアマ、床頭台にある「ボスの缶コーヒー」を目ざとく見つけやがった・・


 入院生活はちょうど1週間で終わった。内視鏡検査は激痛であったが、診断では「異状なし」であった。退院後、1日休んですぐに職場に復帰した。私が居ない間、小野寺が私の担当車を転がしていたそうだ。そうだ、この馬鹿のけじめを付けておかないと駄目だな。ポン中仲間は増えていた。まだ若いとも言える、頭の悪い社員もポン中になっていた。そして、暑い盛りに車を水場に引きずり出して洗車までしている。ポン中は「じっとしていられない」のだ。暑い中、瞳をキラキラさせながら車を洗っている。このような行為は私の立場を悪くさせる。アルバイト助手の小野寺が洗車までしてるのに、正ドライバーの安元は何をしているんだと、上司は思うであろう。シャブ喰ってるから動き回ってるだけである。私は事務所に行って、小野寺が覚せい剤に手を出していますと報告した。もちろん社長に直接である。等々力さんも「そう言えば小野寺がトイレに入った後は変な臭いがする」と、追討ちとも言える証言をしてくれた。「炙り」で吸引していたのだろう。社長は「ちょっと待っててくれ」とだけ言った。市の委託を受けている以上、違法行為、しかも薬物などはご法度である。私は安心してその日は帰宅した。そして翌朝のことである。

 私の車が無いのだ。聞けば、小野寺の運転で収集に出たと言う。正ドライバーは私なのにである。ほんの少し、多少はかなり腹を立てながら事務所に飛び込んで抗議する。社長が言うには「小野寺本人はシャブなんかやっていないと言ってる」だそうで、そりゃそうだろうよ、てめえから「僕ちゃんポン中でーすっ!」とは言わないだろうよ。私は呆れ果てた。挙句、大事な収集車をポン中に持って行かれたのである。社長は立ち尽くす私に「まあ座れ」と言った。なんだよ、助手がポン中でも仲良くやれってか?飲み物にシャブを混入されそうになってるんだぞ。あの馬鹿を今度乗せることがあったら、有無を言わさず本署前で下ろすぞ。社長は黙って聞いていたが、「でもなあ安元。相手はアルバイトとは言え先輩だ・・・」


皆まで聴かず、私は事務所の小さな応接セットのテーブルを蹴りあげて「もう辞めた、くだらねぇ」と言って、振り返りもせず自家用車を荒々しく発進させた。


翌日から出社しない、電話にも出ない。もう辞める会社だ。祥子との婚約云々はあったが、私なりに筋は通した。恩返しだって少しは出来たと思う。


 挙句の仕打ちがコレか。

会社に未練などあるはずもない。


仕事を辞めた。

 しかし会社側は非常に諦めが悪かった。毎日、私のアパートのドアチャイムを鳴らし、電話はうるさいのでコードを引っこ抜いた。その後のやり取りは全て手紙で行った。退職金等の話があるので、「辞めます」だけで済ますのも惜しい。私があっさりと「辞める」と言う選択をしたのは、この問題が孕む危険性を知っていたからだ。小野寺は反社会的勢力の使いっ走りにその身を落とした。糖尿病の身体で週に3~4回も出勤してくるだけなら、ソレは「褒められてもいい」ほどの勤勉さであっただろう。だが、安易に金を稼げる「シャブのバイニン」と言うアルバイトを始めれば、単なる「卑劣な犯罪者」でしかない。

 例えばの話だ。もしも私が辞めなかった場合、小野寺は私の車を下ろされるし、「薬物常習者」と言うことで早々に解雇されるであろう。そうでなければ私が会社で仕事に専念できるわけが無い。そのくらいは会社も織り込み済みであっただろうが、相手は反社である。解雇されれば「逆恨み」もしてくるし、私の大事な恋人の住所を知ってると脅してくるくらいだ。どれほどの卑劣な手段を使ってくるか分かったものではない。現に、数年後の小野寺は薬物常習で逮捕され実刑が下った。初犯で実刑は非常に珍しいパターンであるから、多分過去にも前科があったのだろう。そして、出所してきて恭介を脅したらしい。「金を貸せ」と世迷いごとをほざき、挙句「〇〇組に知り合いがいるんだよね~」だと。この男は本物の「馬鹿」だ。イマドキ(当時でも)ヤクザの「ヤの字」を出すだけで警察が喜んで検挙しにくるのに。私はサッサと辞めた。反社とはそこまで質の悪いクズである。最後は野垂れ死にであった。糖尿病は「お薬」で悪化。更には刑務所で半年ほど過ごし、出所してきても雇う会社は無い。市の福祉課も相手にしてくれない。「慈善病院」で死んだと聞いた。田舎にはまだ「慈善の心」で経営している病院がある。保険証が無くとも病状が悪ければ収容してくれる。治療費は後払いだ。そんな病院であるから、医療のクォリティは低め。コレは精神病院にも言えることだが、少なくとも精神病院は患者を殺したりはしない。

