第6話『火の章」

ただ愛に飢えていた。それだけのことだ。そしてこればかりはかなり歳が長ずるまで「解決」することが出来なかった。高校に進学、それなりに「進学校志向」の学校であったので、今までのように「元ツッパリ」のようなしがらみは消えた。私は15歳、入学後に迎えた誕生日で16歳にして「自由」を手に入れることが出来た。家ではもう殴られることも無い。高校生ともなれば、身体はかなり発育しているから、養父もそうそうは私を殴れなくなった。「反抗されるのが怖かった」のだ。どこまでもくだらない男であったが、人間性までも最低であることはこの先の人生で、私は思い知ることが出来た。養父は私に感謝するべきであった。私の中の「超自我」は私が作り上げたものだが、その超自我が「親に手を上げるものではない」と言う強固な倫理観で私を縛っていた。コレが無ければ、肋骨の~3本はへし折っていたはずだ。いや、そんなことをしないからこそ「私は私」でいることが出来たのだが・・・

 入学式の記憶はない。当然だが出席したはずだ。そして、新しい学校の新しいクラスにちょっと馴染んだ頃から、やはり我が家は通常に戻った。放任主義極まれりである。弁当はやはり500円玉になったし、相変わらず、夕食は養父の食べ残しをおかずにするか、冷蔵庫にある材料で自作するしかなかった。私は今でも多少は料理するが、この頃の習慣を引きずっているのではなく、単に「自炊生活」のコスパが優れているから自炊している。相当に酷い料理だが、コレは高校生時代から変わっていないので由としよう。


中学校時代を過ごし、高校2年生になるまで過ごした実家のことにちょっと触れておく。かなり広い庭があり、ガレージがあった。門扉を閉じれば、うるさいセールスマンも入ってこない程度には大きな家であった。そこで何を血迷ったか、養父がセントバーナードを連れて帰ってきた。正確に言えば、子犬であったセントバーナードを譲り受けたと宣言したのだ。大型犬なので通常の飼育は出来ず、先ずは訓練所でかなりの調教を行う必要があった。そのセントバーナードが我が家にやって来たのは、宣言から3か月後だっただろうか。生後半年の子犬であるが、既に体重は40kgはあったように思う。その「子犬」が本気で遊んでくれと飛びついてくる。訓練所には2回行った。家族を認識させ、どちらが上位か教えるためだ。ただ単に「匂い」を憶えさせたぐらいであったが。庭にはセントバーナードが放し飼い、ガレージにはアメリカのキャデラックと言うデカい外車がある。どこから見ても堅気の家には見えないが、堅気ではないので気にはならなかった。飼い始めたセントバーナードに「ボス」と言う名前を付け、散歩に連れて行ったのは最初の1週間ほどであった。養父は飽きやすいのだ。気が向いた時にだけボスの相手をするだけで、普段の散歩は私の日課になった。私は犬も猫も嫌いではないが、セントバーナードとなると話は別だ。本当に散歩が大変である。訓練所でしっかりと躾けられ、素性も「外国産の純血」であったので、非常に賢い犬ではあったが。

 例えば、「お手」とか「ちんちん」等と言うレベルではない教育がされていた。大型犬であるから制御を失えば凶器に変わるので当たり前の話だ。

食事を与える時は「待て」と言えばいつまでも待っている。視線に悲しみを浮かべながらでも待っているので、ソレを知った私はあまり待たせないようにしていた。餌はドライフードに「鶏の頭の水煮缶」と言う、大型犬専用の缶詰を混ぜて与える。この作業がまた苦痛であったが、私が与えないと、我が家では誰も犬に構わないので仕方なかった。散歩に出る時はリードを装着するのだが、その時に「Right!」と言えば私の右側に、「Left!」と言えば左側にサッと座る犬だった。養父よりも賢いと思った。遊ぶ時は「待て」をかけてから、ちょっと離れた場所から「カモンっ!」と言いながら自分の太ももを叩いて合図すると、全身で喜びを表現しながら走ってくる。非常に怖い。徐々に大きくなり、体重が80kgになっても甘えん坊のままであるから、飛びついてくる。暴走機関車のタックルである。勢いに怯んでしゃがんだ私の上を飛び越えて行くボス・・・可愛いには可愛いが、遊び盛りの高校生にとっては、迷惑な存在であることが多かった。とにかく1日に1回は散歩に連れ出さないといけないし、その時間も最低で30分。まだ幼い部分が多分に残っているので、散歩中によその犬に出会うと「喧嘩」をしようとする。犬にも「相性」があるようで、喧嘩にならない犬も多かったが、散歩道の途中の家で飼われている小型犬とは相性最悪であった。幸い、その小型犬は散歩には連れ出されないようで、フェンス越しに威嚇し合うだけであったが、フェンスへの体当たりをするとあっては、少々心が痛むが、ボスの後ろ脚の上の方を蹴って「シャラップっ!」と叱るしかなかった。小型犬相手にそんなにムキにならないでもいいと思うんだが・・・ちょっと本気を出せばあっさりと殺せる相手である。

 散歩に疲れて公園で一休みと言う時も気が抜けない。普通は大型犬を恐れると思うのだが、「幼い子」が何も知らずにボスに近寄る。仲良くしたいらしいが、ボスの機嫌が悪くて噛みでもしたら大騒ぎだ。いや、そこはしっかりと調教されていたので「人間に向かって牙をむく」ことは一切なかったのだが、その幼児とセントバーナードを見ているとかなり肝が冷えた。私が高校2年生になってから、我が家は引っ越しをした。この引っ越し先が最後の「私の実家」となった。ボスがいるので「庭付き一戸建て」である必要があった上に、商売柄「持ち家のローンも組めない」と言うことで借家でなければならない。この点がちょっと今でも腑に落ちないのだが、母は住宅公庫から数千万円の借金をしていた。多分、キャバレーのホステスを辞めて「自分の店」を持つ時に借りたのであろうが、中々に豪快な借金であった。母の店はかなり広い「パブ」であった。コレはのちの話でも出てくるので、今は詳細を書かないが。

 引っ越した家は4LDKの立派なモノだった。日当たりがかなり悪かったので、雰囲気は暗かったが。2階に洋間6畳と4.5畳、そして6畳の和室が1間あった。1階はキッチンと風呂トイレとLDKである。庭はかなり狭かった上に、ボスの住む小屋と言うか「金属製の檻」を設置したから、ボスの運動にも不便であった。ボスは犬の本能で、庭だけでなく、家の周囲を回ることを憶えた。引っ越し当初は木が植えてあったり、紫陽花の植え込みがあったものだが、ボスの周回路となり、全ての植物は消えた。養父はキャデラックの車検時に車を手放した。元はと言えば、部下の借金のカタに取り上げてきた車らしかったから当たり前だろう。車が無いと通勤にも不便するので、すぐさま日産の3ナンバーセダンをどこかから調達してきた。前の家でもそうだったが、水商売の男である。本来は運転も上手いのだが、酔ってそのまま飲酒運転で帰宅するものだから、駐車場に入れる時にぶつけることがあった。前の家では「家屋にアタック」したし、引っ越し先ではガレージの屋根の支柱にぶつけていた。屋根が傾く程度で済んではいたが。

 家の事情は事情で、学校生活には関係ない。最初から昼飯は500円玉で支給されていて、毎月のお小遣いは5千円で、別にもらっていた。当時の高校生としてはかなりお金の自由が利いた。昼飯を200円のデカくて不味いパンと水道水にすれば、300円は浮く計算だ。この「パン代」を貰うのが中々に難易度が高かった。中学校時代はリビングのテーブルの上に置かれていたのだが、引っ越してからは、毎朝、母たちの寝室まで貰いに行かなければならなかった。ざっくりと計算すれば、私が16歳の時、母の年齢は37歳である。まだまだ「女盛り」であるし、相変わらず美人であった。母はキャバレーのホステスを専業にして以来、指名数・指名率ともにNo1であり続けた「鉄の女」でもある。と言うわけで、養父と共に酔っぱらって帰宅して、「夫婦の秘め事」なんぞを執り行って、そのまま就寝と言うか「寝落ち」することがあった。そんな場合はまだマシで、高校の3年間で、養父と母が69の体勢で眠りこけているのを20回は見た。性教育にはオープンな家庭であった。しかし、そんな日は流石に照れくさいのか、すぐに毛布をひっ被って「そこの財布から持っていきな」と言ったものだ。そのセリフは「ボーナスタイム開始の合図」である。なんで遊び盛りの高校生が、宝箱に等しい財布から「500円玉1枚」で満足するだろうか?当然のように1万円札と500円玉を抜くわけだ。しっかりと500円玉を抜くのは、母が必ず、私のパン代のために500円玉を用意してるのを知っていたから。1万円札だけを抜けば怪しまれるが、用意した500円玉が無ければ、多少は訝しく思いながらも納得するだろう。(5万円ほど入っていたはずだけど、4万円だったっけ?)と言う次第である。

 あるいは、この頃から夫婦仲が悪くなってきていたので、喧嘩しながら帰宅することもあった。そんな日は、母のハンドバッグがリビングにあったり、養父の背広が乱雑に脱ぎ捨ててあったりした。前夜の夫婦喧嘩を知っている私は、リビングに確認に行き、ハンドバッグや養父の背広(内ポケットに財布アリ)があれば、大人しく1万円札を抜いて登校。無ければ、慣れたもので、夫婦喧嘩で乱雑に散らかった母たちの寝室に赴いて「母ちゃん、飯代っ!」である。何が何でも飯代はいただくのが私の流儀であった。夫婦喧嘩の翌朝も高確率でボーナスタイムに突入していた。億劫そうに「そこのバッグに財布が・・・」でダウンする母と、1万円札を抜く息子。いい勝負であった。

 朝は寝坊せずに学校に行き、部活で夕方まで部室やグラウンドで過ごす。帰宅したら、ボスを散歩に連れて行って、帰る頃には母も養父も出勤していて家にはいない。弟は帰ってこない。若干、時系列が交錯するが、新しい引っ越し先では、弟は高1になっていて、それはもう立派なヤンキーになっていた。そんな男が帰ってくるとすれば「腹を空かせて」と言う理由だけだ。そんな場合に備えて、私は弟の分も食事を用意していた。もう養父の食べ残しすら無いこともあったから仕方ない。材料はあったし、無ければ自分の財布からお金を出して材料を買った。あとで2倍にして母に請求すれば、割と素直に払ってくれた。なによりも「弟の分まで用意する」ことへの評価だったのだろう。そして、私が弟の分まで食事の用意をしていたのは「兄弟愛」などではなく、喰うものが無いと暴れながらまた家を出て行くからだ。私に対して暴力を振るったりはしなかったが、関心も無かったようで、壁を殴り、乱暴にドアを蹴り開けて出て行かせるのも忍びなかったし、何よりも割と怖かったのだ。見た目はそこそこの、いやかなりのイケメンで、眉毛もあったがパーマをかけた頭髪は茶色かった。そんな弟を恐れた私を非難できる人はいるだろうか?挙句、この頃からは兄である私を呼び捨てである。中学校時代までは「兄ちゃん」と呼んでいた可愛い弟が、高校生になって頭が茶色くなると「おい、洋二っ!」である。当然私は兄として毅然とした態度で、「なんだよ?」とぶっきらぼうに返事はするが、敢えて呼び捨てには抗議しなかった。間近で見るヤンキーは本当に怖いモノである。

 私はどうにも「歩くこと」が好きなタチだったらしい。今ではなるべくなら歩きたくない。金さえあればタクシーに乗りたいと思うほど堕落したが、小学校時代は「バス通学」するはずが、テクテクと歩いて通学していたし、高校に入っても、バスの定期は買ってもらえたのだが、どうせバスに乗っても10分は歩くようなので、サッサと自転車通学に変更した。早起きした日は歩いて1時間かけて登校していたほどだ。相変わらず、家ではサンドバッグのような扱いであった。大人しくしていたわけでは無いのは、朝の「1万円札ボーナスタイム」でも分かるだろう。しかし、家事手伝いは私の仕事であった。弟は何故もあれほど優遇されていたのは不明だが。多分に「養父のタネ」で産まれたからであろうとは思うが、当時は納得のいかないことであった。「弟に行かせればいい」と言えば、お前だって行けるだろうと、買い物に行かされていたが、この家事手伝いのお陰である程度の公的手続きやら銀行口座の開設やらが出来るようになったのは良いことではあった。ボスの散歩も私の仕事であるが、歩くことは苦にならないのでどうでもよかった。しかし、学校生活の時間に制約があるのは辛いモノだった。徐々に私は「ボスの餌係」しかしないようになった。散歩も大変である。部活で帰宅が19:00を回れば、食事の支度のことも考えなければならないし、20:00を回ってから犬の散歩と言うのも億劫だ。ボスは逞しく、家の周りに周回路を作り上げて走り回っていたし。餌だけは与えないと死んでしまうので、玄関でドッグフードに鶏の頭の水煮缶を混ぜる作業は続いた。コレも、餌づくりの最中に弟が帰宅すると「臭ぇっ!」とか、脚で「どけっ!」とばかりに押されるか、蔑む視線で見られるかであって、「兄貴も大変だな」と言うねぎらいは一切なかったが、まあ弟は私を殴ったりしないのでどうでも良かった。たまに弟が友達を連れて帰ってくる。確実に酒を携えて。そんな時は必ずリビングに呼び出されて、酒の肴を作らされたものだが、特に苦にはしていなかった。全員がヤンキーである。逆らったら庭に埋められたりするかも知れない。と言うか、私もそんなヤンキーが嫌いではなかった。何せ、ほとんどが中学校時代の後輩である。そんなヤンキーに「兄さん、兄さん」と呼ばれるのも悪くはなかった。たまに女の子も連れてきたが、そんな場合は弟のガードが異常に硬くて話しかけることすら不可能であった。弟は嫉妬深いのだ。


私の住む世界は「徒歩圏内」であった。


ソレで何の不都合もなく、世界の多くのことを知っていたから楽しかった。あっちに30分歩けば、広いのにひと気の少ない公園があって、傍にある駄菓子屋ではキンキンに冷えたコーラが売っていることを知っているし、非常に稀ではあるが、美しいお姉さんとすれ違える路地も知っていた。サキちゃんは中学校時代から割と遠くから通っていたので、通学路は逆方向からであった。当然だがその通学路だって把握していた。もう待ち伏せることも無くなっていたが。


そう、サキちゃん。


ずっと可愛いままだった。剣道3段であるから、それまでは県立では弱小であった剣道部の「秘蔵っ子」になっていた。普段の他校との試合には出さないほどの部員だった。県大会での活躍に期待されていたのだ。

高校一年生となり、「元ツッパリ」と言うしがらみは消えたが、やはり「噂話」のネタにはされる。そして偏差値の高い「ツッパリ」だっている。私のクラスにも数人のツッパリがいた。早速徒党を組んで周囲に睨みをきかせていたが、私みたいな「元ツッパリだが大人しくしたい」と言うクラスメイトは邪魔らしい。3日目にはいわゆる「いじめ」が始った。ドアから出ようとすると、脚で通せんぼをする程度の「様子見」であった。仕方ないので、既にリーダーとなっていた茶髪パーマ(校則違反だ)と直談判することにした。そこそこに怖い。身長も高いし体格もいい。しかし、怖がっていたところで今後の学校生活が良くなるわけではないわけで、むしろ悪化するだろう。

 「なぁ、俺はさ、普通の男だ。それでいいな?」

「ガンを付ける」と言うのが挨拶だが、間近まで顔を近づけて来て「おおん?」とか、多分猿か何かの言語だと思うが喋ったので、目を逸らさずに「分からねぇか?」と念押ししたら、「フンッ・・・」と答えて、以来ツッパリ連中は私に手を出すことは無かった。ついでに、我がクラス内はいじめも無く平和になった。


さて、平和な高校生活が始まった。制服は早々に買い換えたが。学校指定のダサいスラックスは中学時代のモノを履くようになった。同じ「黒色」だからちょうどよかった。ブレザーは市内の洋服屋で「ちょっと洒落たスタイル」のものが売られていたので、ソレを買った。不思議なもので、市内の高校の全ての制服に対応するサードパーティ製の制服があった。ちょっと金を出せば、「高校のブレザーにエンブレムの刺繍」まで入れてあるものが買えた。私の高校はエンブレムではなく、校章を身に着けることを義務化していた程度だ。何回か紛失したが、校章が無いとうるさいので買い直す。職員室に行けば売ってくれた、300円だった。髪型も変えた。中学時代は問答無用で坊主刈りであったが、中3の3学期に入る前から伸ばし始めていたから、髪型を変えるのは容易であった。緩めのリーゼントで前髪をちょっと下ろす感じであった。哀しいかな、身長が低いのが難点ではあったが。そう、私は高校に入ったらサキちゃんに告白するつもりであった。だからカッコつけていたのだが、サキちゃんとは前世でかなりラブラブカップルであったようで、この人生では本当に縁なかった。なお、今生では割と幸せに生きているので、来世は「種もみを持ち帰る途中で殺される農夫」だと思う。

 サキちゃんとは廊下ですれ違うことも無いのだ。ソレもそのはず、校舎が違う。何でここまで縁が無いのか?中2時代はクラスがある階数が違う。3年生で同じ階になれば、今度は「交換日記女子」を紹介される。高校に願書を出せば、そこにはいない。願書を差し替える手間を考えて欲しい。そして、やっと同じ高校に入学すれば、私は旧校舎でサキちゃんは新校舎である。私の世代は子供の数が多く、高校1クラス40人で10クラスあった。割とアバウトで45人学級もあれば40人きっちりの学級もあったが。高校に入れば「1年A組」みたいにアルファベットで呼ばれると思っていたが、私の学年から「数字」に変更されたので、「1年5組」であった。サキちゃんは「1年9組」で、選択教科が違っていたので益々縁がない。音楽選択とか美術選択でクラス分けされていたのだ。私は音楽には疎いので、美術選択であった。サキちゃんは全く違う選択教科を選んでいた。先に知っていれば同じ選択にしたのだが、こればかりは知りようがなかった。

 仕方が無いので、放課後にサキちゃんを見かけた時に、「ちょっといいかな?」とひと気のない場所に連れ出した。告白タイムである。入学早々だが、既に2年前から知ってるし、険悪な仲でも無かったので、サキちゃんは可愛いまま着いてきた。黒のブレザーが眩しいぜ、お前(とは言ってないが)


「俺さ、サキちゃんのことが好きなんだ」、言えた。つっかえずに言えた。

「安元?」

「サキちゃんが本当に好きなんだ・・・」(語尾、消え入りそう)

「安元は同じ中学だし、友達みたいなものだよ。好きとかはないなぁ」

 あ、友達ですら無いのかと思った。正解だった。

「駄目かな?」

「私、部活で忙しいし。安元だって部活するでしょ?」


 儚くも消えた初恋であった。それまで「好きな女子」はいたが、サキちゃんには「性的な意味での恋」をしていたから、衝撃は大きかった。もしもタイムマシンがあるならば、私はの頃の私に聖徳太子の1万円札をありったけ持って行って、「コレで1回でいいからやらせてもらえ。お前のせいで後悔しきりだよ、まったくもう・・・」と言ってやりたい。

 諦めた。振られたのだから諦めよう。しかしサキちゃんは天然であった。この告白後も、振った割には笑顔を私に見せてくれた。「安元ー!」と遠くから呼ばわって、「もう帰るのー?」とか、フレンドリーさには磨きまでかかっていたが、1メートルまで近づくと「ふいっと」離れていた。女は魔物だと思った。しかし、「振られた」と言う事実が厳然としてあるわけで、だったら他の子に惚れてもいいはずだ。もちろん、その通りで、私が他の女の子に興味を示しても我関せずのサキちゃんであった。ここで私のトラウマと言うか、子供時代の哀しみが頭をもたげることになった。私は「愛に飢えていた」のだ。サキちゃんは惚れた時点で「エッチなことをしたい」と思ったが、もうサキちゃんと関係を持つことは無い。ならば、好きな子に「安元が好きだよ」と言われたい。愛されたい。ついでに童貞も卒業したい。もう手あたり次第であった。ちょっと可愛くてフレンドリーな女の子から、かなり可愛くて縁がない女の子とか。そう言えば、高1の時の担任が「新任から2年目の若い女教師」で、今思えばちょっと可愛い「タヌキ顔」の女性であったが、当時は「教師とかババァじゃん」と言う、非常に誤った認識をしていた。上手くいけばどうにかなった・・・わけがないが。2年後には同僚である教師と結婚したし。

 そんな調子で5~6人に告った時点で「安元はヤバい」と、女子の間の噂でかなり有名になれた。有名になったので、女子は私を避けるようになった。その後、20歳中盤では「ラブ・テロリスト」と呼ばれた男の高校時代は悲惨であった。幸いにもサキちゃんは校舎が違うほどの距離感があったので、相変わらず「安元ー!」と呼ばわっては消える程度には嫌われていなかった。妖怪にそんなモノがいたかいなかったか記憶が怪しいが、「呼ばわり妖怪」(可愛い)のままであった。サキちゃんにまで嫌われていたら、私はグレて、盗んだバイクで走り回っていたかも知れない。

 愛に飢えたまま、私は部活に打ち込んだ。当然、写真部であるが、これがまた非常に心許ない状況の部であった。オリエンテーリングで「入部の仕方」なんぞは教わった。部活の紹介と言うか勧誘をオリエンテーリングで各部の部長から聞いたが、写真部の紹介が無かった。写真部自体は存在していたが、勧誘すらする気が無いようだった。のちに「新2年生の部員が居なくなったので、オリエンテーリングには出席しなかった」と聞かされた。そう、恐ろしいことに部員がいないのだ。3年生は1学期を終えたら部活から引退する慣習があった。写真部はそんなことは無かったが。しかし、入部届を出しに行っても、部室には誰もいない。鍵がかかったままだ。2~3回はそんなことを繰り返し、ある日、同じ入部希望者と鉢合わせした。その男子「福岡君」も困っていたらしく、二人で部室前で駄弁っていた。そのうち誰かが来るだろうと言うことで。福岡君はちょっと少しかなり太っていたが、非常に快活であった。そして待つこと30分ほどであったか、やっと写真部の部長が現れた。階段を降りていたら、私たちの会話が聞こえたので顔を出しただけと言う奇跡の邂逅であった。その部長は福岡君を一回り大きくしたデブ・・・恰幅の良い3年生だった。「写真部に来たの?」と言う問いに「はい」と答えるチビとデブ。「入部届は持ってきた?」と言われれば、カバンからごそごそと取り出す。「ソレを職員室の斉藤先生に出しておいて。今日は部活は無いから、明日また来てよ」と、本当に部活動をしてるのか怪しい雰囲気だった。入部届を受け取った斉藤先生も「俺は写真には興味ないから」と言う雰囲気をオーラのように纏っていた。部活の顧問を受け持つ時に「くじ引き」で写真部に当たったそうだ。そのお陰で、私たち部員はかなり自由に活動で来たので、由としよう。本当に自由であった。毎月、卒業アルバム用の写真を提出していればあとは自由。写真提出と言っても、適当に校内の生徒や風景を撮影したり、運動部に出入りして活動中の写真を撮影するだけである。カラーネガフィルム3本を支給され、撮り切ればノルマはお終いである。

 そもそも、専門のカメラマン(市内の写真スタジオのカメラマン)がいたので、私たちの撮る写真は「抑えと言うかおまけ」みたいなものである。そんな事情はあとで知ったことであるが。

 翌日、私と福岡君は期待と不安に胸を膨らませて部室に行った。驚くことに、部室は新校舎であったが、その広さが凄かった。文科系クラブでは一番広い部室であったのだ。通常はどこかの教室を使用するのだが、写真部は「視聴覚室」と言う、ゆうに100人は収容出来る部屋を使っていた。往時の話では、これでも狭かったそうだ。プリントした大伸ばし写真の乾燥場所も兼ねていたから。部員も20人以上いたらしいが、何故か皆辞めて行ったそうだ。コレは本当に理由が分からないようで、確かに部内でいじめがあったとかではないし、部長は太ってはいるがナイスガイだった。燃費は悪そうだったが・・・


早速「部活会議」となった。出席者は部長と副部長と、私と福岡君ともう一人の新入部員だけであったが、非常に大事な議題があった。

「え~、2年生がいないので、僕が部長のままだが受験で忙しい。新入部員の中から部長と副部長を選ぶしかない。色々と分からないことも多いだろうが頑張って欲しい」

 新入部員は3人、つまり「ヒラ部員」は1人だけ・・・えっ?会計係も?つまり全員が「役付き」となるわけだ。その頃私は写真に燃えていたので「僕が部長になりますっ!」と鮮やかに宣言。存在感だけはデカい福岡君は自動的に副部長となり、若干影が薄い高田君が会計係となった。のちに高田君は逃げた。


そして私たち新入部員は洗礼を受けることになった。


「で、カメラは持ってるの?ふーん、安元はX-7か・・・買い換えろ、この先困るぞ。福岡君はMEか、買い換えろ。高田君はニコマートね、そのままでいいや」

私もX-7では不満があったので買い替えを決断した。福岡君は長い間買い替えすらしなかった。高田君は数か月で消えた。

 カメラの話は詳細には書かないが、「オートモード専用機」を使っていた私と福岡君は「マニュアルモード」も使えるカメラに買い換えろと言われたのだ。確かに「作品作り」に向いたカメラではなかったが、今の私はカメラを「オートモード」でしか使っていない・・・

 そして、更に驚かされたのが写真部のレベルの高さであった。部長が2冊の大きなアルバム(手作り)を持ってきた。そこにあったのは当時の私には撮れないであろう、「プロ級」の写真であった。大きく伸ばされた写真の迫力も相まって、夢中でその作品集を見ていた。

「先輩たち、あとは俺の学年の部員の撮った写真だ。この程度は撮れるようになってくれ」

いや無理です。僕が得意なのはサキちゃんの隠し撮りですとは言えず、「はい、頑張ります」と言うしかなかった。そして翌日からは厳しく教育された。3年生の部員しかいないので、即ち「受験勉強があるから時間が無い」と言うこと。兎に角「フィルム現像とプリント作業」だけは憶えろと。部活に付き物の「雑務」もあるが、ソレはマメな先輩が要点をノートにまとめてくれていた。「大事なのは部費の争奪戦だ」と教わった。写真部は割と優遇されてはいたが、部費は「部長会議」で決められるらしく、そこでぼんやりしていると、部費が1万円になるとかで・・・それは困る。


「部長会議」は5月の連休明けなので、それまでに「いっぱしの写真部員」(部長)になれと、厳しい教育が施されたのだ。これまた驚くことに、写真部は専用の「暗室」まで与えられていた。他校の事情を知った時に、如何に我が部が優遇されていたかを知った。「暗室を作ってぇ・・・それからぁ」だそうだ。窓の小さな「化学予備室」のような部屋の窓をふさぐ作業から部活が始まるそうだ。中には我が部と同じく暗室を与えられている高校もあったが、そこも制約があったようだ。暗室が狭いとか、暗室内では水洗が出来ないとか。我が部の暗室には引き伸ばし機が2台、しかも大型である。カラープリントも出来る設備もあったが、流石に一般高校生が手を出せるモノでは無かった。引き伸ばしも「全紙対応」であった。全紙と言う大きさは、新聞の見開きよりもちょっと小さいサイズ。この大きさのプリントが出来、薬剤を洗い流す「水洗」と言う工程まで暗室内で出来ると言う恵まれた環境であった。ひとえに「先輩諸氏」の努力と評価の賜物であったのだろう。


