第8話『木の章』

養父のことを書いておこうと思う。母がキャバレーのホステスをしている時の「支配人」であり、既婚の2児の父であった。私が言うのも汗顔の至りであるが、母は美人であった。そして「魔」とも言えるような魅力を兼ね備えていたのだろう。息子である私にはその「魔性」がどれほどのモノであったのかは知りようがない。家族にとっては母でしかない。家族を「異性として意識」することは滅多にないであろう。ただ、私にも「魔性を感じた女性」はいるので、養父を狂わせたと言うのも合点がいく話だ。

 養父は不倫の果てに家を出て、私の母と同棲を開始した。このあたりの事情は、ここまで読んできた読者さんは知っているだろう。弟の「実の父」であることも含めて、だ。

 さて、ここまで書いてこなかったことが多い。養父に関しては「暴力的で、仕事はヤクザ崩れそのもので、刑務所にも入った」ぐらいの話しかしていない。『木の章」を書くにあたって、養父の素行にも触れておこうと思うのだ。「木の章」を過ぎると、この男の出番は極端に減る。養父は先妻が離婚を認めないので、民法で定める相当な期間を「別居」と言う形で過ごしていた。当然だが、私の母とは「内縁の関係」ですら無かった。民法では「内縁関係も婚姻関係に準ずる」と言う規定があるので、先妻が離婚に応じない以上は、「内縁関係も重婚」となる。同棲相手と言うだけである。水商売のシンママと「反社の男」の同棲で、妻の連れ子がいる。これはもう「虐待死」と言う案件によく見られることだ。連れ子のある水商売のシンママと「結婚に踏み切る男」は少ない。大抵は同棲の関係で終わるものだ。シンママと言う「メス」を抱きたいだけの男であるから当たり前。飽きたら男はふらりと消える。稀にシンママの連れ子を殺すキチガイがいて、大きなニュースになるのだが・・・

 私は「不登校児と不良」は、その生活圏で繋がることが多いと書いた。「クラスタ」と言うことだ。不登校クラスタには、やはり不良の素質があったり、境界知能であったりサイコパスである子供が多い。同じ不登校児でも、「引きこもり」ならば悪に染まることも無いが、家族にとっては地獄であろう。幼い頃はいいが、長じて20歳のニートともなれば、もう母親だけでは制御不能であろう。

 同じことが「シングルマザー」にも言えるのだ。私は常々、何故「我が子を殺すような男と暮らし始めるのか?」と言う理由を考え続けてきた。結論としては、「シンママ・クラスタ」と「ダメ男・クラスタ」が重なるからではないかと結論した。養父のことを書く前に、多少はこの世に対する私からの「メッセージ」も贈りたい。コレを読んだ人がどこかで思いだしてくれたら、誰かに伝えてくれたら、被害者が減ると思うのだ。

 シンママの経済事情がある。前夫がきちんと「養育費」を支払ったとしても、その金額では生活出来ないから働くしかない。離婚となった事情には触れない。当事者にしか分からないだろうから。多くのシンママは経済的に苦しいわけだ。女性が手っ取り早く金を得るなら水商売と言う時代は終わったが、それでも幼い子がいれば「時短勤務」や「非正規雇用」を選ぶしかない。意外に思うかも知れないが、「時短勤務」では時間に余裕が生まれる。生活に費やす時間が多いので時短勤務をしているわけでは無いのだ。多くは幼い子の「保育園の送り迎え」のために出社時間が遅く、退勤時間は一定になる。つまり、「送り迎え」だけのために「拘束時間」を減らしている。確かに「育児そのもの」にもかなり時間を取られるが、やはり正規雇用者と比較すれば自由になる時間は多い。ストレスの大きな生活である。息抜きに「外で飲む」こともあれば、子連れで外食をすることも多いだろう。ここで「ダメ男」との接点が生まれてしまう。水商売で稼いでいるならば、もちろん仕事自体が接点であろう。「駄目な男」と言うものは、酒場にいたり、羽振りが良いように「見える」ものだ。概してその手の男は、最初は優しい。目の前のメスを抱くために、思ってもいないことまで言うだろう。金だって最初は出すだろう。その優しさにほだされて一緒に暮らすようになる。コレが全ての根源である。


例えば、非正規時短雇用でも、行政の手厚い支援を受ければ生活は出来る。贅沢は出来ないが生活は出来るのだ。我が子を「私立に入れたい」などと、分不相応な考えを持たなければいい。そして、真面目に仕事をしていれば、また「マトモな恋愛」だって出来る可能性がある。そもそも、子がいるシンママは「1度は結婚出来た」程度には魅力があるだろう。恋愛に支障があるとは思えない。連れ子がいると言う点を「ハンディキャップ」と考えるならば、これはまた別の問題を孕むが。人は「易きに流れる」ものである。真面目な交際を経て再婚するには相当のエネルギーを要するだろう。しかし、酒場で出会った男は「シングルマザーに理解を示す」振りをして、優しくて羽振りが良い。だから騙されるのだ。

 もう一つ、シンママ側の問題に「恋愛体質」とでも言えばいいのだろうか?「私だってまだ女よ」と言う考えである。シングルマザーは「女ではない」のだが、勘違いをする。シンママが「恋愛にかまけていい」のは、相手の男がマトモであり、連れ子に対しても愛情を注いでくれる場合だけだ。でなければ、いっそのこと子を捨てればいい。私の母は後者であった。不倫と言う熱情を費やし、やっとものにした男と暮らし始めた。私はこの母の行いを非難する気は無い。ただし、肯定もしない。私の母はそうだったと追認しただけだ。

 「シンママ・クラスタ」と「ダメ男・クラスタ」に接点がある。仕事によっては接点どころか、クラスタが重なってしまう。この問題を解決しないと、今後も母親の同棲相手の男が子を殺す事件は続く。逆は無いと思うだろうか?つまり、シングルファザーの連れ子を、同棲相手の女が殺すことと定義するが、実際に「ある」とだけ書いておく。殺さないまでも、夫の連れ子にひどい扱いをする女性は多いのだ。


さて話を戻そう。


私が15歳の頃、やっと先妻との離婚が成立した。それまでは別居の費用まで養父・・・と呼ぶのも業腹であるから、「大澤」と呼ぶことにする。その大澤は別居している妻の生活費を払うために、キャバレーの運営会社で努力を続けていた。「真面目に働いていた」わけでは無かろう。所詮は「ヤクザ崩れ」のような男だ。会社に奉公していただけである。しかし、離婚が成立し、それなりの慰謝料を払うために、大澤は会社を辞めて退職金で充当したようだ。「常務」であったので、慰謝料を支払ってもかなりの額が手元に残ったのだろう。大澤は退職でしょぼくれるどころか、むしろ清々としたようだ。残った金で「独立」をした。つまりは個人事業主である。母も経済的に楽になったので、キャバレーを辞めて自分の店を持った。


大澤は先ず、自分の「人脈」をアテにする形でスナックを始めた。あの世界は特殊で、「客を融通し合う習慣」があった。早い話が、「金づるになる客」は掴んで離さないと言うことだ。そのスナックはそこそこに繁盛したようだ。家族4人(私も家族に数えれば)が暮らせる程度の収入にはなったはずだ。しかし大澤は更に欲をかいた。「客が着いてくる」と過信して、隣駅の駅前、ホームから見える場所に「レストラン」をオープンした。ここは「ステーキハウス」であったが、クォリティも高く、地道にやっていれば上手くいったかも知れない。立地も良く、ステーキは昨今流行りの「いきなりだったりフォルクすったりしてる店」よりも美味かった。シェフを引き抜いてきて、それなりの金をとる店であったから当然である。この店は、大澤のワンマン経営に嫌気がさしたスタッフが辞めたことで畳むこととなった。勿論、店を畳めば残るのは借金だけである。ココで凝りてくれればまだしも、大澤は「パトロン」を見つけて出資させ、驚くことに「クラブ」と「バー」を開店させた。実業家になったのである。立派なモノである。

 「クラブ」と言っても、写真とかサッカーではない。地方都市に「銀座クォリティ」のクラブを開いたのだ。店の内装は磨いたガラス玉のようにキラキラしていたし、でっかいシャンデリアまでぶら下がっていた。私は何度かその店に届け物をしに行った。応対してくれるホステスは相当な美人であったし、店を任せていた店長はかなりの外道であった。まあヤクザだな、アレは。大澤は最初に開いたスナックと、新たにオープンさせていたバーの経営をしていた。していたのだが、やがて店に近づかなくなり、「実業家らしい」振る舞いをするようになった。遊んで歩いていたのだ。たまに「金を持ってる客」を自分の店に連れて来て「大事にしていた」ようだが、所詮はヤクザ崩れの山師である。マトモな金持ちは相手にしてくれなかったようだ。大澤のパトロンはクラブの方で毎晩のように遊んでいたようだ。「自分の店」みたいなものだから当たり前である。よそで飲めば金がかかるが、大澤の店で飲めば無料だし、損失も「仕入れ値」程度で済む。

 しかしこの栄華も長続きはしなかった。1年もっただろうか?結局はクラブもバーも閉める羽目になり、今度はステーキハウスとは比較にならないほどの借金を作った。最初にオープンさせたスナックが残っただけだ。可哀そうなのはスポンサーである。詳細な金額は知らないが、チラっと聞いた話では2億を超えていたそうだ。この頃からである。母と大澤が夜中に喧嘩をするようになったのは・・・


大澤は店がまだ順調に見えていた頃に発行された「小切手帳」から空手形を切りまくって凌いでいたようだ。当然、支払日に金がるわけがない。本当に順調だった母の店の「売り上げ」をアテにするようになった。当然、喧嘩になるだろう。この頃の私の役目は、家にかかってくるサラ金の電話を受けて「今は居ません」と言うものだった。サラ金で借りることが出来る金額などはたかが知れている。多分、数百万円でリミットであっただろう。大澤は自分の名前を偽って、多重債務までやっていた。パトロンはいい面の皮である。億を軽く超える金は返してもらえないわけだ。大澤の「営業トーク」に騙されただけである。ある日、母が「ちょっとKさんのところに行って来て」と私に命じた。「Kさん」とは、パトロンのことである。私は訳も分からずに、隣の市にあるKさんの会社まで行った。応接室でKさんに「大きくなったな」と、茶飲み話をして帰って来ただけだ。しかし大澤の反応が激烈であった。


「お前はKさんのところに金を借りに行きやがっただろうっ!」と言うことで、マトモに正面から数発殴られた。事情なんか知らなかったのだが・・・


結局、この数億の借金は返済しなかった。


そして毎晩のように母と喧嘩をする、金を出せの出さないのと。大の男が妻の金をアテにするようじゃお終いだ。このストレスを私にぶつけてくるからたまったものじゃない。飼い犬のボスが死んだ時だって、ストレスから逃げるために「犬の散歩」と言う現実逃避からの「犬殺し」である。ソレを私のせいにして木刀で殴るなど、畜生以下である。私が家を出ると決断した背景にはこんな事情もあったのだ。大澤も母もいない隙に、食器と、家にある米を全部と保存食を持って家を出た。


不安など無かった。家を出れば自由になれる。ただそれだけであった。


アルバイトは辞めた。母が知っているバイト先だったから当然であろう。しばらくは家賃もかからない生活だし、1か月以内にどこかに就職してしまえば、もう家に帰る必要も無いのだ。預金額は20万円ほどであった。他に財産と呼べるのはオートバイだけである。今思えば不安しかない船出であるが、若さとはやはり「無謀で素晴らしいチャレンジ」を出来ることであろう。

特に何の感慨も無かった。ふらっと家を出る調子で、ただ「帰らない」と心に決めていただけだ。リュックサックを背負って、私はいつもの喫茶店で先輩を待っていた。アルバイトを紹介してくれた先輩で、この先輩の兄弟の誰かが「公務員住宅」を借りたまま、住まずに放置しているのだ。その住宅と言うか、一括借り上げの団地のような建物に私は入る予定である。「使わないから洋二が住めよ」とのことであったから、渡りに船であった。家賃は要らないから、掃除ぐらいはしてくれよと。喫茶店のピンク電話から電話をしたら「そこで待ってろ」と言う。何やら準備が必要らしい。特に気にも留めず、いつものコロンビアコーヒーを飲んでいた。夜も更けてくる頃である。いつもの仲間は居ないし、山田は見つけ次第駆逐するつもりであった。確実にあの野郎は私の新居をたまり場にする。たまり場にするくらいなら暇もまぎれるが、ラブホテル代わりに使われるのは困る。私も混ぜてくれるなら歓迎であるし、この際だから山田のファン(驚くことに山田にはファンクラブがあったのだ)から女の子を分けてもらうのも悪くはない考えだ。私にはファンクラブが無かった。いや、一応は「私を狙う女の人」も何人かいたが、ソレはライブ関係の「お姉さま」たちであり、お世辞にも「若い」とは言えなかった。今思えば何と贅沢なことであろうか?私は30歳近い女性は「老婆」ではないかと思っていたのだ。休日に付き物のアレである。老婆の休日は、ビジュアル系バンドのボーカリストの名前を叫ぶことで始まるのである。私にも何を書いてるのかよく分からなくなったが、少なくとも「女に困る」ことは無かった。女「で」困ることはあった。1つ下の女の子は、私が通っている喫茶店に現れるようになって、ある日花束を持ってきたようだ。「安元さんに贈ってください」と言い残して帰宅したらしいが、後で訊いたら「そんなこと・・・してないからぁっ!」とほざく。いや、マスターが受け取ったんだぞ、嘘を言う人ではないぞ?


まだ家に居る間は高校3年生(2回目)の時のカノジョが毎日電話してきてウザかった。割と可愛いタヌキで、おっぱいがデカかったので、1回ぐらいは抱いておけばよかった。私は「男」にもモテモテであった。「やらないか?」と言われるような関係ではないが、私を慕う野郎どもは多かった。この点で山田とは棲み分けが出来ていた。山田の持ち駒は「女の子」であり、私の持ち駒は「やんちゃそうな男」である。カップリングさせたりしていた。今思えば非道い話だが、山田はモテるので、恋人をとっかえひっかえと言うか、2股3股は当たり前。飽きると私に払い下g・・・紹介してくれるのだ。ファンクラブから引っ張ってきた子だから、申し分なく可愛い。おこぼれに預かりながら、私も飽きたら誰かに押し付けt・・・紹介してあげた。

 山田がどの程度「女性の敵だったのか?」はよくは知らない。私は私の事情で野郎どもが集まってくるので、この野郎どもの事情はよく知っている。私は峠を攻めることから引退し、街乗りを楽しむようになっていた。この分野では山田が偉い人であるが、テクニック的に私の方が上なので、自然とグループの先頭を私が走るようになった。山田は対向車線を走って来て私に並んでは、クラクションを鳴らされて隊列に戻っていた。当時の私は舗装路で後輪を滑らせることが出来た。あくまでも雨上がり限定であるが、路面が滑るなら滑らせておけと言う考えである。元はオフロード、林道を走っていたので「滑って当たり前」である。絶対に前輪は滑らせなかったが、それは単純に事故を起こすからである。街中を流す仲間の入れ替わりは結構あった。大抵の理由は免許取り消しになってバイクを降りたり、事故で大怪我をしたりである。新入りは随時である。敵対していた「族のにーちゃんたち」も、私に恩義を感じて加入したりしていたのだ。あくまでも「仲間」であり、「グループ」のように組織だったものではなかった。緩い繋がりであり、国道を流しているといつの間にか後ろにいたり、伴走して来たりである。「族のにーちゃん」と揉めたのは山田である。本当に山田だけは段ボールに詰めて北朝鮮にでも送るべきであった。


 人は時の流れの中で穏やかになるものだ。私のような、まるでウサギのように大人しい男も、更に丸くなるわけで、愛車を山田に譲った。山田は大喜びであった。あ、そのバイク、危ないからなっ!