 

 私は事務所で応接セットのテーブルを蹴り上げた翌日には鈴木さんの家を訪れていた。もう辞めること。今まで世話になって非常に感謝していること。その他、積もる話はあったが、2時間半ほどで辞去した。「これからどうするんだ?」と心配してくれたが、取り敢えずは運送業にでも挑戦してみますと答えておいた。実際のところ、私の強みと言えば「トラックを転がせる」ぐらいのことしかない。ただ、それまでのハードワークで若干の疲れがあったので、パチンコ店でアルバイトをすることにした。私一人なら十分に暮らせると思ったのだ。そして実登里が私のアパートに転がり込んできた。実家にいるよりは、好きな男と暮らした方が気楽であると考えたのだろうが、コレが甚だしく迷惑であった。実登里はあの妊娠騒ぎで心を病んでいたのだ。今で言う「メンヘラ」である。メンヘラは魅力的に見えることが多く、故に被害者も多いだろう。可愛い子が多い。いや、不細工なメンヘラは社会からの圧力で早期に矯正されるか、死ぬようだ。

 メンヘラにだけは手を出してはいけない。本当に危険な人物なのである。私の帰りが遅い日が続いただけで包丁を持ち出してくる。「よーちゃんが好き・・・」と泣きながら包丁を向けて来る。「好きだから、私のモノのままで死んで。私もあとから逝くから」みたいな、三文小説みたいな芝居を演じる。そう、アレは100%「お芝居」なのだ。狂った頭で考えた、自分を護るためのお芝居。お芝居だからと言って、刺さないとは限らない。いや、「完全なお芝居」にするために、容易に刺してくる。刺されて死ななければ御の字。こんなメンヘラちゃんが人を刺して殺しても、どうかすれば執行猶予まで付く。

 私は、あの時は「いかに実登里を愛しているか?」と言う話を、毛沢東よりも雄弁に語った。説得に失敗すれば死ぬかもしれない・・・


 そしてこの時の私の愛の言葉が実登里を突け上がらせたようだ。「私はこのままでいい」と。取り敢えずは生活できる稼ぎはあったのだが、実登里を養う余裕はない。そして実登里は働く気が一向にないようだ。そもそも実登里は「浪人だが受験生」である。私はこの実登里と言う女に加速度的に幻滅していた。実登里は「誰かを馬鹿にすることでアイデンティティを保つ」女であったのだ。私は今でも憶えている。実登里の通っていた高校には身体障害者がいた。その子の話を嬉々として語るのだ。「ボタンを自分で留められないから、シャツのボタンがパッチン留めなのっ!」(スナップボタンのこと)コレを何度でも言うのだ。姉妹の二人暮らしを心配して母が故郷から出て来て、生計の足しにとパートに出れば、その会社の社名を小ばかにする。ちょっとユニークな社名ではあったが、取扱品目が容易に想像出来る「良い社名」であったのだが、語感の響きが面白いのであろう。この発言も繰り返される。私の愛情を信じているから、「いてもいなくても良い」と考え始めたのも納得がいく。私はパチンコ店でアルバイトをしていた都合で、遅番の日は帰宅できない。最終バスが出た後に仕事が終わるからだ。仕方が無いので「寮」を借りることにしたのだが、やはり自分のアパートに帰りたい日だってある。そんな時は2時間歩いて帰宅するのだが、実登里は「なんで帰ってくるのよっ!」と怒る。このアパートは私が家賃を払っているのだが?

 寝る時は1つのベッド。ここでも実登里のメンヘラ精神が爆発。もう会話の内容など憶えてはいないが、こっちの頭がおかしくなるような思考を垂れ流す。そのたびに私は壁に頭をぶつけて冷静さを保ったものだ。それでもまだ愛はあった。