私たちが入部した時は1つ上の先輩がいない惨状であったが・・・


「部長は一番でなければならんっ!」と言うことで、それはそれは厳しく教育された。なので今でもモノクロ写真なら自家処理出来るはずだ。道具さえあればの話だが。「お前が知ってればいい」と言うことで、面倒な作業まで教わった。ある意味「英才教育」を受けたのだ。ソレが部長の責務であり「誇り」であると。それはもう必死で憶えた。多分、2週間ほどで白黒写真の引き伸ばしについて「分からないこと」は無くなった。もしも分からなくても「考えて試せば分かる」レベルには達した。3年生の先輩たちは受験勉強で忙しくなるから、と。

 その後も先輩たちは部室にたむろしたり、冬になる頃には「部活停止」の処分を受ける事件まで起こしてくれたが・・・

 私はカメラを買い換える算段に入った。あのお年玉(13万円もあった)を取っておけばと悔やまれたが、ブレザーを買ったり、今後の高校生生活で必要になるであろうお金は大事だ。そうだ、もう高校生になったのだから「アルバイト」をしよう。


そう決めたのであった。


高校1年生にして写真部の部長となり、今まで使っていたカメラではパワー不足と指摘された。優しい先輩が「俺のカメラ、譲ってやろうか?」と言ってくれたりもしたが、馴染んでいるメーカーとは違うので、丁重にお断りした。買うならば、当時発売されたばかりの新鋭機であろう。ミノルタX-700と言う選択をしたが、直後に兄弟機のX-500と600が発売された。絞りもシャッター速度もカメラが決めてくれる「プログラムAE」はあまりにも素人じみていたので、「写真部部長」としては避けたかった事情もある。私は兄弟機のX-500を買うことにした。「下位機」となるので安かったし。それでもお小遣いで買えるモノではないし、お小遣いを前借りしても買えないだろう。アルバイトをして買うしかなかった。

 流石に「ねだれば買ってくれる」と言うほど甘い家庭ではなかったし。私は母に「カメラを買いたいのでアルバイトしたい」と許可を貰おうとしたが、母は不安だったのであろう。

「じゃぁうちの店で働きな。皿洗いだ」とご託宣。どちらかと言えば、例えばドカチン労働の方が健全に思える。母の店は「パブ」、つまりは酒場であったから。ホステス時代に稼いで貯めた僅かな貯金と、後はローンを組んで、驚くことに元居たキャバレーから徒歩数分の所に店を開いた。ある意味、かなり挑戦的なやり方だし、下手すれば営業妨害だってされかねないはずだが、人付き合いに如才無い母であったから、キャバレーとの協定で「お互いに客を流し合う」ことで手を打ったようだ。地方都市とは言え、インフラ事業の支社はあり、母を贔屓にしていたインフラ会社のお偉いさんを新しく開く店の「顧客」として抱え込むことに成功してもいた。コレがかなりの売り上げとなり、母の店はかなりの黒字を出していた。オープンから閉店まで12年ほどあったが、その間で赤字だった月は無い。商売も上手かった。周囲の店の客単価が大体5~6千円だった時代に、「ハウスボトルのウィスキー飲み放題、乾きモノ1品に、美味い肴1品、腹に溜まるモノを1品」と言うセット料金で3千円だった。例えば、お通しは省いているので、乾きモノのナッツ類を出し、その日の仕入れで色々変わるが「刺身」であったり、「焼きもの」であったり。続いて焼きそばとか、鶏のから揚げのような「重めの品」を出す。コレで3千円なのだから当たった。もちろん、商売であるから、儲けることも忘れてはいない。ウィスキーが飲めない客は別料金でビールやサワーの類を注文するし、肴も「その日のメニュー」以外のモノを頼めば別料金である。そして、抱き込みに成功したインフラ会社のお偉いさんは若い社員や接待相手を連れて来る。安くてそこそこに美味くて、なによりも「ママ」が美人で、若い子もいるパブは常連に支えられ、12年間、盛況を続けた。ラーメン店でも3年続けば上等、10年で老舗と呼ばれる客商売。水商売で10年以上続けるのはかなり難しいだろう。


そんな店であったので、人手不足ではなかった。新たに人を雇っても十分にやっていけるはずであるが、我が子のアルバイトに一抹の不安を抱いた母は、先ずは自分の店で「労働力になるか?」と言うことを見極めようとしたようだ。私からすれば、アルバイトの方が楽である。家では無給のサンドバッグ扱いなのだから、働いた分はきちんとお金をくれる「アルバイト」の方が魅力的であった。餓鬼の頃から皿洗いや家事手伝いを強制され、いわば「社長」とも言える養父の意向にそぐわなければ鉄拳制裁。飯だって抜きになると言う環境の薫陶により、私の「労働適正」は同年代の子供よりも常に上であった。母の店で働くのは多少、甘やかされていたと思うが、こればかりは母の考えなので致し方なかった。別に、母の知り合いの土建会社で土方でも良かったのだが・・・

 店では母そのものは厳しかったが、店のお姉さん(結構な美人ばかり)は優しかった。店の広さは15坪、キッチンは3坪ほどだったあろうか?雑居ビルの1フロアをぶち抜いて1店舗にしていた。個人経営のパブとしては広めであったと思う。当然、働くホステス(女性)も多かった。若い子が3~4人、おばさんが2人ほど。おばさんとは即ち、元の勤務先のキャバレーから引き抜いてきた「妖怪」のことである。妖怪は自分の「太客」も連れて来ているので、母の店での扱いは別格であった。女幹部のようであるが、コレがどうして「店の女の子にも優しい」のである。若い子の中には、生活がだらしない子や悪い誘惑に乗りそうな子もいたりするものだが、きちんとフォローしていた。花街の一角にあった母の店には悪い噂ひとつ無かった。逆に「〇〇キャバレーの正美の店は信用出来る」とまで言われていた。正美とは母の源氏名である。


「名前」と言えば、我が家は複雑であった。私と弟の「親権」は実父がとったので、私と弟は実父の姓を名乗っている。母は離婚して旧姓に戻った。養父は当然、自分の姓があるわけだ。先妻が離婚に応じなかった期間が長かったので、約10年間、1つの家庭に3つの姓があったわけだ。養父の離婚が成立してすぐに母は籍を入れたが、その時に「お前たちはどうする?」と訊かれた。養父や母の思惑としては、「縁組」して、養父の姓、つまりは「大澤」を名乗って欲しかったようだが、ちょうど私の受験直前であったので「面倒は嫌だ」と言えた。私は養父の姓など名乗る気は一切なかったので、実父の姓のままを貫いた。別に実父に何の恩義も感じてはいないが、「大澤姓」になるよりはマシだった。1つの家に3つの姓があると、電話に出るのも面倒で、こちらから「はい、○〇です」とは言えない。なので、電話を取ったら「はい」とだけ答える。相手が「○○さんのお宅でしょうか?」と言えば「はい、そうです」と答える。


養父の先妻の話をしておこう。この後の人生でこの女性が私の人生に登場することは無いから。端的に言えば「被害者」である。夫がキャバレーの支配人で出世頭(のちに「常務」になったほどだ)であり、愛し合ってもいた。子供も二人いたと言う幸せな家庭だったはずだ。その夫が、キャバレーのアルバイトであった私の母と不倫をして、略奪されてしまったわけだ。多少は陰湿な部分もあったが、きわめてマトモな女性であった。夫、つまりは私の養父への愛情があった頃は、我が家に「裁ちばさみ」を持って乗り込んで来て、母の長い髪を切ったりしたし、とある平日の夜には、私に電話をしてきて、「夜になったらお母さんの部屋を覗いてごらん。凄いことをしているよ」と、ある意味余計な性教育までしてくれた。このことを知った母はかなり意気消沈し涙していたが、言うなれば自業自得である。私はたとえ身内でも「倫理観の無い行い」を許容しない。許容しないだけで糾弾することも滅多にないが、先妻が行った「母から見れば悪行」の矛先が私たち子供に及ぶことは無かった。あの性教育電話以外は。つまりは、傍から見れば多少エキセントリックな行動も、「不倫の被害者」の行いだと思えば穏当なものであった。そして私は不倫からの略奪婚をした母を責める気は無いし、殺されかけたことも「過去のこと」であり、せいぜい死ななくて良かったと思うぐらいである。もしも「理不尽であること」に対して恨みつらみを募らせていたら、私は生きることを放棄するしかない。そして私は「生きること」を選択している。それだけのことだ。

 母の店でアルバイトと言うのはかなり気楽だ。やることと言えば皿洗いと雑用である。母の店は「ハウスボトルのウィスキーは飲み放題」であったから、水割り用の「ミネラルウォーター」が必要だ。その「ミネラルウォーター」(水道水100%)を準備したり。早い話がミネラルウォーターの空き瓶に水道水を詰める簡単なお仕事をしたりだ。瓶を清潔に保つのも大事である。あとは煙草を吸って時間を潰すだけ。私は小学生時代に煙草を憶えたが、毎日吸うようになったのは中学校に入ってからなので、まあ早めではあるが、「ツッパリ」だったことを思えば標準的であろう。そして私は極めて真面目に働いた。暇な時は暇だが、客が帰る時はテーブル3つは入れ替わるので、運ばれてくる食器はかなりの数になる。書き忘れたが大体2時間の入れ替え制であった。そんな時は懸命に皿を洗い、キッチンのシンクに汚れた食器を残すことは無かった。「働くことでお金を得る」わけだから当然のことである。無給でやらされる家事とは違う。そして、手が空くと煙草を吸いながら「どんなカメラとレンズを買おうか?」と思い馳せるわけだ。煙草を吸っていることがバレたら叱られるが、母がキャバレーから引き抜いてきた妖怪は、煙草を吸ってる私を見て「コラッ!」と言うだけで、母に密告することは無かったし、若いお姉さんは一緒に煙草を吸って(サボって)は、「ばれないようにね」とほほ笑むだけだ。1回だけ、バレそうになったことがあるが、その時は、母は後ろにいる誰かと喋りながらキッチンに入ってきたので、咄嗟に吸殻をシンクに投げ込むことに成功した。キッチンは大型の換気扇を回しっぱなしにしているので、匂いでバレる心配はなかった。いや、バレてはいたのだろう。喫煙者の洋服は煙草臭がするものだ。そこは暗黙の了解でと言うことで。それに、高校2年生になる頃には「家の中なら飲酒喫煙は黙認」となったし。外で飲酒なんぞで補導されれば話は違ってくるが、家庭内なら黙認。

 母の「優しさ」だったのだろうことは容易に想像がつく。店に行く時はバスで行くが、帰りはタクシーに乗せられていた。働いていた時間は18:00から24:00だったので、バスがあるわけもなかった。終バスに間に合うように帰らせようにも「花街」である、悪い大人も多い。週に5日のアルバイトで、私は2か月働いた。6月の終わりに「もう来ないでいいよ。どんなカメラが欲しいんだい?」と母に訊かれた。私は最低限の機材を口に出した。広角レンズ・標準レンズ・望遠レンズ・カメラ名・モータードライブが欲しいと。念には念を入れて「メモ」にして渡した。今思えば、あんな温い労働で買えるような代物では無かったが、「欲しいモノ」と言われたので答えた。母は「分った」とだけ言って、お金を渡してはくれなかった。そのうち価格を調べて請求しようかと思っていたら、ある朝、枕元にそのカメラとレンズなどが置かれていた。全部新品である。母は知人のカメラ店の主人に頼んで揃えてくれたのだ。正直に嬉しかった。私はすぐに跳び起きて、カメラとモータードライブに使う電池を買いにコンビニに走った。家に帰ると早速電池を装填して「空シャッター」を切ってじんわりと感動していた。そのカメラを持って登校したのは言うまでもないが、その日の部活は早々に切り上げて家に帰った。普段は夕方ギリギリまで部活に励むのだが、そうすると帰宅時には母は出勤している。私は母にお礼が言いたかったので、急いで帰った。そんな時間に私が帰宅するのが珍しかったのだろう、母は「どうしたの?」と言った。私はカメラをバッグから取り出して、「ありがとうっ!」と言った。照れくさそうに笑いながら母は「大赤字だよ、こんなもんのために」と言った。コレが昔からの日常であったなら良かったのになあと今では思う。何かの「イベントやサプライズ」でもない限り、私の生活は緊張を強いられていたから。既に養父の暴力は止んではいたが、それでも起こると言うか癇癪を起こせば煩いことこの上ないし、お小遣いの停止とかの懲罰はあったし。

 新しいカメラを手に入れた私はますます写真にのめり込んで行った。写真部では副部長の福岡君の羨望の眼差しに優越感を憶え、いわば業務でやってる「校内生活のスナップ撮影」にも精を出した。写真部の部長と言えば、ほとんどの場所に顔パスで入り込めた。他のクラブ活動の練習場所にシレっと紛れ込んで撮影するのもお手の物だ。文科系クラブにだって入り込んでいたが、何故か、写真部の副部長様が「家庭部」とか「アニメ部」にいることが多かった。「家庭部」の部員は女子しかいない・・・あの野郎(笑)と思った。家庭部では週に3回は「調理実習」をやっていたから、人間の3大欲求の内2つを家庭部で満たしていたようだ。性欲はまあ「女の子との会話」程度で満たしていたが。残る人間の欲求である「睡眠欲」は写真部で。そんな副部長様がアニメ部では真面目にセル画を塗っていた。アニメ部にも女子は多かった。写真部には女子はいない。私はあちこちの部に出入りしていたので女子の顔も見るし話もするが、部員が男ばかり3人の写真部である。福岡君の「ご乱心」も理解出来る。

 7月に入ってすぐのことだと記憶している。その日、私は剣道部の撮影に行ってみた。サキちゃんのいる剣道部である。振られたとは言え、嫌われていたわけではなく、女子の間での悪評もまだサキちゃんには届いていない頃である。サキちゃんは剣道場の壁際で、一人で正座していた。「どうしたの?」と尋ねると、部員は全員、他校との交流試合に出ているそうだ。サキちゃんは「秘蔵っ子」なので、あまり対外試合には出さない方針で、念には念を入れよと言うことで「部員全員」(サキちゃんを除く)で出かけているらしい。正座しているサキちゃんを見下ろしているのは気分が悪いので、私も床にあぐらをかいて座った。「カメラ、好きだね安元は」と言われたので「ああ好きだよ」と答えた。サキちゃんの方がもっと好きだよと言ったらこの場で頭を割られるかも知れない。「安元がさ、中学校の時に私をこっそり撮ってたの、知ってるんだ」


(ドッキーンっ!)


「まあいいけど。撮らせてくれって言えばよかったのに」いや、ソレは片思い中学生には荷が重かったんです。「私ね、中学校の時に100円貰って、男子のほっぺにキスをしたことがあるの」なんか重い告白を始めている。どう答えていいのやら考えていると、サキちゃんは「馬鹿なことしたなって思ってる」と自己完結。完全に話の持って行き場を失ってしまった。しかし悪い雰囲気ではない。良くもないが。


「安元は空手初段だっけ?」

「ああ。もう辞めたけど」

「剣道は?」

「2級で辞めた」

「経験はあるんだ?」

「一応は。うちは厳しかったからな」

 サキちゃんは立ち上がると、用具室から新品の防具を出してきた。「コレ、体験入部者用のヤツだから綺麗だよ」そう言うと私に手渡した。コレを着けろと言うことですか?「ちょっと相手して。暇過ぎて飽きてきちゃった」と言うことで、剣道3段(実力4段)と剣道2級で辞めた男の手合わせが始まることになった。思えば若かった。今の私なら、確実にサキちゃんの匂いを嗅ぐことに最大限の努力をするが、この時は言われるがままに防具を身に着けた。新品に見えても、やはり若干臭うが・・・そして「道着」を着ているわけではないので、半そでシャツから覗く素肌が心細い。「大丈夫、私はそんなところを叩いたりしないから」と、思わず腕をさすっていた私にサキちゃんは言う。つまり、サキちゃんは私を叩く気である。今ならご褒美だが、男子高校生が女子に叩かれることを由とするわけがない。「本気でいいのか?」と私が問うと、「本気で来ないと危ないよ」と、被った面の中で笑んだように思えた。道場の真ん中で正対して立つ。「遊び」なので蹲踞は無い。竹刀の先を軽く合わせるのが合図だ。私は本気だった。踏み込んで胴を叩こうとしたが軽やかにかわされた。振り向いた瞬間、面を打たれると思い、後ろに飛びのきざまに、左手1本で握った竹刀でサキちゃんの面を叩くことが出来た(私は左利きなので有利)コレでは「有効」にもならないが、男は攻撃してナンボだ。しかしこの「ちょこざいな技」でサキちゃんが本気になった。仕切り直して、竹刀の先を合わせた瞬間、サキちゃんが消えた。あの踏み込みの速さは多分光の速さを上回っていた。(えっ?)と思った瞬間には私の左下から胴を引っ叩いて後方に抜けていた。これだから有段者は怖いんだ・・・


しかし、サキちゃんほどの腕になると、いい音を出して叩いた割には衝撃は無いものだ。実際、私の身体は微動だにしなかった。

「安元~、片手で竹刀を振るのは駄目だぞ」

 そのあとは防具を片付けて、そろそろ先輩方(剣道部の)が帰ってくると言うことで、早々に辞去した。


2学期に入って、サキちゃんが意地の悪い先輩を成敗したと聞いた。同じような状況で、胴を打ったサキちゃんはそのまま押し切って、男子部員をぶっ飛ばしたらしい。


私は幸運だったんだな、と。


高校生活は本当に楽しかった。暴力沙汰は無いし、友達も出来た。「恋人」欲しさに多少あちこちに手を出し過ぎて、女子には嫌われてはいたが。実際、女子に嫌われていたと言っても「憎悪の対象」では無かったので、日常会話くらいはする。写真部の部長と言うことであちこちの部活に顔を出せばそれなりに相手はしてくれる。あくまでも「恋愛関係になってはくれない」と言う程度だ。相変わらず授業は退屈で、多少は本気で授業に臨むことはあっても、入学時に書店で買い求めた教科書の精読は終わっていたので、特に不便は感じていなかった。家で勉強するほどではないなと言うのが感想であった。「教科書の読書」と言う名の予習と、あとは授業中に理解してしまえば、そこから先は必要が無い。もとより、難関校を受験する予定も無かったから、せいぜい校内でそこそこの成績を取れればいい。もう母も養父も「成績表を見せろ」とは言わなくなっていた。そこそこの成績、つまりは上位10%に入っていれば教師の見る目も違ってくるし、多少は羽目を外しても黙認される。ただひとつ、「数学と言う言語」の習得は諦めるに至った。本気で取り組めば平均点ぐらいは取れたであろうが、やる気が出ない。数学は「2科目」あって、「代数/幾何」と「微積分」などを扱う「総合数学」のような授業。私は代数幾何でどうにか点数を取り、赤点を避けるのがやっとであった。今でも数学は出来ないが、人生において、数学が占めるウェイトは1%だ。担任は英語教師の若い女性で、多少は可愛いと思える「タヌキ顔」であったが、数学の成績が悪いことを気にかけてくれて、だったら英語で頑張りなさいと、放課後の職員室や控室で補習をしてくれた(受験3科は英数国である)その時にまじまじと私の顔を見て、「安元君にはみんなが期待してるのよ」と言った。「みんな」とは教師陣のことだが、私は入試で3位入学だったらしい。内申書がどうにもならなかったので入試の点数に賭けるしか無かっただけだが、それも「無勉」だったと告げると驚いていた。ちなみに英語の成績も芳しいモノでは無かったが、平均点は上回っていた。その程度だ。


それよりも私の興味を惹いたのは「体育」であった。保健体育に関しては人並み以上の知識があったので、あとは実技と言う所まで進んでいたが、「運動」の方に魅力を感じていた。勉強と違って、やればやるほど「成績が上がる」のだから面白くないわけがない。とは言え、勉強と同じで、家で訓練に励むと言うことも無かったが・・・

 中学校時代から目覚ましい発達が始った「運動能力」である。私は中学校レベルではカリキュラムにない運動で、自分の身体の「試運転」を始めることにした。早い話が「遠慮なく身体を使うこと」にしたのだ。中学校では「団体競技=球技」に重きを置いた授業ばかりであったが、高校では「器械体操」や「陸上競技の種目」を授業として取り入れていた。運動機能が優れていれば、自動的に成績表の数字も上がるわけだ。5段階評価の「5」を取ろう。そう思うようになった。夏の水泳が嫌いで、高2からは「3」であったが。腹が痛い頭が痛い生理が来ちゃった等のずる休みで、水泳の授業を見学でやり過ごせばそうなる。厳しい体育教師に当たった3年生の時は見事に「1」を取ることが出来た。救済として、グラウンド100周で「2」を頂ける制度があったので利用した。毎日10周ずつ走って10日間である(ご利用は計画的に)

 私の入学した年は特別で、「体育館の建て替え」と言うことでグラウンドが半分しか使えなかった。体育館は無い状態である。別棟である柔道場や剣道場を使うか、狭いグラウンドで陸上競技の記録を取るかであった。夏はプールの授業であり、冬は柔道かラグビーであった。ミニサッカーもあったとは思うが記憶には無い。グラウンドがマトモに使えないと言うことで、先ずは「体育祭」が入学後すぐに行われた。「体育祭」と言うよりは、やはり「陸上競技大会」のようなものだ。新しいクラスの親睦を深めると言うような理屈で行われたその「体育祭」は市営のグラウンドで行われた。それはもう立派な設備で、私はこの人生でその競技場で運動したのはこの時を含めて3回だけだ。


新しいクラスの親睦とは言え、もう大体の生徒は友達を作り、ヒエラルキーも完成する頃であった。私はかなり下のヒエラルキーにいた。「女子に相手にされない勢」のリーダーのようなものである。なので、クラス単位のイベントに積極的では無かったが、「身体の試運転」としてはちょうど良かった。面倒な競技は陸上部の専門に任せて、私は「100m走」に全力だった。脚にはそこそこの自信があった。流石は市の施設である。きっちり100mを走れる環境があった。トラックの「スタート位置」は走る車線に合わせてきっちりとずらされていたし、トラックも走りやすいように整備されていた。そこで私は「ハンデ」を与えるか、いきなり独走するかを決めかねた。折衷案で、スタート時に「転んでみる」ことにした。「フライング」と判定されれば、仕切り直しで独走すればいいし、転んでも続行であれば、先行する生徒を何人ごぼう抜き出来るか試すのも悪くない。結果、ピストルの音がするタイミングで転んだ私は出遅れの状態で続行となった。観客席が「どよ・・・」っと多少ざわめいた気がしたが、こんなもんハンデだよとばかりに走り始めた。7人を抜いたところでゴールとなった。スタートで転んでからの2着はまぁ俊足と言っていいだろう。この時はタイムを計測していなかったが、のちに授業で100m走のタイムを計った時、「手計測」だったとはいえ、11秒台前半を叩き出した。靴はコンバースのキャンバス・ハイカット(赤)であった。当時、流行っていた靴なので仕方が無い。しかし、この記録を見た陸上部の顧問が血相を変えて写真部の部室に飛び込んできたのには閉口させられた。「安元、お前選手になれ。今のままでも11秒を切れる、シューズとスターターボードがあれば1秒は縮むんだっ!」10秒台だと当時の国体レベルだったらしい。私は特訓とか練習が嫌いだったので丁重にお断りした。顧問は未練たらたらで「その気になったらいつでも来いよっ!」と立ち去ったが、そんな気は一切ないわけで。あとはまあ砲丸を投げても走り幅跳びをやっても、軽々と平均を上回ったとか、体育教師が目を疑う記録を出したりした。陸上部の選手に匹敵する記録も出したし、サージャントジャンプでは80cmをマーク。この時は教師が信じなかったが、助走をつけることが出来ない狭さに設置されたボードのかなり上の方にピンクのチョークの印をつけたのは私だ。2回目を飛ばされて、やっぱり75cmを上回る。


私は写真部の業務であちこちの運動部に顔を出していたが、遠くから私を見詰める陸上部の顧問はある意味、私に恋をしていたのかも知れない。若い女教師で美人であれば、交渉次第で入部してやらないこともないが、その顧問は脂ギッシュな大トロ野郎だったので眼中にない。学年でのヒエラルキーは「非モテの星」であったし、体育の成績なんざ、そこそこの進学校ではあまり意味はない。つまりあまり目立つ生徒では無かったわけだ。しかし、運動能力がモノを言う「体育系クラブ」の先輩にはモテた。「モテた」と言うからには、先輩の「女子」である。陸上部のマネージャーとか、野球部のマネージャーとかアニメ部の部長とか。陸上部では「試しに走ってみない?スパイク貸すよ?」という誘惑に負けそうになったが、アレでガチったらもう「強制入部」(巷で言う拉致である)させられるに決まっている。実際、文化祭前のアニメ部の部長に拉致監禁されたこともある。セル画を塗る人員が足りないので「人狩り」が出たのである。写真部だって修羅場が始まるっていう時期に(笑)アニメ部の部長がまた可愛い先輩で。それだけが理由で、私も福岡君と一緒にアニメ部に遊びに行ったりしていた。しかしあの「人狩り」はガチであった。あちこちの文科系クラブにアニメ部の男子が出没して「連れ去る」のである。そしてその日は帰ってこない・・・主に文化祭で暇そうな「化学部」が狙われていたが。確かに文化祭で化学部が成果を発表すると、軽いテロでも起こしそうだ。「とある爆薬」を試作して活動停止になったこともある。高校生は爆発物に浪漫を感じる生き物であるから仕方が無いことだ。しかし、マッドサイエンティストとはあいつ等のことを言うのだろう。「酸素」を作ろうとして、危なく怪我人を出しそうになった。手順では「10倍以上に希釈した過酸化水素水」に触媒(大抵は二酸化マンガン)を加えるのだが、何を思ったか、希釈していない過酸化水素水を太いメスシリンダーに注いで、そこに二酸化マンガンをスプーンで雑に投入。天井まで煙が吹きあがった。アレがビーカーだったら破裂していたと思う。またある日は、ナトリウム火災を起こした。何かの実験のために取り出したナトリウムを空気中に放置して発火。更に、「分かっているのに」遊びで水で消火を図った。「水が多ければ消えるかも知れないと思った」と、のちに犯人が供述していた。化学室のテーブル半面が焦げていた。そんなマッドな人々だったがフレンドリーでいい人ばかりであった。部活も飽きると「お茶会」と称しておやつを食べながら優雅にお茶を飲んだりするすわけだ。こういう場合はあちこちのクラブからも集まってくる。おやつは学校の近所のパン屋で調達で来た。そして紅茶に入れる「砂糖」が足りないなんてことになると、大抵は「化学部に行って借りてこよう」となる。化学部には「ショ糖」がある。コレはほぼ「砂糖」と同じものであるから代用出来る。化学部のマッドサイエンティストたちにはいいおもちゃである。100ccの水に200g以上のショ糖を溶かした「合法ドラッグ」は、虫歯が無くとも歯が痛くなると評判になった。