私はと言えば、もう2ストロークでぎゃんぎゃん言わせることにも疲れて来て、たまたま先輩が「要らないデカいバイクがあるけど、買う?」と言うので、二つ返事で買い受けた。免許、無かったけど。そのバイクはあちこちにボロがあるもので、3万円で買えた。タンクの青は色褪せていて、マフラーの付け根には穴開いていて、素晴らしいサウンドを奏でてくれた。運転してると真下から騒音が出てるので、直管よりもうるさい(笑)シートも穴が空いていて、雨の翌日は尻が濡れた。女の子の股を濡らすのは得意だが、自分の尻は濡らしたくはないものだ。男として。

 そこは幅広い人脈である。私の知人には「廃車寸前のバイク」を無料で引き取って来て、直して売ってる、今で言えば転売ヤー(バイク専門)がいた。ソイツに声をかけたら「2万円」と言う。いや、お前に売るつもりはありませんが。そうでは無くて、それなりに「見られるようにレストア」する費用だそうだ。どうせパーツは無料か、盗んでくるのだろうと思ったが、約束をたがえる男では無かったので預けた。


そんなある日のことである。アレがまだ家出前か後か、多少の記憶の混乱はあるが、家出の時にはもうTZRでは無かったので、大体家出前後の話である。山田が市内でも割と有名な族の兄ちゃんとバトルして、相手のバイクがお釈迦になった。そのまま逃げていれば、山田はちょっとしたリンチで済んでいたはずなのだが、あの馬鹿野郎は、可愛い女の子をナンパし損なった。相手が悪かったのだ。なんでまた「レディース」の子をナンパしようとするかなぁ・・・更にそのレディースさんは山田が潰した族のにーちゃんの知り合いで。早い話が、族のにーちゃんの傘下の女の子たちで。もう「狩り」であった。族のにーちゃんは30人ぐらいは動かせたし、レディースのお嬢さんは5~6人で山田を探していた。私は喫茶店でコーヒーを飲んでいた。そろそろ預けたバイクが仕上がるってことで、連絡のつく場所にいるようにしていたのだ。当時は携帯電話は無かった。ポケベルが鳴らない時代でもある。仕上がってきたバイクは非常に満足のいく出来栄えであった。タンクは交換、マフラーは社外品に交換である。シートは「あんこ抜き」してある純正品。私は脚だけは短いので助かった。正直、750ccだと脚が着かなくて怖かったのだ。信号待ちの時は腰を大きくずらさないと脚が着かない・・・


山田が血相を変えて喫茶店に飛び込んできた。なんだ、人でも跳ねたか?


「安元さん、助けてください」嫌です、お前はいつもトラブルを起こすから嫌いです。「呼び出されちゃったんですっ!」この男を呼び出す?女か、女の子か。しかもここまで血相を変えてるってことは、相当な不細工ちゃんか。たまには死んで来い。「SとBの連中なんですっ!」あー、有名な人たちですね。しかも連名ですか。お前、本当に死ぬんじゃね?「だから助けてくださいってっ!」私はガンジーを信奉するウサギさんですよ?なんならここでぴょんぴょん跳ねて見せようか?まあその時はそんな余裕もなく、ウサギさんはウサギさんなりに対策を考えた。どこに呼び出されたんだ?「〇〇神社です」あ、私、凄く嫌な予感がするんで、お前は警察に保護してもらえば?「いやお願いしますよ・・・」だって、○○神社と言えば、私の元地元で、あの境内で乱闘騒ぎをしたなぁって思い出まであるからな。近寄りたくはないんだよ。とは言え、可愛いわけではないが後輩である。時間は夜の8時だと言うので、山田のバイクは置いて、私の後ろに乗せて○○神社に行くことにした。運転するのが私ってことで、山田が半殺しになっても、私まで半殺しにはしないだろう(外道思考)

 いますねー、駐車場には10台ほどのイカしたバイクと、「車高の低さは知能の低さ」って感じのシャコタンが1台。人数の最大値は20人ってとこか、土下座だな。私も土下座するようだな。本当に山田って馬鹿。境内に歩いて入ると、ぞろっと左右を塞がれた。逃げ場はないのね。仕方ないので真っすぐ歩いて、あちらさんのリーダーに挨拶を・・・よう、藤堂。「アレ?安元?」そうだよ、うちの若いのが迷惑をかけたみたいでな、土下座すっから赦してくれないかと、膝を折ろうとしたら「馬鹿っ!そんなのいいからっ!」いいの?「アレにはよく言っておくから。安元んとこに手を出すなって言っておくから」と言うことで解散となったが、私と藤堂はその場に残った。「お前、就職したんじゃなかったっけ?」と問えば、藤堂さんは照れ隠しに笑いながら「趣味だよ」と言う。嗚呼、ほろ苦い青春の匂いがするような光景であるが、どうにもうるさいし排気ガス臭い。慣れた匂いであるから話は続く。「私、安元が好きだったんだよね・・・」今はどうですか?「馬鹿っ!」馬鹿は貴女ですし、話に加われなくて不貞腐れてるあの男はもっと馬鹿です。


この後、ちょっと藤堂さんと遊んだ。一晩だけだが。


 そんなことがあってから、山田は私に頭が上がらない。市内の族のにーちゃん達には、「安元さんは藤堂さんの大事な人」と言う噂が立ちました。私は平和主義なんで、元々からして族に縁は無いんです。ただ周囲が色々と・・・山田は女絡みで監禁騒ぎまで起こしてましたが。私の後ろを走るライダーたちの中には「武闘派」もいたわけで、そこら辺は好きにさせていたと言うか、我関せずを貫いた。山田は仕方が無い。どのくらい私が怖がられていたかと言うと。本当に私は「怖くない」人だったんです。喧嘩をしたことも無いんです。ただ、後ろを走る先輩(高校の)が、駅前の24時間喫茶でヤクザと揉めて、地下の店から「表へ出ろっ!」と言われ、階段を昇って表へ出る直前にヤクザの襟首をつかんで階段から引きずり落したりしただけで。そんな私がうっかり、バイクにキーを付けたまま遊んでたら、見るからに質の悪そうなヤンキーが、私が通ってる喫茶店に「コレ、つけっ放しでした。安元さんのバイクのキーです」と届けてくれたり。いや、そこは暴走族なんだし、CB750とか盗めよと思った。


プライベートでは遊んでいたが、家を出たからにはきちんと就職しなければならない。貯金は20万円だから、1か月以内に就職しないと、このアパートから出られなくなる。家賃無料は魅力だが、これで先輩の子分になるのも嫌であるし。先輩は週に2回は会いに来た。「飯で絵も食いに行こう」と。当然奢ってくれる。「洋二は金を使うなよ」と優しい先輩であるが、飯を食える店が居酒屋しかない。私はビールが飲みたかったりするのだが、奢りなのでわがままは言えない。先輩は分かっていながら「酒は駄目だからなオーラ」を発していた。1杯くらい飲むかって何故言えないのだ?

 私は真面目に求職活動をした。毎日のようにいつもの喫茶店で新聞に挟まれた求人情報や、アルバイトニュースを見て過ごした。条件は一つだけ。勤務地が市内であること。家を出たくせに、私は生まれ育ったこの市から出る気は無かったのだ。同じ市内にいても、家出したら割と発見は困難なようだ。とにかく、自衛隊の人が諦めるまでは帰れないし、あの家に帰る気もあまり無い。家を出てから2週間が過ぎた頃、やっと条件に合う会社が見つかった。とあるメーカーの専属をやってる物流会社であった。募集は、トラックドライバー、助手、倉庫作業員であった。私は車の免許に興味は無かったので、倉庫作業員で応募した。あっさりと面接で受かり、給料の締め日の翌日から勤務となった。締め日まで間があるので、私は先輩のアパートから引っ越すことにした。引っ越すと言っても、荷物は新たに買った炊飯器だけである。アパートを探さねばならないが、コレは簡単に見つかった。よく、アパートの外壁とか階段に柵に「入居者募集」という看板がある。私は就職が決まった会社の勤務地(倉庫)の近所をうろついて、そんなアパートを見つけたのだ。しばらくは金も無いし、敷金礼金の予算もあるので、新居は風呂無し、トイレ共同の四畳半一間の古いアパートであった。それでも貯金の大半は消えた。就職しているので、給料日まで食い繋げればいい。幸い、その程度の金は残った。


私は「自分だけの人生」の第一歩を歩み始めた。


まだ若かった私にとって、就職は簡単なことであった。履歴書に多少の「嘘」を書き込むだけでよかったのだ。高校で留年して、卒業後もぶらぶらしていた訳だが、多少の股間のぶらつきぐらいは許容されて然るべきであろう。高校を3年で卒業して、家業である「スナック」の手伝いをしていたと書き込めばよかっただけだ。当時は「家業手伝い」と書けば通用した。大らかな時代であった。今ではその「家業」の確認や経営状態まで調べられるので、いったん「マトモなレール」を外れると、人生はいきなりハードモードになる。たとえば今の私が転職するとしたら、履歴書で詰む程度には厳しいことになる。様々な要因で「職歴に空白が生じているから」である。無職だったなんてことはないが、所得税を納めなくて済む程度の「フリーランス」だった時期もあったから・・・


四畳半一間のアパートで暮らし、毎日「会社」に出社してタイムカードを打刻する。そのまま倉庫に行って作業をする毎日であった。思えば最高の職場であったのだが、若き私はこの仕事を早々に辞めることになる。

 ある日のことだ。残業の無い仕事であるから、退勤後は依然と同じように馴染みの喫茶店で遊んでいた。この「馴染みの喫茶店」は3軒あって、一番頻繁に顔を出していたのはチェーン系列の店であった。チェーンと言っても厳しい縛りは無く、「看板代」を納めればそれなりの「余禄があった」程度であった。共通の「限定メニュー」やまとめて仕入れることで安くなるコーヒー豆などだ。クォリティの維持は絶対条件であったが、ある程度の修行を積めば、アルバイトでもコーヒー紅茶を淹れられる程度だ。実は私もこの喫茶店のアルバイトをしていた時期があり、当然だがコーヒーぐらいは淹れることが出来た。詳細なマニュアルがあり、例えばブルーマウンテンとアメリカン(そんなコーヒーは無いが)と、ブレンドとストレートコーヒーの淹れ方が違う程度で、コレは暇な時間に練習をして、1か月で会得した。紅茶はもっと簡単であった。うるさい人に言わせれば「紅茶は繊細」とも言うが、喫茶店で出される紅茶と考えればかなりの高クォリティであった。この喫茶店のマスターは良い人であったが、多少「女性にだらしない部分」があり、ソレは例えばバイトを辞めた私が客としてコーヒーを飲んでいても「ちょっと代わってくれるか?」と言い残してデートに行ってしまったり、急に「アルバイトに来れないか?」と頼み込んで来たり。全部「女性とのデート」が理由であるが、マスターは妻帯者であった。口止め料も込みだったので、数時間でいい稼ぎになった(2時間とか、どう考えてもラブホテルであろう)

 また、もう1軒の店はそれこそ高校時代から出入りしていて、圭子を口説いたあの店である。朝飯を食うならこの店であった。モーニングのボリュームが素晴らしかったのだ。最後の1軒はかなりハードな店で、コーヒーにはこだわりがあった。メニューに「油を使う食べ物が無い」と言うぐらいだ。マスターが家で作って持ち込むサンドイッチは絶品であったし、菓子類もあったが高価であった。そもそもコーヒー以外で稼ぐ気は無いようであった。


ちょっと話を脇道に入れるが、コーヒーと言うものは本当に単純である。その道の「プロ」には叱られそうであるが、早い話がコーヒー豆を砕いて(挽いて)熱湯で抽出したモノである。「トルココーヒー」と言う淹れ方は多分「原型に近い」モノだと思うし、熱湯ではなく冷水で抽出する「ダッチコーヒー」と言うものもある。家庭で手軽に出来るのはこの「ダッチコーヒー」であろう。必要なのは好みのコーヒー豆と水筒とペーパーフィルターだけである。コーヒー豆は、出来得るならば「粗挽きのモノ」を大量に使った方が香りが良い。不経済だが・・・

 水筒に水とコーヒー豆を入れて冷蔵庫に入れるだけである。専用の「ダッチ・ドリッパー」もあるが、高価なので冷蔵庫に水筒で良い。24時間ほど冷やしたモノを「完成品」とする。この仕上がり具合を自分で調整しながら作るのだ。「目安」は検索すれば出てくる。今の私はかなり味覚が落ちているので、ストレートコーヒーを楽しめなくなっているが、若い頃はマンデリンの酸味が苦手で、高いだけのブルーマウンテンも避けてコロンビアを好んだ。味覚の衰えた私でも楽しめるのが「キリマンジャロ」のアイスコーヒーだ。レシピの一つとして憶えておいても損はない。先ず、「ミディアム・ロースト」のキリマンジャロを、コーヒーカップ一人分の倍量を用意する。好みで3倍にしても良いが、薄くしてはいけない。「フレンチ・ロースト」では苦みが強いので避ける。一般に「フレンチ」と呼ばれるのはこの「ロースト方法=深煎り」のことで、豆の品種や産地のことでは無い。アメリカンも同じだ。アメリカンは「浅炒り」と言う意味だ。きちんとした品質の豆を使えば美味いが、大抵の場合は豆の品質が劣る。さて、ドリッパーに豆をセットしたら、適当なグラスに砂糖をティースプーンで2杯ほど入れて、そこにコーヒーを「落とす」のだ。甘みを付けた方が美味い。かなり濃いコーヒーが完成したら、ロックグラスに大きな氷を入れて、一気にコーヒーを注ぐ。これだけである。コーヒーミルクを好みで添えても良いが、必ず「乳脂肪」のモノを選ぶ。安く売ってる「コーヒーフレッシュ」は植物油加工品であることが多く、不味くもないが美味くもない。


「キリマンジャロ・オンザ・ロック」である。


ハードな店のマスターはちょっと意地悪な爺さんであった。私に出したコーヒーがインスタントコーヒーだったことがある。私は首をかしげたが、ソレを見たマスターが「安元君は騙せないか(笑)」とほざいた。実はかなりの割合で、「熱湯で適切に淹れたインスタントコーヒー」に騙されるそうだ。私はストレートを好んだので気付いたが、あれが「ブレンド」で出されたら気付かなかったかも知れない。それほどまでに、日本製のインスタントコーヒーのクォリティは高いと言うことだろう。私の普段の飲み物はインスタントコーヒーのアイスだが、非常用に安い輸入品のインスタントコーヒーもある。100均で売ってるようなものだが、非常に美味しくない。特売の切れ目に、お気に入りのインスタントコーヒーを切らすと飲むのだが。毎日のことなので「特売」と言う条件は欠かせない。Amazonなんぞでは2倍の価格がすることもある。


多少、「昔はこだわった」なんて思い出を書いたが話を戻そう。


いつもの喫茶店のいつもの顔ぶれ。いわゆる「常連」と言うやつだ。私が家を出たと言う話は既に伝えてあったし、就職したとも言っていた。ここで俄然「存在感」を増したのが、2つほど年上のOLだった「露子さん」であった。私が高校生だったり、卒業後も遊んで歩いていたと言うことで「お子様扱い」をしてくれたが、正規で就職したことで、多少は私を見直したようだ。他の常連には「広告代理店」とか「公務員」勤めの人もいたので、私はまぁ「2軍扱い」ではあったが。多少は好意的に相手をしてくれるようになった。それまでは「坊やだからさ」と言う感じでからかわれたりしていたし、私も「親父にもぶたれたことが無い」(殴る蹴るであった)ようなボンボンぶりを発揮して母性本能をくすぐろうとしていた。今思えば、「虐待されてたの・・・僕」って感じの方が、より一層母性本能をくすぐれたのでは無かろうか?