 閉じ籠りっきりでは精神衛生上良くないと思い、休日のデートはなるべく遠出をしたものだが、ある時、市の中心部を歩いたことがあった。大きなオフィスビルに明かりが灯る時間帯。実登里は「こんなオフィスで働きたい」と言っていた。もう私には分かっていたことだが、実登里は馬鹿であった。そこそこの偏差値の高校に通っていたので誤解していたが、頭の中身は並み以下であった。知識はあっても全て中途半端。入り口だけを知って全てを知った気分になるタイプで、私とは真逆であった。とてもじゃないが一流会社のOLにはなれないだろう。そんな折も折り。勤めていたパチンコ店が売却された。トップが入れ替わったのだ。3か月ほどでわたしはリーダーシップを執れるようになっていたが、ソレが新しい社長の目には「面白くない」と映ったのであろう。私が閉店後の掃除等を仕切り、就業5分前に整列をさせたら「時間いっぱいまで働け」と𠮟咤された。どこの店でもこの「終礼前の5分」は主任や班長の訓示を聞くために整列して待つものだ。もう「何でもいいから言いがかり」を付けて、ソレで辞める社員やアルバイトをピックアップしたいようだ。当然だが、私はこの日に辞めた。こんなヒステリー持ちの若い韓国人に従っても、ろくなことは無い。辞めて帰宅すれば今度は実登里がヒステリーを起こす。「よーちゃん?愛してるってだけじゃご飯は食べられないのよ」だそうで、ソレはまぁ働いてから言ってくれるか、居候。もう同棲相手ですら無い。そりゃ、性欲があれば抱いたが、かなり雑に抱いていた。メンヘラはそんな抱かれ方も「ご褒美」に感じるらしく、いや、「抱かれる=必要とされている」と言う思考回路だろうか?雑に抱いてはいたが、実登里が気持ちよくなれるように工夫をすることも多かった。幻の退位「スーパーバック」を編み出し「だめ・・・これ駄目…頭がおかしくなるぅっ!」ぐらいのセリフは言わせた。妊娠事件があった子なので、キチンとコンドームを装着していたが、射精するのは実登里の口内であった。逝きそうになったら実登里の口にねじ込むのだ。コレが酷い扱いでは無かったのは、疲れで「高まってはいるが射精出来なかった時」に、実登里が不機嫌になった事で分かった。


 さっさと運送会社に職を決めた。ここはまたウルトラハードな会社で。当時は普通免許で4トンまでは乗れた。当然だが「4トンドライバー」に応募してくる者はトラックの運転が出来て当たり前である。それもかなりの上級者でないと勤まらない。私は最初から「長距離の用車」を与えられた。大型、つまり10トン車が嫌って積み残した荷を運ぶ役割である。荷室には「かご台車」で詰み込むのだが、10トンなら16台の台車が入る。この台車の数で収入が決まるので、パレットに積まれた荷物は残していくのだ。コレが孫請けの実態である。その半端な荷物を私が4トン車に積んで運ぶ。決まったコースなどは無かった。今日は金沢、明日は愛知とあちこち飛ばされ、ついには「帰庫無用」となった。もうお前は自分で荷物を探せと言われた。例えば松本に荷物を運ぶ。空荷で走ると軽油代も高速代も自腹になるので、仕方ないから松本で荷物を積む。その荷物が地元向けであればいいのだが、そんな都合の良い話は無く、今度は山形まで走る。山形でまた荷物を積んで、今度は大阪である。1回出ると1週間は帰れないなんてことはざらであった。4トン車には「仮眠ベッド」が装備されてるので困ることは無かった。シャワーはターミナルにあるので使わせてもらった。温かい飯が食いたければ、社食も使えたものだ。当然だが月給は跳ね上がる。かなり稼いでいたが、全部実登里に手渡していた。お小遣いすら貰えない。なんで引きこもりの浪人がそこまで金を欲しがるのか分からなかったが、エアコンを買ったり、寝具を高いモノに入れ替えたりと、「巣作り」に余念が無かったのであろう。私はお小遣いも無いので、会社に言って2~3万円は別途で支給していただいたが、それでも足りない。当たり前である。ずっと走ってるので、食事はコンビニの弁当ばかりだし、飲み物だって安くはない。運転席の横の小物入れにミネラルウォーターのペットボトルを差し込んで飲んでいたが、そんな程度の節約は焼け石に水であった。仕方ないので、地方でドライバー仲間に会えば借金を申し込んだ。「安元も大変だな(笑)」と言いながら数万円は貸してくれる。当然だが次の給料で返すことになるが。この借金も実登里の怒りを買った。もうどうすればいいのやら・・・


 たまに地場の「配達」に回されることもあった。こんな場合は数週間単位で地場回りとなる。やっとマトモに帰れるようになれば、実登里は不機嫌だ。いや、基本的に不機嫌な女で、たまにフレンドリーになる感じ。しかし、その「フレンドリー期間」がまた迷惑なのだ。朝早く家を出て、仕事はトラックの運転である。当然だが「寝不足」は避けたい。しかし、フレンドリーでハイになった実登里は、深夜のテレビを観て、私を起こしに来る。書いていなかったが、実登里が不満ばかり漏らすので、1DKの賃貸から2LDKの賃貸に引っ越していた。


 明日は5:00起きだと言うのに、深夜の2時に「よーちゃん、テレビ観よーよぉ」と、身体を揺さぶられるとかなり殺意が湧く。誰のためにこんなしんどい仕事をしてると思ってるんだ、と。もういいから出ていけと言いたくもなるが、実登里は「男と勝手に同棲を始めた」と言うことで実家を勘当されていた。行くところが無いのだ。