2年生になる前に新しい体育館が完成した。ソレはもう立派なモノで、県立高校には勿体ないような建築物であった。いわゆる「体育館」は最上階の3階にあり、天井も高く、完成後も半年は新しい建材の匂いがしていた。1階と2階には武道場2つと、講義室。それと「畳が無いと困る」クラブの部室まで用意されていた。茶道部とか華道部が「床に厚く段ボールを敷く生活が終わった」と感涙していた。段ボールの上に正座しているので「ルンペン部」と呼ばれていたのだ。ルンペンとは、今でいう「ホームレス」のことなので、格調高き茶道や華道部はそう呼ばれることに深い悲しみを抱いていた。母校は部活の掛け持ちを禁じていたが、「運動部と文科系部」の掛け持ちは許可されていた。だから陸上部の顧問がしつこく言い寄ってくるのだが、野球部もかなりしつこかった(マネージャーと主将が)中学校時代、野球の練習相手をしていた少年の話はしたと思うが、この男が2年生になって主将になった。1年生のころから頭角を現していたので、私にとって野球部は最も気の置けない運動部であった。マネージャーも多くて可愛いのだ。主力選手である2年生ともなれば「専属のマネージャー」みたいな女子がいる。きっと、部活が終わった後も、選手の玉とバットの手入れをしているんだろうなぁ・・・と余計なことも考えたりしたが。

 主将になった佐藤は、カメラを持ってグラウンドを徘徊している私を見つけると「おい安元。ちょっと投げてくれよっ!」と、バッティング・ピッチャーを私にやらせる。大事な選手は使いたくないらしい。もちろん、私の「野球センス」も知っているからであろうが、なんで本職の野球部が、写真部の部長が投げる球を打てないのか?いや、この活躍で私も野球部のマネージャーに可愛がられたものだが、あの女子マネたちは「専属」なので、手を出したら金属バットで頭を割られる。自慢の股間のバットはマネージャー専用であろう、でなければ怖いし。中学時代は「80mキャッチボール」をしていた強肩である。しかもきっちり狙い通りに着弾させていたわけだから、マウンドから投げ下ろすと言うのは非常に簡単で、キャッチャーのミットを見詰めて投げるだけでコントロールも抜群であった。惜しいことに、私はちょっと意地悪で、ストレートを投げたりしない。変化球を教わったことは無いが、ボールの縫い目に沿って、人差し指と中指で握って「振り抜くように」投げるとかなり曲がった。そう、私の性格のように。コレが打てないらしい。若干球速は落ちるが、ほぼストレートに見える。それが横に70~80cmも滑るのだから。流石に主力選手には打たれるわけだが・・・「安元~、打てる球を投げろよ」と叱られるが、やっぱり意地悪するのは楽しいから仕方が無い。1回だけ「本気でストレートを投げてみた」ことがある。私は運動部ではないので「腰が軽い」

 ストレートを本気で投げたら、腕の振りで腰が浮いて転んだ。本当に身体が浮いた。しっかり腰が入っていれば、きっといいピッチャーになれたかもしれない。135km/hがその時の記録だ。そんなこんなで軽く汗を流したら、女子マネの接待を受ける。何故か可愛い子ばかりだ。佐藤も確実に「卒業前に卒業」していたはずだ。私の方が先に卒業したが。

 そして写真部に帰ると誰もいない。福岡君はきっと家庭部かアニメ部にいるだろう。たまに高田君とか、他の部員がいる。そんな時は部長としての責務を果たす。先輩たちから教わった「写真の引き伸ばしテクニック」を伝授したり、文化祭の企画とか合宿(宿泊はしない)の予定を組んだりするのだ。真面目な高校生だったのである。校内風景の撮影と言う写真部の義務は私に一任されていた。月に3本だけ支給されるネガフィルムを撮り切ればいいので、私一人で十分だったし、何かと(一応は)頼りになる福岡君は「陰キャ」だったので、運動部に出入りしたくないそうで。福岡君が輝くのはアニメ部で女子部員にエロ話をしている時と、良からぬ遊びをしている時だけであった。写真の腕も知識もあるのだが、滅多に発揮しないから困る。

 私は本当に真面目な高校生だったのだ。夏休み中の部活は「20日間」と決められていたが、私は夏休みも毎日登校していた。ちょっと寝坊して10:00頃からであるが、学校側から「この日は業者による清掃や工事があるから登校禁止」と指定された5日間を除き、毎日登校。行けば必ずどこかのクラブが活動しているから、遊び相手には困らなかった。高1の時はまだ野球部はグラウンドの都合で活動日が少なかったが。大抵は近所の他高校のグラウンドを借りに行っていた。さきに書いた「野球部との付き合い」は主に高1の終わりにグラウンドが全面開放された後のことだ。佐藤が主将になったあとのことでもあるし。

 私は同学年の女子には相手にされなかったが、先輩の女子には可愛がってもらっていた。そして私はこの夏休みに「ある出会い」を経験することになった。

「夏の少女」とでも言おうか?出会いは夏休みの部活の日。私は毎日のように登校していたので、自分の部活以外の日は他の部に遊びに行っていた。どこかしら活動しているものである。「夏休み中の活動は20日間」と決められていたが、写真部の他にもアニメ部とか化学部、家庭部に運動系のクラブもいた。写真を撮るのが「仕事」であったから、カメラさえ持っていればどこの部活にも顔を出せたものだ。


あの頃の私は多少「惚れっぽい」部分があった。「夏の少女」と呼ぶ理由は、単に彼女が「夏の光の中にいたから」である。その日も晴れた暑い日で、階段にある窓は開放され、外の空気が緩やかに流れ込んでいた。昇る階段ですれ違い、(可愛い子だな・・・)と思い、振り返った私の目に飛び込んできたのは、夏の日差しが仕込むリノリウムの白い床と、ふわりと舞い上がった「夏服のスカート」であった。早い話が、照り返しの強い床のお陰で透けて見えた「可愛い子の下半身」と言うことだ。スカート越しなので、はっきりと「見えた」わけではないが、それでも童貞の15歳には十分に刺激的な光景である。いや、今でもそんな姿を拝めたら素晴らしいと思うが。薄地の夏服のスカートの中にある太もものシルエット。しかも可愛い女の子である。コレで惚れない方がどうかしていると思う。その日は写真部も営業中で、部室には福岡君がいた。この男はかなりの事情通であったから尋ねてみた。今日、部活動しているところは?と。即答であった。「天文部だけ」だそうで、だからこの男は写真部の部室にいたわけだ。彼にとって「天文部」は眼中にないようであった。あんなに可愛い子がいるのに、である。私は早速その「天文部」に行くことにした。カメラさえ持ってればフリーパスなので問題は無い。ちょうど写真部の部室の真上に天文部の部室があった。その日は特に何の活動をするわけでもないようで、「夏の合宿」の準備をだらだらとやっているだけであった。「天文観察」をするのが目的の部なので、真昼間に何をするわけでも無いだろうし。私は天文部の部員の中に知った顔がいないか確認してみた。一人いた。2つ上の先輩男子で、まあそこそこは目立っていた人だ。私がアニメ部で遊んでいた時に、ちょうどその先輩男子も遊びに来ていて、何となくであるが話をして仲良しになっていた。「小林先輩っ!」と声をかけたら、「安元んとこも活動日か?」と尋ねられたので「仕事もありますし」とかなんとか適当に話を繋ぐ。いや、今は先輩しか頼れないんです。さっき見た「夏の少女」は窓際で友達と駄弁りながら何やら荷物をかき回していた。私は小林先輩に「あの子の名前ってなんですか?」とストレートに聞いた。遠回しなことが苦手な性分であった。小林先輩はニヤニヤしながら「加藤ぉー、お前の名前教えてもいいか?」いやいいです、加藤さんと言うんですね?「何ですかー?」と聞き返す声も可愛いと思った。スタイルも良いのは「チラ見」して確認した。細っりとした身体のラインの割に乳がデカい。今で言う「たわわ」である。月曜日ではないが「たわわ」である。加藤さんはトコトコと小林先輩に近づいてきて私を見た。近くで見るとかなり可愛い。髪の毛はナチュラルな茶髪で、三つ編みにしていた。暑いからであろう。「だあれ?」と聞かれた。写真部の者ですみたいなことを言ってみた。加藤さんはしげしげと私を見て、「星の写真、撮れる?」と聞いてきた。経験はないので「まだやったことは無いです」と正直に答えた。「ふーん。あ、そうだ、手伝ってくれない?」と言われれば「はい」と答える。校長の首を取ってくる手伝いでも何でもするつもりだったが、手伝いの内容は「準備室にある荷物」の整理であった。男子が少ないので、ロッカーの上にある段ボールを下ろせないとか、中身が重いとか色々言っていた。準備室にある荷物は「合宿用の道具」等だ。私は「天文部は合宿があるんですね、いいなー」と素直に羨ましがった。「写真部は合宿しないの?」

 夏休みに入ってすぐにやりました。宿泊無しで横浜撮影行と言う地獄のロードを。暑いし、人は多いし歩く距離は長いしで散々でしたと告白。山下公園で踊っていた「ロックンローラーのお姉さんのパンチラ」を狙っていましたとは言えなかった。横浜あたりの有名スポットは漏れなく歩いた気がする。港の見える丘公園や中華街、赤い靴を履いていない石像の写真はプリントしてみたが失敗作であった。外人墓地にも行った。この辺で体力が尽きた。


「あ、こんなのまである・・・」と、加藤さんが段ボール箱から取り出したのはインスタントラーメンであった。天文部の合宿はキャンプになるらしい。そのインスタントラーメンの賞味期限は3年前だったので、その年の合宿で男子部員の晩飯になったのだろう。酷い話である。ランタンとかバーナーみたいな基本的なキャンプ用品は揃っていた。寝袋もあったが、古くて臭い。陽に干せば使えるだろうとか、加藤さんとその友達はやいのやいのと騒いでいた。見てるだけで可愛い。更にはいい匂いまでする。「花王のメリット」(シャンプー&リンス)の匂いだった。今でもバス電車の中であの匂いを嗅ぐと、その子に着いていきたくなる。いや、行かないが。本当に女の子の匂いは素敵なモノである。のちに知ったのだが、加藤さんの「体臭」はいわゆる「スィート臭」ではなく、「日向に干した牧草の匂い」に近かった。女の子の「甘い匂い」はこの人生で何度も嗅いできたがあの匂いのする子はあまりいなかった。そして、私は手伝いが終わると写真部に帰った。写真部にもやることは沢山あった。とにかく文化祭の準備を進めないと詰むことは明白であったのだ。先輩は3年生なのでノータッチを貫くと宣言していたし、2年生はいない。同学年の部員は私を含めて4人である。写真の展示は先輩方のモノで水増しするとして、それでも1人あたりノルマが3枚である。その他の企画もやらないと「来年の部費」が危うい。

 平年で2万円台が当たり前であった。基本的に「消耗品は買えない」と言う文科系クラブのルールはあったが、写真部は特別扱いであった。消耗品が無いと部活が出来ないわけで、更に言えば「大物機材」を買うには予算が少な過ぎる。引き伸ばし機みたいなモノは完全に「別予算」で買ったようだ。大型の立派な引き伸ばし機が2台もあった。消耗品と言えば現像液みたいな薬品と、後は個人消費するフィルムも買えた。あとは備品を大事に使うことで凌いでいた。思えばいい時代であった。今、モノクロフィルムを買おうとすれば、36枚撮り1本が千円はする。安いフィルムを探してどうにか買っている状態だ。私の高校時代は、駅前の写真・カメラ用品店で「100フィート缶」(長巻の業務用)からリロードして、カメラ店が売る1本170円のフィルムがデフォであった。170円!


今では個人経営のカメラ店はほぼ絶滅している。撮影スタジオがあったり、公立学校の「写真撮影」みたいな仕事を貰っている写真店が細々と営業しているだけである。もうカメラを売るのは無理だと諦めている感じでもある。どう考えても大資本の「ヨ〇バシ」には勝てないだろう。


写真部としては「多額の予算」は必要なかった。消耗品の価格はお小遣いでも十分に賄えたのだ。ただ「部としての面目」と言おうか悩むが、「多額の部費を勝ち取ることが目的」となっていた。毎年5月の終わりに開催される「部長会議」でこの部費が決まる。前年度の実績はもちろんだが、その年の「部長の手腕」も問われることになる。写真部にとって悪条件が重なった。通常は部長を2年生が務めているわけで、お引きで着いてくる「会計係」も大抵は2年生だ。事情を知っているクラブは1年生を会計係としてこの「部長会議」に出席させてもいた。実際に「予算の分捕り合い」を経験させて、翌年に上手く立ち回れるようにだ。ところが我が写真部は2年生がいない。私が部長である。1年生の部長と言うだけでもかなり特異なのに、連れて来てるのが「会計」ではなく副部長だ。単にこの日、会計の高田君が居なかったと言う理由であったが・・・

 そして更に、野球部が前年に県大会でかなりの健闘を見せ、多額の予算を持って行った。運動部と文科系部は「別予算」であるが、あまりにも多額の予算を要求したのでしわ寄せを受けた。この年の予算は「前年度と同額」でどうにか手を打てた。普段は仲の良いアニメ部も化学部も敵であった。天文部の応援はした。恩を売った形である。双眼鏡も買えない部費では仕方ないだろうと言うことで、数万円を上乗せして決着。なお、この年の経験を活かし、翌年は晴れて「2年生部長」となった私と副部長が予算の件で無双したのは言うまでもない。2万円以上の増額となったが、使い切れなかった。もう年度末に薬品とフィルムのまとめ買いで消化したようなものだ。


そして夏休みに入ったわけである。

 加藤さんとはそれっきりであった。あまり交流のあるクラブでは無かったし、夏休みが明ければもう文化祭は目の前だ。準備期間が1か月半ほどしかない。写真の展示は目途が立ったが、企画の準備が大変であった。あとあと聞いてみれば、天文部の噂で「安元君も連れてくれば良かったね、いい景色だしねー」と言い合っていたそうだ。呼んでくれれば良かったのに。いや、合宿に行っていたらのちの「運命」に影響があったかもしれないので結果オーライか。

 私たち写真部の企画は、広い部室をフル活用したものだった。2/3を展示スペースとして使い、残り1/3のスペースで「暗室体験」をしてもらおうと言う欲張りなセットだった。コレがかなりの難物で、展示で手一杯であるのに、「簡易暗室」も作らなければならない。部室を仕切って完全に遮光する。窓も段ボールで塞いで光が入らないようにするわけだが、かなりの漏光があった。段ボールでは「薄い」のだ。日光の強烈さを思い知らされた。前日になってこの「漏光問題」が発覚したものだから、私と福岡君は近所の商店街を回って段ボールを更に集めることになった。面積だけで計算していたので足りないのだ。二重にした段ボールでやっとどうにか「暗く」はなった。暗室と言えばテレビでお馴染みの「オレンジ色のランプ」も必要だが、段ボールで塞いだ窓からどうしても侵入する光で手元が見えた。もうコレでいいやとぶん投げた。実際の作業は文化祭当日のぶっつけ本番であるが、初日は父兄や来賓限定なので、簡易暗室が稼働する心配は無かった。2日目が大事なので、初日にテストだけはしたが、そこそこ大丈夫であった。数分も印画紙を置いておくと露光してしまうが、そこは手際でカバーである。そして文化祭は大混乱になった。「生徒の自主性を重んじる」と言う校風だったので、教師が口を出すことは少なかった。どのくらい自主性を重んじていたかと言えば、生徒総会で議論紛糾、あまりの進行の遅さに教師がマイクを持った瞬間に生徒会長が「黙ってろ、生徒総会は生徒のモノだっ!」と叫んだってぐらいだ。アレは確か凄く下らない事案で揉めたように思う。例えば女子トイレの表示が分かりにくいとか、そう言うレベルで延々とやったので、流石に教師陣もキレかけたわけだ。生徒会長は停学になった。教師に対する暴言と言う罪状で。なお、停学になった日に処分を取り消すと言う嫌がらせ付きであった。まあ「大学への推薦が受けにくい」程度の話ではある。生徒会長であるからして、成績もそこそこ優秀だったらしく、ちゃっかり志望校に合格していたが。面白いもので、「系譜」みたいなものが息づいていた。例えば私はこの生徒会長の「直系の後輩」であり、生徒会長はあの「小林先輩」の直系の後輩であった。なので、この小林先輩と生徒会長と私の3人でワンセットみたいなものだ。派手な系譜である。小林先輩たちと私がかなり好き勝手をしたので「校則」を変えざるを得なかったと言う・・・(有名無実となっていた校則だが、当時の県立では唯一の「規則」があったのだが)


そんな高校である。文化祭みたいな「お祭り」では羽目を外すクラブが多数出る。飲酒ぐらいはまぁ・・・後夜祭ではキャンプファイヤーでグラウンドを荒らし、何故かこの夜に「卒業」する生徒が出たりする。仲間内でそんなこんながあるのは見逃されていたが、来賓に無礼を働いたとなると話は別で。無礼と言っても「何かした」わけではない。単に「展示を見てもらいたくて」廊下にバリケードを築いたり、強引な客引きをしてみたり。PTAからのリーク情報で「凄く偉い人が来る」ともなれば、勝手にその「凄く偉い人」の名前を使った程度だ。「〇〇委員長推薦っ!」とかのビラを作ったり、そのビラをこともあろうか、職員室のコピー機で勝手にコピーしてバレた阿呆者の集団もあった。写真部は閑古鳥が鳴いていたので、仕方なく「順路」と書いたポスターをあちこちに貼って、引っかかる馬鹿を待つことにした程度だ。写真部の展示会場に来て、「ここは・・・なんですか?」と聞くような間抜けは確実に存在するものである。翌年はもう「展示だけ」にして、適当な後輩を拉致して受付に座らせて遊んで歩いたが。そうそう、翌年の新1年生の部員はゼロだった。何故か私の学年だけが「ロスジェネ」よろしく孤立していた。更に言えば、翌年の文化祭では来賓に向かってエアガンを発砲した罪で、文科系クラブ全員が捕まった(ソフト・エアガンであるが)


教師陣は把握している「ポンコツ部員」を捕らえては身体検査をして武装解除していった。ミスファイアした理由が、「校内でサバイバルゲームをしていて、動いた者がいたので撃っちゃった」であるから当然と言えば当然だが。私もMP5と言うエアガンを取り上げられた。仕方ないので、アニメ部の部室で紙コップを撃つ遊びをしていたものだ。拳銃モデルを持っていない状態で武装解除されたので、自慢のワルサーは手元にあった。

 

 文化祭が終わると季節は一気に冬に向かう。行事の流れとしては、体育祭があり、その後に文化祭。クラスマッチと呼ばれる「球技大会」は年によって変動があったが、9月か10月。私が入学した年は先に書いた通り、体育館(講堂)の建設工事で体育祭とクラスマッチは無かったが、ビデオは見せられた。「毎年行われてきた行事」と言うことで周知したかったのだろう。1学年10クラスである。もう毎年どこかのクラスが問題を起こし、クラブも問題を起こした。正直、馬鹿しかいない学校だった。勉強が出来ても「馬鹿は馬鹿」であることを、高校時代に知ることが出来たのは収穫であろう。そこそこの進学校志向なのに、成績不振で退学する者も出た。ああ、そうか。「進学校」だから振り落とされたのかと、今コレを書いて合点した。青春の熱は「保温モード」にして、若干の落ち着き感が出る頃。


 私はある報せを受けた。

加藤さんを狙うライバルが3人もいると・・・

 加藤さんは「人妻」だった。コレはもちろん真っ赤な嘘だが。文化祭が終わり冬になる頃。私は天文部にも出入りするようになり、加藤さんを観察することにした。相変わらず小林先輩はそんな私をニヤニヤしながら見ていたが。ニヤニヤされてムカつくどころか、私は小林先輩を利用することにした。私はかなり性格やら考え方が「スレて」いたから。


小林先輩が天文部に遊びに来ている時を狙い、「偶然」加藤さんと接触して、顔を赤らめる。コレを故意に行ったのだ。その接触が「物理的」であったことはラッキーであった。部室内で加藤さんとぶつかってしまい、この瞬間に顔を赤らめれば小林先輩が確実にからかってくる。あの人はそう言う人であった。まんまとからかっていただけたので、「私が加藤先輩を意識しているよアピール」は成功した。ありがとう、小林先輩。私は小林先輩を睨みつける演技をして天文部の部室から去ることにした。当分は行かない方がいいと言う駆け引きだ。今思えば赤面しきりであるが、若さとは「恋にも駆け引きが必要」だと思えることだ。この駆け引きも成功した。小林先輩が「からかったことが原因」と思ってしまい、写真部にも顔を出して色々と情報をくれるようになった。私は直系の後輩であるわけだし、応援してくれると信じていた。ある日、小林先輩がくれた情報が気になった。「安元さぁ、早く告った方がいいぞ。加藤に惚れてる男が2人いるからよっ!」聞き捨てならない話であった。いや、加藤さんは相当可愛い上におっぱいが大きいので予想は出来たが、リアルにその名前を聞くと危機感が募るものだ。そう言えばまだ書いていなかったが、加藤さんは1つ上の先輩である。不思議なことに、私の恋のライバルは加藤さんと同学年では無かった。コレはのちに理由が判明するが、先ずはこの時に聞いたライバルの話をしよう。2個上、つまりは小林先輩と同学年の「スズメ先輩」が加藤さんにぞっこんだそうで、悪いことにこのスズメは3年生になっても部活を引退していない。受験しろと思った。受験勉強をして、早稲田かどこかに入って、新卒で一部上場企業に就職してから加藤さんを迎えに来ればいい。馴れ馴れしく加藤さんにぺちゃくちゃ話かけているので、舌を切ってやろうかとさえ思った。

 もう一人は他校の生徒で、私と同学年だそうだ。文化祭にも来ていたと言う話で、このような泥棒猫には正義の鉄槌が必要だと感じた。聞けば「付属高校」の生徒だそうで、私は「付属」の「付」の文字を頂いて「付校の井上君」と呼ぶことにした。当然「不幸の井上君」と言う意味だ。我ながら素晴らしいぐらいの腹黒さであった。井上君は他校の生徒なので著しく不利である。会えないから不利である。問題は舌切りスズメ(予定)であるが、これもまぁポイントは0-15と言う感触であった。加藤さんは彼氏がいないのに、スズメは口説けないでいる。つまり、チキンである、鳥類である。スズメでチキンなのだ。私は自分を鼓舞した。あの先輩に負けるわけがないと。貯金を開始した。デートに誘い、私は男であるからバシっと奢るべきだと信じていた。今でもこの信念は曲げていない。私に割り勘を要求される女性は滅多にいない。小遣いは無論のこと、昼食代もケチって貯めた。高校ともなると立派な「購買部」があるのだが、大きくて味気のないパン1個で済ませたり、部活帰りにラーメン屋に寄る回数も減らした。安いラーメン店が駅前にあるのだが、私は駅を利用しないので誘惑に耐えることが出来た。部活の面々とラーメン店に行く時は、わざわざ遠回りしていたのだから、逆に助かるとも言えた。冬の部活帰りのラーメンほど美味いモノも無いのだが・・・

 お年玉も使わなかった。更に上手い具合に「ハイパーボーナスタイム」も1回あった。夫婦喧嘩した養父の背広の上着(財布入り)と、母のハンドバッグ(財布入り)がリビングに放置されていたのだからたまらない。平等に1万円ずつ抜いた。私はお金持ちになった。しかし、私も鳥類の巨頭であった。スズメ先輩にシンパシーを感じた。本当に肝心なことが言えないのだ。しかし、このままではスズメが抜け駆けするはずだ。卒業を控え、ヤツには残された時間が無い。ギリギリのタイミングを図ることにした。そうしないと勇気が出なかったのだ。年を越して冬。バレンタインデー前に決着を付けておきたかった。いや、バレンタインデーにチョコレートを貰いたかった。しかし、私にはバレンタインデーの予定があった。非常に残念なことだが、私は先輩女子と一緒にチョコレートを買いに行き、先輩女子の「手書きの手紙」と共に見ず知らずの男子の机の引き出しや、鍵のないロッカーに投げ込む仕事をする予定なのだ。先輩女子の丸文字と思わせぶりな名文は見事なモノで、挙句、「体育館とか校舎の裏に呼び出した」わけだが、その当日に観察してニヤニヤすることも忘れていた。最悪の遊びであった。機会があればまたやりたいと思う。

 やっと勇気を出せたのは、片道1時間半をかけて「映画の前売り券」を買ったからである。この前売り券を無駄には出来ない。小林先輩の入れ知恵であった。「お前、映画に誘うなら前売り券を買うんだぞ。奢ってやれば女の子は断りにくくなるもんだ。加藤もちょっとはお前に気があるようだし、絶対に前売り券を買え」今であればスマホでネット予約も可能だろうし、当時にも「チケットぴあ」はあった。まだ携帯電話どころかポケベルも無い時代である。わざわざ映画館まで出向いて前売り券を購入するしかなかった。チケットぴあは使い方がよく分からなかった。そして私はこの「初デート」で観た映画を憶えていない。多分、加藤さんが隣にいて、いい匂いがすることに興奮していだけだったのだろう。検索してみてもピンとこない映画ばかりであった。一緒に観に行った何本かの映画には憶えがあるのだが・・・

 そう、私はスズメと井上君を出し抜いてデートに誘えたのだ。あの時の自分の勇気を褒めてやりたいが、私には記憶障害でもあるのだろうか?どうやって誘ったのかも憶えていない。しかし、映画を観て我が町に帰ってきた後のことはよく憶えている。私が通っていた喫茶店に連れ込んで口説いたのだ。この喫茶店は非常に良い店であった。高校の制服を着たまま煙草を吸っていても文句を言われないのだ。そして、穴場であったから他校の不良に絡まれることも無かった。余談であるが、駅前の24時間営業の喫茶店は悪い大人や他校の不良のたまり場で、私は迂闊にもその喫茶店で煙草に火を着けてしまったことがある。悪い大人は我関せずであったが、他校の不良に目を付けられてしまった。幸いにもその不良の通う高校には我が愛する弟も通っていたので、絡もうとしてこっちに来た不良の袖を引っ張って「馬鹿、止めろよ。アレは安元の兄さんだ」と言うことで見逃してもらえた。弟は高校に入っても立派な不良であった。


私は必死になって口説いた。私が映画に誘ったことはスズメ大先輩にはバレている。大先輩であるから、私のこの愚行にも微笑みで対応してくれるであろうが、次にスズメの野郎が加藤さんに会った時に「まだフリーである」状態であったなら、今度はスズメ大僧正先輩に分があることになるのだ。喫茶店のママがニヤニヤしているのが気に入らないが、この喫茶店は貴重な私の隠れ家である。仕方が無いからママは赦すことにした。そうでなければ、翌朝には店の前に犬の糞がいくつか置かれていたであろう。運の良い店だ。口説き文句も憶えていないが、確か「僕を買って下さい。出来の悪いカボチャみたいな髪型ですが。いや、拾ってくれるだけでいいんです」ぐらいは言った記憶がある。本当に「カボチャみたいな髪型」だったので、記憶は確かである。