露子さんと私だけが店にいた日のことである。土曜の夜はお前を抱いて裸で眠りたいなどと口説けるわけもなく、何となく「海を見に行こう」と言う話になった。ベタである。もう溶けかけた砂糖菓子のようにベッタベタの話である。露子さんも暇だったのか、「うん、行く」と答えてくれたので、俺のナナハンで行けるのは街でも海でもどこでもであるから、ねえ露子、乗せてやろうか、どこまでもどこまでもどこまでも・・・ではなく、手っ取り早く○○浜でいいだろう。私はちゃっかりヘルメットの予備をバイクに積んでいた。自分はフルフェイスの高いヤツで、大抵後ろに乗るのは山田であったので、山田用には4千円で買ったジェットヘルメット(半帽)であった。今で言えば「コルク」であろう。流石に若い女性にそんなヘルメットを被らせて後ろに乗せるわけにはいかない。私のヘルメットを渡して、あご紐をしっかり締めてもらった。私はジェッペルであるが、この時露子さんの言った「ヘルメット、ぶかぶか・・・安元は頭がデカいんだね」は死ぬまで忘れない、絶対にだ。

 今じゃ考えられないが、保険が効くかギリギリである。何せ無免許である。中型は持っていても、大型(限定解除は狭き門であった)は持っていない。保険も自賠責と任意に入ってはいたが、下手すれば自賠責しか使えないわけだ。当時は事故っても、山田にバイクを持って来させて、「250ccで事故りました」と虚偽申告をすればいいかと思っていた(詐欺である)

 海まで行くともなれば、山田を呼び出すわけにもいかないが、あの時は話の流れでこうなった次第である。もうしない。土曜の夜の国道を舐めていた。海に近づくにつれ、やんちゃそうなお兄さんが増えてきた。ついには、ヘルメットを被っていない勇敢なライダーまで現れ、空を向いた風防がカッコいいなーとか思えてきた。


 そして国道封鎖である。族のにーちゃんねーちゃん(今風に言えば「ちゃんにー・ちゃんねー」である)がお祭りしていた。ここら辺のマッポ・・・じゃなかった、警察は仕事を放棄してるのかと詰問したいぐらいの無法地帯。暴走族のにーちゃんとは言え、いきなり飛び蹴りはしてこない(と思う)

 私の服装はGジャンに細身の黒いジーンズ、足はコンバースのバッシュ(偽物)である。バッシュはまとめ買いしていた。シフトチェンジで、靴紐はすぐに切れるし、空冷4気筒の熱で、くるぶしの内側には1か月で穴が空いたから。靴紐は100円で6本買えた。消費税が無い時代で良かった。後ろに乗ってる露子さんは「大人の服装」である。私は舐められないように、半キャップのヘルメットをことさらに上に向けていた。怖いから仕方が無かった。祭りとは言え、通過することは可能である。目の前の「花道」さえ通ればだが。幅2mほどの花道の両側には、にーちゃんねーちゃん(今風に言えば「ちゃんにー・ちゃんねー」である)が壁を作り、拳を振り回している。演歌ですか?いやそれは「コブシ」ですねと一人ツッコミもしたいが、その前に怖い・・・私のバイクはほぼ「ノーマル状態」である。にーちゃん仕様ではない。当時は「セパハン」と呼ばれていたクリップオンハンドルは違法改造で、無免許の私には装着は無理だった。本当に「セパハン狩り」を警察の人がしていた。ノーマルだと不格好なので、「コンチネンタル・ハンドル」と呼ばれる「低く構える」ハンドルにしていた。では、花道を通ろうか。このバイクはな、3万円で買って2万円で新品同様に甦った「フェニックスCB」なんだよ、何故かマフラーが集合管になっていて、「ヨシムラ」って銘板がくっ付いてるんだよ。もう「空吹かし上等」である。当時、関東地方で流行っていた「湘南コール」である。自分でやっててうるさい。

 目の前に突き出される拳に不敵な笑みを浮かべて「グータッチ」である。内心は怯えるハムスターよりも弱っちいのだが、舐められたら終わりだ(1時間ぶり2回目の決心)最後は歓声を浴びながら花道を通過。送り狼がいたが、並んだ瞬間に握りこぶしを出して、人差し指と中指の間から親指をのぞかせてやった。送り狼のにーちゃん(今風に言えばちゃんにー)は、一瞬、私の後ろに乗ってる露子さんを見て、ニヤリと笑って「OK、ベイビー!」と言う感じで離脱して行った。全国共通のハンドサインである。


 これから、今度は私が露子さんに乗ることを一瞬で察してくれた。


海に着く手前にラブホがあった。当然、私はコレが目当てだったし、露子さんも承知していただろう。私と山田は評判が良かった、手が早いと。TZRにはカッティングシートで「Fast Worker」って自己紹介を書いていたし(スラングで調べれば出てくる)しかし、ここで誤算が生じた。露子さんにお産も生じ・・・いや、なんもだ・・・ほぼ徹夜で走った私の股間の「トイレットペーパーの芯には入りきらない太さと長さの愛と勇気」が硬くならないのだ。これでは露子さんに愛を注入出来ない。困った。通常ならラブホに入った時点で熱くなり、「シャワー、浴びてくれば?」と言う頃には硬くなるのに・・・非常手段である。シャワーを浴びてる露子さんの下着の匂いを(略

 こうなったら短期決戦である。某福音系のロボットアニメと同じ活動限界であろうことは予測が出来た(エヴァはロボットじゃない)こんな時に限って穴の位置が分からない。こう・・・包み込むようにあてがって、中指の先にあることは分かるのだが、下半身はベッドの中で、体勢は既に正常位であった。どうにか挿入を試みるが、その度に露子さんが笑いながら「はずれ~」とか「ファール」と言う。焦った、挿入出来る硬さを維持出来るのはあと2分あるだろうか?挿れちゃえば硬くなるのは経験上知っていた。最後の手段である。布団を引っぺがして露子さんのヴァルハラを確認した。露子さんは怒った。


10分後、露子さんは不満げに「まだ~?」と言っていた。今度は逝かないのだ。もう思い切って言ってしまおう。露子さんは緩かったのだ。

 コレが良い経験になった。たとえどんなに相手が緩くても「逝ける」テクニックを身に着けて、男としてのレベル上がったのだ。よろしいか?一度「抱こうとした以上」は、逝けないなんてことで女性に恥をかかせてはいけないのだ。私は今、このお話で初めて「いいことを書いた」と思っている。抱こうとしたってことは「見た目は魅力的」だったのだろうから、ビジュアル面で問題は無いはずだ。緩いのも個性だ、経験豊富だと褒めてあげてもいいはずだ。あとは簡単だ。入り口付近で「コスコス」と小刻みに動かせばいいだけだ。分かったね?

 更に一皮剝けた男になった私は、この後しばらくは露子さんに付きまとわれるようになった。実は夏が終わる前に私はバイクを降りることにした。もう喫茶店まで通う足も無くなったわけで、露子さんとも縁が切れた。通勤は自転車に変更した。降りた理由は、家出中に事故ったら発見されるからである。ちょうどバイクの免許の更新時期も重なったので、私は故意に免許を「失効」させたのだ。無免許でナナハンに乗ってはいても、中型持ちと完全な無免許では、警察の扱いが違うし、罰金も桁が変わる。


もう、バイクを降りる潮時であった。


 バイクを降りた。私はこの時点で「地下で働く河童」よりも下のヒエラルキーに落ちることになった。「飛べない豚はただの豚、走れぬ安元はただの馬鹿」である。仲間は同情しながらも「もう偉そうなことは言わせないぞ」と決意を固めていたと思う。若さとはそう言う残酷さも備えているものだ。だから私はバイクを降りると同時に、たまり場であった喫茶店にも顔を出さなくなった。露子さんが多少、鬱陶しいし。1回寝たぐらいで恋人になれるはずがないと思う。1回目は「試食」であり、次にその商品を買うかどうか決める。山田のように何度も試食を繰り返し、最後には試食品を鷲掴みにして持ち帰る外道もいるが。

 挙句、「最初は美味いと思ったけど、口に合わないようになったので要りません」と、試食した感想を付けて返すのだ。その「試食評」を参考に、他の客が買うことも多いが。山田は色々と「グルメ」であった。


私は四畳半一間のアパートと会社と倉庫を行き来する毎日を過ごしていた。そんなある日のことである。暴走族の切り込み隊長である長田君が我がアパートにやって来た。「最近、洋二君を見ないから心配になってさぁ」と言うが、他にも何か魂胆がありそうだった。長田君が持参したビールで乾杯した。コップは1個しかないので缶のままである。肴は四畳半一間の隅っこにある小さなキッチンで温めた。幅が50cmも無い、靴脱ぎ場にあるキッチンである。一応は炊飯器が置けて、シンクも小さいながらついていた。このアパートの難点は、何と言っても「風呂無し」であることだ。トイレ共同と言うのは、慣れればどうと言うことも無い。管理会社はきちんと清掃していたから。コレで「トイレも汚い四畳半一間のアパート」となれば、住む人はいないであろう。風呂は仕方が無いから会社のシャワーで済ませていた。肉体労働系の会社にはよくある設備だ。冬になると、もう寒くて使う気にもなれないので、銭湯通いである。バスに乗って銭湯まで行くわけだが、タオルとか石鹸なんぞは面倒なので、銭湯で貸しタオルと、2回分が入った小さなシャンプーボトルを買っていた。石鹸は使い放題であった。今の衛生観念からすればヤバそうだが、当時はそれが当たり前だったのだ。昭和を馬鹿にするな。入浴料とシャンプー・タオルで300円ほどであった。今は入浴料も1万5千円とか2万円になった店に行くようになったが、それはまた別の話だ。


 「洋二君、俺も家を出たいんだ」と、酒が回って滑らかになった口で長田君が言い出した。思えば、コイツはなんで私の友達になったのか今でも不思議である。暴走族の切り込み隊長と縁があるような生き方はしていない。「切り込み隊長」と言っても、私の住む地域を統べるような大きなグループではなく、何のことは無い、「中学時代の名残り」で、近隣の同じようなグループと争っていただけである。流石に中学時代と違って、鉄パイプなんぞを振り回してはいたが、致命傷は与えないようにしていたようだ。そんな暴走族のにーちゃんがお友達。出会いは多分「藤堂さん絡み」であったと思う。藤堂は可愛いうえに「マトモな仕事」をしていて、週末だけレディースのアルバイトをしていたようなものだ。コレは男衆からモテる属性である。上手くすれば「ヒモ」になれそうだからである。多分、私が藤堂さんの「大事な人」と言う噂が立ったのが原因だろう。ちなみに藤堂さんにはすぐに彼氏が出来た。それでも族のにーちゃん達のアイドルであった。彼氏の素性すら知らないが。そんな関係だったので、この長田君も私の存在を知り、近づいてきたのだろう。だからと言って絶対に藤堂さんを紹介などしないが。話を聞くに、家を出るには金が足りないと言う。アパートを借りるだけで10万円は消えるわけで、アルバイトすらしていない族のにーちゃんには大金に思えただろう。そこは働けばいいのだが、もう家に居たくないとわがままを言う。親が「暴走族を辞めなさい」と、ごく当たり前の説教をするのが嫌だと。私だって言いたいですよ「暴走族は辞めろ」って。長田君の話は、早い話が、一人暮らしをしている私のアパートに転がり込みたいと言うものであった。四畳半一間なのに。


しかし、「窮鳥懐に入れば虎児を得ず」という格言もある。違うか。「おケツに入れずんばホモを得ず」だった気もするが、頼って来た友を邪険にするのは「大和男」(やまとおのこ)ではない。仕方が無いので「布団はねーぞ」と、迎え入れることにした。あと、必ず早くアルバイトでもいいから探せと命令した。家賃は2万3千円であったし、電気代と水道代で3千円が必要経費で、残りは自由に使えたが、遊んで歩くので、いつだって給料日前はピーピーであった。喫茶店で遊ぶことは無くなったが、悪いことに私は「雀荘に出入りする」ことを憶えてしまった。週末の仕事が終わると、私はバスに乗って雀荘まで行き、翌朝の始バスが出る時間まで麻雀を打っていたのだ。当時流行り出した「テンゴの雀荘」がやっとわが県にも進出してきたから、安月給でもそれなりに遊べた。戦績は惨憺たるものであったが、まだ給料の範囲内であった。私は昼間は仕事で家に居ないので、長田君は伸び伸びと暮らしていたようだ。さっさと決めるからと言ったアルバイトは、1か月経っても決まらない。この辺りは「元暴走族」なので、怠惰なんだろうと思うが、友達に迷惑をかけるのはいただけない。

 とある土曜日。給料日前で雀荘に行く金も無いし、喰うものにも困る状況になった。長田君は一銭も入れないで、よく喰うしよく飲む男だったのだ。「長田君さぁ、もうお金がないよ」と詰めてみたら、「ちょっと待ってろ」と言って出て行った。30分後に3千円を握りしめて帰ってきたが、借りた金では無いのは分かっていた。長田君も家出したということで、私以外の者と絶縁していたからだ。バイクもそれまで乗っていたカワサキを売り飛ばして、安い原付に乗っていたほどなので、暴走族も辞めたのだろう。長田君の持ってきた3千円は「カツアゲ」した金であった。3千円ぐらいじゃどうにもならんのだが、給料日まで食い繋ぐことは出来た。このままここに住むのなら、最低でも月に2万は入れて欲しい。飯は私が用意するんだし。


 私は勤務先で事故を起こしてしまった。某企業の専属なので、その企業の製品を倉庫に出し入れするのが仕事であるが、その商品を思いっきり、フォークリフトで押し倒してしまった。更には周囲にあった数台も巻き込んでの将棋倒しである。扱っていたのが精密機器であったから、損害額は億の単位である。この損害に関しては叱責を受ける程度で済んだ。製品は高額故に「保険に入っている」そうで、非常に助かった。しかし、私はさらなる不祥事を犯したのだ。倉庫には初老の男性がいて、この男性社員と私だけで仕事をしていた。その日は夏の割には涼しい日で。晴れて爽やかであった。先輩の社員さんが「安元は昼寝でもしてていいよ」と言ってくれた。また製品を押し倒されたらたまらないと思ったのだろう。私は普段はフォークリフトの運転の練習をしていたが、この時はそのフォークリフトは仕事で稼働させてるので暇だった。私はウルトラ素直に昼寝をしていたのだが、ソレを本社の社員と言うか上司に目撃されてしまった。その場で注意してくれればいいモノを、2週間ほど泳がされ、数回の「昼寝」の事実を現認され、私はめでたく「トラックの助手」に配置転換された。助手と言っても、積み下ろしはフォークリフトでやるので、運転中のドライバーの話し相手が業務である。私はこの配置転換でかなりやさぐれてしまった。トラックになど興味は無いし、免許だって取る気は無いのだから当たり前だ。自転車通勤であったことも拍車をかけた。つまりは「無断欠勤」が増えたのだ。会社に電話するにも、5分は歩かないと公衆電話が無い。そして、私が雀荘に入り浸るようになるまで、それほどの時間は必要なかった。結局、私はそのまま退社してしまった。最後に会社に行ったのは、たまたまアパートで寝ている時に上司が来たからである。辞めるにしても、届を出して欲しいし、未払いの給料だってあるとのことであった。ドライアイスが生ぬるい水を見るような視線で上司に睨まれながら、10万円弱の給料を受け取った。この時私が思ったのが「まだ麻雀が打てる」であったのだから、完全に人間の屑であろう。アパートはそのまま長田君が住むようになったが、2年後の更新時には行方をくらましたようで、このアパートの事後処理は実家の母がやったと、のちに聞いた。安アパートだったので「夜逃げ」は茶飯事であったらしく、大して請求されなかったと笑っていた。「洋二、お前はあんなところによく住んでたねぇ」と言われたものだ。


私は退職後、雀荘に入り浸る毎日となった。雀荘のはす向かいにある賃貸マンションの1室(2DK)が雀荘のメンバーの寮となっていた。その寮に泊めてもらうようになったのだ。雀荘と言う職はかなり特殊で。先ず「正社員」ではあるが、社員と呼ばれることは少ない。「メンバー」と呼ばれるのだ。コレは「仕事で麻雀を打つメンバー」であるからであろう。募集広告を見ると、かなりの高給・好待遇である。通常の雀荘では月給30万円以上、寮費は無料とか、「テンゴ」の雀荘でも月給は20万円を軽く超える待遇であり、食事まで支給される店もある。わが国では「公営以外のギャンブルは禁止」であるが、暗黙の了解で多少の賭け事は容認されている。営業時間も夜明けから深夜0:00までであるが、大抵は24時間営業である。パチンコ店の場合はかなり目立つので、営業時間は厳守されているが、どちらも「風俗営業」である。

 つまり、フリー雀荘と言う、一人で行ってもメンツを組んで打たせてくれる形式の店では、メンツが足りないと「社員=メンバー」が卓に入ることになる。例えば、客が4人いれば、普通は1卓で打たせるところを、メンバーを二人ずつ4人突っ込んで2卓にすることがあるのだ。雀荘の収入は卓毎、1ゲームごとに徴収する「ゲーム代」だけなので、1卓よりも2卓にした方が儲かるわけだ。この状態を「ツー入り」(メンバーが2人入っている)と呼んだりするが、厳しい店ではやらない。メンバー同士で打たせれば、完全に「潰し合い」になるからであるが、逆に酷い店では「スリー入り」もあった。客1人に対してメンバーを3人投入するのだ。ここで「メンバー同士で不正」を行う悪い店もあるが、通常は悪い評判をたてられても困るので、メンバー同士だって本気で潰し合うことになる。私のように家を出た若者で、寮で寝泊まりもするなんて場合、もう「メンバー扱い」である。寝ていても、メンツが足りないから来てくれよと迎えが来るのだ。こんな状態で「客でいる」のは損であるし、そこは店側も考えて、私はめでたく正式に「メンバー」となった。驚くことに「麻雀を打つだけで給料を貰える」のであるっ!他、店の掃除とか、軽食の調理も仕事のうちだが。そうそう、この「店で出す軽食」が、「食事付き」と言われるのだ。勝手に作って食えと言うことだ。勤務時間は長く、当時は12時間労働であった。24時間を2交代制で回すのだ。そして私はこの「メンバーの仕事」がかなり厳しいことを知ることになった。毎日打つのである。1日に半荘6回としても、月に26日勤務で156回にもなり、メンバーも「ゲーム代を徴収される」ので、当時ゲーム代が300円だったとしても、毎月4万6千円は「天引き」される。年間で半荘2千回を優に超え、店にゲーム代として60万円近くを徴収される。私は下手の横好きであったから、負けることが多かった。「メンバー」になる利点は、負けた分は「アウト」と言って、店から前借りできることであった。その月の給料20万円から「前借り」するのである。当然だが、毎日打って負けが込めば、20万円など儚く消える。この場合は店側がブレーキをかけるわけだ。「お前は今月のアウトが多いから、打たずに立ち番しとけ」と言うことだ。麻雀が好きでこの仕事をしてるのに、12時間も雑用である。プライドだって傷つく。客は事情を知っているので「安元はヘボ打ちだから立ち番さプギャー」である。翌月からも客から狙い撃ちされるのだ。