 私も文句たらたらであったが、やはり愛情は残る。実登里がどう考えてるかは知らないが、愛が無ければ出来ない暮らしであった。


その同棲生活もあっさりと終わりを迎えた。


 「クリスマスイブ」と言えば恋人たちの夜である。私は長距離であちこち走っていたが、その日は無理やり帰庫した。幸い、隣の県に荷を下ろしたので、そのまま空荷で帰庫したのだ。このぐらいはいいだろう。そして、イブの朝に帰宅した。実登里もそれなりに喜ぶだろうと思ってドアを開けたら、そこには出かける支度をした実登里が立っていた。「どうしたのっ!」と言うので、イブだから帰って来たと告げる。実登里は「お姉ちゃんとクリスマスケーキを作る約束があるから」と言って家を出て行った。ケーキがあるなら、後は料理だろうと、私は下手糞ながらもチキンレッグの照り焼きを焼き、サラダを用意して実登里の帰りを待った。姉とケーキを作ってるにしては随分と帰宅が遅い。実登里が帰ってきたのはもう暗くなってからであった。手にはケーキの入った容器を持っている。遅かったじゃないかと言いながらケーキを見ると、ソレは市販のスポンジに生クリームを雑に塗っただけの物であった。「どういう事だ?」と問い詰める。当たり前だ、一応は同棲しているのだ。自分の予定を優先したこと自体は構わないが、どう考えてもこのケーキは「やっつけ仕事」でしかない。実登里はブスったれた顔でテーブルのチキンを見る。「あー。よーちゃんが作ったんだぁ」と大袈裟に褒めようとしたその時。婚約指輪の代わりに渡してあった、私の母の形見のエメラルドリングが無い。祥子との婚約指輪は売り払って飲み代にしたので、実登里のような小娘には分不相応だが、エメラルドを渡したのだ。


 流石に問い詰めた。さっさと家に行って取り返してこいと。しかし実登里は微動だにしない。「何よ偉そうにっ!」はい?「あんな指輪、ホテルに忘れてきたのよ。どうでもいいでしょあんな指輪」さて、私は母の死をこの世の終わりのように悲しんだ記憶はないが、それでも「形見」は大事にしていた。あの指輪が私の母の形見であることは実登里だって知っている。ソレを「あんな指輪」とは、この女は心がねじ曲がっている。ソレに「ホテル」だと?

 「他の男とデートしてたのよ、悪い?」そうか、悪いとも思えないなら私たちはもう終わりだ。さっさとそのホテルとやらに行って、指輪を取り返してこい。私は真冬の中、実登里を外に叩き出した。そのまま実登里は帰ってこなかった。25日は夕方からまた長距離に出る。帰宅は大晦日になるだろう。そんな置手紙を残して私は家を出た。

 大晦日に、ちょっとした土産を買って帰宅した。テーブルにはイブに用意したチキンとサラダが乗ったまま。そして部屋にあった金目の物が全て消えていた。家電品など、何も残っていない。当時は私も多少はオシャレに気を使っていたが、その服も、上着の類が1着も残っていない。シャツや下着、防寒ジャンパーは残っていたが。

 次の男のところに行ったのだろう。もういいやと思えた。仕事も、もう無理をしてしんどい思いをしないで済む。私は残された給料で1か月ほどその賃貸でオナニーをしながら過ごした。他にやることが無い。テレビもビデオも無いので、コンビニで買ったエロ漫画だけがおかずである。酒ばかり飲んでいた。もうどうでもよくなったのだ。そしてある日、私は急に思い立ち、部屋を掃除した。もうこの部屋も出て行こう。弟が保証人であったが、迷惑をかけることになる。しかし、もう私は誰も信用していなかったのだ。ただ、退去費用にしても、大きな負担にはならないように掃除だけはきちんとしておいた。財布には2万円があるのみである。この2万円があるうちに次の職、しかも「寮がある職」を探さないとなぁ。こんな場合、パチンコ店がセーフティーネットになる時代であった。私は駅前のパチンコ店の壁にあった「社員募集中」のポスターを見て、近くの喫茶店で履歴書を書いた。写真は撮らなかった。面接で落ちたら無駄金である。最悪、また雀荘にでも転がり込むつもりであった。


幸いなことに、そのパチンコ店で雇ってもらえることになった。「いつから来られる?」と尋ねられたので「今日の遅番からでも大丈夫です」と答えた。ならば出て来いと言われた。寮もあてがわれた。私はこの店で適当に仕事をして貯金しようと考えていた。貯金があればまたアパートを借りることが出来る。パチンコ店の寮は「下宿」みたいなもので、プライバシーのへったくれもないので好きでは無かった。


 遅番のリーダーは店長の飼っている「班長」であった。ただ、最初はアルバイトリーダーの指示に従うように言われた。私の「パチンコ店店員生活・セカンドシーズン」が始った。


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