その返事は・・・

 微笑みながらの「うんっ!」であった。コレが映画なら、このシーンで「えんだぁいやぁあ」ぐらいの音楽が流れてもいいいはずだ。若しくはロッキーのテーマとか。私は頑張ったのだ。努力が大嫌いな私が頑張ったのだから褒められて当然であろう。帰り道で加藤さんが「カボチャ、カボチャ♪」と言いながら私の頭を叩いていたのもご褒美であった。触ってくれるとか、今後は加藤さん、いや圭子に触ってもいいのだ。「初の彼女としたいこと」は沢山あった。それはもう山盛りあったが、先ずは「腕を組む」を実行した。今で言えば「手繋ぎ」であろうか?当時は腕を組むのがデフォであったのだが。いや、私が30歳になる頃まではデフォであったと思う。


この日から圭子は私の「カノジョ」になった。最初は「加藤さん」と呼んでいたが、1週間もしないうちに「私は彼女なんだからけーこでいいよ」と言われたので「圭子さん」と呼んだら「呼び捨てでいいよ」と言われた。これには事情があったのだ。なるべく「親密な仲である」と言う演出をしなければ、恋敵の3番目が暴れてしまう。「私は3人目だから」とか自己紹介も無しに暴れるであろうその人は、圭子と同じ学年の「女子」であった(これが理由で圭子の同学年にはライバルがいなかったわけだ)何と言うことであろうか、圭子はレズビアンだったのだ。なんて人を口説いてしまったのかと多少は後悔したが、考えてみれば今では「安元の彼女である」と自称している。つまり、圭子は本来「ストレート」だったのだ。あの先輩女子に「レズの世界」に無理やり引き込まれていただけなのだ。根は深かったが。

 私は写真部の部長であるから、当然圭子の写真を撮る権利がある。しかし、生憎、カメラを持っていない日に「今度、写真を撮らせてね」とお願いしたら、中3の時の写真をくれた。コレで間に合わせておいてくれと言う意味合いだったのだろうか?その写真はあの先輩女子とのツーショットであった。更に言えば、かなりの「スケバンぶり」まで垣間見えた。確かに色々と「間に合う」写真ではあった。

ああ、この人も私と同じなんだと思った。勉強が「何故だか出来てしまう」と言うタイプである。圭子も成績は上位10%どころか5%に入っていたから。私との交際でかなり時間を費やしたであろうが、成績に変化は無かった。しかし中学時代はかなりの「お転婆さん」だったようである。昨今は女の子に対しても「やんちゃ」とか言う人がいるが、日本語では「女の子の場合はお転婆」と呼び換えることも知っておいて欲しい。その上で女の子に「やんちゃ」と言うなら私は止めたり指摘したりしない。「お転婆」であったのなら、キスぐらいはしているんじゃないか?コレは当然の疑問である。しかも性行為を行えないレズビアンである。勿論これは誤解であり、どちらかと言えばレズビアンの方がしつこいプレイもするようだ。個人差はあれど、リアルに聞いてきた話ではかなりしつこい。とまれ、私は部活の帰りに圭子を家まで送るようにしていた。あの先輩女子が私と圭子の仲を引き裂こうと画策するかも知れない。圭子の家は完全に私の家とは逆方向であり、更には遠かったのだが「一緒にいられる時間」としても大事だったので、私は毎日、圭子を送っていた。まだ寒い時期であったので、送っていくと「家に寄っていく?」と聞かれる。最初は遠慮していたが、そのうちこの言葉に甘えるようになった。圭子と二人っきりの部屋で・・・と言う妄想に、膨らむべき部分は膨らんだ。さぁ、初めての体験へっ!と言うことも無く、2DKの古い間取りの賃貸マンションとアパートの間のような圭子の家は、客間と、あとは小学生の弟と一緒の「子供部屋」であったから、何も出来やしなかった。しかし、この年齢の男子の性欲は底無しであるし、女子の「好奇心」も大したものである。私と圭子はその賃貸の階段を降り切ったところでキスをした。私のファーストキスである。舌は挿れた、そう教わった。なお、私には虫歯が無かったのだが、圭子から虫歯菌を感染され、半年後には歯医者通いになってしまった。この虫歯のお陰で、後年感謝するべきことが起きるのだが、ソレはその時に語ろうと思う。まだ寒い時期に、二人きりになれるのは「パーテーションで外部から隠された階段下の狭いスペース」であった。割とその場所で1時間ほどは駄弁っていたものだ。のちに圭子が我が家に遊びに来るようになっても、この「階段下の秘め事」は続いた。我が家では、会えばC、会えばC、会えばCであるが、圭子の家では無理であったから、階段下で満足するしかない。多少話は前後するが、キスをしてもいいのなら、おっぱいぐらいは揉んでもいいのかなと思った。寒いし、おっぱいで温まるのも悪くないアイデアだ。だから揉んでみた。初めて見た時から乳がデカいことは知っていたが、その大きさは16歳の少年の手に余りそうなFカップであった。細身であることはその後に確認した。おっぱいだけが大きいのだ。男は「最初の相手を忘れない」と言うが、本当だろうか?男の恋は、失恋するたびに「名前を付けて保存」、女の恋は「上書き保存」と言われるが・・・

 まだ寒い階段下でキス、そしておっぱいと順調に進んでこれた。もうこうなったら、指くらい挿れてもいいんじゃないか?この冒険もまた成功した。性交はまだだ。レズビアンだったわけで、更に言えばスケバン系であったので、ある程度は予測していた。「処女ではない」と。今考えると随分と早熟である。当時は今ほど「開放的」では無かった。男女交際どころか、空をB29が飛び交い、進駐軍の兵隊さんに「ギブミーチョコレート」と叫んでいた時代である。ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がするとも言われ、ちょんまげがダサいと言う風潮だった時代である。マンモスを追いし彼の山である。指はヌルっと挿った。濡れていた。先に乳を揉んでいたことが功を奏したようだ。私はソコソコに満足し、指の匂いを嗅ぎながら帰宅した。階段下で指を挿れても大丈夫と言うことは、私に希望と勇気を与えてくれた。まだ初セックスをしていないが、局部を触れたので、多分チャンスがあればイケると考えた。


そして私には勇気が無かった。


付き合い始めた頃はまだ中学時代に住んでいた家である。私の部屋は和室4畳半であったので、弟の部屋で遊んでいた。ぶっちゃけた話、私に部屋は万年床で、私の臭いが染みついている布団であった。圭子を招けるような部屋では無かったのだ。

 「その日」は突然訪れた。何故に私たちはあんなに先を急いだのだろう。いや、圭子はあんなに積極的であったのだろう?その答えはきっと簡単で、単に圭子がエロかっただけである。その日も弟の部屋で遊んでいた。駄弁っていただけだが、階下には親もいるし騒ぐことも出来ない。いきなり圭子が言った、「よーじの部屋が見たい」と。いやむさ苦しい部屋なんで勘弁してください、ココは弟の部屋ですが快適でしょう?と言う私の訴えも虚しく、圭子は隣の和室を覗き込んだ。「あー、布団が敷いてあるっ!」いや、そう言う目的ではないんです、畳むのが面倒なだけなんですと言わせる圭子は可愛かった。いや小悪魔であった。そのまま私の部屋にスルリと入ると、スカートを脱いで、畳んで枕元に置いて布団に潜り込んでしまったのだ。上着はとっくに脱いでいた。そして布団の中から私を見て手招きをした。さて、ここからが問題である。私は自分のブレザーから生徒手帳を引き抜いた。小林先輩から頂いた贈り物が挟んであった。そう、コンドーム2個である。何故2個かと問われれば、多分小林先輩の親心であろう。最初は1発では済まないぜ・・・みたいな。初めて着用するコンドームに戸惑いながらも、小林先輩が付録に付けてくれた「コンドームの使い方(図説入り)」を思いだしながら装着した。今でも思い出すとニヤついてしまうのだが、その説明書に書いてあった、行為が終わったら速やかに「抜去」すると言う一文が秀逸であった。いや「抜去」って(笑)そして私はこの初体験を全く憶えていない。何故だろう?コンドームで多少もたついたことは記憶しているが、行為の記憶が無いのだ。可愛いFカップの女子高生との行為を憶えていないとは、まったく勿体ないものである。


速やかに抜去したとは思う。


この日以降は、我が家で会えばC.会えばC、会えばCの繰り返しであった。そうそう圭子が我が家に来ることは無かったので、回数はと言えば、30回ほどであろうか?コンドームを買うのも男の務めであるが、結構なお値段だったので、「あの自販機」に忍者のように気配を消しながら素早く500円玉を投入するか、母に頼まれる買い物品に紛れ込ませて買うかのどちらかであった。家事手伝いの駄賃である。いや、母よ、私は感謝していたから赦して欲しい。大きなスーパーなら売ってるものだ、コンドームと言うアイテムは。


 では、後日経験することになる「カノッサの屈辱」について語ろうか。

男女交際は「校則」で禁じられていた。実に前時代的な規則であったが、この「校則」を守らせようとする、いや「利用」しようとする教師がいたのも事実である。校内でいちゃついていれば睨まれ、何かの折に「お前は異性と付き合ってるから駄目なんだよ」等と、多感な年頃の少年少女に圧力を加える。当然、そんなことは承知の上で男女交際をしてはいるので、校内では目立たないように交際するのだ。社内恋愛のようなものである。査定に響くからとビクつきながらのお付き合いは逆に「健全な連愛」を悪い方向に捻じ曲げてしまうと思うのだが・・・

 教師のやり方は陰険で、成績による贔屓もあった。私と圭子の「恋愛」は当然と言えば当然だが、「ノータッチ」を貫いていた。成績上位者同士のカップリングである。下手にへそを曲げられても困ると言う考えであったのだろう。中学時代は「内申書」で生徒を縛り、高校に入学してみれば、今度は「進学先」で縛ってくる。難関校に何人入学させたか?と言うのが教師や学校の評価になるのだから、成績優秀者は大事にされた。俗にいう「マーチ」クラスはゴロゴロしていたが、その上の成績となるとかなり少なくなる。トップレベルは国公立に進んでいたが、私はこのトップクラスには及ばないが、マーチクラスよりは上であった。圭子はトップレベルであった。家庭の事情で進学しなかったが、就職先は某一部上場企業の完全子会社で、当時はまだ一般的では無かったコンピューター関連の会社に推薦で入社した。教師陣からしてみれば「厄介なカップル」であった。校内でいちゃつくので、他の生徒に示しがつかないわけだが、迂闊に指導するのも躊躇われるというわけだ。私はのちに図書室の司書から暴行を受け、かなりの怪我をしたが、アレは相当うっ憤が溜まっていた結果であろう。今なら大問題になるレベルの暴行であった。

 休み時間はいつも図書室で会っていた。授業間の10分休憩でも会う。次の授業が体育であったり、教室移動がある場合は仕方が無いが、毎日の休憩時間に「手紙の交換」をしていた。可愛いモノである。交換日記が続かなかった私が、圭子とのこの習慣は最後まで続けることが出来た。ルーズリーフに書いた短い手紙やイラスト。今思えば保存しておけばよかったのかも知れない。

 放課後の部活も二人で過ごすことが多かった。私には「校内風景の撮影」と言う写真部の責務があったが、サッサと終わらせて、後は天文部で過ごしていた。写真部は活動が低下していたが、それなりに福岡君と高田君が維持していた。福岡君は念願のカメラの買い替えに成功して、写真撮影に情熱を注いでいた。放課後なので、部活の行き来は自由である。私は写真部と天文部の間を往復していたようなものだ。写真部としても「部長不在」では活動しにくかっただろう。暗室作業は私の腕が随一であった。この暗室がかなり学校生活を助けてくれたものだ。学校生活において「鍵のかかる個室」と言うのはほとんど無いのである。強いて言えばトイレの個室程度では無いだろうか。他にも例えば「理科準備室」みたいな付属部屋も鍵はかかるが、開けられる恐れは多分にある。写真部の暗室の鍵は私が職員室から借り出してくる1本だけしかない。合鍵はるだろうし、マスターキーも存在したが、通常はそのような「別の鍵」が使われることは無い。そして「鍵がかかる個室」は喫煙するのに都合が良いのだ。高校生ともなれば、喫煙者も相応にいるわけで、そんなちょっと不良な先輩たちから後輩まで、写真部の暗室をたまに利用するようになった。部長の私が率先して喫煙していたわけだし、制服からは「煙草臭」がする。気付いた先輩が「どこで吸ったんだよ(笑)」と声をかけてくれば暗室を紹介するしか無かった。換気扇まである小部屋で、普段から悪臭漂う部屋だ、煙草臭なんぞはすぐに消えてなくなる。写真関連の薬品の臭いはかなり強烈である。特に酢酸は「化学兵器並み」であった。純度が高いので、本当に臭い。


そんな不良たちが煙草を吸っている中で、私は写真を引き伸ばしていた。当然だが、「硬派」を気取る不良たちにだって好きな女子はいる。当然「なぁ安元。3年の〇〇の写真を撮れないか?」と言うような依頼を受けるようになった。部活をやっていれば簡単に撮影出来るし、私が2年生の時は3年生は1個上、つまり圭子と同じ学年なので「ツテ」はあった。正直に写真を撮らせて貰えばいいだけのことであった。ソレでも駄目なら「サキちゃんの隠し撮り」で培ったテクニックを活かせばいい。モノクロ写真ではなくカラー写真でと依頼されれば必要経費も請求して、1枚500円ほどで売りさばいた。少なくはない稼ぎにはなった。少なくとも煙草代や小遣い銭に不足を感じない程度であったが。学校生活で使う金と言えば、放課後のジュースやお菓子代程度。あとはたまにラーメン店で食事をする程度であった。圭子がいるので、あまりラーメン店に行くことは無くなったが。あとは家に居るセントバーナードの世話もサボりがちになった。餌を作って与えることは忘れなかったが、あとは放置である。そもそも、セントバーナードを飼いたいと言い出したのは養父である。全く無責任なことに、養父は犬に対する興味も薄れてきたようで、本当に放置していた。セントバーナード「ボス」にとって、家族は私だけと言う感じであった。少なくとも私は暇があればボスと遊んでいた。弟は犬だけでなく「ペット全般」に興味が無かった。母は「臭い」と言うだけで触りもしなかったのだから、ボスは不遇の犬であった。圭子は持ち前の天然っぷりで、僅か1分でボスを手懐けていた。恐るべしである。よだれで制服を汚されるので、私の部屋で私服に着替えてから遊んでいた。私服も可愛かったので、すぐに部屋に引っ張り込んではエッチなことをしていたが、高校生の多くはそんな感じであろう。何故、ブレザー姿のままエッチなことをしなかったのかと言う悔いが残っている。私服などと言うものは、年が長ずれば嫌でも見るものである。リアルjkのブレザー姿の方が希少ではないか。当時は、学校に行けば、右を持ても左を見ても女子高生ばかりなので有難みが無かった。少年よ、後悔しないように「現役女子高生」の姿を目に焼き付けておくがいい。エッチなことをすると、今の法律(条例)では処罰対象になるのが可哀そうではあるが。なお、私の年代はまだ条例が無かったのでセーフであった。


私の生活圏は徐々に圭子中心になっていった。初めての「彼女」であり、初めてセックスをした相手である。私はぞっこんであった。毎日学校で会う。休み時間も会う。放課後の部活も一緒だったし、下校時は家まで送ることが多かった。ついでに飯を食わせてもらうことも増えた。親公認の恋人同士であった。私の母も彼女を可愛がっていた。息子の恋人を邪険にすれば、いくら私が温厚だとは言え、家事手伝いを放棄したであろうし。いや、正直に「可愛い」と思っていたのだと思うが。母は水商売の女であったから、女を見る目は厳しかったが、圭子は「合格」だったのだろう。古くなったアクセサリーをリメイクしてプレゼントすることもあった。中にはかなりお高いモノもあったはすだ。デパートの外商部が家に来る程度には「良い顧客」だったのだから。圭子が喜んだのは自分の誕生石であるアメジスト。あまり高いモノでは無い。一級品ともなればお値段も張るが、母の好みの石ではなかったようで、コレクションにあるアメジストは、ほとんどが圭子のモノとなった。

 階下に親が居てもセックスはしていた。稀に「買い物に行って来て」と頼まれるが、圭子と一緒なら別に構わなかった。そんな時は「お釣りはお小遣いにしていいから」と言われることも多かったし、お釣りが少ない買い物なら千円二千円ほどのお小遣いを付けてくれることもあった。買い物も「デート」みたいなものである。スーパーの傍にある喫茶店で駄弁るのも楽しかった。

 ある春の日のことである。それまでの私のペニスは真正包茎であった。包み隠さずに書くが、包み隠されていたのだ。私は「仮性包茎」を経験しなかった。物事の順序が逆で、先に性行為をしてしまったので、我がペニスはコンドームの中で不吉なほどの紫色になることがあった。成長しようとする亀頭と、ソレを許さない包皮の熱い戦いが行われていたようだ。そして、ある日私の包皮が「ズルン」っと剝けた。それはもう衝撃で。どうやら包皮を被ったままで人生を送るのかと思っていた矢先のことである。「ズルン」っと剝けたのである。もう痛いのなんのって話である。仮性包茎で「剝ける練習」が無かった私の亀頭は刺激に弱かった。私は必死になって「皮を戻した」のだが、隙あらば皮が剝けるのである。痛いのでトイレに駆け込んで皮を戻す。最悪だったのは柔道とラグビーの授業であった。授業の前には念入りに皮を被せておくのだが、いきなり剝ける。歩くことも不便なほど痛いのに、ラグビーではパスが回ってくるし、柔道ではクラスメイトが太ももで股を割ってくる。殺したいと思った。このままではいけないと、たまに「故意に皮を剝く」こともあったが、5分で挫折していた。痛いのだから仕方が無い。大事な部分が痛いと言うのは、ガリガリと音を立てて精神まで削ってくるものである。前かがみで歩く私を不審に思った圭子が理由を訊いてきた。私は素直に「皮が剝けて痛い」と答えた。もうどうでも良かった。圭子はその大きな目をさらに見はって「大丈夫なの?」といたわってくれたが、大丈夫じゃないから前かがみで歩いていたわけだ。その日から「特訓」が始った。私を「正道に立ち返らせる」特訓である。圭子は当時ではまだ珍しかった「ウェットティッシュ」を持ち歩いていた。今思えば合点がいくが、我が家でセックスをする時に、圭子の局部が臭った記憶はない。圭子は私の家に来る時はウェットティッシュで局部を清めていたのだろう。性的なことに興味津々な私は、当然ながらクンニにも積極的であった。いわゆる「栗の花の匂い」がした。臭くは無かったのだ。圭子は股間の反乱で前かがみになりがちな私の家に来ると、ズボンとパンツを脱ぐように命じてきた。圭子もまたエロかったのだ。ウェットティッシュで拭き清めた私のペニスをしばし観察した後、「痛い?」と訊きながらその可愛いお口に含んでくれた。ズルリと剝けて以降、ブリーフとの摩擦で恥垢はあまり溜まっていなかったので、臭いも酷いと言うレベルでは無かったはずだ。初めてのフェラはもうチクチクと痛いだけであったが、妙に興奮したものだ。そのままフィニッシュに至ることは無理であった。惜しいことをした。セックスはコンドームを被せて、おっかなびっくり腰を振った。早く逝ってしまったが、終わったあとも拭き清めてお口で特訓してくれる。若さとは硬さであろう。2回目3回目でも私のペニスは硬くなった。そのたびにコンドームを被せるわけだ。その日はウェットティッシュが無くなるまで繰り返した。翌日、翌々日と、圭子はウェットティッシュを持参しては「特訓」してくれた。


しつこかった。


今の私が「オーラル」を好むのは、確実にこの時の体験が元である。正直、本番よりもオーラルの方が好きである。女性の「膣内」(と書いて”なか”と読む)に舌でも生えてれば話は別だが。圭子の下はザラザラしていてよく動いた。なお、私の舌は「牛タン」と呼ばれていた。ねぶる時の「量感」が重厚で良いらしい。圭子はレズビアンだった時期があったので、「舌の動き」等の評価は厳しかった。しかし、「牛タン」と褒めてくれた。圭子の舌遣いも見事なモノであったが、口内でフィニッシュしたことは無い。不思議と無いのだ。必ず本番で終えていたものである。本当に素晴らしい時代であった。記憶では圭子の特訓は3日間続いた。そして4日目に渡されたセブンイレブンの紙袋。中には「トランクス」が入っていた。「よーじはブリーフ辞めてね」だそうだ。蒸れて臭かったのだろうか?私は16歳にしてトランクス・デビューを飾ることとなった。のちに修学旅行で風呂に入る時、クラスメイトの多くがコソコソと股間を隠しているのを「軽蔑の眼(まなこ)」で見て、股間のペニスを誇示することも出来た。ありがとう、圭子。

 そもそも、私が圭子と性行為に及んでいたことはバレていた。私が自慢したのではない、圭子が親友に「よーじのちんこ」と言う話をしたのだ。女の子の方がえげつないとは、本当のことであろう。そこから私の同学年に噂が伝わったのだ。「痛いんだってっ!」と言う余計な一言とともに。


これがのちに言う「カノッサの屈辱」である。史実とは関係ない。

 

 そして季節は夏となった。圭子と出会った夏である。せっかくの夏を私はバイトに費やした。デート代の捻出のためである。圭子は母子家庭で弟もいる。お小遣いが少ないので、デート代は私が出すことが多かった。デート代が無いと言うことで圭子に寂しい思いはさせたくなかったのだ。普段もたまに母の店の手伝いをして少ないながらもバイト代を貰っていた。店の開店前の準備をするのだ。毎日ではないが、店の傍にある「業務用の荒物屋」で箸袋と割り箸を買い、店で箸袋に割り箸を入れておく。おしぼりを洗濯して、丸めて保温庫に入れておく。水の支度をしておくといった具合の「お手伝い」である。コレはある日から不要になった。母は紹介された女子高生を手伝いとして雇ったのだ。違法スレスレだったと思う。私はこの女子高生が店で酔客の相手をしているところは見ていないが、真実は知らない。秋頃だったと思うが、この女子高生がテスト勉強で行き詰っていた。ソレを見た母が「洋二。お前が教えてあげなさい」と丸投げしてきた。仕方が無いので、1週間ほど勉強を見てあげた。特に恋愛感情は無かった。私には圭子がいたし、2時間もすれば母が店に来る。その時点で私はお役御免で圭子の家に行く。相変わらず、毎日圭子に会っていた。


夏休みのアルバイトの日は除くけれど。しかもこのバイトは断れないバイトなので、圭子に会えない日も結構あった。


母の紹介で決まったアルバイト先であるから当然であろう。


高2の夏休みのアルバイト。私は母に相談することにした。高校ではアルバイトを禁じてはいなかったが、奨励もしていない。信用出来ないアルバイトは私だってご免であった。母に紹介してもらえれば安全だろうと思ったのだ。母の店でアルバイトすることは想定していなかった。安い時給でこき使われるのは避けたいものだ。せめて日給で7千円は欲しい。今はどうなのか知らないが、最低時給は東京で1000円を超えているようだ。当時の地方都市で日給で7千円と言うのはかなり良い待遇であった。そんなアルバイトも、母の紹介ならあるかも知れない。その程度には母は水商売や飲食、土木にインフラと、あちこちに顔が広かった。この街で水商売をして10年以上である。この母の仕事のせいで、私はかなり割を食ったが、そろそろ利用してもいい頃だろう。「Aさんとこに行きな」と、母はちょっと考えてから言った。私はそのAさんを知らないが、名字で呼ぶところから「自営か偉い人」であろうとは思った。母は早速そのAさんに電話をして、私を雇ってくれるように頼んでくれた。日給は望み通りの額であった。この時点で怪しまなかった私はまだ純真であった。この日給7千円と言う希望は「夏休みを丸々潰したくはない」と言う願いも込めてあった。日給7千円なら、夏休みの半分、つまりは20日間も働けば14万にはなる。圭子とのデート費用としては上出来であろう。普段からのお小遣いも、昼のパン代も流用すれば、かなりリッチなデート生活を続けることが出来る。コンドームは相変わらず、母に買い物を頼まれた時に、紛れ込ませて買っていたが。当然、レシートは捨てている。


2日後の早朝、かなり早い時間にそのAさんの職場と言うか家に行くことになった。夏休みは始まったばかりで、若干だが朝の空気が肌寒く感じられた。母に聞いたAさんの家に到着すると、「おう、正美さんとこの坊主か(笑)」と、パンチパーマのおっさんが肩を叩いてきた。「正美」は母の源氏名である。


そう、朝から忙しそうに荷物をトラックに積み込んでいるのはパンチパーマのおっさんお兄ちゃん、煙草を咥えながら細かく指示を出してる爺さんの小指は無い。何と言うことだろう、進学校に通う私のアルバイト先が「的屋」とは、お天道様でも予想が出来なかったであろう。もう本当に怖いったら無かった。とにかく「マトモな風体の人」が皆無である。しかし、この私の考えが非常に差別的であることはその日のうちに理解出来た。彼らは真面目で、仕事には真摯であった。多少はやんちゃなところもあるが、仕事が出来れば褒めてくれ、下手を打てばまたいちから教えてくれる。仏の顔も三度と言うが、的屋もそうであった。仕事を憶えない愚図は早々に追い出される。私が知る限り、そんなおっさんお兄さんが3人はいた。難しい仕事ではないので、憶えない方が悪い。のちに知ったことだが、戦前から的屋を営んでいた有名な一家の「分家」であった。分家と言っても、オヤジは本家の長男なので、会長が引退すればここが本家になる。次男も的屋だが、会長の下で指揮を執っていた。「的屋」と言うと、ヤクザ絡みだとか、素行が悪いイメージがあるが、正統な「的屋」は商いしかしない。祭りで屋台を出せるのは的屋と「ニビキ」と呼ばれる集団と「ヤクザの舎弟」ぐらいのもので、故に「的屋」も反社会的勢力と思い込まれていたようだ。確かに「ニビキ衆」の素行は悪かった(ニビキとは多分“荷を引く”凌ぎだと思われるが詳細は知らない)ヤクザの舎弟の方が大人しかった。祭りで問題を起こせば、仕切ってる「的屋」の粛清を受けるからだ。この点で「ニビキ」は優遇されていたと思う。祭りを仕切る「2大勢力」であったから、的屋も迂闊には手を出せなかったように思う。立場的には的屋の方が上であったが、そこは摩擦を起こさない処世術や駆け引きもあったのだろう。

 荷を積み終えたトラックの助手席に乗せられて、有無を言わさず祭りの場所へ。若干遠い場所で、だから早朝から呼び出されたわけだが、そのトラックのハンドルを握るお兄ちゃんは「煙草を吸うなら窓を開けてくれな」と、横顔で笑った。「母ちゃんにチクったりしねえからよ」