「メンバーが入るなら安もっちゃんをいれてくれよ」と言うことだ。


私は人気者になった。指名率No1である。この点は母の血を受け継いだとも言える。

多少はマシな経営の店で、給料袋には2万円ほどは入っていたが・・・18万負けた月はこんなことになるんだなと思った。

 山田は相変わらず山田であった。私が唯一付き合い続けたのがこの山田である。私が雀荘に転職したことも知っていたが、給与事情までは把握していなかったようで、相変わらず「某ビジュアル系バンド」のチケットを回してくる。このチケットは無料で回ってくるので問題は無かった。当時のそのバンドの「ファン」は女性が9割以上で、そんな中で「それなりにカッコいい」(不良っぽいとさらに高評価)男をライブ会場で連れ歩くのが一種の「ステータス」だったのだ。逆を考えれば分かる。「某48」みたいなアイドルグループのイベントに、綺麗な女の子を連れて行く。周囲は羨望の眼差しだ。しかも、「某48」のファンの多くは陰キャで、ジーンズの裾をロールアップさせ、チェックのシャツをジーンズにインさせている男が多い。靴は「ダンロップ」の白いスニーカーで、私は心の中で「ロッパー」と呼んでいる。そんなロッパーに「ちぃは16jkなんだよ?」と、背の低い美少女が話しかけようなら、ロッパーはその場で萌え死するに決まってる。そう思っていたが、あの方々は「自分の推し」以外は目に入らないようだ。


 さて、山田が回してくるチケットはそんな事情で無料である。ただし、交通費は自腹である。いや、どうも山田はその交通費まで出してもらっていたようだが、飯代は私も奢りであったので無料であった。数回、新幹線を使って遠征したが、アレは金がかかり過ぎたなと、今では思う。雀荘で負けが込んでいる私の収入はゼロに近いわけだ。仕方ないので、ライブの予定を訊き出して、そのライブ用の費用は貯めておいた。ここで、ライブ関連の「とある出来事」を書こうか、後回しにするか迷ったが、ここは先に雀荘話を終わらせようと思う。私が正規のメンバーになって3か月。いきなり経営者が変わったのだ。いや、話は逆である。本来は個人経営の雀荘で細々とやっていた経営者に「儲かる店にするから契約で店の経営を任せてくれないか?」と、大きな会社が打診して、その店は「テンゴの店」に看板替えしたのだ。当時の通常の雀荘の半分以下のレートで遊べるので、麻雀好きの学生が集まるようになった。純粋に「ゲームとしての麻雀」が好きなサラリーマンや自営業者も2割ほど存在した。毎日のように満卓になり、ロイヤリティだけで経営者はかなり儲かったそうだ。その契約期間が終わったと言うことだ。ここで「テンゴ経営会社」が手のひらを返さなければ、私の人生もちょっと変わったかも知れない。経営権を返した大きな会社が、徒歩圏内に「直営店」を出したのだ。この街なら客を呼べると判断したのだろう。メンバーの大半も引き抜かれた。私も声をかけられたのだが、待遇があまり変わらないので、ならば慣れたこの店に残った方がマシと判断した。結局、私のいる店は1週間ほど休んでメンバーを再募集しての出直しとなった。古株になった私は「主任」と言う肩書がついた。経営者はあまり経営にタッチしない方針であった。若者ばかり来る店になったので、それまでの「近所の旦那衆相手の商売が出来ない」と言うのも原因の一つであろう。細々とやってはいたが、少なくとも一人娘を私立大に入れることが出来るぐらいの利益はあったのだ。それがいきなり、連日の満卓であるから、目の回る忙しさである。ならば麻雀が弱いとは言え、業務には慣れている私に任せた方が得策と考えたのだろう。給料はいきなりの5万円アップであった。その上、私は店では一番偉い人になった。若干20歳にして、である。「麻雀を打つと給料が減る」ことを知った私は、カウンターの奥で読書をしながらメンバーの管理に精を出すようになった。あの頃の金銭感覚はかなり狂っていた。コレはメンバーもそうであったので、ある給料日に「おい、給料袋を賭けて半荘1回勝負はどうだ?」と持ち掛けた。給料は手渡しで、私が詰めていたから金額は知っている。全員の給料を集めても40あるかないかであるが、かなりの大金であることは間違いない。今でさえ大金であるのに、ソレを半荘1回こっきりでやりとりするのだ。当然だが「トップの総取り」である。2位では意味がない。コレは痺れた。リーチがかかると、危険牌を切る指先が震えた。当然だが、私は「安定の指名率No1」であるから、2位で終わった。


最初は真面目に仕事をしていたが、徐々にサボるようになった。店の買い出しで飲食品を買いに行くと言って、2時間も帰らないで喫茶店でサボるとか、箱ヘル(分からない人は分からないままでいい)に行ったり、どうかすると半休と言うことで、副主任に店を任せて千束のお風呂屋さんに行ったりしていた。このような悪行がバレて、私は解雇されたのだが、幸い、寮を出てアパート暮らしをしていたので、無職になっただけで済んだ。金の残らない遊び方をしていたことは慙愧に耐えないが・・・

 今の私はかなりお金に関しては厳しい方である。借金はしないし、クレジットカードを持ったのも40歳以降である。クレジット・ヒストリー(通称「クレヒス」)が無かったので、最初の限度額が10万円だったが。「使ったことが無いウルトラホワイト」も信用が無いと初めて知った。実はこの無職期間にサラ金に手を出したのだ。当時は審査も甘く、前職を書いて、あとは住所さえしっかりしていれば10万円ぐらいは貸してくれた。コレを2社でやったのだ。今思えば合わせて20万円の借金である。返すのは簡単だと思うが、当時の私は、サラ金に設置してあるATMを、「お金が湧いて出る機械」ぐらいにしか思っていなかったし、借金枠の上限が「自分のお金」だと錯覚していた。当然ながらこのような借り方は数か月で破綻した。たかが20万円に10万円の利息が付くまであっという間であった。

 「住所がしっかりしていれば」と書いた。私は失効した免許証を使ったのだ。思えば畜生以下のやり方であるが、新たに借りた1kのアパートには督促状すら来ない。のうのうと私は無職を満喫していたわけだ。この借金は母が肩代わりしてくれた。サラ金業者に「二度と貸さないでください」と言いながらも払ってくれたのだ。感謝せねばなるまい。無職のまま、このアパートに住み、そのまま円満退去した。何のことは無い、部屋を荒れ放題にしてはいなかったから、数か月の生活の後で返ってくる「敷金」目当てでの退去であった。


以降、この出来事の反省もあり、借金はしないようになった。クレジットも「借金である」と言う認識である。

 今は1回払いで使うので、「前借り」感覚であるから、限度額も自ずと知れている。


雀荘勤務は非常に気楽であった。「遊ぶ金」に関しては不自由することもあったが、生きていくだけならこれほど楽な仕事は無い。寮費は無料、光熱費は店が出す。食事も店で食えば無料であるし、煙草や飲み物、酒にも困らない。仕事そのものが「遊び」でもある。麻雀が好きだから雀荘で働いているのだ。1日24時間のうち、12時間を店で過ごし、残り半分の12時間は自由時間である。月に4~6日は休める(週1休み)コレはのちの話になるが、「仕事として雀荘で働く」のはかなりキツい思いをする。「日銭」が必要だったので、渋々アルバイトしたが、考えてみれば、社員/メンバーと同じ給料であった。

 私が家を出て最初の夏のこと。山田が回してきたチケットに多少の問題があった。野外ライブなので駅から離れている。しかも公共の路線バスも走っていない場所なので、運営が用意したバスに乗るか、タクシーを使うしかない。行きはまだしも帰りが怖い。簡単に言えば、駅にたどり着く時間にはもう、終電すら無いのである。しかし山田はよく出来た後輩であった。「安元さん、誰のとこに泊まります?」と言うのだ。「スポンサー」のお姉さまに根回しをして、当日の駅前のホテルを押さえてる「お姉さま」を数人ピックアップしていた。恐ろしい子である。しかもご丁寧に「安元さんと兄弟になりたくないので、俺とは違う女のとこに行ってください」とか、もう「配慮にまで気の利いたホテルマン」だ。確かにホテルで「マン」の予定。そんなことはどうでもいいが、とっくに兄弟だよな、俺たち。しかもお前が兄だ、山田よ・・・

 そんなこんなで私は一生懸命、経営者に上手して、3日間の連休をもぎ取った。まだ私が主任になる前であったので、その月の給与が2万円ほど減るだけだ。もちろん、2日間をライブで潰すが、その予算は交通費があればいい。本当に私と山田は外道コンビであった。3日目は寝て過ごすか、気が合えば「お姉さま」の家に転がり込んで、「アルプスの少女ハイジの録画ビデオ」でも観てまったりしてもいい。大抵の場合、クララを立たせることに熱心なお姉さまに酷いことをされてしまうのだが。いや、本当に酷いことをするものだと感心した。私とか山田、他「連れ歩いてる男」の性能まで、彼女たちのネットワークに流れるのだ。早いだとか大きいとか、小さい、スタミナが無い等と。こっちはお姉さまたちが「金主」であるので文句も言えないのだが・・・こっちもあの女は緩いとかうるさいとか言ってたのでイーブンであるし。


当日は朝から最高の晴天で、しかも「野外」である。多少はあるだろうと思っていた「日陰」がほとんど無い。まだ昭和の頃で、今ほど暑くはない気候だったが、30℃は超えていた。ニュースでは32℃とか書いてあった。ライブ参加者が何人か熱中症で倒れたので新聞に載っただけのことだ。生憎、こっちの仲間にも倒れたお姉さまがいて、翌日は対応に追われたが、これはまた別の話である。私は山田と待ち合わせて、会場の最寄り駅に昼過ぎに到着した。「開演・18:30」なのだが、前入りして遊ぼうと言う魂胆だった。私は釣りが得意で、最も得意な釣りは「山田の友釣り」である。「鮎」で有名な釣法だが、理屈は同じである。先ず、「元気のいい山田」を用意する。多ければ多いほど釣果も上がるが、元気のいい山田の管理は大変なので注意した方が良いと思う。あとは、可愛い女の子さんが群れている場所に山田を放つのだ。この時の山田の「名演ぶり」はアカデミー賞やエミー賞を受賞するに値すると思う。さも「僕はこんな場所に不慣れでおどおどした童貞です」と呼ばわりながら歩いている感じだ。すると、可愛くて心優しい女の子さんが「あ、助けてあげなきゃっ」と、山田に近づくのだが、大抵は「若くて可愛い女の子さん」のヒエラルキーは低めで、その前に「古参のお姉さま」が山田を攫ってしまう。山田は山田で、「取り敢えずは引っかけてから考えよう」と、そのお姉さまを連れて来る。このようにして出来上がったのが私たちの「ライブ関連のコネ」である。なお、若くて可愛い女の子さんにも「ヒエラルキー上位者」がいて、その場合は私たちが手を出せるような相手では無かったと追記しておく。あの山田が「鼻で笑われて」泣きながら帰ってくるほどである。つまるところ、山田は「熟女専門」なのだった。25歳~35歳を熟女と呼んでいいものか迷ったが、当時の私たちから見れば、アラサー独身で、自立しながらライブに来る「お姉さま」は物の怪みたいなものだった。何で仕事と遊びを両立出来るのか不思議だった。そこまで出来て、何故、彼氏は出来ないのか不思議であt・・・(おっと誰か来たようだ

 私と山田は午後には会場に着いた。行きは顔だけ知ってるグループのお姉さんのタクシーに乗せてもらった。金など払うわけがない。しかし、道路から会場まで15分は歩くことになった。なんでこんな僻地でライブをするのだろうと恨み言も出てくるが、会場に到着した山田は真っ先に飛び込んでいって、席の確認をすると、飲み物の買い占めを始めた。どこで手に入れたのか、大きなゴミ袋に、売店と言うか、ビーチパラソル下で飲み物を売ってるスタッフに「氷」まで分けてもらい、ニッコニコである。流石は歴戦の猛者である。20本は買っていたし、私も「投資ですよ」と、まるでFXかバイナリーの人みたいなトークで2千円を取られた。高いよね、あんな場所の飲み物って。しかし、この山田のファインプレーが光る。先ずもって、午後の早い時間から飲み物を買えるだけ買った点。15:00過ぎには売り切れであり、補給が細々と入ることもあるが、長蛇の列であった。氷を分けてもらったのも凄い。とは言え、夏の暑さで氷も2時間ぐらいしかもたなかったが、開演前にはまだ若干冷えた飲み物があった。当然だが、日陰の無い会場で、女性たちはかなり疲弊していた。私たちには「武器」がある。こんな場合は「山田の友釣り」はしない。法的に禁止されているが、ここでは「ガチン漁」と言う手法を使う。可愛くてピチピチのお魚さんが泳いでいることが確実な川で、川面に顔を出している「岩」に思いっきり衝撃を与える漁法だ。衝撃で失神したお魚さんが浮かんでくるが、一網打尽にする恐れがあるので、法的に禁止(許可制)となっている。今度は、山田は「童貞臭い」演技などはしない。「俺はロマンチックが止まらない男なんだぜ」ぐらいの爽やかな青年を装うのだ。そして、暑さでぐったりしている若くて可愛い女の子さんに微笑みかけながら冷えたジュースで衝撃を与える。ターゲットとなった女の子さんは(あ、この人になら抱かれてもいい・・・)と思うと言う寸法だ。ただ、効率が悪い。1回につき1人だけを引っかけるしかない。何本もジュースを持ち歩いていたら、行商のお兄さんか、強盗に襲われる子羊である(周囲はほぼ女性しかいない)挙句、私たちのスポンサーのお姉さまにまで狙われる。「ちょっとっ!ジュースよこしなさい」しかし山田は強い。「駄目ですよー、コレはナンパに使うんですからっ!」スポンサーに向かって何と言うことを・・・「じゃぁ売ってっ!」「1本〇〇円ですけどいいですか?」と、もう悪い越前屋である、「おぬしも悪だのう」である。私たちが飲む分は確保して、若くて可愛い女の子さんを2人ほど引っかけて(紹介してくれなんだ・・・)、あとはスポンサーのお腹に収まり、私と山田の「交通費」ぐらいの儲けが残った。そして野外でお馴染み「トイレの行列」である。コレはコレでお姉さまたちの方が上手であった。「並び役」が常時いるので大丈夫のようだった。15:00を過ぎ、もう会場内が「混沌の中の秩序」を生み出す頃には、これまたどこで手に入れたのか、ビーチパラソル下で寛ぐグループや、買い出しに出て行く班も出てくる。上手く出来た仕組みであろう。この時、謎だったことがある。私たちのグループは日差しの下で元気に騒いでいたが、その中の1人、身体が小さくて可愛いお姉さまがいた。眼鏡をしていたので、私の眼中に無かったが小さくて可愛いことに変わりはない。そのお姉さまが、会った瞬間から紅茶とか緑茶とかをガバガバ飲んでいたのに、10時間以上トイレに行かなかった。どんな膀胱をしているのか、今になって興味が湧くが「謎は謎のまま」の方がいいのかも知れない。ちなみに男子トイレは10基ほどあったが、使われないので女性用に半数を転用された。あと、この暑さの中、熱気のこもった簡易トイレでウンコした奴、出てこいっ!


 そんなこんなでやっと開演である。「終われば帰れる」と言う、本末転倒な考えをしていた観衆は3割は居たと思う。それほどの過酷さであった。危なく死人が出る勢いだったのだ、暑さで。開演してすぐに、撮影クルーを乗せたへりこぷたぁが真上を飛ぶ。モロに「地上効果」がある高度を飛ぶので、かなり高価な扇風機であった。ライブも盛り上がってきまして、私と山田は「楽曲が好き」だったので、割と「聴いていた」わけだが、真後ろの餓鬼がうるさい。アーティストの名前を叫びまくる、聴こえてないぞ、ソレ。「後頭部にセミが留まった」状況を考えて欲しい。まさにあんな感じである。いや、私には経験がないが、キッチンの網戸で盛大に鳴いたセミには軽く殺意が湧いた。そして休憩時間を迎えた。アーティストも暑いのだろう、インターミッションが2回あった。山田がこの休憩時間に真後ろの餓鬼に声をかけた。本当に何でも食う男である。驚いたことに「地元が同じ」であった。私の勤めている雀荘から徒歩圏内である。チョービックリである。そう言えば、私はとある「林檎のマークのスマホ」を愛用し続けているのだが、このマシンの「予測変換」が頭おかしい。「隣り合ったキー」を「同一と見做す」のも凄いのだが。例えば、キーボード入力していて、「るい」と「えうい」の予測結果が同じになるのだ(類とか塁も出るし、エウイも出る)更に凄いのは「誰も知らない言葉」を知っている。私は多分、日本語ネイティブなのだが、以前遊んでいた「風の子」さんが、びっくり仰天と書く代わりに「クリビッテンギョウっ!」と書く癖があった。林檎のスマホは「クリビッテ」まで打ち込むと「クリビッテン業界」と候補を出した。誰か「クリビッテン業界」の方がいましたら、メッセージでその業界に就職する方法をメッセージで教えて欲しい。50年以上生きて来て、不覚にも「クリビッテン業」を知らなんだ・・・


「チョービックリ」も予測候補で出るんだぜ?