私はこのお兄ちゃんにちょっと惚れた。


昼前に現場に到着した。いつも祭りの場所には昼前に到着していた。すぐに荷を下ろして屋台を組む。小さな祭り、空き地がメイン会場で、そこに通じる道路の両脇に屋台が出る程度の規模ならば、屋台を5つも組めば力仕事は終わりだった。あとは金魚すくいとか「風船のヨーヨー釣り」みたいに、商売道具を設置すれば支度は終わりと言う簡単なモノだった。当時の的屋の「偉い人」は「綿あめ」の屋台と言うか、機械を設置して煙草をふかしていたものだ。今でも私は祭りでこの「わた飴売りのおっさん」を観察したりする。確かに貫禄がある。屋台を組む売り物と言えば「お好み焼き」や「焼きそば」に「たこ焼き」と相場は決まっていた。一番いい場所にお好み焼きの屋台を出せる一家が一番偉いと教わった。新しい売り物と言えば、「クレープ」があった。コレは場所によって出す出さないと決めていたようだが、担当していたのは大学生の優男2人であった。この人たちは普通の人(アルバイト)で、やっぱり優しい男たちであった。私はふと思うのだ。今の会社員の方がよほど質が悪いと。的屋の彼らは「人をだましたり傷つけることを良しとしなかった」と思う。利害が絡めば怖い部分もあるが、話せば分かる人たちであった。底抜けに明るくて、多分正しいことをしている人たちだった。今のことは知らない、質の悪い業者が増えて、祭りを「町内会」が仕切るとも聞いた。町内会の商売は手際が悪く、「安かろう悪かろう」だと思う。確かに安いとは思う。たこ焼き1舟8個入りで200円。的屋なら12個入りで500円は取るだろう。しかし、手際の良さや商売の上手さには雲泥の差がある。本物の「的屋」ならば、祭りから締め出す必要はなかったのではないか?第一、大規模な祭りともなれば、やはり的屋(ニビキやヤクザの舎弟も含むが)がいないと成り立たないわけだし。

 さて、私はと言えば、水商売で有名人であった「正美さんとこのボンボン」であるから、任されたのは「水入り風船のヨーヨー」であった。「水チカ」と呼んでいたが、これがまた面白いくらいに暇だった。客と言えば小さな子供ばかりで、トイレットペーパーで作った「紙縒り」(こより)の先にフックを付けて、1回100円でヨーヨー釣りをさせるだけである。私は阿漕では無かったので、もっと言えば後片付けが面倒なので、2回も失敗する子がいれば、サービスでヨーヨーを進呈していた。水チカは翌日には萎んでしまうし、それでも膨らませた水チカは一家の倉庫に戻して、使える者はまた使うルールがあったから・・・

 要領を掴んでしまえば、1個作るのに20秒であった。祭りのある街によってはこの水チカがよく出る(売れる)と言うので、屋台を組み終えたら200個ぐらい作ることもあった。足りなくなればまた作るのだ。手がふやけた。私は1日に2万円は売っていた。のちに待遇が上がった時に聞いたのは「日給は1万円から」だと言う話で、私の日給はかなり安かったと言う。一にも二にも、母が「うちの息子を鍛えてやってください、甘やかさないでいいから」だったそうで、余計なことしか言わない母であった。お好み焼きの屋台は30万は売っていた。かなり「ボロい」商売である。材料費なんざたかが知れているので、お好み焼きみたいな「粉もん」はドル箱であったようだ。私は水チカ売りであった。来る日も来る日も水チカを膨らませていた。子供の顔を見て過ごしていた。そんな私が記録を打ち立てたのだから面白い。水チカで日に9万も売ったのは私が初めてだそうだ。たまたま子供の客が多い祭りの日だっただけだと思う。それでも「特別ボーナス」を貰った。日給7千円なのに、ボーナスだけで1万円を貰えた。この1回だけのことだったが。的屋は「祭りがあればどこにでも行く」ことになる。屋台を出せる「権利」があれば他県でも行く。2つ離れた県にだって行くのだ。要領を掴むと、この仕事が「楽ちんで日給も良い」ことに気付く。日給は本来なら1万円は貰えたはずのところ、母の差し金で7千円であったが、これでも「貰い過ぎ」だと思えた。近場、つまりは私が住む市内の祭りでは若干は忙しかったが、隣の市とか大きな祭りともなると、逆に楽なのだ。近場だと気が抜けるのか、時間にルーズになって、屋台の展開から準備まで短時間で済ませるから忙しい。しかし遠い場所だと時間に余裕をみるので、午後の2時には屋台も組み終わる。支度も終わる。夏の祭りの本番は夕方からである。2~3時間は自由時間であった。持ち場を遠く離れることは出来ないが(一応は商売中である)、1週間で打ち解けた的屋の兄ちゃんと駄弁りながら、酔わない程度にビールを飲んだり、あちこちの屋台で遊んだりしていた。忙しいのは日没からの2時間だけである。水チカである。アセチレンランプではないが、裸電球で照らされた祭りの風景は風情があるものだ。私はよく、そんな光景に見惚れていた。水チカの水槽は低い位置にある。当然、低い椅子に座り、祭りの様子を若干「下から見上げる」ことになる。この低い場所から祭りを見るのは中々経験出来ることではないと思う。


夏休みは「試験休み」を含めて50日間ほどあったが、私はそのうち30日間をアルバイトに費やした。想定外のことであった。20日も働ければ十分なのに、多少は要領を憶えて動けるようになったら、もう「戦力扱い」になっていた。圭子に会う暇もないわけだ。バイト料は日払いで貰えることもあったが、多くは「最後の日に渡すから」と言うことであった。本当に母の差し金で酷い目に遭ったものだ。日払いで貰えるのは「オヤジ」に頼み込んだ日だけだ。私のような「高校生アルバイト」が話しかけるのも躊躇われる存在であったが、煙草代も無い、祭りで飯を食う金もないと言えば、そりゃもう「仕方がねぁなぁ(笑)」って調子で1万円札を腹巻から出してくれた。あの腹巻はきっと四次元の金庫に繋がっていたのだろう。ナンボでもお金が出てくることを確認した。痩せて人相の悪いドラちゃんである。小指は健在だった。


多少は小金を持って圭子に会う。会ってもすることが無いけれど、愛する圭子に会うのは大切なことだ。昼頃から圭子の家に行く。我が家では夏休みと言うこともあって、弟が居座っていた。それに私は我が家が窮屈に感じるようになっていた。コレは「的屋」を通じて社会の広さを知ったからと言う理由もあっただろう。正直に言えば、実家は「圭子を抱く場所」でしか無かった。あとは寝食するだけである。圭子の母は今で言う「シンママ」であったが、イメージ的には「大阪のおばちゃん」のようなものであった。圭子を可愛がる私を可愛がってくれた。晩飯をよくご馳走になったものだ。風呂をご馳走になる日だってあった。ある程度の「常識」もこの圭子の母から教わったものだ。小さなマナーとかそう言う「私の実家では教わらないこと」が主であった。圭子の家ではエッチなことが出来ない。帰り際、あの階段下でキスをして、圭子の股間をまさぐることしか出来なかった。しかし、ある日のこと。流石に我慢も限界で、圭子と川原まで散歩に行った時に、夜であることをいいことに、川を渡る鉄橋の橋げたの陰で青姦した。このような展開は予想していなかったので、コンドームを持っていなかったが「外で出す」と言うことで妥協した。圭子と生でしたのはこの時1回きりだ。気持ちよかったかと問われれば「忘れた」としか言いようがない。本当に圭子とのセックスの記憶が希薄だ・・・

 さて、的屋の仕事も佳境に入った。「夏祭り」は稼ぎ時である。1回出れば3日は他県を回ることもあった。そんな時は旅館で宿泊していたが、この「遠征時」にだけ、「オヤジ」の娘が同伴していた。私と近い歳で、高校生である。握力が20kgも無いのに少々お転婆さんで、2日も3日も家を空けると何をするか分からないと言うことで同伴させていた。神に誓って言うが、私は浮気をしたことが無い。この時のことを「浮気」と呼ぶには根拠に乏しいと思う。ただ単に、お互いに性的欲求不満であっただけだ。そう、私はこの時1回だけだが、付き合ってるカノジョがいるのに、他の女を抱いた。この人生でこの1回だけである。赦して欲しい。その日は「オヤジ家族」だけが別室で、私たち「働き手」は大部屋2つに別れて雑魚寝であった。コレは毎度のことなので気にしていない。逆に雑魚寝の方が楽しかった。人生の先輩たちの「面白おかしいエピソード」を聞くのが楽しかったし、チンチロリンで遊ぶのも楽しかった。トータルで若干勝っていた。そんな大人たちは仕事がハネると、連れ立って飲みに行ってしまった。下戸はいなかったので、全員が飲みに行っていた。残されたのは私と握力20kgさんだけである。お転婆さんだが「病弱」そうに見えた。実際に病弱であったのだろう。「深窓の令嬢」と言う感じであった。見た目がヤンキー風であることを除けばであるが、美少女でもある。「散歩、いこっか?」と誘われた。私はびっくりした。握力20kgさんと会話することは少なかったからである。ソレがいきなり「夜のお散歩」ときたものだから、かなりドギマギした。結果は予想通りであった。旅館の部屋で重なっているところを発見されたら、私は多分あの山に埋められるか、落とし前で巨額の金を弁済するために2年は奴隷となっていたであろう。その点は握力20kgさんも承知していたので、散歩中に「ラブホテル」を探そうと言う考えである。ホテル代は彼女が持っていた。と言うか、財布には大きなお札が10枚は入っていた。流石は「令嬢」である。散歩に出てほどなく、ラブホテルを発見した。旅館がある地域だから当たり前であろう。私たちは周囲を伺ってからラブホテルのフロントに飛び込んだ。私にとっては初のラブホテルだが、握力20kgさんは結構慣れていた風であった。受付にあるボタンを押して部屋を選んだ。結構綺麗な部屋だった。回転ベッドは無かったし、鏡張りでも無かった。絨毯は真っ赤であった。先に握力20kgさんがシャワーを浴びた。私は昼間の仕事で汗臭くなっていたので、念入りに股間を洗った。圭子の特訓で私の股間のルーデル大佐は立派なモノになっていた。いや、今にして思えば、まだ経験不足で色素沈着のない真っ白なブツで、発育も途上であったことに羞恥を憶えるが、当時の高校2年生としては相対的に「立派」であったと思う。握力20kgさんはベッドに俯せていたが、「エッチ巻き」(バスタオルを身体に巻いただけ)であったので、太ももの奥の院が視えそうで見えない。既にルーデル大佐は怒張してしまっている。いつものように腕枕をして顔を寄せると「キスは駄目だよ」と言われた。キスよりも乳であるし、皿に言えば握力20kgさんの股ぐらに興味津々であった。人生で2個目の女性器である。母の膣を通過してしてきたことを計算に入れても3個目の女性器。まぁ産まれてくる時に後ろを振り返る余裕があったかどうかの記憶はない。乳はホテルのボディソープの匂いがした。股ぐらは分からない。布団に潜ろうとすると髪を掴まれて引き戻されたからである。しかし、確認のために指を這わせたら濡れていたので匂いを嗅いだのも事実だ。この「先ずは匂いを確認する」ことは、今でも徹底している。稀に臭いどころが「激臭」を放つ子もいるからであるが、握力20kgさんは無臭であった。あとは無我夢中の1時間半である。コンドーム2個を使い切って、お互いに満足した。帰り道は途中まで一緒であった。「安元は先に帰ってて。散歩してたって言えばいいよ」だそうなので指示に従った。旅館に帰ると大人たちがビールで酒盛りをしていた。握力20kgさんはあとから帰って来て、真っすぐ「家族の部屋」に入ったようだ。一切疑われることは無かった。

 こうして私の高2の夏休みは終わった。給料を払うと言われて取りに行った時に「コレはお母さんに言わなくていいから」と、3万円ほど上乗せしてくれた。全部で20万円を超えていた。なお、私がいくら稼いだかは当然報告が行っていた。だから割り増し分は「内緒だよ」と言うことなのだ。これがまた罠であったのだが。


夏休み

あー 夏休み

夏休み

と詠んだのは芭蕉であったか、TUBEだったかを忘れてしまった人生。

 的屋のアルバイトに明け暮れた夏休みであったが、毎日では無かったわけで、当然「高校生らしい」夏休みの行事もあった。アルバイトが無い日は写真部に必ず顔を出していたし、夏休みのアルバイトは8月の下旬で終わっていた。的屋の繁忙期を過ぎたからだ。20万円あまりを稼いだアルバイトであったが、趣味が写真である。このアルバイト料からカメラ機材も買うことにした。稼いだ額は母に知られているので、カメラ機材を買うからとねだるわけにもいかない。当時の高校生にしてはかなり贅沢な機材を買った。いわゆる「プロ向け機材」ではないが、そこそこ値の張る機材はこのチャンスに買うしかない。圭子も放り出してあるバイトをしていたので、罪滅ぼしで大きな街まで買い物ついでにデートするのも悪くない選択だった。私は圭子と会うために天文部に出入りしていあので「準部員扱い」であった。当然だが天文部の「合宿」に同行することになった。たまたま天文観察に好適な新月が8月の終わりにあったから、アルバイトを終えた私も同行で来たのだ。同行するとなると、天体写真の任務も仰せつかることになる。当時使っていたX-500はバルブ撮影(星の軌跡を円で撮影する場合に必要)でも電池を使う仕組みだったので、撮影中にバッテリーが上がればアウトである。当時のカメラは小さな「ボタン型電池2個」で動かしていたから、バルブ撮影では割と簡単にバッテリーが上がったものだ。この仕様を変えることは出来ないので、バルブ撮影ではバッテリーを使わない(機械式と呼ぶ)カメラが必要だった。必要だったと言うよりも、バルブ撮影を言い訳にして「新しいカメラ」を買いたかっただけであるが。既に新品では売っていないXDと言う高機能なカメラを買うことにした。生産中止からあまり日が経っていないカメラで、お値段も相応に高かった。コレはのちの話になるが、体育祭で遠くから撮影するために望遠レンズも買った。高校生が使うには贅沢な300㎜F4.5と言うレンズで、今の私では多少買うのを躊躇う性能の「良いレンズ」であった。


合宿参加はかなりドタバタした。日程を聞いたのがアルバイトの終わる前で、行けるかどうかが分からなかったのだ。宿泊は山にある「バンガロー」だったので、私一人が増えたところで大きな影響はないが、一応は「部外からの参加」なので、顧問の教師の承認が必要であった。万が一事故でもあったら大変であることは想像に難くない。意外とあっさり承認されたのは「写真部」の看板のお陰であろうか。準備自体は既に天文部の部員の皆さんが終えていたので、私個人の荷造りさえすれば、あとはリュックサックに詰め込んで出発日の朝に駅に行けば良かった。目的地は2000m級の山であったが、駅からバスで峠まで行けばほぼ到着である。登山が目的ではないので、山頂を目指すわけではない。中腹よりもかなり上ではあるが、標高にして1600mほどであろうか。夏の終わりのその高原はもう秋であった。峠でバスを降り、山道を1時間ほど歩くとバンガローに到着する。参加部員は10人ほどであった。男女比はほぼ同数なので、大き目のバンガロー二棟に別れて宿泊である。2泊3日のちょっとした旅行である。天文観察が目的なので、昼間は寝ている。寝ているとは言っても遊び盛りであるから、昼過ぎには起き出して遊んでいた。完全に自由行動で、夜になると集まってくる感じで、顧問ものんびりしたモノであった。当然であるが圭子の「元カレ」(女性)も参加していた。この辺りの神経が分からないのだが、私とも仲が良かったのだ。普通は彼女を取られたら憎みこそすれ、歓迎はしないと思うのだが。今想像するに、やはり「レズビアン」であることに負い目を感じていて、「カノジョ」が口説かれて異性との恋にハマりだしたことを「論理的な思考」でねじ伏せて、私と圭子の仲を認めようとしていたのではないか?そう言えば、圭子は「猫」であった。だからかなり快感には貪欲で、年頃の男子高校生の性欲を余裕で受け止めていた。三角関係にならないで済んだのは、この「元カレ女子先輩」のお陰でもあった。この「女子先輩」をニックネームで呼ぼう。皆に「アニさん」と呼ばれていた。多分「兄さん」のことだと思う。ボーイッシュで多少不細工であった。アレで女性らしく着飾って髪を伸ばしても、面食いの私のペニスはピクリともしなかったであろう。そのアニさんはこの合宿にウィスキーと煙草を持参していた。更に、驚いたことに、顧問の教師の前で煙草の箱を取り出したのだ。顧問は「まだ吸ってんのか。見逃してやるけど、学校では吸うなよ」と言う程度であった。なお、ウィスキーは天体観測が終わり、明るくなり始める前の宴会で飲んだ。当然、顧問も参加していた。肴はピーナッツとか、焼いたベーコンみたいなモノであったが、それなりに美味い酒であった。アニさんが吸っているので、私も遠慮なく吸っていたが、遠慮なく吸えたので、持ち込んだ煙草がすぐに無くなった。2日目の夕方には1箱吸い終えてしまった。仕方が無いので峠にあった民宿まで煙草を買いに行った。暗くなりかけていたのが拙かったようで、私は帰り道で迷ってしまった。早い話が遭難してしまったのだ。


少々話を急ぎすぎたようだ。先ずは合宿初日の話をするべきであろう。


バンガローに到着したのは午後の4時ころだったと思う。朝早くに地元の駅を鈍行に乗って出発。昼過ぎには目的の駅に着いて、そこでバスを待った。1日に4本とか5本しかない路線バスである。時刻表が昨年と違うと言うことで、1時間ほどバス待ちをした。昼飯はバンガローで食べる予定であったが、既に午後である。私たちは駅前ロータリーにある立ち食い蕎麦屋で食事をすることになった。私はこの時まで知らなかったのだが「天玉」とは「かき揚げ天+生卵」のことであった。私はてっきり「卵の天ぷら」と思っていたが、考えてみれば「卵の天ぷら」と言う食べ物は作る難易度が高いだろう。はなまるうどんの季節メニューに「半熟卵天」があったように思うが、ソレはコレを書いている”今”の時点から3年ほど前のことだ。熱々の蕎麦に生卵。初めて見るその食べ物は少々気持ち悪かったが、強がって食べてみた。思いのほか美味かったので、今では好物になっている。蕎麦を喰ってロータリーに出れば、抜けるような青空で、顧問の教師も「今年は当たりだな」と笑みを浮かべていた。天文観察が目的なので、天候が悪ければ最悪合宿は中止になるか、星の見えない空を背景に記念写真を撮って終わるかである。初日から雲一つない快晴で気持ちよかった。2日目はアレだったが・・・

 オンボロのバスに乗って1時間半。山道を登るバスの揺れで酔いそうになったが、幸い、酔う前に到着した。このバスがその日の最終バスである。終点の峠で下山する客を乗せてバスは折り返して行った。私たちは荷物を分担して担いでバンガローに向かう。私は撮影機材で荷物が多かったので、天文部の荷を担ぐ必要は無かったが、圭子の分を抱えて歩いた。のんびりとしたものである。普段は分刻みで動くことも多かった高校時代。ソレが合宿では「1時間単位」で物事が進んだり止まったりするのだ。山道を長く連なりながら歩いた。前を歩く者を見失わないように歩くのだが、女子が半数であるから歩みものんびりであった。のんびりペースで1時間弱。遠くに見えたバンガローを目前にして私は愕然とした。ほとんど「廃墟」である。他に客がいるわけでも無く、ボロいバンガローが4棟建っていた。完成時は輝かんばかりの白であったと思われる丸太は塗装が剝げ落ちて、逆にみじめに見えた。ドアは完全には閉まらないほど歪んでいたし、窓には網戸も無かった。高原なので害虫の心配は少ないだろうが、あまりにも不用心である。先輩たちは昨年もここにきているので落ち着いたものである。私と同学年の部員はかなり度肝を抜かれていた。男子と女子に別れてバンガローにいったん落ち着いた。天井には裸電球がぶら下がっているが、当たり前のように灯らない。電気が来ていないようだ。ただ水道は使い放題であった。トイレはボットン式だったが、一応は管理されているらしく、不潔では無かった。真っ暗ではあったが。荷物をほどいて、真っ暗になっても困らないように支度を整えた。30分もかからない作業だったので、私はバンガローを出て、煮炊きをする広場の斜面に座って煙草を吸っていた。すぐに圭子とアニさんが合流してきた。この二人が元恋人同士だったとは信じがたい事実である。圭子はウロウロと可愛く徘徊していた。そんな圭子を見ながら私とアニさんはぽつぽつと話をしていたように思う。内容は憶えていない。顧問が出て来て、全員に集合をかけた。この時である、アニさんが顧問の前で堂々と喫煙を始めたのは。顧問が言うには、日没後は暗闇に目を慣らすために「灯は最低限にすること」だそうだ。あとは勝手にバンガローがある敷地から出ないように注意された。先輩たちは前回の合宿で知ってることであるから、「うーい」と唸る程度であった。灯を最小限にするために、夕食は持ち込んできた菓子パンと缶ジュースである。手探りでパンを探して食べた。このバンガローの場所が絶妙で、山の麓の灯すら届かない上に、北に向かって開けていた。新月なので月の光の邪魔もない。夜空は意外と明るさを残し続ける。天文観察をする時間帯は夜の9時頃からである。本当に真っ暗になる。都会では決して経験することの出来ない「闇夜」は、本当に神秘的であった。観測場所はバンガローから歩いて15分ほど歩いた場所であった。ちょうど真ん前の空に北極星が見える斜面。私は顧問と共に、更に歩いて北極星を中心に撮影出来るようにカメラをセットした。4~5時間ほどシャッターを開けっぱなしにすれば、あの「円を描く星の軌跡」を撮影出来る。光害が一切ないので安心である。上手くすれば流星も撮影出来る。三脚にカメラを据えたまま、顧問と私は部員たちの下へ戻った。バンガローを出る時に持ち出した「寝袋」が若干不審であったが、すぐに疑問は解けた。寒いのである。冬装備をしていないとかなり凍える。動くことが出来ない観測中は本当に寒さで震える。故に寝袋に入って空を見上げるのだ。寝袋に入ると、今度は暑いのだが、寒いよりはいい。秋に入ろうとする標高1600mの怖さを知った。のちに私の毎年の「修行」となった山登り・・・と言ってもハイキングコース程度であるが、晩秋に稜線をちょっと下りた地点で日没を迎えた時はかなり焦った。ハイキングコースでも十分「遭難出来る」ことを知っていたからだ。幸い、よく知った山なので下山出来たが、あれが知らない山であったなら、凍えて動けなくなることもあり得た。

 観測が始まると、先輩がカウンターをカチカチ言わせだした。ちょうど「流星群」が見えるらしい。その数を数えるのだ。「雨のように降る」ほどでは無かったが、1時間に30~40個は流れたし、大きな流れ星は周囲を明るく照らすほどであった。私は星空に魅了されていた。こんなに美しいモノがあるとは知らなかった。星の名前はどうでも良かった。星は全てが美しく輝いていた。明るさに差こそあれ、星は星だ。ただただ見惚れていた。数時間後、雲が出てきた。星の輝きを覆うように靄がかかったように思えたのだが、驚くことにその「雲」は天の川そのものであった。真っ白に見えるほどの銀河をこの人生でもう一度見ることが出来るだろうか?たまに顧問が口を開く。「あの星が〇〇で・・・」「夏の大三角形はあの星と・・・」の説明には笑えた。確かに明るい星が三角形に並んでいるのだが、周囲のやや暗い星の輝きに埋もれていて、「有名な三角形だよ」と解説されなければ分からないレベルだったから。夏の星空であるが、夜明け前にはオリオン座が昇る。実は「季節の代表的な星座」はほとんどを一晩のうちに見ることが出来る。夏にオリオン、冬にさそり座。シリウスが昇る頃に夜が明け始める。晩夏はそんな季節であった。深夜の3時を過ぎる頃から夜は明け始める。4時ともなれば星は輝きを失って空に溶けていく。私たちはそんな時間にバンガローに帰り、ランタンを灯してバーナーでお湯を沸かした。腹が減ったのでラーメンを作るのだ。しかし、晩夏の高原と言えど、虫がいないわけではない。ランタンに集まる蛾がラーメン鍋に飛び込む。そんな蛾を指でつまみだして、ラーメンを完成させる。ラーメンが出来上がる頃にアニさんがウィスキーを持って、私たちのバンガローにやってくる。顧問も来る。当然のように酒盛りが始り、酒肴のピーナツが出て来て、クーラーボックスからは誰が押し込んだのか、ベーコンも出てくる。バーナーで炙ったベーコンは非常に美味しいモノであった。おやつとして持ってきた「塩気のある菓子」もつまみに好適である。ポテチは奪い合いだ。1時間ほど騒いだ後は、また男女別れてバンガローで眠る。顧問の教師は男性であるが「用心のため」に、女子のバンガローで寝ていた。天文部の男子が女子を襲うとは思えないが、そう言う習慣であった。

 夜が明ければやはり夏である。バンガローの中は蒸し風呂のようになる。ソレでも眠り続ける若者の睡眠力は素晴らしい。私も寝ていたが、午後には起き出して、広場で飯を炊いていた。キャンプなので当然である。テントではなくバンガローに宿泊しているだけで、他は全部キャンプと同じ。飯は何度も炊いた。夜になればまた「灯は最小限に」と言うことになるので、明るいうちにおにぎりを作るのだ。おかずは卵焼きや、持ち込んだ簡便な食材を熱するだけで完成する。適当なタイミングを見計らって、そこにいる先輩に煮炊きを任せて、私と圭子は散歩に出ることにした。こんなに爽やかな高原である。


青姦にはもってこいである。


圭子が多少喘いでも聞こえない距離まで離れたら、圭子の股間をまさぐって青姦の始まりである。大きな樹に両手をつかせて立ちバック。正面から挿れるのは難易度が高いから仕方が無い。地面に押し倒すのはスマートではない。コンドームは当然持ってきた。最初から「ヤル気満々」であった。私と圭子はセックスに関しても非常にクレバーであった。セックス出来るチャンスを逃さなかったものだ。圭子の家ではセックスはしにくかったが、母子家庭で、圭子の母は昼間はいない。弟も遊びに行ってるとか、私たちが試験期間で半ドンで帰宅したなんて場合はセックスをした。7~8回だろうか?男子生徒がコンドームを持っていても「マセ餓鬼」で済むから、私は生徒手帳にコンドームを挟み込んでいた。女子生徒がコンドームを持っていたなんて場合は世も末だろうが、男子ならたとえ「童貞」でも笑って誤魔化せた。圭子の家でいざ挿入と言う場面になって、(あれ?コンドームの残りはあったっけ?)なんて場合も、いつもとは色違いのコンドームが挟んであった。圭子はおマセさんであった。圭子の家でセックスした時は、ゴミ箱に捨てるわけにもいかず、ティッシュに包んで私の上着のポケットに入れておいて、帰り際にドア前で「おやすみ」を言う時に、隣の空き地に放り投げていた。


数年後、その空き地に家が建ったが、工事のおじさんたちはコンドームを発見して何を思っただろうか?