マジでちょーヤバい」と言う豊富な語彙まで出てくるから凄い。


山田が声をかけた相手は「中学生」であった。


繰り返します。

相手は女子中学生であった。


 ま、私も山田もこんな餓鬼には興味がないわけで、適当にあしらって、ライブが跳ねた後はお姉さまに囲まれてニヤついていた。どこに泊まるか選り取り見取り深緑、お猿のお尻は真っ赤っかである。身持ちと貞操の硬いお姉さまは分かっているから大丈夫である。「軽いお姉さま」のことは山田が知っている。なお、私にも「特定のお姉さま」がいたが、「恋人」ではないので、このような状況では競争原理に則った行動が模範とされる。早い話が、さっさと攫ったモンの勝ちである。「親の総取り」になることもあるが(理不尽であろう)、大抵はアイコンタクトでお互いの意思を確認出来た。山田は結構「親の総取り」の被害者であった。その分、「いい思い」もしてるので税金みたいなものだ。身体で払って来い。山田も私も駅傍のシティホテルを確保出来た。どうかすると雑魚寝になって、一番いい場所が「浴室のバスタブ」になったりするが・・・いや、一番「いい場所」は、その部屋を予約した人の隣である。確実にベッドで寝ることが出来るのだから。ホテルにしてみれば迷惑この上ない客だが、だったらデカいホテルを建ててみろと言いたい。「野宿する女性」まで出ることがあったのだ。終電はもう無いわけで、駅前では宿にあぶれ、金も無い私たちのような女性たちが群れていた。私たちは余裕であるが、部屋の予約者のお姉さまが「〇〇ちゃんが行方不明なのっ!」と言い出したので、時間的にはまだ日付が変わる前の駅前を探索していた。そこで発見したのがあの「女子中学生」である。2人でライブに参加して、まんまと終電を逃していた。田舎は終電が早く行ってしまうのだ。流石に心配になって、今度は私が声をかけた。「終電が無いの・・・」当たり前である。しかし、この女子中学生2人を受け入れるキャパシティが我々には無い。いや、既にパンク状態であったのだ。何で、ダブルの部屋に9人も10人もいるのだろうか?アレは流石にライブの運営が根回しとかしていたのだろうかと思う。どの部屋も同じような状況だった。

 「大丈夫か?」と問うと、「どうしよう・・・」と泣き顔になる。しかし受け入れると、お姉さまに借りを作るし、私の寝る場所がトイレになる。第一、この夜のセックスは「外階段」で行うことになるし、ソレだって「順番待ち」になることもある。男を連れ込んでるグループは結構いたから。山田が機転を利かせた。コイツは追い込まれると「一休さん」もクリビッテンギョウするくらい「とんち」が回る。口先男である。いきなり駅前で叫んだ。

 「〇〇市の人いませんかぁっ!」そりゃまあ、この路線の途中だし居るだろう。山田はかなりいい男なので、4~5人のお姉さまが「は~い」と手を挙げた。度々「お姉さま」と書いているが、本当に年上しかいないのだから仕方が無いし、若けりゃ食ってる。そのお姉さまと交渉して、1台のタクシーにぎゅうぎゅう詰めで乗って、割り勘にすれば「ホテル代より安い」と持ち掛けた。実際、一人頭5~6千円だったらしい。地元まで帰れば勝手知ったる街であるし、お姉さまたちがかなりいい人で、この女子中学生2人を家の前まで送ってから駅に向かって解散したらしい。今でもお礼を言いたいものだ。この手を知った他のお姉さまたちが駅前のタクシーを奪取した。客待ちタクシーがゼロになった。しかも遠距離ばかりなので「補充がいない」とか、あり得ただろうと思う。

 さて。「亀を助けたのは誰でしょう?」と言う簡単な質問をしてみたい。日本人なら「浦島太郎」と答えるだろう。その通りだ。だからこそ、亀は浦島太郎にお礼をしたのだ。では、この女子中学生2人を助けたのは誰でしょう?二通りの答えがありますね。先ずはこの作戦を指揮した「山田」である。もちろん、タクシーの相乗りを快くしてくれたお姉さまたちだって素晴らしい。しかし私はどうだろうか?


「何もしていない」


Do you under stand?


「私は何もせず、間抜けヅラでぼーっと突っ立っていただけ」である。

山田とお姉さまたちの手柄である。

 なのに、何故かこの女子中学生に付きまとわれる羽目になった。山田の生息域はかなり広範囲で遠くまで行く。バイク乗りであるし。私はもう地上に降りた「ただの馬鹿」なので、勤務地(雀荘)まで行けば会える。今で言う「某46」のような「会えるアイドル」になってしまったのだ。山田ほどではないが、多少はモテたし。そして私にも悪い点があった。仕方なく相手をしていた女子中学生を「祥子」と呼ぶが、コイツが連れていた「友達」がかなり可愛かったのだ。おっぱいがデカいし。見た目と偏差値が一致していたので、どうにか口説けないかと思い、祥子に「美紀」と会わせろと要求していたのだ。そして絶対に祥子は美紀に会わせようとしなかった。私を独占するために、美紀とは無関係な友達を連れては雀荘付近に出没するようになってしまった。徐々に偉くなって、息抜きに「買い出しに行ってくる」と言い残して階段を降りると、そこには亀・・・じゃなかった、祥子がいるのだ。しかも結構な頻度で。私は「美紀と会わせろよつってんだろうがっ!」と言いつつも、無下には出来ずしばし相手をする。2時間ほど、喫茶店で駄弁って帰すだけなので問題ない。コレが「美紀」であったなら、「大人っぽい服で来いよ、あと制服も持って来いな?」ぐらいは言って、同じ2時間を「濃い時間」にしたであろうが、不細工な方が釣れてしまった・・・

 

 山田が海外送還された。実は山田はかなりの「お坊ちゃん」で、実家は裕福どころか「金持ち」であった。衣食住と教育に金を惜しまないと言う、私からしてみれば「退屈な家庭」であったが、そこは山田も同じ思いであったのだろう。だから私と遊んでいたのだ。実家のことは一切話さない男であったし。私は山田の家で遊ぶこともあったので、その「優雅な暮らし」には多少の劣等感を抱いたものだ。しかもである。「姉」が可愛い。どのくらい可愛いかと言うと、私の性癖にぶっ刺さる身長140cm台で、小顔で整った顔立ち。最強である。歳も私と同い年(山田は1個下なので)どうにか口説けないかと画策してみた。名実ともに「山田と兄弟になる」ことも辞さない構えであったが、この「姉」の性格が、まるで暴れ馬のようであり、学力もあの山田を凌駕するほどなので、庶民の出である私の歯が立つ女の子さんでは無かった。しかし、ある日のこと。私と山田がリビングでビールを飲んでいると、その姉が風呂上りからの「パンツいっちょ」でリビングを横切り、「きー君、お風呂は?」と言いながら消えて行った。その美しい肢体を見ることが出来て眼福であったが、すぐさまシャツと短パンを装備して「あんた、見たでしょっ!」と因縁をつけらえた。私は言いたかった「見せたのはそっちだ」と。しかし、相手は金持ちの娘である。一介の遊び人に出来ることと言えば「ごめんなさいすいません切腹でしょうか?」と赦しを乞うことしか出来なかった。


 「黙れペチャパイッ!」


なんと山田の攻撃力の高さよ・・・あの姉を一蹴してしまった。まぁ家族だし「姉」の魅力も通じないのであろう。当然だが、山田が自宅まで招く「悪い友達」は私だけであった。高校時代の「真面目なクラスメイト」を招じ入れることはあったようだが、面白いことは無かったようである。

 いつも山田がアルバイトしていたのは、「バイクに乗るなと言っているだろうっ!」と怒鳴れつつも我を張っていたので、バイク関連は自分で稼ぐしかなかったからだ。それもバイクを買ってしまえば、多くを稼ぐ必要はない。山田が買ったTZRは元は私の愛車であるし、かなり安く売ったから、この点の恩義を返してくれている状態(金は出してくれない)バイトをしていない時期でも山田の財布に1万円札が入っていたのは、多分「教育費」のうち、現金支給される分であったはずだ。模試の費用とか参考書代である。高校中退の山田は「大検」を受けると言う大義名分があったのだから。そんな山田が「悪い友達と引き離す」と言う親の方針で、オーストラリアに留学することになったのだ。オーストラリアと言えば、地球の下の方である。私はその時初めて山田に優越感を持つことが出来た。地面を指さし、「オーストラリアぁ?」と、まるで地底に送られる者を憐れむ視線である。きっと山田もオーストラリアの大地で地面を見詰めながら「安元さんは元気かなぁ?」と思ったに違いない。留学の決まった山田はかなり意気消沈していたが、ある日を境に開き直ったようだ。「オーストラリアでは親がいないからやりたい放題」だと気づいたからである。「送金」をアテにしないで済むように、山田には父親のクレジットカードの「ファミリーカード」が与えられた。のちに聞いたが、オーストラリアでなら「新車が買えるほどの限度額」であったようだ。流石は資産家の長男である。そして、山田の両親も中途半端なことをしたものである。海外に送り出すなら、ゴリゴリの「全寮制ハイスクール」にするべきであったのに、アパートを借りて、そこから「日本人学校に通いなさい。3年で呼び戻すから」と甘い処遇で済ませてしまったのだ。私が言うのも何だが、山田は「悪い友達のせいで出来損ないになった」のではなく、それはもう立派な生来の出来損ないであったのだ。私がいなくても、山田は山田のままなのだ。ソレが証拠に、オーストラリアで多少「英語」を喋れるようになると、先ずはトヨタの四駆を買った。中古だけど。オーストラリアの過酷で広い土地では、オートバイは不向きであることも原因だろうし、免許取得が酷く簡単であったのも一因であろう。そして山田は交通違反と交通事故で2回、あっちの留置場に入った。この時、山田の肛門がどのような仕打ちを受けたのか興味深いが、当時は「海外の留置場で芸を仕込まれることもある」なんて知識は無かったので、確認はしていない。一時帰国の時に多少「内股」になっていたのを見た程度だ。


山田は両刀遣いになったのだと思う。


 オーストラリアでは保釈金も罰金も「クレジットカードで払える」そうで、留置場体験は2かとか3日で済んだようだ。いっそのこと、どこかのプリズンにでも入れば、帰国後に「俺の監獄体験イン・オーストラリア」みたいな手記本で有名になれたのに。その山田がオーストラリアに馴染んで、1年に1回だけ帰国するようになった。もう「日本は息苦しくて嫌です。安元君もオーストラリアにおいでよ」と言う。安元「君」?お前はいつから私を君付けで呼べるほど偉くなった?「安元さんだろう、このデコ助ーっ!」と怒る気は無い。みんな一緒だ。高校をどのような手段で出ようが、社会に出れば、1歳2歳なんざ違いにならないモノだ。

 私の毎日はと言えば、まだ雀荘勤務時代であったから、日銭をどうにか稼ぎながら生きていた。山田の残した「お姉さまコネクション」は私だけのものになったし、お陰様で「安元くん、男を連れて来て」とお願いされる立場だ。しかし、某ビジュアル系バンドを好きになれる男は少ないので、仕方なく「熟女を抱けるよ」と、雀荘の客の大学生をカモる程度しか出来ない。もう大学生と言えば分別も付くので、2~3回はライブに参加して、そのままフェードアウトしていってしまうから、当初は頑張ったが、「もう男なんざいませんよ・・・」と白旗を挙げるしかなかった。一気に高まる「安元需要」である。毎週末は雀荘の電話が鳴りっぱなしである。当時は携帯電話は無かったので、連絡先が店のピンク電話であった。その中から、私は条件の合うライブを選ぶのだが、例えば「A会館」でのライブってだけで4~5人からお誘いが来る。全部を受け入れるのは、山田でなければ不可能だ。山田は全てを受け入れ(聖人君子のようだ)、会場でお姉さまたちをバッティングさせて、グループを肥大化させる天才であった。私には出来ない芸当なので、私にも少ないながらいた「特定のお姉さま」の誘いに乗る程度であった。誘いに乗ると言うことは、お姉さまにも乗ると言うことなので、ソレなりに厳選された「お姉さま」たち。いや、25歳以上とか、どうかすればアラサーなので、「若さに任せてクララを勃たせるスタイル」ではあったが・・・

 しかし、この騒ぎも私の「雀荘解雇」で終焉を迎えた。もう連絡は付かないのだ。私は山田の誘いに乗ることにした。そう、私もカンガルーの国へ逃亡するのだっ!山田が言うには「百万円用意してくださいよ。そうすればこっちでアパートを借りて遊べます。そうすればお金なんざどうにでもなりますから」だそうである。実際に山田はオーストラリアで怪しいブローカーをやっていたようだ。オーストラリアに来たばかりの日本人や観光客を相手に悪どい商売をしていた。日本では非合法でも、オーストラリアでは黙認されているような「エンジョイ系薬物」とか、深夜でも酒を飲める店の客引きとか、実に山田らしい生活基盤である。親のクレカは簡単に停止にされるので、あっちで好き勝手に生きるには「収入」も必要であったのだろう。


元雀荘の店員に「100万円」は大金である。いや、今でも大金であるが、若さゆえに「稼ぐ方法」はナンボでもあった。早い話が、空気の綺麗な山の中で「精密機器を組み立てる期間工」と言う職があった。他にも、他県に出れば「自動車工場の期間工」だってあったし、無駄遣いしなければ、半年で100万は貯まるはずであった。私は頑なに生まれた市を離れようとしなかった。コレは多分、「真月」の影響であろう。割とマジでこの市を離れると「守護」が効かなくなるようで、ソレを回避するために無意識で「この市から出ない」と私に確信させたのだろう。しかしこの時は、条件に合う募集は隣の市であった。深く考えないで応募した。


 相変わらず祥子は付きまとっていて、雀荘を解雇されてからは一時期、会わない日々が続いたが、考えてみれば新しく借りたアパートは教えてあった。女子中学生が「大人の独り暮らしの寝ぐら」に来ることは無かったのだが、雀荘で会えなければ仕方なく来るようになった。私にはまだ常識があったので、祥子に手を出す気は無かった。不細工だし脚は太いし乳は無いし。それでもデートと言うか、休日を一緒に過ごすこともあった。デートする場所はもちろん、私が生まれ育った街であり、ソレは祥子も同じである。この時に私は「絶対に俺を安元と呼ぶな」と祥子に命じていた。家出中である。名字を迂闊に街中で呼ばれてバレることを恐れたのだ。これがまた、祥子の中で「ミステリアスでカッコいい人」と言う幻想を生んだようだ。もうどうにでもなれである。電話連絡は出来ない状態になったので、デートのたびに「次は〇〇日に待ち合わせ」と約束して、事情ですっぽかすならこちらから電話すると言うことになった。祥子は実家暮らしなので、家にかければ居るからである。借りていたアパートは円満退去して、5~6万円の金が手元に残った。期間工をやりながら最初の給料日まで生き延びるには十分過ぎる金額である。期間工も「寮費無料、食事は社食を格安で食える」と言う契約であった。勤務時間は8時間と、雀荘よりも短く、更に毎日1~2時間の残業がつくような職場なので、給料は良かった。契約期間の半年で100万は余裕で貯まるはずであった。体力勝負の工場勤務なので、雀荘生活でなまりきった身体が悲鳴を上げる日も多く、そんな場合は祥子と会う余裕も無かったので、このまま「祥子と切れてもいいな」と期待した。何であんな足の太い無い乳jkと遊ばないとならんのだ。そう、祥子は女子高生にジョブチェンジしていた。女の子さんは出世魚である。女子中学生から女子高生、そして女子大生やOLを経て、「奥様」になる。普通はそうなる。一部が「お姉さま」になったりもするが、お姉さまだって、多少の妥協をすれば「奥様」になれるものだ。当時のお姉さまの多くも結婚していったと聞く。ソレが当たり前なのである。

 誤算があった。本当に「真月の加護」が無い私はひ弱であったのだ。銀行口座に40万円が貯まり、あと60万円と言うところで体調を崩した。仕事に慣れることに問題は無かったが、「真月」の管轄外(縄張り外)であったので、ハードな職場環境で疲弊していったのだ。当時は派遣会社まで給料を受け取りに行くシステムであった。隣の市で働いていたから、当たり前であった。もっと遠くの勤務地で働かされている派遣は、その地方の支社で給与を受け取る。多分、単なる中抜きだけでなく、営業所でも「抜いていた」のだと思う。それでも契約期間を勤め上げれば慰労金込みで手取り200万円を超えるはずであった。慰労金+契約更新だと、更に30万円ほどアップするようだったので、かなりの「中抜き」が横行している業界であった。今も「派遣社員」の給与は中抜きでかなり減らされている。今、私の勤務する会社にも派遣さんがいるが、弊社が派遣会社に支払う金額と、派遣さんが受け取る金額には少なくない差がある。なお、直接交渉での「引き抜き」はご法度である(契約書に明記されている)「派遣システム」は、結局は仲介する会社を儲けさせるためにあるのだ。政治家って本当に品性下劣で、金に汚い生き物である。