 合宿に話を戻すが、夕方になって、煙草を切らせた。早い時間に買いに行くべきであったが、飯の支度やら青姦やらで忙しかった。峠まで一本道であるし、軽い気持ちで煙草を買いに行った。帰ってくる頃には日も落ちているだろうが、天文観察は暗くなってからが本番であるから問題は無い。私は峠にある民宿の自販機でセブンスターを2個買った。カッコつけで「キャビン」と言う赤い箱の煙草を愛飲していたが、クソ田舎では売っていないようだった。ついでに缶コーヒーを3本買った。私と圭子とアニさんの分だ。煙草と缶コーヒーを買うつもりだったので、カメラメーカーのウィンドブレーカーを羽織っていた。ポケットがあると便利だ。そして私は帰り道で迷った。アレは本当に怖いものである。「まだ道がある」と思いながら登っていく。たとえ道を間違えていても引き返せばいいだけのこと。しかし、実際は「獣道」である。いつしか道が消える。仕方ないと振り返って、来た道を下ろうとすると、「道が全く見えない」のだ。しかも夕闇迫る山である。私は早々に帰投することを諦めた。下手に動けばガチで遭難することになりそうだ。慎重に歩を進めて大きな樹を発見した。夜露を凌ぐにはちょうどいい感じだ。幸い、煙草はあるし、甘い缶コーヒーもある。薄いながらも上着を羽織っている。私が帰らなければ探しに来るかも知れないし、呼ばわる声が聴こえればあっさりと助かる。

 翌朝まで暇なこと暇なこと。冷え込みは厳しくは無かった。前夜が寒過ぎたのだろう。しかし、身体は凍える。私は数十分おきに立ち上がっては、固まった関節をほぐすように体操をした。あとは星を見て過ごした。今思えば、熊も出る山なので危険極まりないが、当時は緊張感もなく一晩を過ごした。8時間もすれば夜も明けだす。明るくなった頃を見計らって、暗くて見えなかった上の方を見た。慎重に歩けば危険は無いだろう。遭難しかけている私は上を目指して歩き出した。こう考えたのだ、「上に行けば行くほど道に出る確率は高まる」と。下山した場合、道に出会う可能性は低くなるし、バンガローだって確か上の方にあるはずだ。部員が一晩帰らなくても探しに来ない薄情者しかいないバンガローだが仕方が無い。結局は1時間も歩いたら道に出た。その道を慎重に下って峠の民宿にまで戻った。明るければ道を間違うことも無い。バンガローに帰ったのは朝の8時頃であった。のんびりしたもので、「どうせ安元は道に迷ってるんだろう。夜が明けたら探しに行くか」と考えていたそうだ。峠まで買い物に行くとは圭子に告げてあったから。昼前には撤収作業を終えた。終バスの時間まで余裕があるスケジュールだ。また全員で荷物を分担して、私は圭子の分も抱えて歩いた。


高2の夏が終わった。


天文部の合宿から戻ればすぐに2学期である。兎にも角にも濃密な学年で、書き忘れていたが「クラス替え」は行われなかった。3年生になる時に「成績順」で振り分けられるだけだ。クラスの顔ぶれも変わっておらず、私が「カノジョ」と会うために図書室通いをしているのも知られていた。校内でいちゃついている稀有なカップルとしても有名だった。2学期のイベントはかなり多く、クラス毎で争う球技大会(クラスマッチ)から始まって、体育祭・文化祭。更には修学旅行もある。私は圭子と遊ぶのに夢中ではあったが、イベントも大事にしていた。写真部としては「全てのイベント」での撮影が義務付けられていたし、文化祭は文科系クラブの晴れ舞台である。写真部の後輩は結局2人しか集まらなかったが、私は参加するイベントには全力を注ぐことが出来た。面倒な撮影は後輩に任せておけばいい。問題は教師に撮影係として「指名」されることぐらいだろうか?私と福岡君が指名されることが多かった。先輩もいない、同学年の部員の腕は拙い。後輩なら拙いながらも「出番を作ってやった」と言う言い訳も出来たが、腕のレベルでの指名となると、私と福岡君しか信頼できる部員がいない状態が続いていた。


2学期が始まって間も無く「クラスマッチ」の様々な課題が持ち上がる。クラスマッチのルールで、生徒が出場出来るのは1人2競技までであった。ミニサッカー(6人制)・バスケットボール・バレーボール・野球・リレー(陸上競技)の5種目があり、クラス40人でチーム編成をするわけだ。ヒョロガリ生徒もいたし女子のハンデもあるので、そこそこに運動出来る男子は2種目出場が義務であった。コレは各クラス共通なので文句はない。生徒数も大体40人1クラスなので文句のつけようがない。43人クラス等では必ず「女子の方が多い」わけであるから、「勝つためのチーム編成」に関しては平等である。早々に諦めるクラスもあった。運動音痴が多いクラスは白けムードになっていたし、何故か成績優秀者が多い「書道選択」のクラスも「勉強第一主義」である。詳細には書かないが、入学時に選択する科目があり、私は「美術」を選び、サキちゃんは「書道」を選んでいた。そして我がクラスはと言うと、絶対に負けたくないスポ根クラスであった(何故だろう?)

 当然、「勝つためのチームを作る」わけだが、間の悪いことに私の2種目のうち、1種目は「リレー」で決定である。陸上部を除外すれば校内一の俊足を誇っていたし、正式な記録が無いだけで、短距離走でも陸上部員を上回っていただろう。コンバースのハイカットで走って100m11秒台前半である。敵がいるわけがない。さらに間の悪いことにクラス委員長(室長と呼ばれていた)が負けず嫌い過ぎた。「勝つためのチーム編成」では人数が足りないのだ。そして下された決断は。

「安元たちを全投入。コレで負けない」と言う作戦であった。当然クラスマッチ・ルールでは反則であるが、負けて順位を落とすよりも、ルール違反でもいいから優勝して「失格負け」をしようと、お勉強出来る人は一味違うと思った。学力テストでカンニングをするようなものだが、手段を択ばない男たちであった。同時に行われる試合に出場は出来ないが、私はフリー扱いとなった。出られる試合は全部出ろと言うことだ。徐々に順位が絞られていけば、同じタイミングで準決勝やら決勝やらになるので、そう言う場合は他の「フリー選手」が飛び込みで入る。フリー扱いは4人ほどいた。専門職、つまり正式な部員は優先された。野球部は野球の試合に必ず出るとかの「縛り」である。何でか、我がクラスにサッカー部が居なかったのが痛いと言えば痛かった。私は「野球部枠」でもあった。野球部主将のお友達代表で、放課後のマウンドでバッティング・ピッチャーをやらされることもあったから当然である。ひたすら鬼畜なスケジュールになると思った。全校で行われるので、圭子の可愛いジャージ姿だって見たい。しかし、そんな余裕はないと思った。配られた資料(ルールブック替わり)には昼食時間は無いと書かれていた。各自、空いた時間で好きに食えと言うことらしい。その通りであったので、私は1日中食っていた。ちょっと食っては試合に出るのだ。あの頃の私はまさしくスーパーマンであったのだろう。夢でも見ていない限りは・・・

 私の身長は低いのだが、余りあるジャンプ力でバレーボールとバスケットボールは得意だった。サッカーは中学時代に体育教師に「安元は上手くなるぞ」とお墨付きを頂いていた。あの日だけは私はヒーローであったのだ。私は先輩女子に可愛がられていたので、私の出る試合にはその先輩たちが応援に来る。それはそれは「怖いお姉さんたち」である。文科系クラブでは知らない者はいない名物女子や、野球部の元マネージャー。更にはその先輩女子の「彼氏」までが来る。結局のところ、圭子が私にくっ付いているので、私の出る試合は筒抜けであった。指定の青いジャージを着てる女子はいない。我が世代で流行った黒のプーマのジャージや、薄茶のアディダスばかりである。しかも「ダボっと」着ているし。可愛い圭子も黒のプーマである。当然私とお揃いであった。プーマを着ているのに、Tシャツはアディダスであるが、そこはまぁ流行りと言うことで。必死だったので多くを憶えていないが、バスケでゴール前3人抜きとか、サッカーでセンターラインから蹴ったらゴールしちゃったとか。ミニサッカーなので、ピッチは正式なサッカーの半分である。油断しているとこのような奇跡を起こされる。私は「野球枠」なので、野球の試合には全部出た。3試合で決勝である。コレが仇となったのだが。野球の試合は時間がかかる。5回制だったが、それでも1時間はかかるわけで、この間にバスケとサッカーは敗退した。ギリギリ間に合っていたバレーボールも最後で負けた。野球は優勝したが、もちろん私のお陰である。私の「試合形式での野球」の出塁率は10割のままである。そして本職ではないバッターはおもちゃであった。右手で投げてやろうかと思った(私は左利き)リレーは陸上部を多く擁しているクラスに負けた。いくら私が俊足であっても、かなり差がある陸上部を抜くことは不可能であろう。それでもあと10mあれば並べたと思う。

 全予定が終わったのは夕方4時過ぎ。我がクラスは総合成績で2位であった。私はリレーでのタイム1位。本職を除外するので、野球のベスト選手にも選ばれた。そしてバレた。堂々の反則負けである。2位から「着外」に転落したが、私たちは満足であった。いや、優勝したかったけれど。


息つく暇がないとはあのことだろう。すぐに体育祭である。体育祭が終われば中間テストと言う畜生ぶりである。

 さて、勉強の話もしておこう。自慢ではないが、私は上位10%にいたわけで。勉強をしたわけではない。授業中に理解していただけだし、学年最初に購入する教科書の精読を終えていたから当たり前だと思う。一応は「進学校志向」の高校であったから、勉強に熱を入れていたようだ。毎年秋になると「模試」があった。学年末にもあったが、こっちは「期末テスト」があるせいで空気扱いであった。その日は秋に入ると言うのに暑い日で。市の公式記録で39℃を超えた日でもある。余計なことをしてくれたもので、私が1年生であった時に「新校舎だけ冷房があるのはずるい」とPTAとか言う影の組織が騒いだ。夏が終わったあとである。暖房は旧校舎にもあったので問題は無かった。そして、私のクラスを含め、2年生全クラスが新校舎に移ったタイミングで「冷房は使いません。平等にしようね」だそうである。気温39℃超えである。教室内は余裕の40℃超えだった。模試を行うには絶好の条件である。解答を書き込む答案用紙に汗の染みが広がる・・・暑い・・・マジで暑い・・・


模試は「解答を終えた者は退室して良し」であったからまだしも、この暑さのせいでライバルたちが続々と転落。多少、セックスで色ボケした頭でも余裕であった。圭子は1桁に入っていた。圭子は進学ではなく就職なので、2学期の評価に命を懸けていた。学外の業者のテストだが、成績に影響を及ぼすのは明らかであったから。


私はと言えば、延々と2回のテストに渡って「国語」で他校の生徒と争っていた。「国語」とひとくくりにしたのは、「現国・古文・漢文」までが範囲であったからであるが、この他校の生徒は化け物であった。もう100点と99点が争っていたわけだ。全国模試で国語の偏差値だけは78あった。化け物さんは偏差値80はあったんじゃなかろうか?英語は平均よりもちょっと上。数学とは中3時代に市役所で離婚届を出した。中学校卒業がいいきっかけであった。


私は3教科ではかなり弱かった。多分、偏差値で言えば65あるかないかである。5教科になると滅法強かった。数学で足りない点数を理(化学・生物・科学)と社(歴史・公民)で補えた。数学と言う「言語」の習得は早々に諦めたのだ。彼女にはもっといい相手がいるだろう。ポアンカレとかノイマンとか。そんな調子なので、勉強は一切しなかった。必要なかったのだ。ただ圭子の邪魔をしないように気を使ったが、そっと挿入を試みる程度にはちょっかいを出していた。圭子は本当に「才媛」であった。難なく中間試験を終えた。私と圭子は2学期の期末テストも余裕であったが、私は2年生3学期の期末テストで「地獄」を見た。

 話を戻すが、体育祭も私の独擅場であった。特に「クラス対抗」ではなく、1年生から3年生までを3つのチームにまとめて競う程度で、この規模になると私レベルが5人いても結果に影響しない。相変わらず個人成績では頭おかしいと言われたが・・・楽しい競技、棒倒しみたいな遊びは大得意で。敵陣に飛び込んだ先頭が「馬」を作って、私はその「馬」からジャンプして棒を倒した。正しくは天辺のリボンを奪取したわけだ。全校生徒を3チームに別けてるので、もう余裕であった。障害物競走なんぞに遊びで出場したが、スタートからトップに躍り出て、3つ目の障害、ハードル潜りを過ぎたところで2位を待っていた。追いついてきたらまたスタートである。圭子は可愛かった。この圭子を写真に残すために300㎜などと言う望遠レンズを買ったのだ。学校から依頼されてる写真も撮影していたが、「圭子専用」のカメラで圭子のジャージ姿を撮っていた。綱引きでは全くパワーに寄与しない体勢であったが、可愛いから赦す。

 圭子のポートレートはよく撮影したものだ。圭子の家の近くに大きな川が流れていて、その河川敷とか市民グラウンドで撮影するのが常であった。4~5百枚は撮った。フィルムにして20本程度なので驚くには値しない枚数ではなかろうか?今のデジタル環境であれば、数千枚は撮影したと思う。フィルム、特に当時はカラーネガのランニングコストが馬鹿にならなかったから、割とセーブした枚数である。残念なことに、当時の写真はすべて処分してしまった。惜しいことをしたと思うが、「作品としてのポートレート」なら今からでも撮影出来る。モデルさんさえ見つかればだが。しかし、当時の「圭子のポートレート」を超えられるかと言えば、正直分からない。道具も腕もそれなりに発展してきたが、あの「全てを私に委ねた笑顔」は再現不能かも知れない。私は「恋愛から足を洗った」わけで、いまから「男女の信頼関係」を構築する気も時間も無い。


若干駆け足で話を進めている。もう記憶が定かではないほどの昔話だ。印象に残るエピソードを語るだけで精一杯である。故に「自慢話」めいた事柄が多いのだ。誰もが「黒歴史」は葬りたいであろう。私はまだ正直に書いている方だと思う。様々なエピソードを語る人たちの中には「盛り過ぎだろう」と言う話も多い。私のエピソードの基本と言うか人物像は、偏差値が70程度で、100mを11秒台前半で走ったと言うことだけである。この「数字」に付帯するエピソードを交えているだけだ。勉強も運動もまだまだ「上がいる」のだから、大したことでは無い。


先に高2時代の文化祭の話をちょっと書いたが、本当に遊び歩いていた。写真部の「写真展示」は頑張った。私はプリントを嫌がる福岡君の分まで引き伸ばしていた。授業をサボって暗室にいた。何回か教師に逮捕された。

 少し話を1年生時代に戻すが、2つ上の先輩が事件を起こした。その日は大雪で、授業を中断して生徒は下校となった。電車が停まる恐れが大きかったのだ。しかし、2つ上の先輩と小林先輩(どこにでも出てくる人だ)は、校内に残って、あろうことか「雪だるま」を作って遊んでいたのだ。この事件のせいで直後から2週間、写真部は活動停止と言う罰を受けた。悪いのは引退した先輩と小林先輩なのだが、雪だるま作りで冷えた体を写真部の部室で温めているところを発見されたのがダメダメである。

 

 高2の文化祭は我が物顔で闊歩出来た。うるさい先輩も学業で忙しくて口出ししてこないし、後輩は絶対服従である。別に「アレをしろコレをしろ、焼きそばパンを買ってこい、お前の金でなっ!」等と言う後輩いじめはしなかった。ただ力量で圧倒しただけだ。アニメ部ではセル画を塗るスピードで差を付けたし、化学部では「ショ糖の闇取引」を指南していた。そして私たちの間で「サバイバルゲーム」が流行っていた。文化祭はそんな時期に開催された。サバイバルゲームをご存じだろうか?大の大人が「エアソフトガン」で戦争ごっこをするだけの話だが、当時は色々と「アレ」だったので、割と心に残る「ほっこり話」がいくつかある。この流れで、文化祭の校内で「来賓に発砲した馬鹿」が出たと言う話はした。「動く者がいたので思わず撃った」と言うのだからどうにもならない。サバイバルゲームは「自己申告」が基本である。弾が当たれば自己申告で「死者」となる。ここでズルをするような者は相手にされない。しかし「勘違い」もあり得るので、私たちは胸の位置に「トレーシングペーパーで蓋をしたミルキーの缶」を掲げていた。トレーシングペーパーが破れていたら「死者」である。手足を撃たれたぐらいでは死なない。なので、来賓も胸を撃たれた「らしい」ので大きな事件にはならなかったが、あれが顔にでも当たっていればいくつかのクラブはお取り潰しであっただろう。大体、素行の悪い生徒は教師にマークされていたので、その発砲事件直後から続々と仲間が捕まってエアガンを没収されていた。私のMP5Kも取り上げられた。拳銃タイプは部室に置いてあったので、アニメ部の展示室の「控え部分」に隠れて紙コップを細々と撃っていた。校内にエアガンを持ち込むのは立派な校則違反だが、そんなものを気にしていたら、貴重な青春時代が少しだけ無駄になるだけである。

 ココだけの話であるが、普通の「モデルガン」を改造して弾を撃てるようにしたこともある。かなりの知識が必要ではあるが、モデルガンで使う「紙火薬」程度でも集めれば危険だと知った。図書室のベランダでそのモデルガンを弄んでいたら、うっかり引き金に触ってしまい誤射した。私はワルサーP38が大好きだったので、そのモデルガンもワルサーであったが、念のために「スライド」部分をガムテープで縛っておいた。手製のモデルガンキットを組んだものなので、強度に不安があったのだ。また、「発射パワーのロス」も防ぎたかった。本当に危なかった。スライドがブローバックどころか上に跳ねあがっていた。完全に自爆装置であった。1発撃っただけで壊れるものだなぁと感心した。弾は軽い「てるてる坊主みたいな柔らかいプラスチック製」であったのも幸いしたようだ。いくら探しても弾は行方不明であった。

 サバイバルゲームでは圭子も参加することになったが、陣地のお留守番か、バトルロイヤル形式では私の傍に居た。たまに私だけがサバイバルしていたが。圭子が用事でいないとか、ちょっと勉強みたいなことをする日とか。友達同士で集まって「勉強会」をする日は、放課後は自由行動な日もあった。私が草むらで息をひそめて谷本君を狙撃している時間に、圭子は勉強していたわけだ。非常に賢い子で可愛かった。

 そうそう、「付校の井上君」の話もあった。彼は他校の生徒でエリートであった。付属高校と言えば、低めの偏差値か、超が付く優秀さのどちらかであった。「不幸の井上君」はもちろん後者である。正直、偏差値では勝てる気がしなかった。

 しかし、井上君の「不幸さ」は圭子に会えない時期が長過ぎたことが起因である。井上君が合えない隙に。更に言えばスズメ先輩が優柔不断さを発揮している隙に、私が告ってモノにしてしまったのだ。既に何度も抱いていたし。そんな井上君が「ビシっと決めたファッション」で文化祭で来校した。時既にお寿司である。私はあちこち遊んで歩いていたが、「不幸の井上君」が来てると聞いて、会いに行った。初めて会った瞬間から嫌いになれた。ネチネチとしつこいので追い払ってやった。二度と会うことは無かった。


(あの頃の戦闘力があれば、今の世でも生き残れる自信があるのだが)


圭子の元カレである先輩女子は、天文部の合宿の頃から他の女子に興味を抱いていたようで、コレはこれで歓迎すべきことであったし、私も圭子も「応援」していたぐらいだ。その「他の女子」からしてみれば不幸かも知れないが・・・

 その女子は圭子と同じタイプで、細身ではあるがおっぱいの大きな子でロングヘアであった。圭子の友達だったので、私も割とよくお喋りをする関係。当然、圭子の「元カレが女子である」ことも知っていた。それでも逃げないでアニさんの相手をしていたと言うことは、この先輩も「レズっ気」があったのだろうか?世話好きな性格だったので、アニさんとも関係を壊したくなかっただけだったのかも知れないが。

 私と圭子は相変わらずラブラブ関係で、一切の喧嘩をすることもなく2学期のイベントスケジュールをこなしていった。家では当然だがセックスをしていた。そして青天の霹靂。圭子が告白してきたのだ。もう4か月も生理が来ないと・・・。この衝撃は大きかった。大人でも「出来ちゃった」なんて言う場合、最初から「出来ちゃった婚」を狙っていたのなら話は違うが、恋人の「妊娠」と言うものはのちの人生を左右する事件だろう。ましてや高校生である。私は賢かったので、避妊を忘れることは無かったはずだ。当時でも多くの雑誌で「妊娠」についての話を読まされていたし、「避妊は男の責任である」と自覚していた。私は素早く4~5か月前の記憶をたどり、ある事実に気が付いた。圭子の家で性欲に負けて、夜の散歩に出て鉄橋の高架下で「青姦」をしたあの日はコンドームが無くて「外に出す」ことで避妊(と言えばあまりにお粗末な方法だが)したことがあった。この時以外は必ずコンドームを装着していたので、可能性としてはこの日しかなく、時期的にも符合する。私は挿入してから腰を使い、逝きそうになったらコンドームを装着するのではなく、最初からコンドームを装着していたので、避妊の失敗は無いはずである。稀に、射精前に漏れ出しだ精子で妊娠することもあると言う知識もあったのだ。また、圭子も「元レズビアン」だと言うこともあって、「妊娠」を甘く見ていた節がある。私は圭子に「コンドームを付けて」と言われたことが無かった。あの青姦も特に拒否されなかったし、私もまだ「生の感触」を知らなかったから、敢えて生姦に拘ることも無かった。あの青姦は慌ただしく、周囲の状況を慎重に観察しながらの行為であったので、とてもじゃないが「生の感触」を味わえるモノでは無かった。ただ射精欲を満たせればよかったのだ。圭子にとってはどうだったのかを知り得ることではないが。

 私は逃げなかった。圭子を愛していたので、その告白に対する答えは「もう少し様子を見よう」であったのだ。「妊娠」の事実から逃げる気も無かった。もしも妊娠させたならば、男らしく責任を取るつもりだった。高校を中退してでも働いて、圭子と結婚しようと思ったのだ。圭子は戸惑いながらも私の決意に同意してくれた。「中絶」と言う考えは私も圭子も持ってはいなかった。妊娠したのなら産むのが自然な行為である。愛し合ってセックスをして、避妊をしていながらもアクシデントで孕ませた、孕んでしまったとは言え、その赤ん坊は愛の結晶である。二人で育んでいく覚悟は出来ていた。それでも私と圭子は人生の中で感じた最大のプレッシャーに押しつぶされそうになりながら寄り添っていたのもまた、事実だ。私は高校を中退して働くと言う選択を圭子に告げた。圭子はそっと私を抱きしめてくれた。おっぱいが大きいと、こんな時に重宝するものである。その温かさと匂いは至上の安らぎを私に与えた。このような状況でも性欲はあるものだ。少なくとも私には旺盛な性欲があった。コレが「不倫の末の妊娠」であったなら、きっとちんこも萎えただろうとは思うが、相手は生涯の伴侶となる女性である。また、圭子もそんな私を愛してくれていたので、流石にセックスは無理でも、甲斐甲斐しく手と口で抜いてくれた。告白から2週間が経とうとしていたころであっただろうか、圭子が複雑な表情、泣き笑いとも失意とも言えない表情でこう告げた。「生理が来た」と・・・私はそろそろ親に「カノジョを妊娠させたので高校を辞める。取り敢えずは稼ぎたいので的屋になる」と告げようかと考えていた頃のことである。安易に的屋を選んだが、それは的屋の日当がかなり高かったからである。割と自由出勤みたいなところもあったし。


そう、的屋の日当は夏休みのアルバイト時代の7千円から倍増していた。日当は1万5千円と、高校生にしては破格過ぎる金額になっていたのだ。本職はもっと貰っていたが、高校生を辞めて、一時的にしろ「専業」ともなれば、この1万5千円が最低ラインになる。秋雨が続き、稼働日が減っても20万円は確保出来るはずである。私も圭子もまだ実家暮らしであるから、稼いだ分のほとんどを貯蓄に回せるはずだ。ある程度稼いだら、的屋を辞めて堅気の仕事を探せばいい。その将来設計を考えた矢先の「生理が来た」宣言であった。あと1週間遅かったら、私はパンチパーマをあてて焼きそばを焼いていただろう。


しかし私は思うのだ。あの時は生理が来たことをお互いに喜んだが、妊娠はしていたと思う。ただ、まだ身体が幼くて妊娠に耐えきれなかったことと、精神的なプレッシャーで流産したのではないだろうか?圭子は生理が来たと告げる前に学校を2日休んだ。生理と言うには過酷な「何か」があったのだろう。3日目には学校に来て生理があったとだけ、私に告げたのではないか?この時のことには、お互いに触れない暗黙の了解が出来たのも事実だ。相変わらず、セックスはしていたが・・・


的屋のアルバイトは夏休み限定であったはずだ。母が「社会の厳しさ」を教えるつもりで放り込んだ的屋の世界で、私は逞しく育った。的屋と言う仕事に馴染んだのだ。早い話が、母が心配したような陰キャではなく、どちらかと言えば陽キャであった。次のアルバイトは自分で決めるつもりだった。9月10月なら、まだ夏休みで稼いだ金が潤沢に残っていた。金を使うと言えば、カメラ機材か圭子とのデート費用だけである。私は結構な「渋ちん」であったので、お金をあまり持ち歩いていなかった。圭子とのデートも、貧乏に徹することもあった。いや、二人で過ごす時間が大事なのであって、デートが例えば「歩いて帰宅する」だけであっても楽しかった。片道3時間の道のりを二人で歩く。不運な時は財布に200円も入っていなかったりした。1本の缶ジュースを分け合って飲んだ。圭子も「貧乏人発見っ!」と笑いながら甘いポッカコーヒーを一口飲んで私に返した。当時の駅前のバスターミナルは古かった。広場に1段高いバス停があり、圭子はそのバス停でとあるカップルを見たことを楽しそうに私に語った。そのカップルは細長いバス停の上にいて、女の子がバス停の先頭にいる「カレシ」のところでちょっと喋っては、バス停の反対側までテテテっと歩いて行って、またカレシの元に戻ることを繰り返していて、凄く可愛かったそうだ。私たちはセックスしてるものな、圭子。

 秋の深まる前に私は1本の電話を受けた。母が取って、私に「Aさんからだよ」と取り次いだ。その前に母はAさんと少々話し込んでいたが、内容はその後のAさんの話で容易に想像出来るものであった。「おぉ、洋二。元気か?」と問われれば当然元気であると答える。そう言えば高校時代に風邪をひいたのは1度きりだ。圭子にうつされた。この風邪をまた圭子にうつし返したのも今ではいい思い出である。寝込んだ圭子の身体はとても暖かでした。

 Aさんの電話の内容は、早い話が「お前の母親とは話が付いている。学業に影響のない範囲で、学校をサボって働きに来い」と言う、今思えば「人買い」のような話であった。母親公認で学校をサボって、あの楽しい仕事が出来て、お金も稼げるとは、まるで夢のような悪夢であった。私は夏休みの間はしがない「水チカ売り」であったが、仕事の要領を憶え、プロパンのボンベを両手に持って疾走出来たし、助手が1人付けば屋台も組めるようになっていた。一人前の的屋だと判断されたのだろう。そして季節は秋になった。もう「水チカ」を売るような季節ではない。私は焼きそば売りにジョブチェンジした。何から何まで任されるようになった。屋台を組んで、最初の1回(夏休みが明けてからのある日曜日)だけ、先輩のパンチパーマに師事しただけであとは任されたのだ。一人でできるもんっ!である。やはり食い物の屋台は売れる。私に助手が付くようになった。目付きの悪い「いがぐり頭の中卒」であったが、これがまたよく働く。働くが物覚えは悪かったが・・・

 焼きそば売りの日当は1万2千円であった。そして高校をサボって仕事に行く日の日当は1万5千円であった。「焼きそば売り、凄いっ!」と思った。学校をサボってとは言うが、多くは無かった。9月~12月で5~6回だっただろうか。あとは日曜日に集中しただけだ。毎月、4~5日は焼きそばを売っていた。サングラスをかけて、そばを焼き終えたら椅子に座っている高校生である。地元の祭りの時もこんな調子で煙草をふかしながら商売に励んでいた。当然、クラスメイトとも出っくわすが、相手は気付かなかったり、気づいても目を逸らしていた。1回だけ、助手の中坊に売るのを任せて、屋台と屋台の隙間で自分の焼いた焼きそばで、隣の的屋とビールを飲んでいたら、中学時代の教師に発見され、咥えた煙草を奪われたが、この教師は「いい人」であったので、高校にチクったりはしなかった。若い頃は時間が経つのが遅く感じられるものだ。実際、学校のイベントは1日や2日で終わるわけで、準備期間も1か月あるかどうかである。2学期の高校生活の大半は授業と圭子で占められていたし、ソレが当たり前の高校生活であろう。たまたま、アルバイト先が的屋だっただけである。的屋で一人前だと認められることは罠であった。そしてクライマックスを迎えることになった。その年の誕生日とクリスマスイブは「カノジョと過ごせた数少ない恋人たちの日」であった。私の人生では、この「誕生日とクリスマス」は、一人で過ごすことが多かった。前にも書いたが、何故かこの日だけは「彼女がいない空白期」になっていたのだ。まあ「イブが終わったら別れが来た」なんて言うよりは、イブにパチンコに行って、勝てば風俗、負けたら夕方になる前に安い焼酎を呷る生活の方が心は安定する。なお、負けて焼酎率は6割越えであったが。


的屋のクライマックス。


大晦日から正月の1週間の間、大きな寺で参拝客を相手に商売をする。コレが一番の稼ぎ時で、正月を乗り切れば、ガチで寒い季節をのんびり過ごせる。当然のように私はAさんの手下に拉致された。本当に拉致されたのだ。12月30日にAさんから電話があった。正月の予定を訊かれたので「無いです」と答えた。大晦日の朝に、Aさんの手下がやって来て、私を車に乗せて走り出した。行く先はこの街では有名な寺である。この時点で私は察した。大晦日は焼きそば売りかぁ、と。

 甘かった。サッカリンやズルチンよりも考えが甘かった。Aさんは「正月の予定」を訊いてきたのであって、「大晦日はどうする?」という内容では無かったのだ。まさに地獄であった。たった5人で屋台を4日間、24時間営業させるのである。屋台を組む仕事はしていない。既に完成していた焼きそばの屋台に放り込まれた。いつもとは違う屋台であった。後方に倉庫のような1張りのテントがあり、そこには材料が山積みなのは分かるが、汚いマットレスと毛布まであった。帰す気は無いようだ。実際、睡眠時間は3時間ずつの繰り返しで正月の3が日までこき使われた。「一生分の焼きそば」を焼いた。なので、今自炊して食べる焼きそばは「彼岸の焼きそば」の味であろう。


4日間で10万円になった。私の日当の話である。1日1万5千円で6万円。これに加えて「ご祝儀」を乗せてくれて、「9」と言う数字は縁起が悪いので、切りよく10万円。思えば、日当だけでも6万円もあるので、2万円を加えて「末広がりの8」万円でも良かったのだが、あの過酷な4日間を乗り切った「ご褒美」と言う意味もあったのだろう。この正月の焼きそば売りを転機に、私の的屋経験は徐々に減っていった。3年生の夏休みに10日間ほど働いたのが最後となった。理由は、「オヤジ」が襲われて入院。その間の商売が出来なかったことで、かなりのシマを奪われたことであろう。もうアルバイトを雇うほどの仕事量ではなくなったわけだ。


次に、私は卒業する先輩からアルバイトの勧誘を受けた。


人生は様々な事象が同時進行するものだ。私は人生を振り返りながらコレを書いているが、私の人生を「時系列通り」に書いていくと複雑になり過ぎるので、少年時代のことのようには書けない。高校2年生2学期。非常に慌ただしいというか、色々な事件が起こった。イベントや勉強の話は大体終えたので、この「高校2年生2学期」に起きたことを書きたいと思う。並行してイベントや圭子の妊娠騒動があった。しかし、「日常」は人生の90%を占める大事な時間だ。イベントは大事ではない。ただ「日常を積み重ねる」ことこそが人の生であり、知見を増やし徳を積むことで人は「人」足りえる。

 その事件は前触れもなく突然起こった。私にしてみればそれこそ「青天の霹靂」であった。その日、何もない平凡な1日で終わるはずが、私のちょっとしたガサツさが災難を招いてしまった。校舎の中通路、中庭が吹き抜けになっているので、この吹き抜けの内側に渡り廊下のような通路があった。校舎内を大回りしないで、この通路をショートカットに使うのが当たり前であったし、通行も禁止されていなかった。私は先を歩くクラスメイトに続いて通路に出ようとした。ガラス製のドアが閉じかけたので、足で抑えたのだが、まさか鉄線入りの厚いガラスがあんなに脆いとは思っていなかった。偶然、ガラスの「秘孔」を突いてしまったように、私の足はガラスに穴を空けて突き抜けてしまった。学校のガラスを割った程度の話だ。故意に割ったというのではなく、偶然妙な力加減になって穴を空けてしまっただけだ。後ろから来た女子が「あ~あ」と言いながら、すぐそばにある図書室の司書に報告に行った。私はこの図書室の司書、鈴木にはかなり睨まれていた。休憩時間、圭子と会う場所は図書室と決まっていたから、司書からしてみれば、読書もしない色ボケカップルに見えたのだろう。それでも教師たちが干渉しない「特別なカップル」だとは知っていたようで、表立って注意や説教をしてくることも無かった。しかしこの時は違った。私は「学校の設備を壊した悪者」で、司書は「学校を代表する正義」となった。一通り怒鳴られた。怖くはないが、少々腹が立つ捨て台詞を吐いた。ソレが気に食わなかった。

「お前みたいな奴は制裁を受ければいいんだ」

 ガラス1枚、しかも不可抗力である。売り言葉に買い言葉とはこのことであろう、私は言い返した。「制裁?制裁ったぁ、なんだ?」言い返したというよりは怒鳴ったと言った方が相応しいか・・・次の瞬間、鈴木が踵を返してこちらに向かって来たと思ったら、いきなり私の腹を蹴り、思わず下げた頭の後頭部殴りつけ、私が防御態勢に入る前に髪の毛を掴んで引きずり回した。割れたガラスの飛び散っている廊下である。私の上着の袖は裂け、足を打撲した上に。

 鈴木は私を立たせて、私の眼鏡をニヤつきながら両手で外した。顔を殴るつもりだったのだろう。そしてこの時に他の教師たちは大きな失敗をすることになった。階段前でフルボッコにされている間に教師が3人ほど通った。私はその教師に向かって「おい、止めろよ。何だよコイツっ!」と仲裁を願ったが、全員「我関せず」と、そそくさ階段を降りて行った。この3人の中の一人は私の3年生の担任になる教師であった。鈴木に襟首を掴まれて立たされ、眼鏡まで勝手に外された。この時の私の戦闘力は、スカウターを「ボンッ!」とさせるほどであったと思う。鈴木は私の怒気に怯んだ。私は無言のまま鈴木を睨みつけていた。偶然、階段を圭子が友達と共に降りてきた。そこにいたのは、あちこちに血を付けて鈴木と対峙している私だ。圭子はこの雰囲気に吞まれてしまったのだろう、声を発することは無かった。ただ、私が拳を握りしめた瞬間、顔を横に振った。(ダメッ!)と言う意味であろう。そして私も鈴木を殴る気は無かった。ちょっと脅かしてやろうかという程度だ。顔を掠める正拳突きでいいかなと思っていた。そんなことをすれば、停学になるかも知れないが。私は養父のエリート教育のお陰で「立派なサンドバッグ男」になり果てていた。「目上の者は、たとえ最低の人間でも暴力で対抗しない」男である。正直、この人生で人を殴ったことは2回しかない。私は「間違えない」から、相手が悪いのだが、人生で出会う人の中には「殴られて当然だろう」と思える人がいくたりかは居た。若気の至りで喧嘩となることはあっても、「威圧」すれば収まった。暴力は嫌いである。養父は私をその「暴力」で調教したが、されて嫌なことを他人にする気は無い。


鈴木は私の眼鏡を放り投げると、司書室に帰ってった。すかさず圭子が駆け寄る。


「何があったの?」私はガラスを示しながら「ガラスを割ったら鈴木が暴れた」圭子は息を吞みながらやや硬い声で「わざと割ったの?」と訊いてきた。わざと割るわけがない。圭子はホッとした表情を浮かべて、ハンカチで私の身体に着いたガラス片と埃を払ってくれた。圭子の友達はあちこちにある切り傷の出血を拭いてくれた。1か所、かなりざっくり切れていたが、気にしないことにした。打撲は酷いモノでは無いので歩ける。私はゆっくりと階段を降りて行った。歩いた後には血痕が残った。「どこに行くの?」と圭子が訊くので「校長室」と短く答えた。私は表面上は取り繕っていたが、心は憤怒で燃え上がっていた。「保健室っ!」と叫ぶ圭子を置き去りにして1階の校長室を目指す。手前にあったロッカールームで「折り畳み椅子」を徴用して、校長室の分厚い木のドアに叩き付けた。1度で返事が無いので、今度は椅子を拾って、その椅子で2~3回ほど優しく「ノック」をした。騒ぎを聞きつけた事務員が駆けつけてきたので、「校長は?」と尋ねてみた。事務員は固まっていた。ぽたぽたと腕から血を流し、あちこちに生傷のある生徒が校長室の前で暴れている・・・怯えながらも「校長は出張で・・・」


使えない男である。肝心な時に出張とは。仕方が無いので椅子をそっと廊下に置くと、職員室に向かった。既に圭子たちが職員室で騒いでいた。「悪いのは鈴木っ!安元を守る会を結成します」だのなんだのと。圭子の担任は事なかれ主義なので、騒動を起こすなと諭すだけであったようだ。私はこの時ばかりは圭子に構てる余裕はなかった。職員室の隣の部屋・・・と言っても、常時扉は開放されている教頭室に入った。職員室は私の訪問からこの瞬間まで「シ・・・ン」としていたし、私が教頭室に入っても静寂のままであったそうだ。圭子も固唾をのんで教頭室を見た。次の瞬間、私が教頭の机を蹴り飛ばし、ひっくり返す音がした。私も多少は暴れたのだ。ただ、人を殴るようなことはしない。軽く脅かしただけである。私は「鈴木をどうにかしろ。しばらくは学校には来ねぇからな?」と吐き捨てて、カバンも持たずに下校した。3日間休んだ。圭子は毎日、帰りに私の家に寄ってくれたが、話すことは無かった。何があったのかはもう説明した。圭子は私の「袖の破れたブレザー」を持って行った。圭子のお母さんが器用に穴をふさいで縫い合わせてくれた。私の母はそんなことをする女では無かったから助かった。そろそろ学校に行こうかと思い、登校したら、校門でマッハで拿捕された。そのまま校長室に連行され、校長の頭頂部を見ることが出来た。「安元を連れてきました」と言いながら私を校長室に入れたら、校長が真っ先に頭を下げて謝罪したのだ。そして「内密にして欲しい」と要求してきた。進学校志向の県立である、悪い評判は避けたいということだろう。大体の事情は察せたので、「鈴木は?」と手短に訊いた。減俸処分であることと、1週間の停職を言い渡したそうだ。多少は溜飲も下がったので、ついでに「現場を見ながら止めずに逃げた教師がいる」と伝えた。この教師たちも訓戒処分になった。


 例えば昨日。その横断歩道で小学生が車に跳ね飛ばされていても、多くの人がその横断歩道を渡るものだ。事件事故のような「非日常」は「日常を当たり前に過ごす」と言う人の持つ正常バイアスによって忘れ去られる、忘れようとするものだ。私はこの事件で大人の「くだらなさ」を知った。体面を保とうとするだけで、そこで「何があったのか?」と言う本質から目を逸らすのだ。くだらない大人の見本が我が家でいびきをかいて寝ているが、アレはアレで私の金づるであるから許してるだけだ。既に体格もパワーも私が大きく上回っているから、養父は私に手を出すことは無くなった。私は調教よろしく、「目上の者を殴らない」と言う条件付けがされているので、大きな問題を起こさない。暴力も嫌いだ。

 幾つかのイベントと定期テストを経て、我ら2年生は高校生活最大のイベントを迎えた。修学旅行である。何故か「スキー合宿」と名を変えて、2泊3日でスキー三昧である。私はそんなブルジョアのするスポーツには縁が無かったので、心の中で毒づいた。(安くあげやがって)と。そしてここでまた問題が生じた。大きなスキー場のホテルは早々に満員になるので、私たち2年生500人は2つの宿に分宿することとなった。私のいるクラスは大きめのホテルで、一般客も宿泊しているそうだ。もう一つのホテルは借り切りになるらしい。そんなことはどうでもいいのだ。問題は、あの鈴木が私のクラスの「副担任」であったことだ。この時まで知らなかったのだが、各学級には担任と「副担任」が存在していた。よりにもよってあの鈴木かよと思った。当然であるが、私は修学旅行をボイコットすることに決めた。スキーに興味は無いし。

 しかし、まさか「教師の暴行事件で、高校生活の華である修学旅行に参加”出来ない”生徒がいる」となれば、少々面倒なことになるらしい。この時は教頭の頭頂部を拝めた。ふさふさであった。話としては、鈴木は副担任であるが、「宿を安元君とは違う宿にする。それで納得してはくれないか?」と言うことだ。修学旅行には参加して欲しいと。病欠以外での不参加は今まで認めてこなかったそうで、たとえ居残っても、学校ではフォロー出来ないとも言っていた。そんなもん、副担任様が修学旅行で留守にする図書室で自習でもいいじゃないか。そう言えば、私は登校を再開してからも圭子と図書室デートをしていた。もう鈴木は私に何も出来ないわけだし、試しに鈴木が見てる前で圭子を抱き寄せてみた。校則では「男女交際は禁止」なのだが、やはり何も言えない腑抜けになり下がっていたようだ。


夏休みのアルバイトで経験していたとはいえ、圭子と会えない3日間は辛かった。圭子は本当に可愛いのだから仕方が無い話であろう。しかし、修学旅行に参加すると決めた以上はエンジョイしなければ駄目だろう。ちなみに私と同じ学年の文化系クラブの何人かは、普段からサバイバルゲームで遊ぶ仲である。全員が「迷彩服」で出発した。校風そのものは自由さがあったので、修学旅行(スキー合宿)での制服着用とか、ダサいジャージ着用なんてルールは無かった。

最も目立っていたのが私と福岡君、そして中村君であった。私が一番チビ助で、福岡君はデブった身体を自由に動かすサ〇ヤ人だったし、中村君は長身の上、ベレー帽にサングラスである。この3人はサバイバルゲームで名を馳せていた。「負けない軍人」としてだ。私は基本的に隠れて狙撃する傾向があり、福岡君は当時出始めた「ガスガン」を手に入れていた。

 通常のゲームで「陣地の取り合い」などをやると、福岡君に勝てるチームは無かった。2チーム。、人数が多い時は3チームに別れて陣地にある「旗」を奪い合うわけだが、その陣地の前にある茂みから、軍服を着たデブが「わははははははっ!」と笑いながらフルオートでマシンガンを打ちながら突っ込んでくる悪夢よ・・・この「陣地合戦」はガスガンを福岡君が所持していると言うことで辞めになった。サバイバル=バトルロイヤルが主流となったのだ。早い話が「全員が敵」である。圭子は危ないので「市民」として、戦場を歩き回らせていた。撃ったら処刑である。胸にミルキーの缶(トレーシングペーパーを蓋替わりに貼ってある)を掲げ、このトレーシングペーパーに穴が空くまでは「戦闘状態」である。穴が空いたら「モルグ」に自ら歩いて行くのだ。福岡君はこのルールでも鬼畜であった。襲い掛かって押し倒す。まだ撃たない。地面で仰向けにさせてから、ゲラゲラ笑いながら「ゼロ距離でフルオート射撃」をするのだ。トラウマになりかねない体験である。中村君はと言えば、バトルロイヤルでは「装備はラバーナイフのみ」で参加していた。ゴム製のナイフなので安全だが、刃に塗ったチョークの粉を急所に付けられたら戦死である。長身の男が人知れず木の枝からストっと飛び降りて来て、次の瞬間にはナイフが首筋にあてられていると言うのも悪夢だろう。中村君はこうして銃を鹵獲して使っていた。


そんな3人が1つの宿にいる。何も起きないわけは無い。しかし、事前のお達しで「絶対にエアガンを持ち込むな」と注意されていた。違反したらスキーではなく、宿で問題集を3日間解く羽目になる。しかし面白くない。

 仕方ないので私たち3人はホテルのロビー前の絨毯の上で「柔道の受け身」の練習をした。軍服を着たままの「前回り受け身」はさぞかし愉快な光景であっただろうと思う。持ち込んだ服は全部軍服であり、スキーウェアは持っていない(レンタルで一通り揃えるのが大多数の生徒であった)教師も「脱げ」とは言えなかったようで。しかも私は鈴木に暴行を受けてボイコットするはずが「参加してください」と教頭にお願いされた生徒である。やり放題であった。スキーそのものは楽しかったのだが、1日目の午後にはなんとなく「パラレル」まで習得してしまい、私たちとその他4~5人はインストラクターに放置プレイされていた。「滑って降りてくればいいから」と、ひよこやらペンギンみたいな一団を引き連れて、インストラクターはのろのろと下っていた。そして2日目は、福岡君自慢の「雪中迷彩」のコートのせいで福岡君を見失ったりしていた。


ホテルでは、各室の「班長」が集まる会議に「旧日本軍の亡霊が出る」と、一般客やホテル側からクレームが入った。我関せずであったが。


私は写真部の部長なので、宿で過ごす夜間も外に出ることが出来た。「ちょっと風景を撮ってきます」というだけで良かった。ホテルで煙草を吸う場所は限られていたし、バレたら停学なので、外で吸った方がいい。上手い具合に「雪見風呂」が出来るホテルで、女子の裸を拝めたりしていた。高橋は毛が濃いとか、伊藤は乳がデカいが乳輪もデカいとか。望遠レンズで堪能したモノだ。カメラ機材に疎い担任は300mmレンズを「大きなレンズ」としか認識しなかったようだが、望遠鏡代わりになるのです。他の男子生徒たちもエンジョイしていた。女風呂を除きに行ったら、横開きの扉には目隠しの和紙が貼ってあり、下の方にある透明な部分から覗こうとして、這いつくばっていたどこかの誰かが教師に頭を踏まれたとか。女子の部屋に遊びに行くのが目的だった勢もいたし、男子の部屋で駄弁ってる女子もいた。私はとっくに「卒業」していたが、とある部屋では生徒たちだけの「卒業式」(個人・ペア種目)も行われ、続々と卒業していったとか。私はそんな楽しいことも知らず、寒い中で煙草を吸っていた。

 スキー合宿の不満は「食事である。中学時代の修学旅行では、まだ味を知るには早いだろうと思える「本格的なすき焼き」まで出てきたが、この「高校の修学旅行=スキー合宿」では、皆様ご存じの「スキー場の食事」しか出てこなかった。大釜で炊いた、具の少ないエビピラフとか、晩飯は多少はマシで、トッピングの多いカレーとか。朝飯は「バイキング形式」ではあるが、お代わり禁止だとか。昼前には生徒が「ひもじいよぉ」と泣いているスキー合宿に意義はあったのだろうか?


圭子と会えない3日間。私は「あること」を考え始めた。

様々な要因が重なった。勿論、「悪い方の要因」である。私の計算ではギリギリで進級できるはずだったのだ。2年時に単位を落とさなければ3年生になれる。当たり前の話だが。私は1学期ぐらいは遊んでいてもいいと考えていた。圭子と遊んでいてもいいだろうと・・・

 通信簿には多少の「1」とか「2」が並んでいたが、コレは実力ではなく授業態度の悪さに起因するモノだと考えていた。その1学期の中間テストと期末テストの点数も悪くは無かった。良くも無かったが、校外の業者が行う「統一模試」では上位にいたので安心していた。2学期にちょっと頑張れば余裕であろうと。そこへもってきて鈴木の蛮行である。私はあの時に真に「教師と言う大人」に絶望を感じた。保身しか考えない人間たちで、生徒が一方的に小突き回されているのを看過して逃げる程度の人間である。確かに、あの体罰事件を穏便に済ませるために校長たちは私に謝罪した。だがソレが何だと言うのであろう。私は完全に「学校不信」に陥っていた。2学期のあの事件から、私はやる気を失いつつあった。授業をサボって煙草を吸っていたこともあった。教師なんざ取るに足らない大人だと理解した。当然、授業態度も悪くなる。国語だけは教師をも上回る実力があったので、授業で質問攻めにして泣かせたのもこの頃だ。大の男の中年教師が涙を流して教室から敗走するのは見ものであった。こんな調子だから、完全に教師たちからは嫌われた。私は体罰事件の被害者」と言うコスプレに酔っていたのだ。2学期の通信簿にも「1」と「2」が並んだ。

 さて、ここで私の人生は「2つのシナリオ」を進むことになる。記憶が曖昧なのが悪いのだが、2つの「シナリオ」で無ければ経験出来ないような大波を乗り越えることになったのだ。1つは留年であり、もう一つは圭子とのことだ。高2の3学期になった。私は単位を落とす寸前にいた。成績でも危うかったが、コレはどうにか出来そうだ。問題は欠席数であった。当時の高校では教科の単位ごとに「欠席していい日数」が規定されていた。この欠席数を上回った場合、問答無用で単位を貰えない仕組みだ。そして2年生から3年生になるために必要な単位数は全教科の単位数とイコールであった。3年生になると、卒業に必要な単位数は減るのだが、こと「進級」に関しては厳しかった。そして、よりによって月曜日の1限目に「保健」の授業があり、この教科は単位数は1だが、落せば留年が確定する。更に、「1単位」と言うことで、許容される欠席数が僅か6だったか7である。つまり、毎週月曜日に寝坊を繰り返せば、GW明けには留年を決めることが出来た。通常はそんなことにはならない。ただ、狙えば可能と言うだけで、真面目に登校していれば起きないことだ。私は2学期の日曜日に焼きそばを焼いていることが多かったので、月曜日はかなり寝坊をしていた。欠席はしなかったはずだが「遅刻」で欠席数を上積みしていったのだろう。遅刻15分以内で0.25、30分以内で0.5計算だったように思う。30分を超える遅刻は「欠席扱い」となる。コレを積み上げた結果、残り0.25まで追い込まれた。つまり、15分を超える遅刻をしたら留年決定である。本当にギリギリラインを目指す遊びをしていたわけでは無いので、遅刻は絶対にしたくなかった。圭子に相談すると「だったらモーニングコールをしてあげる」と言ってくれた。圭子と私の家は反対方向だが、圭子がバス電車を乗り継いで登校する時間と、私が自転車登校する時間は同じくらいであったので、圭子が家を出るちょっと前に電話をすれば、私は遅刻しないで済むわけだ。圭子は普段は欠席どころか遅刻もしない優良児であった。


そして、私と圭子は別れることになった。


 私は2学期の中頃から「自分と圭子の付き合いの展望」について考えていた。同じ学年であったなら考えないで済む話なのだが、圭子は1つ上の先輩だ。翌年には卒業する。これも圭子が大学に行くと言うのなら、女子大でもない限り、1年後には私が追いつくので問題ないが、圭子は就職組である。2学期の終わりにはもう内定が出ていた。一部上場企業の新しい事業、コンピュータ部門の会社である。つまり、かなり一流な「OL」になる圭子と、高校3年生の私と言う関係になる。私は圭子の「足枷」になってしまうと結論したのだ。憎み合って別れるわけでは無い。それどころか、あの「妊娠騒動」で私と圭子の仲は更に強固となった。もう全てをぶつけあっても喧嘩にならないほどに・・・

そう言えば、先輩から紹介されたアルバイトもハードであった。工場勤務なのだが、ワンオペである。昼間のうちに片付かなかった仕事、「生産や検品」をするアルバイトで、かなり時給が良かった。時間は17:00から22:00まで。このバイトをして、バスで帰るのが常であったが、帰り道に圭子の家の前を通るので、夜の10時半に圭子の家に行くこともあった。圭子の母親もコレを禁じたりはしなかった。きっと結婚でもするのだろうと考えていたのだろうか?私の「真面目さ」や「成績」は知っていただろうから、そこそこに圭子を大事にしてくれるなら、と言う思いだったのだろうか?そんな期待を私は裏切ったのだ。圭子も、まさか私から別れを切り出されるとは思っていなかっただろう。当たり前だ、私は別れの瞬間まで圭子を愛していた。

 その日は寒い日で。私は圭子の家で遊んでいた。別れを切り出すにはいいタイミングだと判断した私は、素直に「圭子の人生の邪魔をしたくないから」と切り出した。就職すればもう「社会人」である。私よりも優秀で稼ぎのある男が沢山いるだろうし、出会いもあるはずだ。高校3年生の恋人じゃ頼りないであろう。結婚するにしてもあと5~6年は待たせることになる。大学を卒業して、就職する私を待てるのか?圭子は待てると言ったが、「新しい出会いもあるだろう」と言うと、少し迷い始めた。頭の良い子だ、「可能性」を残すか、私を待つかの二択を間違えたりしないだろう。長い沈黙の後、圭子は「分った・・・」と小さく言った。話し終えた私は早々に圭子の家を辞すことにしたが、いつもは階段の下まで送ってくれる圭子が、階段の一番上で私を見ていた。天使の微笑は儚くて寂しそうだった。私は泣いてしまった。好きなのだ。愛しているのだ。別れる理由なんざ「頭で考えたこと」だけで、お互いに愛し合っているのだ。私は圭子の胸に飛び込んで泣いた。もう泣くしか無かった。圭子は無言で私を強く抱きしめていた。泣いてどうなるものでもない。私はもう圭子に別れを告げたのだ。何と言う浅はかなことをしたのだろう。時の流れの中で、いつか別れるなら、いや結ばれるのならそれで良かったんじゃないか?ここで私の意志で「未来を変える」必要はないのではないか?様々な思いが脳内を駆け巡るが、別れたんだ・・・別れちゃったんだ・・・私は30分は泣いて、そのまま無言で階段を降りた。

 翌週からはモーニングコールも無くなった。圭子はきっと私を振り切ったのだろう。もう留年しようが知らないよとアピールすることで・・・

私は自力で朝起きて、ギリギリで3学期の授業を終えた。少なくとも「出席日数が足りない」と言う状況は回避した。残るは3学期の期末試験である。しかし、私には圭子との別れと言う大きなダメージがあった。最後にもう1回会いたい。そう思っても、もう3年生は登校してこない時期だ。


圭子が私に声をかけに来た。よーじの持ち物、まとめておいたから、と。私はその持ち物を受け取りに圭子の家に行った。コレで本当に最後かと思うとやはり悲しくて、私は圭子を押し倒した。最後のセックスである。私は最後まで「圭子とのセックス」を求めたのだ。ここでよりを戻すつもりは・・・あったのか無かったのか、今の私には思いだせないが、この日が本当に最後になり、卒業式のあと、天文部に遊びに来た圭子はスーツ姿で眩しくて、白いパンプスが誇らしげであった。もうローファーでは無いということだ。


こんな「大事件」があったのに、学校と言うのは無情なモノで。1学期2学期の通算成績では留年が確定的であった。3学期の通信簿に「1」が一つでもあれば留年である。しかし、私が留年したとあっては、圭子も責任を感じてしまうだろう。あの子は優しい子だから。そこで私はこの状況から抗ってみることにしたのだ。「取引」を持ちかけた。職員室の教師の机を回って、「期末テストで何点取ったら進級させてくれますか?」と言う危険な取引である。自分から「背水の陣」を背負うことにした。このくらいのハンデを教師に与えれば、ニヤニヤしながらも「何点以上なら単位をくれてやる」と言うだろう。国語と世界史は問題ない。体育も補習代わりのマラソンでどうにかなる。数学の安田は意地悪だが卑怯では無かった。途方もない点数を要求しなかった。他の教科は軒並み「90点以上」を要求してきた。世界史に関してはチートを使えたので大丈夫だった、確か出席日数もアウトだったが、誤魔化してくれたようだ。この世界史の教師の話はまた機会があれば書こうと思う。

 私は生まれて初めて「勉強」をした。本気で勉強したのだ。クラスメイトに頭を下げて、ノートをコピーさせてもらった。2年1学期の分から全てコピーした。3学期の期末テストは「2年生の総決算」だと思われたので、全部やり直した。何故、この「シナリオ」があるのだろうか?私は圭子との別れで傷心して、勉強も手に付かなかったのではないか?