 その日、私は給与を受け取りに、生まれ育った市にある会社を訪れていた。忙しい中であるが「給与受取日」は割と休むことが出来た。交代制で休んで給与を受け取るのだ。しっかり眠ったはずなのに、どうにも体調が悪い。受け取った給与を銀行口座に預け、最低限の生活費と祥子とのデート代を残し、私は隣の市にある社員寮まで帰ろうとしたが、吐き気が止まらない。道端でうずくまってしまう始末だ。昨日まで元気に働いていたのに、なんだこの体調不良は?私は公衆電話から会社に電話して、2日間ほど休みを頂くことにした。この体調では歩くこともままならないのだから。仕方なしに、駅前のビジネスホテルと言うか、古い旅館に宿を取った。各室に「ドア」は無い。大きなドアを入ると、襖で仕切られているだけの安宿だ。デカい風呂と飯だけが魅力のこの宿に入ると、不思議と体調は回復していった。そして私はここで失態を演じてしまったのだ。「宿帳」に本名を書いてしまった。「捜索願」が出ていないことは予想していた。もしも捜索願が出ていれば、この2年半にも及ぶ「同じ市内での家出」は早々に発見されて終わっていただろうと思うのだ。未成年が行方不明ともなれば、多少は所轄の警察署も動くであろうし。しかし、そんな気配も無かったので安心しきっていたのだ。


明るいうちから大きな風呂に入り、フロント横の休憩所で火照った身体を冷ましてから自室に戻った。夕方であったが、もう寝るつもりで布団を出しておいた。直後のことである。襖が「バーーァンっ!」と音を立てて開かれ、ヤクザと言うか、若いチンピラが飛び込んできたのだ。私には匂いで分かる。こいつらは「本職」である。あっという間に私は一人に抑え込まれ、もう一人のチンピラに肩を踏まれていた。うわぁぁああっ!殺されるぅっ!山に埋められるか、海に捨てられるぅぅううっ!抵抗すら出来ない。ガタイは細いのになんて力だ・・・


そして静かだった。ここで「お前は〇〇だからな、死ねよ」ぐらいの脅し文句があってしかるべきである。チンピラにカチコまれたのだ、覚悟するしかない。金で解決するなら、口座の金を全部出してもいいとさえ思った。チンピラの一人が振り返って言った。「ヤマさん、コイツですか?」そこにいたヤクザ・・・小指の無いヤクザの・・・「ヤマさん」?「あっ」と思った。そうだ、私が子供の頃から可愛がってくれた、「筋彫りのヤマさん」だ。どうにか生き延びたようだが、それでもただでは済むまい。そして私の想像通りになった。養父である大澤は、警察には届けなかったが、街に巣食うヤクザや不良たちに「発見次第確保しろ」と命じていたのだ。警察ではチェックしきれなかったであろう、「宿帳」に書いた名前だけで踏み込めるのは反社会的勢力だけである。私はまた部屋から連れ出され、フロント横の休憩所の「インベーダーゲーム」の筐体をテーブルにした席に座らされた。麻雀ゲームだったら良かったのに・・・

 ヤマさんは言った。「洋二、お前なぁ、お義父さんが心配しているぞ」あ、アレは義父ではないですが、知っている男です。こんなことは言えないので、せめてもの演技で悄然と俯いた。ヤマさんはさらに続ける。「洋二、お前金が無くて、恥ずかしくて帰れないんだろう?」そう言うと、チンピラに持たせたセカンドバッグから財布を取り出し、中身を無造作に取り出してテーブルと言う名のインベーダーゲーム上に放り出した。「コレを持って帰れ。この金のことは黙っててやるから」ぱっと見たところ、20万弱はあった。うだつの上がらないヤクザだったヤマさんも偉くなったんだなぁと感慨仕切りであった。「洋二、帰るよな?」もう「はい」と答えるしかないだろう。ココで嫌だと言ったら、それこそ屋根裏部屋で、薄い本の主人公のように酷いことをされるに決まっている。「帰りたい」と心から思わせるように仕向けられる。まぁいいや。この金を持って、2~3日逃げてから、パスポートを取る算段をすればいい。


「お前の弟が家に居たから、迎えに来るように言ったから大丈夫だ」


完全に詰んだ。逃げようがない。この場でチンピラ2人を殴り倒し、金とゴールドのネックレスを奪い、逃走するヴィン・ディーゼルを演じることは不可能だ。

 30分間私は見張られていた。金は早々に財布に仕舞い込んだ。黙っててくれるおぜぜであるから、当然ポッケナイナイである。いいお小遣いになったな。30分後、弟が愛車に乗って迎えに来てくれた。車高の低さは知能の低さ、真っ赤なスカイラインが爆音を轟かせながら、旅館前に横付けした。お元気そうで何よりです。ヤマさんの配慮で、私はヤマさんに後ろ手に拘束されながら(演技である)弟のシャコタンに連行された。弟はそんな私を見て目を丸くして「乗れ」と短く言った。再開を喜び合った・・・わけもなく、言葉少なに「おふくろの店に行くぞ」と告げられた。私が確保されたことは、当然母も大澤も知っている。母の店のドア前。そこに立つ母は凄く小さく見えた。あと20歳若ければ食ってるところだ。私は小さい女の子が好きなんだ。母はそんな私に「帰ってくるの?」と訊いてきた。答えは決まっている。


「だが断る」とも言えず(逃げれば今度はヤクザと鬼ごっこ確定)


「帰ります」と答えた。ヤマさんから頂戴した20万円弱は出さないけど。「じゃぁ、このまま家まで帰りな」と言われたが、明日は祥子と映画を観る予定であった。どうせ休むんだし、映画でも観ようかなと思ったのだ。体調は一気に回復したし。「明日は用事があるんだ」と言うと、いつ帰るのかとさらに訊かれた。「明日の夜には帰る」と伝え、私はまたあの忌まわしき旅館まで、弟の乗り心地の悪いスカイラインで送ってもらった。「必ず帰って来いよ」と脅された。この日だけでヤクザとチンピラと暴走族を見た。お腹いっぱいになった。


翌日は待ち合わせ通りに祥子と映画を観に行った。大して面白い作品では無かったが、今夜のことを思えば、上映時間が36時間あればいいと思った。その日の夕方に祥子と別れ(別離ではない)、私は実家に向かった。大澤が家で待っているらしいのだ。祥子と映画を観に行ったわけで、当然日曜日である。念のために、ジージャンの内側に文庫本を仕込んでおいた。殴ってくるならココであろう。しかしあっさりしたもので、迎え入れてくれた母に連れられて寝室に行くと、大澤は背を向けていた。母が「洋二が帰って来たのよ」と告げる。大澤は「そうなのか?」と不機嫌そうに言う。「はい、帰りました」と答えた。そのまま、自分の部屋に行くと、物置になってはいたが、ベッドと布団は使える状態であった。そこで眠り、翌朝は母が起きて来て、朝食の支度をしてくれた。多分、母が私のために朝食を用意するのは「高校受験以来」である。なお、その前に朝食を用意してもらえた記憶はない。

 3日間ほどのんびり過ごした。私が帰ったことで、それとなく大澤も大人しかったようだ。一応は喜んでいたのだろう。しかし3日目の夜、私の払ってきた医療費のことで密談しているのを聞いてしまった。家出中は国保が使えなかったので、医療費で二桁万円は使った。ちょっと具合が悪いって程度でも1万2万はあたりまえだったのだ。その医療費を「保険証を持たせて行けば返還されるだろうか?」と言う相談である。やはり、この家はおかしいと思った。結論としては、返還されるわけも無いだろうと、私は変な要求をされることは無かった。


なんだかんだで口座にある金もバレず、ヤマさん資金もポッケナイナイした。絶対に家に入れる気は無かった。


実家に戻って3日もすれば、もう遊んでいられない。母も大澤もそこまで甘くはない。「家出疲れ」が回復すれば、もう「就職の話」となる。家出をしたくらいだから、私には信用が無い。つまりは「コネ」でそこそこの職に就くのは不可能であろう。いや、わがままを通せば市役所の閑職のクチぐらいはあったかも知れないが。ここで大澤が余計なことを言った。「洋二、お前は俺の店で働け」と。

 私はこの男が好きではないので、営業時間中ずっと横にいるってだけで、足を挫いた「メロス」のような憤懣やるせない思いに囚われるであろう。聞けば「スナック」である。カウンターの内側には包丁だってある。まぁ「目上の人」に手を上げることが出来ないのが私の長所であるから、ナンボムカついても刺したりはしないと思うが、刺される可能性はある。大澤にとって私は「サンドバッグ」なのだから・・・

 しかし、他に有力な職の候補は無い。自分で探すのは無理であった。また家出をされたらたまらないと考えたのであろう、「首に鈴を付けておける職場」に限定され、結局は家業であるスナックかパブの手伝いしか無い。

 そう言えば私がヤクザに拉致された日、母の店でもう一人の女性を見た。私が帰ってくると言うニュースは母の店の中まで駆け巡っていたので、母の雇ったホステスの一人が私を見ようと、母の後ろにいたのだ。いや、女性と言うにはまだ若い。化粧が濃いが20代前半に見えた。そのホステスとは、1~2週間後ぐらいに、大澤の店に出勤する前に母の店に仕入れ品を届けに行った時に再会した。「洋二君、良かったぁ」と言われた。私はこの若いホステスを知らないし、「家に戻って良かったね」と言われる筋合いはない。「誰?」と問うと、「やだー忘れたのぉ。お店でバイトしてる時に勉強を教えてくれたじゃない」これまた記憶にない。この「勉強を教えた」と言う行為は、私の記憶には残らない仕組みの様だ。弟も「兄貴が勉強を見てくれたから高校に合格出来た」と言うし、高校時代の先輩も「安元君のお陰で物理はどうにかなったよ」と報告に来たが、本当に記憶が無い。多分、「日常会話レベル」で教えていただけだろう。アレで成績アップするなら、相当なお馬鹿さんである。


 そのホステス、つまりは私の1つ下の「割とどころかかなり可愛い」女の子は、私の家出の終了をお祝いたいと言ってくれた。私は多少、このホステスに同情してしまった。まだ午後の4時である。私は仕入れをしてから隣の市にある大澤の店まで行くので、出勤時間は大体午後の5時である。このホステスは「一番若い」と言うことで、開店前の雑用(高校時代に私がやっていた半端仕事)をやらされているのだ。そして私は、こと「水商売」に関しては母を信用していなかった。客には「良いママさん」であり、「従業員には硬軟織り交ぜて指導する有能ママ」であったのだが、「女にはとことん冷たい」ところがある。いや、母もどこかで「人生を突き放していた」のではないか?弟の話によると、我が弟は大澤の血が入っているので、女には手が早く、甘々で口説く。ふと、自分にも大澤の血が・・・と思ったが、私の脳はあそこまで狂えないので、やはり実父の子であろう。兎に角、私と弟は「タネ違い」なのだから、弟の方が大澤の血と考えた方がいいだろう。その弟の派手な異性関係を知っている母は、弟にこう言ったそうだ。


「妊娠させちゃったらお母さんに言うのよ?」


普通に考えたら、その相手との結婚を認め、大澤の意見は取り入れないからと言う風にも取れるが、実際は「極秘で中絶出来る産婦人科があるから」である。母の口利きなら女の子には、経済的負担も無いし、産科の医師の腕も良い。流石は20代前半から20年は水商売、しかも古き良きキャバレーで指名率No1を10年間維持してきた女である。客との多少のイロコイで迂闊に妊娠した場合の「処理法」も心得ていた。しかし、こんなことを私には言わなかったのは、やはり私はあの家では「鬼っ子扱い」であった証左であろう。

 今目の前にいる、昔の私が勉強をみてやったらしい若いホステスも、いずれは「枕営業」を強いられるのだろうと思うと、多少心が痛んだ。母は「商売に関しては鉄の女」である。私はもう籠の鳥である。仕事は大澤と同じ店であり、都合よく使われていた。この日のように、母の店の仕入れまでやっている。自由はあまり無いのだ。ただ、店が休みになる日曜日だけは割と自由であった。もちろん、この若いホステスも日曜日は休みだろう。そのホステスが「ねぇ、お祝いしたいから日曜日に会わない?」と誘ってくれた。少ない自由時間であるが、実はやることも無かったので、私は快諾した。午後2時に駅前のドトールコーヒーで待ち合わせと言う健全なモノであった。

 待ち合わせの時間に10分ほど遅れて来たそのホステス、「春子」と呼ぶが、会ったのはコレ1回きりであった。昼間用の「薄化粧」だと、多少みすぼらしい感じであったが、それでも「男には不自由しない」程度の美貌はあった。身長が私とあまり変わらないのが気に入らないが。春子が到着したので、取り敢えず腹ごしらえと言うことで、私はジャーマンドッグを追加注文した。自分でレジまで行って注文するスタイルは今でも不変だろうか?こんな場合、女の子さんは「飲み物だけ」と言うパターンが多い。私の人生の中で、待ち合わせた喫茶店で何かを食べた女性は2人しかいない(喫茶店でデートの場合は食事もするが)しかし春子は「私も~、ジャーマン食べる」と言う。まあ安い店だし構わないが、ちょっとびっくりした。そして私が出来上がったジャーマンドッグをテーブルに運ぶと、春子はニコニコしながらジャーマンドッグを頬張った。ああ、こんな女の子さんに、私の股間のジャーマンドッグも頬張って欲しいと心から願った。


心から願ったので、神様に通じた。「お祝いと言ったらコレでしょ?」と言う春子。駄目だ、母の薫陶で、この子はもう「水商売」に染まり切っている・・・


 さて、寄り道をしたが、話は大澤の店での経験をメインにしたい。兎に角、スパルタ過ぎてドン引きであった。先ず、母の店に寄るとか仕入れが無いなら、午後4時には店に入れと命じられた。開店の2時間前である。ココが「レストラン」であるならば納得も行くが、出す料理は冷凍食品を小奇麗に盛ったものばかりで、あとは「冷やしトマト」とか「冷奴」みたいな、非常に簡便なモノばかり。だから私もカウンターの内側に立てたわけだが、ありがたい話ではない。横には宿敵の大澤がいる・・・

2時間前に店に入ると、先ずは掃除である。大澤の教育は素晴らしいもので、店が終わった後はキッチンをこれ以上は無理ってぐらい掃除をさせられた。ゴキブリが出るからであるが、油汚れはマジック〇ンで拭き清め、洗い物は全て終わらせ、最後に「シンク」まで拭きあげるのだ。故に、ホールの掃除は開店前に行う。掃除をしていると、外を「氷売りのおじさん」が通る。コレがまぁ、「みかじめ料」のようなものだったのだろうが、大澤の「水商売の哲学」にも適うものであった。氷、つまりは「デカい氷柱」を買い、その氷をアイスピックで砕いてお客に出すのだ。店の冷凍庫で作った氷を客に出すことは無い。そんな氷は調理に使うか、自分が飲む物に使うだけ。この「氷砕き」が想像を絶するもので、慣れてしまえば何と言うことでも無いのだろうが、私はアマチュアである。アイスピックを握る手の小指側。そこが切れて氷が赤く染まる。やったねっ!無料で氷イチゴだよ、カチワリだよっ!もう痛いし、氷の冷たさで麻痺してくるしで大変であった。大澤は若い頃、東京の「帝国ホテル」でバーテンをしていたことが「誇り」らしく、その流儀を押し付けてくるが、今ではそんなこと、憶えてはいない。氷を割り終わったら、今度はジャガイモの皮むきである。「くし形」に切りそろえて皮を剝く。このジャガイモは「フライドポテト」にするのだが、作り置きを禁じられていたので毎日の作業であった。皮を剝いてから、ボウルに水を張って冷蔵庫に放り込めば3日は持つのに・・・その日の分のジャガイモを剥いたら、低温の油で7割ほどまで火を通しておく。この状態なら、余った場合は冷凍保存出来る。そうなれば翌日の仕込みは楽になるが、故意に大量に仕込むと怒鳴られた。店に入る前にスーパーに寄って、その日の「お通し」を作る。非常に簡単なモノばかりであったが、コレも私の仕事である。もやしを軽く茹でて冷水に放り込んでおく。別鍋でさやえんどうを茹でてから、これも「色止め」のために氷水に放り込む。茹でたウィンナーを輪切りにする。あとは、客の顔を見てから、酢醤油や辣油で和えるだけである。その他、「お通し用の簡便レシピ」はいくつかあった。大澤が先に店に入った日は、お通しが「ポテトフライ」になるのがムカついたが・・・

 つまりは、大澤はやはり仕事をしたくないのだ。私が店の仕事を憶えるにつれて、店に寄りつかなくなった。友人の店で飲んでいるのだ。たまにフラっと「チェック」に訪れて、私のいたらない点があれば怒鳴るだけ。逆に大澤の友人が飲みに来ることもある。その時も大澤は包丁を握らない。どうせ出てくるのは揚げた冷凍春巻き程度だと知っているので、大澤の友人は「お通し」と乾きモノだけで飲んでいた。金は払わない。1回、大澤がいない時に呑みに来て、帰り際に「いくらだい?」と訊くので、かなり割り引いた金額を頂いた。翌日、「お前は何様だっ!」と怒鳴られた。金なんか取りやがってっ!である。商売ってなんだろう(遠い目

 なんだかんだ言っても、大澤はその繁華街ではかなりの有名人で、尊敬されることもあった男だ。私から見れば酒乱の人殺し野郎だが、ペラが良く回るので人気者でもあったようだ。ソレはそうだろう、口先だけで「億の金」をスポンサーから引き出した男だ。故に、その「大澤の子」(他人)がこの市の夜の街に出てきたと言うことで、まあやりにくいことこの上ない。どうかすれば、上げ足を取ろうと意地悪な輩まで来店する。私は生まれついてからの経験で「いい歳をしてるのに酔っぱらう馬鹿」が大嫌いだったので(スナックの仮オーナーとして失格)、その手の馬鹿は追い出した。無理難題を言ってくれば「ソレは大澤に教わったのか?」と冷たい視線を投げかければ、もごもごと言い訳しながら金を払って出て行くし、私もとことん腹が立てば、「金は要らねーから出てけよ、あ?」ぐらいは言っていた。若かったんだね。


そんな店であるから、当然「若いお姉さん」を雇っていた。コレが中々の上玉で、このお姉さん目当てに来店する男も増えた。元は別の店で働いていたのだが、大澤が引き抜いてきたらしい。大澤は店にいない。カラオケスナックなので設備は立派だ。客に命じられて、私も歌うことがあった。ここで一言いうが、私はカラオケで歌うのも、誰かが歌っているのを聞くのも大嫌いだ。ソレでも仕事なので仕方なく歌う。お姉さんが指導してくれる。デュエットも歌ってくれる。凄く上手い。客が来れば練習時間は終わりだが、そうやって親密度を高めて行ったのは、孔明の罠であった。このお姉さんは「あの大澤の息子」をたぶらかせば、この街で上手くやっていけると踏んだのだろう。ある日、大澤がとうとう店に来ないまま閉店した日。

 「帰れないでしょ、終電は無いし。遊びに行こうよ」と誘われた。私は仕事中は一切酒を飲まなかった。客に勧められて仕方なく飲む時は、「ではコレを頂きます」と、ブランデーのロックを飲むようにしていた。濃く出したウーロン茶ワンショットが800円に化ける瞬間である。あとは、客が飲んでるビールを頂くことがある程度だが、隙を見てシンクに捨てていた。「楽しい酒は好きだが、いやな酒は嫌な酔い方をする」から嫌いだった。そんな事情もあって、私は深夜の閉店時でも元気である。お姉さんは結構飲んで酔ってはいたが、「酔っぱらい」では無かった。遊び場所はまぁ・・・深夜なので・・・


2日後、お姉さんは解雇されていた。


すぐに補充の女の子が入ったが、コレがまた性悪なフィリピーナで(何故だ)カタコトの日本語をしゃべるので、生意気にしか見えない。しかも店を任されてている私はまだ22歳だ。舐めてかかって来た。私はピーナに舐められたいとも思わないが、辞められると忙しくなるわけで、まぁ適当にやらせておいた。酒場で男を相手にする女のやり方は万国共通だろうし。

 大澤が店に来なかった時期は、免許が無い時期だけである。長い水商売の中で「飲酒運転」が常態化していて、私の知る限り、大澤は4回、試験場で1発試験で免許を取り直していた。欠格期間も乗り回していたが、そんな時期は深夜は家に居たようだ。深夜に車でウロウロしてれば、また捕まるだろうし。この大澤のやって来たことは畜生以下である。恨みがあるから描いているのではない。大澤への「恨み節」ならあとで書くから、そこで楽しんで欲しい。大澤の自慢は、戦後の混乱期から高度経済成長期に入るとば口で、無免許で運送をやっていたことであった。まだ免許の取れる年齢では無かったが、トラック乗りに憧れて、晴れて運送員になったのだが、箱根の峠道を走っている時にブレーキが効かなくなり、人を2人跳ねて殺したとか。ブレーキの加熱によるフェードなんざ、基礎知識であっただろうに、無免許ゆえの哀しさか。裁きは寛大であったようである。もう車が好きでたまらない男なので、飲んでも乗るわけだ。店を閉めて、大澤の運転する車で帰宅する。その時にポツリと大澤に言ってやった。


「俺は車の運転は無理だな。車のボンネットの距離感が全く分からない」

大澤にしてみれば、私にサッサと免許を取らせて、送り迎えをやらせたい。しかし私は拒否を示したわけだ。


免許が無くても店に来ることはあった。そんな日はタクシーで帰宅する。途中、帰れば飯は無いのが分かっているので、コンビニに寄ってもらう。大澤は寝てるし。しかし、家に着くとまた怒鳴る。「お前、コンビニに寄って何様だ、俺の金で乗ってるタクシーだろうっ!」だったら給料を払ってくれませんかね?当初の約束では、オープンからラストまで「手伝って」15万円でしたが、今じゃ私が「マスター」と呼ばれることもあるんですよ。挙句、給料は遅配続きで、先月分のうち、2万円を受け取っただけで、未払いがかなりあるんですよ。結局は小刻みに数万円ずつ払うだけなので、もうこの店にいるだけ損だと思った。仏頂面で包丁を動かしていたら、「お前、他の仕事をした方がいいんじゃないか?」とカマをかけてくる。


大澤は私が「いや、ここで働くに決まってるだろ」と言う予定調和を夢想したようだが、私の答えは当たり前のように無慈悲であった。


「そう思って探してる最中」と言い放ってやった。実際、探していたし。この瞬間、あの大澤の暴力スイッチが入る気配がしたが、客のいる前である。「もういい、今すぐ帰れ、お前はクビだ」とありがたいお言葉。その夜は大澤が帰宅すると同時に目を覚まし、急襲に備えたが、杞憂に終わった。その次の日には遅配されていた給料を受け取ったが、当月分を払う気は無いようだった。それでも就職活動に支障はない程度の金額であったし、若さゆえ、就職先もあっさり決まった。地元から電車通勤で2時間かかる「都会」での仕事であった。


大澤の店で働いていた期間、祥子と会うことは無かった。ライブ関係のお姉さまとは月に2回は会っていたし、ライブに行くこともあったが・・・


どうやら私は「地元」を離れると不都合が生じるらしい。とにかく体調が悪くなるのだ。新しく決まった仕事は通勤に2時間はかかる、この県の大都市にある小さな広告関係の会社の「中核」部分の仕事。広告写真の「原版」を作る機械のオペレーターであった。当時のこの「オペレーター」は業界の中核であり、本来なら私のようなポンコツが就ける職種では無かった。ただ、もう毎日がキチガイじみて忙しかったので、応募してきた「比較的マトモ」な人なら雇用したと言うことだろう。まだ私は若かったし、それなりに期待もされていた。かなり高度な技術職であり、適性が無いなら「モノにならない」と言われたほどで、ソレでもこの職種を選ぶなら、業界最大手に就職し直すしかない、そんな仕事であった。私が就職した小さな会社では、いわゆる「精鋭」でなければ勤まらないが、大手さんのところに行けば、オペレーターというよりは、「センターデスク」の指示通りに補正値を機械に打ち込む「土方作業員」で十分であった。それでも時代の花形なので、それなりに高給であった。30年前でずぶの素人の初任給が手取りで18万円以上であったのだから。

 ただ忙殺される日々であった。とにかく、「作業待ちの封筒」(写真原稿入り)が積み上がっていく一方で、オペレーター長がソレを下請けに振り分けても、平均残業時間は4時間を超えていた。連休前、ソレがGWでも年末年始でも「特別進行」となり、家に帰れない。残業が終わる頃には終電が無い。挙句、会社で寝泊まりである。コレでは身体を壊すと、上司が交渉して、会社近くのビジネスホテルに「帰る」ようになった。あくまでも「特別進行」の間だけであるが。23歳の男が「遊び」もなく続くわけもなく、私は当然のように休日は遊んで歩いていた。金だけはあるのだ。毎月の残業代だけで10数万円になった。もちろん基本給は別に出る。この時期だけは某ビジュアル系バンドのライブを観に、新幹線で遠征したりするのも「息抜き」であった。真面目に勤務していたので、大澤も文句を言わない。ついでなんで、大澤に店を「借りて」、お姉さまたちと打ち上げをやったこともある。近場の会場でライブがあって、だったら店を借り切って騒ごうぜと言うわけである。しっかり4万円を取られたが・・・

 大澤の店は日曜日が休み、私もサラリーマンになったので日曜日が休みなのでちょうど良かった。この時に口説こうと思ったお姉さまがいたが、生憎私は調理で忙しく、あまり話も出来なかった。「安元ぉ、酒が無いよー」げに怖ろしきは酔った喪女である。

 サラリーマンになってから1か月が経った頃だろうか、1本の電話があった。そう、祥子からの電話である。「実家に帰る」と言い残してそれっきりであった。電話番号は教えてあったが、私はもう「祥子との縁は切れた」とほくそ笑んでいた。その頃は祥子も女子高生と言う、今の私に言わせれば「旬で食べ頃」な属性になっていたが、女子高生でも「祥子に過ぎない」ので、どうでもよかった。心底、どうでも良かった。「心配したんだよー」とは、16歳の女子高生に心配されるとは、私も落ちぶれたものだ。流石に実家に電話してくるのも勇気が要ったようで、キチンと「電話してくる理由」があった。「ねえ、ライブがあるんだけど行かない?」本当にこの娘っ子は開けても暮れてもライブである。音楽の成績は2のくせに。私は真面目なサラリーマンなので、会社をサボってまでライブに行ったりしない。しかし祥子が言うライブは、私の通勤路線の途中にある繁華街の「ライブハウス」で行われるそうだ。それなら交通費はゼロである、通勤定期があるから。仕事のことも考えてくれていたようで、そのライブは土曜の夜である。断る理由も無いので・・・「お前が祥子だから嫌です」とも言えないから・・・


ライブハウスなどと言う場所は、日中は廃墟のようなものであるが、夜間は魑魅魍魎みたいな人たちが群れ集う「サバト」と化す。「女子高生・祥子」がそんな場所に通うだなんて、猛獣の檻の中に美味しいお肉をぶら下げるようなものだ。世の中、多少不細工でも「若い」ってだけで美味しく食べられる男も多い、なぁ山田?私は「お父さん」の気持ちになって、ライブハウスに行くことにした。祥子は、1回だけ、例のタクシー乗りのお姉さんに連れられて行ったそうだ。思いのほか、ボーカルが「イケメン」でファンになったようだ。音楽は?ねぇ音楽はどうなの?

 サラリーマンであり、低収入があり、しかも高給である。私は昔日を想いだし、カメラを買い込んでいた。既に時代はAF(アナルなファックじゃない)で、ピント合わせもフィルム巻き上げも自動になっていた。今の製品と比較すれば劣る性能だが、既に「人間の能力」を凌駕していた。当日はそのカメラを持参した。別に祥子を撮影しようと思ったわけでは無く、スカートの中でも撮影出来れば、「パンツに顔は無い」ので、そこそこに楽しめるのではないか?その程度の認識であった。しかしこれに祥子は興味を示した。「バンドの写真を撮ってよ」と言う話を持ち掛けてきた。もう少し祥子が可愛い女子高生なら「お代は身体で・・・」と言いたいが、祥子はやっぱり祥子だったので、「フィルムぐらいは買って来いよ」と言うことで妥協した。正直、カメラはあっても被写体は無い状態であったし。


そう言えば、祥子がなぜここまで私にご執心なさるのかと言えば。


あのタクシー事件の後の話をしていなかった。あの地獄の野外ライブで出会って、深夜の帰宅で「タクシー」を使わせる奇策(山田発案)を使ってそれっきりであったのだ。いきなり、私の勤務先の雀荘に現れるようになったわけではない。何故、雀荘に現れるようになったのかと言う話を書かなかったのかと言えば、実はこのエピソードには、遠くハワイの山々に自生する、「老人の滋養になる」と呼ばれる野草と、それにまつわる白髪の貴婦人の、表には出せない深い家庭事情なんぞは一切関係なくて、ただ単に書き忘れていただけである。


夏の野外から、季節は一気に冬に飛ぶ。私と山田は、この都市圏で有名な歌手やバンドが来るのならここしかないと言う大きな会場にいた。プラチナチケットである。無料で回ってきたが、流石に良い席ではなく、しかも2つ並んだだけの席である。お姉さまたちは1階でキャーキャー言っているのだろうが、ライブが跳ねたら「アンアン」言わせてやろうと思った。隣の女の子がこっちを凝視してくる。まるでレーザービームのような熱視線だ、鬱陶しい。


「あー、あの時のお兄さんっ!」


驚くことに、あの女子中学生(美紀もいた)が隣にいたのである。1回目は「偶然」であるが、2回目の出会いも「隣の席」である。凄く薄い確率であろう。この日は普通に電車で帰れる時間なので、放置したが。お姉さまの相手で忙しかったので仕方が無い。この出来事で、中学生だった祥子は「運命」を感じてしまったらしい。私に言わせれば「腐れ縁」でしかないが。


 さて、話をライブハウスに戻すが、コレが中々愉快な奴らで、私もこのアマチュアバンドになら、土曜の夜の時間と2千円ぐらいは払ってもいいと思い始めていた。写真も撮らせてくれるそうだし、何なら多少のギャラなら払うから、写真を撮って宣伝に使わせてくれとも言われた。1回目2回目の観覧時の写真を見せた結果である。そして、やっぱり祥子が目を付けたバンドである、女性ファンばかりである。「しめしめ、コレでまた女に困らない」と思ったが、生憎と祥子が私の傍を離れない。


コレが「女に困ったことは無いが、「女で」困ったことならある状態」である。


邪魔だ、祥子っ!

月に2回ほど、土曜の夜にこのバンドはこのライブハウスで歌っていた。毎回通ったが、祥子はどこからお金を調達していたのだろうか?私が奢ったことは1回も無い。今思えば、この時点で気づくべきであったのだ、祥子は「お嬢様」(不細工だけど)であることを。

 私生活では特段、何のイベントも起こらなかった時期である。流石にサラリーマンともなると「お姉さまたち」とも疎遠になる。仕事を休んでまでライブに行ったりしない。仕方ないので祥子と遊ぶことが増えた。あくまでも「遊ぶ」のであって、例えば祥子に乗ったり乗られたりではない。健全な「デート」だけである。そもそも相手は6歳下の餓鬼である。ライブ撮影用に機材も順調に揃い、暇潰しに祥子のポートレートを撮影したりしていた。そんな仕事とか祥子との繋がりは1年でまた切れた。いや、祥子は切れてくれないが、仕事を辞める羽目になった。片道2時間の通勤と、毎日の残業で私はかなり疲れていた。精神的に病み始めていた。電車に乗れなくなったのだ。満員電車に乗って3駅5駅を過ぎると「吐き気」で立っていられない。途中下車を繰り返して、会社に到着するのが10時を回るようになり、コレでは仕事にならないと、解雇される前に「健康上の都合」で退職することにした。私がこのまま居座るよりは、辞めた方が良いに決まっている。欠員補充出来るからである。


 やはり私は「地元を離れてはいけない者」なのであろう。


退職後、また1週間ほど体を休め、大澤の店を2~3日手伝った。大澤の店の話は会社でもしていたので、ある日突然上司がやって来た。いや、元上司であるが・・・

 その元上司が言うには、オペレーターがいない会社がある。幸い、私の家から通勤1時間である。そこなら安元君も活躍出来るのではないか?と言う話であったが、給料が安い。オペレーター見習いから、一人前のオペレーターになり、過酷な残業をこなしていた頃の半分を提示された。昇給は随時だと言うことだが、他のオペレーターがいないと言うことは、残業地獄と「週休1日制」になるのは目に見えてる。身体を壊してまでやるような待遇ではない。申し訳なく思ったがお断りした。無職のくせに・・・

 弟は相変わらず「塗装業」に励んでいた。あのヤンキーが真面目になったものだ。いや、塗装業しか出来ない男になっていただけだろう。市内の塗装業界ではソコソコ腕の立つ「職人」だったと思う。30歳になる前に独立したほどであるから。

私はと言えば、無職のままではまた大澤の店に拉致されるので、昔の仲間を頼って警備員のアルバイトをするようになった。あくまでも「繋ぎ」である。私は就職情報誌を定期的に買いながら、警備員のアルバイトを続けた。相変わらず祥子は「遊んでっ!」とうるさいが、警備員のアルバイトだと時間の融通が利くので、やっぱり遊んであげていた。健全に。


ライブや映画を観に行くとか、喫茶店で駄弁るとか。


 実家に連れ戻されて2年が経過した。「その日」は突然に訪れた。いや、いつだって災厄は突然に訪れるものであろうが。大澤の「暴君ぶり」は一層激しさを増していた。その頃の母は、割と私に優しかった。少なくとも私が家に居れば大澤が暴れることは無かったし、母にも多少の愛情が残っていたのだろう。


ある日、LDKでソファに寝ころんで漫画を読んでいたら、母がキッチンから私を呼ぶ。「洋二、洋二。ちょっとこっちに来なさい」何事かと思えば、私に料理を教えると言う。多少は自炊スキルはあるが、母に勝てるわけがない。今でも「主婦の方」に勝てるほどの料理上手ではないから、当時の自炊スキルは男子大学生程度であった。

 何故、私にだけ料理を教えるのかと訊くと「お前は結婚しそうにないから・・・」とポツリ。


その通りになった。母とは「予言者」なのである。自分の未来も見通せなかったくせに。


その夜の夫婦喧嘩はいつもよりヒートアップしていた。私が家出をする前も酷かったし、実家に連れ戻されてからの2年間もまた、酷いものであった。喧嘩の原因はいつだって「お金」の話である。大澤の経営する店は慢性的な赤字が続き、いっそのこと閉めてしまえば、あとは借金返済に追われるだけで済むのに、「プライド」(笑)が許せないのであろう。赤字を垂れ流しながらも営業を続けていた。元は「東京の帝国ホテルのバーテンダーであった男」と言う触れ込みで、この街で頭角を現したのだから、いまさら「もうお手上げです」とは言えない。


そうだったのか、大澤?


 私も弟も「堅気の仕事」に就いている。弟は、中学生時代に「シンナーがいつでも手に入る」と言うことを理由にアルバイトした塗装業。それでも生涯をこの仕事に注いだのだから立派なモノだ。私はと言えば、この頃は退職後の繋ぎとは言え、警備員のアルバイトをしていた。無遅刻無欠勤は当たり前なので誇れることではないが、警備員業は私の人生の中で、我が身を助けるモノとなったのだから、馬鹿にされる筋合いはない。つまり、弟も私も朝早くに家を出るわけだ。もちろん「仕事のため」である。母と大澤の「深夜の夫婦喧嘩」ほど迷惑なモノはない。深夜2時に「喧嘩をしながら帰宅する」のだから、いきなり最高潮状態である。母を車で拾って帰宅するのだから、大澤の運転する車内では怒鳴り合いであっただろう。その日はあまりにも凄い喧嘩になっていたので、私はそっと警備員の制服を着て、自室を出た。当時の実家は、1階にキッチンとLDK、風呂トイレ。2階に家族の居室があった。私と弟と、母たちの寝室である。そんな「隣の部屋」で大声で喧嘩をされたらたまったものではない。早々に逃げ出すことにした。幸い、駅前まで出れば「カプセルホテル」がある。同時に弟が部屋を出てきた。「どうする?」と言うので、私は「駅前のカプセルにでも泊まって出勤するわ」と答えた。「じゃぁ乗ってけよ、俺は車に中で寝るから送ってやるよ」弟の車はもうあの赤いスカイラインではない。当時流行りだしていた車高を上げたピックアップである。「車高の高さはローン残額の高さ」である。乗るのにも苦労する車高であったが、弟は特に文句も言わず、私を駅前まで送り届けてくれた。相変わらず私のことは「洋二」と、呼び捨てであったが。

 大澤は「母の経営する店の売り上げ」が無いと何も出来ない男に成り下がっていた。母が金を渡さなければ煙草も買えないのだ。ならば、寄生虫は寄生虫らしく、宿主に迷惑をかけないように生きれば良かったのだ。私が実家に戻った日は「夜」であった。夜が明けて、私はリビングの荒廃具合や、誰も掃除をしていないであろう階段や廊下、トイレなどを見て、「この家に必要なのは奴隷だったんだな」と合点した。ちなみに母の作った朝飯を食った後、頼まれたので掃除はした。雑草が茂る庭に手を出す気は失せた。


この家には奴隷がいたじゃないか。私が消えた後、「てめえでは一銭も稼げない男」がいたじゃないか。ソレにやらせれば良かったのだ。


 私はそれまでにも数回は宿泊したカプセルホテルのフロントで会員証を見せて、風呂にも入らずに寝ることにした。ホテルに着いたのが深夜の3時である。出勤時間まで5時間も無いのだ。勤務地が近いので、そこそこ遅くまで寝てはいられるが。

 微睡を破ったのはフロントからの電話であった。「弟様からお電話が入っております」と言う。時計をみれば、まだ7時過ぎだ。弟の出勤時間であるが、私はもう少し寝ていたい・・・


そもそも、私を呼び捨てにする弟が朝から電話してくるのだ。何かあったに違いないとは思ったが、まさか「おい、おふくろが死んだぞ」と告げられるとは思わなかった。もちろん、こんな悪趣味な冗談はあり得ないので、私は飛び起きて、財布の中身を確かめてから、ホテル前に駐車しているタクシーに飛び乗った。家まで20分ほどだが、この時の焦燥感はかなりのモノであった。実家は細い坂道の途中にある。つまり、住民以外は通らない狭い道である。当然、タクシーも坂の下で停めてもらって、料金を払った。その広い場所に地味な色の車が2台、路駐していた。(警察か・・・)と察した。急な坂道を登り、我が家の前に立つ。安っぽいプラスチックの門扉は閉じられていたが、蹴れば開いた。家のドアは開け放たれ、玄関から見えるリビングの扉も開いていた。階段には見知らぬ男が腰を下ろしていたが、目を見て、ソレが刑事だと知れた。ヤクザと刑事は「同じ眼」をしている。刑事は「誰かな?」と私に問う。息子だと答えると、「ええと、洋二君かな?」と言う。当たり前である。弟の車はガレージに入っていて、この家の子は私と弟だけだ。被せるように獣の咆哮が聴こえる。大澤の声だ。リビングのドア前にもう一人の刑事が立っていたので、私はキッチンを通ってリビングに入った。母が死んでいた。弟は放心したように母の死体を見下ろしていた。横に並ぶ私もまた放心したが、10秒で醒めた。大澤は、「秋子ーーっ!秋子ーっ!」と叫びながら、もう死んでしまって目を覚まさない死体に、口移しで水を飲ませようとしていた。


なんだ、この茶番は。


 急速に冷めていく自分を意識しながら、私はとりあえずこの男を殺そうと思った。キッチンには包丁がある。無防備に死体に縋る大澤を刺殺するのは簡単に思えた。ツっ・・・っとキッチンに向かおうとした私の前に弟が肩を出した。無言であったが意志は伝わった。(やめておけ)そうか、お前はそう思うか。

 私は思う、この時にこそ、この大澤と言う男を「殺しておくべき」であったのだ。この男は終生、私の魂を殺し続けるのだから。一瞬の殺意が冷めれば、もう全てが「終わったこと」になった。秋子秋子ってうるせーんだよ、その女は私の母だ。他人のお前のモノじゃねぇ!

 10分も茶番劇を眺めていただろうか。この10分間に大澤が私に吐いた言葉の幾つかを憶えているが、最高に痛快だったのが「お前のせいで母さんは死んだんだっ!!」と私にだけ、言ったこと。弟に向けてではない。「お前たち」ではなく、明確に「お前」と、私を指して喚いたのだ。もういい、終わったことだ。母は死んだのだ。茶番劇は「検視官」とでも言うのだろうか?その到着で幕を下ろした。様々な「検視」を行うので、家族は部屋から出るように言われた。大澤は最後まで駄々をこねていたが、渋々、廊下に出た。2回では捜査員が「うわ、こりゃ酷いな・・・」と会話する声がする。夫婦喧嘩の翌朝は、さながら爆心地のような有様であるから、相当驚いたようだ。窓ガラスが割れたことだってあるのだから。大澤は刑事の質問に泣きながら答えていた。馬鹿である。母が首を吊るほど追い詰めておいて、今更泣くだと?母を殺された私が泣いていないのに、か?私は茶番劇のお陰で醒めきり、「お前のせいだ」と濡れ衣を着せられて更に冷めたから泣かない。弟は・・・泣かなかった。そう言えば、私は10歳の頃にこの母と大澤を「捨てた」んだっけな。この悲しみにも毅然としていなければ、私もまた、ただの「感傷に浸る馬鹿」に堕ちるのだろう。何よりも、真月がソレを許さないだろう。階段下の廊下の広場。私は煙草を吸いながら、ただ大澤の証言を聴いていた。喉が渇けば冷蔵庫からコーヒーを取り出して飲みながら、大澤の言葉を聴き続けた。夫婦喧嘩をしました。いつものことです。息子たちに聞いてください。普段は紐も結べないような不器用な妻なんです。短い紐を結んで長くして、ぶら下がり健康器で首を吊るなんて思いませんでした。いつもの夫婦喧嘩なんです・・・繰り返される「いつものこと」と言う万能ワード。刑事は家に居なかった私たち兄弟からも、一応は事情を聴きだす。「いつも、あんなに暴れるのかい?」夫婦喧嘩のことだろう。弟は頷いた。私は「階段から蹴り落とすことも平気でした」と答えた。刑事の目が丸く見開かれたが、検視官の報告を聞いて納得したようだ。


母、秋子。享年45歳。縊死・・・


 この日から葬儀が一通り終わるまでの記憶は断片的である。私は大澤に命じられて「死亡診断書」とでも呼ぶのだろうか?無ければ火葬に出来ない書類を受け取りに家を追い出された。弟なら車で行けるのに、私は自転車で30分かけて、その小さな医院に行った。医師は事務的な質問をして、封筒に書類を入れて手渡してくれた。私はのままパチンコ店に行き、1時間ほどパチンコに興じた。そして自転車に跨り、家に向かってのんびりと走り出した。のんびりと、のんびりと。

 大澤は尊大であり、「妻を喪った悲劇のヒーロー」であり続けた。刑事も「自殺」と判断し、以後のお咎めは無かったようだ。この国では「自殺に追い込む」のは罪ではないようだ。尊大になった大澤は、集まってくる親戚に、自分がどれほど妻を愛していたかを「訥々と」語り、あたかも自分が主人公のように物語を作っていった。


記憶の中で、通夜だったのだろうか?親戚や知人が集まり、広いリビングに葬儀屋のセットした長い食卓で母を偲ぶ言葉を連ねる中、私はただ淡々と座り、煙草を吸うだけであった。両隣に座る大澤の兄弟が私に話しかける。「悲しまないで」「辛いでしょうけど」etcetc・・・


「ソイツは哀しいふりをしてるだけだ、放っとけっ!」と大澤が怒鳴る。


刹那、目の前にあったデカいクリスタルの灰皿を大澤に投げつけた私を非難出来る人はいないだろう。避けられてしまったが、次弾を掴もうとした瞬間に抑え込まれた。


 また記憶は飛んで、私の部屋が「僧侶」の控室になった。私は構わず部屋に居続けたが、僧侶も気にしてはいなかったようだ。読経の前に、大澤たち「遺族」が用意した大トロの寿司を1桶食べ、茶を飲み。持参した「戒名」のことで揉めて。自殺の場合は「特別な戒名」になるらしく、それでは困ると「遺族たち」がクレームを入れ、ならば追加で20万円と涼しい顔でのたまう。母はその死に様まで塗り替えられてしまった。聞けば、墓も「大澤家」の墓に入るようだ。コレは一時期、「分骨」と言う騒動を起こしたほど禍根を残した。「何故、殺した男と同じ墓に入らねばならぬのか?」と言うことだろうし、宗派も違ったようだ。私にとってはどうでもいいことだった。読経が終わり、大澤はまた泣いていた。泣くぐらいなら、己の所業を悔いて死ねばいい。この男は最後まで「後悔」をしなかった。葬儀は「大澤側の人間」が執り行った。母の兄弟姉妹はただの参加者であった。そして、この葬儀は「大澤の罪」を塗り潰すためのエンターテインメントであった。大澤は私を捕まえて、母の死に顔を写真に撮れと命じた。死に化粧は弟の彼女にやらせた。この「彼女」が弟の伴侶となればまた、この行為の「重み」も変わってくるのだろうが、弟はこの彼女とは別れてしまった。一同監視の中、大澤は母の愛した装身具を棺に入れた。あまりに多くを入れるので、葬儀社の男が「それ以上入れると火葬場が困ってしまいます」とたしなめたほどだ。そして重々しく、私たち兄弟に「コレはお母さんの形見だ」と、指輪を1つずつ渡した。私が受け取ったのは、こう言っては悪いのだろうが、安っぽい、シルバーさえくすんだ古い指輪であった。弟が受け取った指輪を気にしてはいなかったが、後年、弟の家で見たその形見は、素人目に見ても素晴らしい物であった。この程度のことは予測済みであったので、私は早々に母のドレッサー(3面鏡)から、エメラルドの指輪を失敬してあったので問題は無い。記憶には無いのだが、私がこの葬儀のごたごたの間に、家族のアルバムから1枚の写真を抜いた「らしい」そしてその写真を弟に託したのだとか。私と弟がまだ赤ん坊で、ベンチに並んで座っているモノクロ写真だ。記憶には無いが、弟がそう言うならそうなのだろう。その写真の現物は今も弟が持っている。私はコピーして、デジタルデータで持っているだけだ。


葬儀は母の火葬を以って終わった。


この時だけ、弟は男泣きに泣いた。私は突っ立っていた。


あとは後夜祭である。グズグズと大澤は「洋二のせいだ」と繰り返すし、私はいたたまれなくなって、サッサと自室にこもった。天井に色鮮やかな・・・アレは何言う昆虫だろうか。黄緑色のバッタみたいな虫が掴まっていて、私を見下ろしていた。階下では酒に酔った「遺族たち」が騒いでいた。

 私は母の「遺族」ではないようだ。誰も気にしていないし、私が喪ったのは母ではなく「人生の中で重要な登場人物」であった。私は10歳の時に「親を捨てた」のだから、ここで泣いて蹲るのは、自分に嘘を吐いたことになる。棄てたのならば、もう気にする必要はない。ただ、やはり人の死と言うのはそこそこに「重い」ものだ。

 この世界の「いい加減なところ」は、大澤はこの時に死ぬべきであったし、後年、理由の如何を問わず私が死にかけた時も、本当なら死んでいるべきであったのだろう。弟はその人生を全うするべきだが、狂ってしまった。私を中心とする「物語」は、この先もただひたすらに優しく続くのだ。

 全てが終わり、祭りの熱狂もとうに去った。私は相変わらず警備員だったし、弟はペンキ職人であった。四十九日の前に、母の姉が我が家を訪ねて来た。聞けば「お母さんの着物を見せて欲しい」と言う。母は水商売が長く、それなりに「良い物」を身に着けていたので、箪笥一竿ほどの着物があった。たとう紙に包まれた着物をあーでもないこーでもないとひっくり返し、上物ばかりを選りだして、「形見で貰って行くよ」と言い残して、風呂敷包みを持って出て行った。ハイエナだと思った。


四十九日のことだ。私は思うところがあって、仕事を早退し、花を買って帰宅した。家に着いたのはもう暗くなってからだった。母の祭壇の前に、灯も点けずに大澤が座り込んでいた。「なんだよ、暗いじゃねーか」と言うと、ポツリと「法要も終わったし、死のうと思ってな・・・」私は瞬間的に怒鳴った。「馬鹿言ってんじゃねぇっ!」悲劇のヒーローのまま、てめぇだけ「楽になろう」などと、甘いことは言わせない。私は母の祭壇の前に花を供え、少々瞑目したあと、「この家を出る。他人と住んでも意味はない」と大澤に告げた。この男は母の再婚相手であって、元は他人である。弟はどうだか知らないが、この男の行動を見る限りでは「大澤の実子」であろう。大澤は驚いたようだが、「そうか・・・」と呟いただけであった。もう「この家」は崩壊しているのだ。葬儀や法要などで見栄を張り過ぎて、多額の支払いを抱えている大澤と同居してもいいことは無い。どうせまた、誰かの稼ぎを取り上げるのだろうし、ターゲットは先ずは私だ。捨てた母が残したものと言えば、失敬しておいたエメラルドの指輪と、大澤の知らない「保険金」だけであった。この「保険金」と言うのは、実際は違う名目のモノだったと思う。「互助会」からの入金があったのだが、その通知を私だけが見た。家事は私がやっていたので、郵便物だってチェックする。母の口座に20万円ほどが振り込まれていた。当時はまだうるさいルールも無かったので、母が死んだと言う公的証明書(戸籍謄本の写し)と、母の銀行口座の通帳などを用意すれば、口座の解約で残高を手にすることが出来た。コレは私が独占して、貯金しておいた。


 もうこの家に用はない。あとは勝手にすればいいのだ。引っ越しの手伝いすらしなかった。実家が無くなったので、私はまた職探しを始めた。「寮のある仕事」がいい。結局はパチンコ店の店員になった。母は生前、「パチンコ屋と雀荘の店員にだけはなるな」と言い続けていたが、私は簡単にその禁を破った。


私だって生きて行かねばならぬのだ。


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