しかし、あの3学期。


 私は圭子と別れて、それから初めての「勉強」もして・・・進級したのだ。

驚異的な記録を出した。国語と世界史は満点であった。この2教科は何もしないで良かったので楽だった。日本史も暗記さえすれば足りた。ひたすら勉強にだけ撃ち込んだ2週間。平均点は95点あたりだった。この成績なら文句はないはずだ。数学の安田は「命拾いしたな」とニヤニヤわらっていたが・・・安田との確執は長いのだ。私は数学と言う言語の習得を諦めたので、1年生の頃から成績はギリギリであった。下手をすれば単位を落としかねなかったが、安田はそんな私を理解してくれていた。「数学が出来ない天才もいる」と。私が真の「天才」だったのかは最早分かりはしないが、高校時代は敵がいなかったのも事実だ。勉強は一切せずに上位10%に居続けたのだから。そんな数字とは無関係に、学校内での評価が悪くなったのが2年生の時。模試の成績は関係ないわけで、更には才媛で名高い圭子も卒業するとなれば、私を優遇する必要はない。


期末テストで無双するしか無かったのだ。

 そう、私は勝ったのだ、あの優柔不断で事なかれ主義の大人たちに。

期末テストの答案返却があり、私は数人の教師から呼び出しを受けた。


「お前は、やれば出来るのに何故しないんだっ!」


黙れ。


 3年生になり、私は暇になった。もう圭子はいないのだ。写真への情熱も少し冷めてきた。圭子のポートレート撮影は本当に楽しかったのだ、もう撮りたい写真も無い。圭子の写真は全部まとめて段ボールに放り込んでガムテープで蓋をした。いつか捨てようと思ったのだ。そしていつの間にか捨てていた。思い出は要らないと強がっていたのだ。非常に惜しいことをしたものだと思うが、後悔はない。あの時に出来た「私のベスト」なのだから・・・

可愛い後輩も出来た。男子だが。あくまでも男子だが。男だが。遊び相手にはちょうど良かった。一つ下の後輩男子に中々の馬鹿ッタレがいた。山田と呼ぶが、この男がまた天才肌で。一切の勉強をしなかったせいで高2で落ちこぼれた。頭は悪くないんだが、要領が悪いと言うか、ツッパって生きていたと言うか。そんな山田の友達が原付の免許を持っていた。私には無縁の世界である。高1の時は「3無い運動」(免許を取らない・乗らない・乗せられないだったか?)の先頭で旗を振っていたほどだ。1つ上、つまり圭子の学年の女子が大きな交差点で事故に巻きこまれて死んだ。いい先輩だったのに。私はその先輩のような悲しみをこれ以上起こして欲しくなかったのだ。やがてその先輩の話は忘れていたが・・・圭子がいたから。


そんな私であったからバイクとは無縁だったが、4月のある日、図書室でこの山田たちに誘われた、「先輩も一緒に免許取りに行きませんか?」と。どうせ暇である、私は快諾して早速3日後に山田と待ち合わせをした。学校はサボった。免許試験場は平日しかやっていないので仕方が無いことだ。しかし、待ち合わせの朝、山田が来ない。午前中の試験に間に合うように待ち合わせ時間を決めたのに、山田が来ない。ギリギリまで待っても来ないので、私は迷いながらも試験場に行くことに決めた。原付に興味はないが、免許があれば便利かもしれないと思ったのだ。行きの電車の中でテキストを読んで一夜漬けならぬ朝ご飯をかっ込んで、試験を受ける。楽勝だった。思うに、車の免許等でも「学科で落ちる」と言うのは如何なモノか?学科が出来ないと言うことは、致命的に「運転に向いていない」と思うのだが。実技は出来ても道交法を憶えていなければ「走る凶器」でしかない。学科試験を合格したので、手続きで廊下に並んでいた。何故か山田がいた。「お前、なんで俺を置いてくんだよっ!」と叱ったら、「いや、僕は午後の試験なんです」と悪びれた様子もない。この餓鬼はかなりの悪党だと思った。午前と午後の試験ではスケジュールが噛み合わないので、私は免許証を交付されて真っすぐ帰宅した。その日もバイトはあるから、山田を待つわけにもいかない。そして、免許を取ったはいいが、我が家では「バイクは禁止」であった。当時の社会の趨勢もまた、「高校生にバイクは早い」というものであった。


 そんな話を、工場のアルバイトを紹介してくれた先輩にした。何に期待してと言うわけでは無い。すると先輩は大喜びしてくれた。

「コレで俺もこのバイトを引退できる」と・・・

 私は22:00で帰宅する、その後を引き継ぐのが先輩である。先輩は大学に通いながら深夜のアルバイトもしていた。そこで私が原付の免許を取ってきたわけだ。私が22時で帰るのは終バスの都合である。ならば、私がバイクを買えば、深夜勤務も出来るはず。先輩も免許を持っていたが、最近は乗っていない。俺の原付をやるから乗るか?と持ち掛けてきた。悪い話ではない。縁の深い先輩ではないので(アルバイトを紹介してくれただけ)「貰う」のも悪い、数千円払って先輩のスクーターを買った。

 こんな楽しい世界があったとは、その時まで知らなかった。思うままにスピードが出る。左手を捻るだけでいいのだ。全力で漕ぐわけではないのだ。しかも疲れない。山田も無事に免許を取得してきた。先に免許を取っていた山田の友達の家には原付が数台あったので、山田はそれを借りて、私と山田と友達であちこち走って遊んだ。本当に風が煌めいていた、5月だし。

私は原付で走る楽しさを憶えた。もう学校どころではない。毎朝のように、隠してあるスクーターに乗ると、馴染みの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。モーニングサービス付きで400円だったか?

 そこで朝飯を食い、登校するような生活になった。アルバイトも深夜勤務に及び、収入は飛躍的に増えた。お陰で朝起きられない悪習を生んだが。アルバイトも忙しくなり、今度は私が山田を引き込んだ。山田も「バイクを買うお金」が必要だったので、この話に飛び乗ってきた。山田の家はそのアルバイト先の工場から自転車で通える距離であった。

私は先に好みのオートバイに乗り換えた。オフロード車である。車体が大きいのでこの車種を選んだ。スクーターは山田に譲った。もう無料で良かった。2千円を押し付けてきた山田は最高の笑顔を私に見せてくれた。もうコレで山田は友達からバイクを借りる必要は無くなったわけだ。バイクを借りられるのは学校の授業が終わった後なので、相当な不満を抱えていたようで、私がスクーターを譲ったら学校に来なくなった。アルバイトを休むことは無かったが。そんな感じで私は山田と連るんで遊ぶことが増えた。遊び仲間で親友である。本当に毎日のように一緒に走った。走り回った。


ある日のことである。私はかなり驚愕していた。3年生になっても相変わらず「保健」の授業があったのだが、バイクをまたいでぶらぶらしていたら、出席日数が危うくなっていたのだ。残り1時間を切っていたのである。2回の遅刻でアウト。もう僅かでも遅刻したら留年である。私は数学の単位を諦めていたので、もう余裕はないわけだ。1単位でも不足すれば留年が確定する。私はアルバイト先で山田にぼやいた。「もうよぉ、出席がヤバいんだ」と言う私に山田は「僕も面倒になってきまして(笑)」と答えた。明日は保健の授業がある。


翌朝、私は早朝に家を出て、山田と一緒にツーリングに行った。


アレだけ苦労して進級したのに、6月の時点で留年が確定した。


大学ほどではないが(噂では)高校ともなると「名物教師」と言うたわけた存在が教鞭をとっていることがある。教鞭とは言え鞭は鞭である。ならば振るう方に美しさがあれば、叩かれるのもまた一興であるが、高校で鞭を振るう美人女教師の需要の高まりから、公立高校で雇えるような賃金ではあるまい。


(以下、妄言4行を省略)


我が母校にもそんな名物教師が何人かいた。鞭は使わなかった。先ずは数学の安田である。浅黒く荒れた肌の中年男性教師であったが、その瞳にはまるで菩薩のような優しさを宿し・・・ているわけもなく、鬼も落涙するような点数を付けて来る。数学に関して言えば、私は平均以下であり、この場合の平均以下と言うのは「数学を理解出来ていない」と言うことである。然るにその点数は「中庸」と言うことは無く、劣等である。数学が「出来る」と言う生徒は、平均点を軽々と上回るので、「平均点」と言うものは、誰もがこのくらいは取れるであろう点数ではなく、100点の者1人と0点の者が1人、それで「平均」が50点であると定めるような、あまり意味のない数字である。出来得るならば、「平均値」と共に「中央値」を参照しないと各種データを読み誤るので注意して欲しいと、数学が出来ない私が書いても信憑性は無い。なお、「平均点に意味を持たせるような問題」を制作する優れた教師もいると言うことは追記しておこう。


 私と安田の確執は高校入学時から始まった。しかも、この安田とは卒業までの4年間、数学の時間に顔を合わせる腐れ縁となった。他にも数学教師は居るのだが、何故かいつも安田の「べらんめえ口調」を聴いていた。高校入試では幸いなことに「中3レベル」の問題が少なく、私は少なくとも中2レベルまでなら理解していた。故にそれなりの点数を取れたわけだが、高校に入り、数学の授業が始まると、授業が始まった時点で落ちこぼれていた。兎に角理解不能なのだ。「数Ⅰ」の難攻不落さよ。コレが高2になると「代数/幾何」と「数Ⅱ」に枝分かれすることになり、私は本当にギリギリで「代数/幾何」で点数を取っていただけであった。

 安田も高1の中間テストの結果を見て、私が数学の出来ない子だと言うことを理解したようだ。通常ならこの先に待つのは「単位を落とす悪夢」であろう。しかし安田は違った。他の教科の点数を参考に「この生徒の唯一の欠点が数学」なのか、「無理をしてランクの高いこの高校に入り込んだ凡才」なのかを見抜いていた。幸い、私は前者だと言う評価を頂けたようだ。定期試験には必ず「サービス問題」があり、私程度でも解くことが出来た。それさえ解ければ「2」と言う評価を貰えたのだ。「1」と言う評価はそのまま留年コースである。ただ、安田には意地悪なところがあり、授業中に板書して、その問題を指名した生徒に解かせることが多かったが、この指名の方法が様々で。例えばメモをしていて、出席番号順にあてていくとか、「今日は4月10日か。では出席番号10番ッ!」と言うパターン。そこから机の並ぶ列ごとに指名していくとか。兎に角、安田はこの指名方法で私にあたると、「おめぇじゃ無理だな」と酷いことを言って「次のお前、安元の代わりに解け」と言う屈辱を私に与えた。いや、出来ないことを「屈辱」に感じるならば勉強をしろよと言う話だが。徐々にこのやり取りが定型化されてきて、更には「もう安元にはあてないから安心しろ」とまで言われる始末。それでも私は授業をサボることは無かった。出席も大事な評価基準である。嫌いなシイタケでも頑張って一口食べれば、あの「完食主義の学校給食」でもギリギリ許された、そんな感じであろう。嫌いな授業は苦痛でしかないから、あの憎きシイタケに喩えるのが相応しいと思う。進学校志向の県立なので、成績優秀者には優しかったが、落ちこぼれには厳しかった。安田は「優しい先生」であったのだ。誤解しないで欲しいので弁解じみたことを書くが、物理や科学での計算は間違えることは無かった。加速とか速度、重さなんぞは「イメージするのが容易」であったから困らなかった。数学は「無味乾燥な数字」をひっくり返したり刻んだりするので、イメージしにくかったのだ。


 別の数学の教師は、落ちこぼれが答えられないと、遠い目で窓から見える裏山を眺めながら、「おい、あの山には枝っぷりのいい木が何本かあるから、ちょっと・・・」と言いながら首を絞めるゼスチャーをしたりしていたようだ。今なら大問題であるが、当時は大らかであった。名物教師と言えばこっちがNo1であろうと思われるのが「世界史」の教師。かなり高齢で「おじいちゃん」と呼んでも通じる白髪の体格の小さな教師であり、授業の声も聞き取りにくいことが多々あった。しかし、この「お爺ちゃん先生」が輝く時があった。ギリシャについて学ぶ時間がソレだ。お爺ちゃん先生はこの時代の「レスボス島」の話が大好きであった。とうに股間のイチモツはしょんべんをする棒に成り下がっているはずだが、この「レスボス島」が今で言う「レズビアン」の語源になったと、そう熱く語る瞳には情熱を宿していた。これだけである。あとはボソボソと授業をするだけであった。そんなだから、高校生になって立派な体格になった不良たちに囲まれていじられることも多かった。階段で囲まれて「圧迫質問」されたり、力は入っていないが「レズ先生っ!」と小突き回したり。私なそんな先生に同情して2回ほど助けたことがある。私だって、さっそうと現れて助ける相手は、可愛い女の子さんがいい。しかし、現実はお爺ちゃん先生。まぁ労力は要らないことなので、礼は要らないよと。コレをお爺ちゃん先生は「恩義」に感じたのだろう。ある日、お爺ちゃん先生は「世界史はね、うん、気にしないでいいから。安元君はいいから」と早口で私に告げて足早に去っていった。まさかの「チー牛教師」でもあったのだっ!早口、止めてください。この日から、世界史のテストでは、授業で聞いた名前とか地名を適当に書き込むだけで高得点を取れるようになった。評価は「5」である。正直に言うと世界史は苦手であったが、このチートを手に入れたので問題は無くなった。「現国」なんぞは実力でクリアできるので問題があるはずもない。

 私は3年生になって、最初のうちは授業に出ていた。やっと進級出来たわけだし、落ちこぼれるのは嫌である。この頃になっても私は図書室で遊んでいた。昼休みと放課後に限定されていたが。図書室は他のクラスや学年の生徒と共有出来る空間であったから、言うなれば「サロン」とも呼べた。ある日、福岡君が「学校指定の紺色のロングコート」を羽織って図書室に侵入してきた。新入生がきゃいきゃいと明るく会話している和やかな図書室。きゃいきゃいと騒ぐなと言う話もあるが、放課後などはこの状態が常であった。怪しい福岡君は、コートのポケットに両手を突っ込んで、背中を丸めて、初々しい新入生の女生徒のグループに近づいていく・・・数秒後、「ほーれ、こんなんじゃぁああっ!」と言いながらコートの前をはだけると、そこには短パンに靴下を履いただけ、つまりは半裸のデブの姿が。露出狂である。福岡君は己が醜い半裸を見せつけて遊んでいたのだ。何故、写真部の3年生は奇行に走るのだろうか?雪だるま事件を起こしてみたり、文化祭で武装解除されたり(私もだ)


 新3年生はクラス替えが行われる。私はまた幸いなことにABCD~で言えば、Bクラスに編入された。つまり、3年2組である。生徒数は減ることはあっても増えない。1年時に10クラスあった私たちの学年は9クラスに減っていた。中退者が出た分、生徒数が足りないと言うことだ。そして、クラス替えから新担任が自己紹介に現れる。あろうことか、あの「図書館司書暴行事件」の時に、小突き回されてけがをしている生徒。つまり私と目が合い、助けを求めたにも関わらず「くわばらくわばら」と、その場をそそくさとスルーした内田が担任となった。司書は当然、私の副担任になったりはしないが、まさかこの内田教師が生徒を見捨てたなんて事実を学校側が掴んでいたわけもなく。ちなみにあの事件の時に私を見捨てた教師3人は特定していたので、受け持ちになれば思いっきりプレッシャーをかけていたのは言うまでもない。

 そして担任である。教科は日本史であった。内田は私に強く出ることが出来ないし、1対1なら委縮するのはあちらの方である。私はこの機を逃してなるかと、「室長」に立候補した。「2組」であるから、面倒な「委員」なんぞはしたくないクラスメイトしかいないので、私は無投票で室長になった。得てして、担任教師は横暴なものである。自分の意図した方向に生徒を導こうとする。反抗しない生徒を大事にするものだ。私のような生徒のことであろう、従順だし。


 私は生徒側の不利益を徹底して排除することにした。水曜日は5限まで。午前4限、午後1限で、その午後の授業は「ホームルーム」(HR)であった。「〇〇君が臭くて困ります」「そーだ!そーだ!」みたいな簡易裁判から、担任教師の「ありがたいお言葉」の清聴まで。私はその形式的な時間が嫌いだったので、HRの時間になり担任の内田が教室にやってきて、教壇の横の方に椅子を置いてHRの進行を眺める体制になると、クラスメイトに「何か議題はありますか?」と問う。あるはずがない。みんな帰りたいだけだ。「では、議題が無いようなので解散とします」と宣言。この時点で5限は終了となる。内田は私に逆らえない。何度か「待て、話し合うことはあるだろう?」と言うクレームもいただいたが、行事関連の議題でもない限り、学校生活で「話し合うこと」等は無い。この私による「HRボイコット」はずっと続いたので、体育祭も文化祭も参加する内容は最低限であった。体育祭では、クラスメイトをなだめながら「くじ引き」で出場種目を決めただけ。文化祭での活動は、他のクラスのような趣向を凝らしたものではなく、模造紙に最近の気温の変化のグラフを書いて貼りだしたり、とにかく適当であった。ほぼ全員が進学先を決めていて、受験勉強を始めている。就職組はかなり余裕で遊んでいる。そんなまとまりのないクラスだから、HRになんざ意味が無いのだ。

 私は高3の6月には留年が確定していたが、クラスメイトの邪魔などはしない。応援をする立場だ。図書室では私の留年を知らない後輩女子が「安元先輩の卒業式には花束を贈りますっ!」と言うラブコールまでしてくる。当時の私はそこそこにモテていたのだ。ひとえに「圭子とべったり」だったので、付け入るスキが無かっただけである。私も圭子にしか興味は無かった。その圭子はもういない。同学年の野崎と言う女生徒が私にちょっかいをかけてきた。そこそこ可愛い。その野崎に、圭子とセックスしていたのがバレ、更には使ったコンドームの数まで知られてしまった。何かの話の折に3箱ぐらいかなぁ?と誰かに言った覚えはある。同じ男子同士だし、挨拶みたいなもんだが、この野崎から非常にありがたいあだ名を付けられた。コンドームを3箱使ったと言うことで「サンダース軍曹」と。

 誰が上手いことを言いなさいと野崎に試練を与えたのかは知りようがないが、それ以来私は「軍曹」と呼ばれるようになった。留年が決まっても、暇な時は登校していた。山田は留年決定と同時に「休学届」を出したらしいが、部活には顔を出す。私はと言えば、休学届なんぞは知らなかったので、1年間、無駄に学費を払わせた。親にだ。既にこの頃になると、私はもう「同居人」であった。飯も食わしてくれない。アルバイトで稼いでいるのだから勝手に食いなさいと放り出されていたようなものだ。弟の分まで用意すれば、材料費は出してくれたが。弟は高2で中退していた。朝帰りだろうが、無断外泊であろうが自由であった。たまに家に居ると、母が「なんだ、あんたいたの?」である。私としては予定通りである。あの夜、雨の中で芝居をした時点で私は「親を捨てた」わけだ。そしてもう自分で稼げるようになった。夕方から深夜までの工場勤務のアルバイトは月に15万円にはなった。もう、「保護者」は要らない。法的には20歳になるまでは保護者が責任者ではあるが、アテにしない。


 私は徐々に学校に行かなくなった。留年しているので、学校は暇な時の遊び場感覚である。バイク当校は当然禁止なので、家を出る時に制服を着て、気が向けばバイクにまたがり、学校のそばに隠して登校したし、面倒ならバイクに乗ったまま学校の校門に乗りつけて「今日は休むから」と、門番の生徒指導の教師に告げたりしていた。やがて家を出る時は私服となった。もう学校にも飽きた。どうせもう1年通うわけだし。私はたまに学校に行く。後輩の山田は「休学」しているので、自然と会わない日が増えた。友情に変わりはなかったので、私と山田は「俺とお前」の仲のまま。会えば話が合う。毎日は会わないでも心は通じていた。恋人のように・・・


私の実家は「オートバイ禁止」であった。この絶対とも言えるルールがなし崩しになったのは、もちろん、弟の功績によるものだ。弟は高校に入るとすぐに原付の免許を取り、すぐに当時で言う「中型免許」にステップアップした。当時の彼は現役のヤンキーであり、オートバイは必須であったから当然の流れだろう。ある日、真っ白な400ccのバイクで帰宅した。そのバイクは本当に真っ白で、シートの革を真っ赤なモノに張り替えた、少々やんちゃなうるさいバイクであった。養父も弟には甘いので、我が家の「バイク禁止」と言う掟は撤廃された。完全に暴走族の兄ちゃんである、立派なモノです。ちなみに中学時代からアルバイトをしていた弟だが、そのアルバイト先が塗装業の家であった。この職業を選んだ理由は「シンナーが手に入るから」であるから、高校を中退した後、しばらくは家にこもってアンパンを楽しんでいたようだ。ある日のことだが、弟が箒を持って天井を突きまくっていたことがあった。あちこちから「監視されている」と言う幻覚を楽しんでいたらしい。目付きも異常だし、流石にどうでもいい男だとも思っていたが、兄として、1発頬を張って正気に返してやった。「シンナーやってんじゃねーよ、顔洗ってこい」この時ばかりは暴れ馬みたいな弟であったが素直に従ってくれた。シンナー中毒が悪化して、真夜中に刺されでもしたら怖い・・・

 私はバイクに興味が無かったが、高3になってから魅力に憑りつかれた。もう「バイク禁止」等とは言われないだろうと、スクーターを譲って、車体の大きなオフロード車に乗り換えたことを機に、私もバイクで帰宅してみた。1時間以上説教された。なぜこうも、兄弟なのに格差があるのか納得がいかないが、もう買って来てしまったわけで、私も渋々だが許可された。オフロード車の外見は原付も125ccも似たようなものなので、中型免許にステップアップしてから、125ccを借りて持ち込んだ。そのままなし崩しに250ccのスポーツバイクに買い換えた。「知らぬ間に段々大きくなったよ作戦」は成功した。

 スポーツバイクはヤマハの「レーサーレプリカ」と呼ばれるタイプだった。この型は年々進化を続けて、最終型では普通に「危ないレベルの性能」になったが、初期型はまだ大人し目であった。あの頃、最終型の性能であったなら、私はこの世にいないだろうと思う。私は暴走するでもなく、ただバイクを操ることが楽しかったので、自然と「峠の走り屋」となった。今思えば、「走り屋」と言う名の暴走族だが、市街地で騒がないだけいいだろうと、当時の私は考えていた。1日の大半を峠のドライブインで過ごすようになっていた。朝、家を出て峠まで走り、峠を攻めて(笑)夕刻になるとアルバイトに行く生活であった。正確に言えば、一旦は家に帰ったのだが、それは単に弟の飯の支度をするために帰っていただけで、「家に帰る」という意識は無かった。まだ高校在学中であり、形式上は保護者だって必要。そんな感じであった。寝る場所も必要であったし。

 季節は巡って私は高校に復帰した。今度はサボれない状態である。単位の数がギリギリで、数学を落とすなら「選択授業」と言う名の大学進学コースの授業を受けなければならない。高校3年生は週のうち3日間は1限と2限が無かった。この1限と2限は進学者向けの授業を行っていたのだ。私は進学する気は無かったが、単位にはなるので仕方なく出席していた。最初に高3になった時から「卒業後の進路指導」の網から零れてしまい、私は一切の指導無しで高校を卒業したが、それはそれで別の話だ。


卒業までバイクはお預け状態となった。普段の足に使ってはいたが、もう「走るのが趣味」とは言えない。そう言えば、あれほど打ち込んでいた写真は辞めていた。バイクを買う資金のために機材を売り払ってしまった。


 そんなある日のことである。その日は朝から暑い日で、私は(マジでだりーな・・・)と思いながら自転車で学校に行った。バイクで行くのが楽なのだが、教師にバレたら停学であるから、なるべくは自転車通学をしていたのだ。もう学校に未練はないので、真面目に登校して卒業出来ればいいだけだった。部活は3年生には無縁であったし、学校でつるむ仲間もいなかった。真っすぐ帰宅すると、庭が騒がしい。珍しく、養父が庭にいるのである。普段は昼間は起きてこないで寝てる男が、である。挙句は、ボスと言う名のセントバーナードを連れて散歩に行ったらしい。コレが不幸の始まりであった。普段から散歩に行ってる犬ならば多少は耐性もあったかも知れないが、私は最低限の世話しかしていなかった。コレでもまだ私は善良な方だろう。養父は普段、自分が飼い始めたはずの犬に構うことなど一切なかった。餌すら買ってこない男であったのだ。炎天下、散歩に連れ回されたボスはかなりバテていた。そりゃそうだろう、元は「寒い国の犬」である。そして加減を知らぬ養父は2時間近く散歩をして帰って来て、ボスを庭に放すと、「暑いだろう、コレで冷やしてやる」と、水道のホースから水をぶっかけたのだ。私はぶっかけが嫌いだが、ボスに至っては、この急冷が心臓を直撃して、そのまま心不全を起こしてしまった。「あ、死んだ・・・」と呟いた養父の怖さったらなかったので、私はバイクに乗って逃げた。数時間後、家に帰ると既に養父は出勤した後で、ボスの死骸は役所に引き取ってもらったそうだ。早い話が焼却炉で焼くだけである。愛の無い行為だが、そこは「妻の連れ子」を殺しかけたこと数回の男、当たり前だったのだろう。

 その夜のことである。深夜に母と養父は帰宅する。もうほとんど気にしていなかったので油断があった。突然、私の部屋のドアがバーンッ!と大きな音をたてて開かれた。眠い目を擦ってドアの方を見ると、廊下の照明でシルエットになったキチガイがいた。素手ではもう勝てないと言う賢明な判断から、その右手には木刀が握られていた。完全な奇襲である。「起こしてから殴る」なんて優しさは無く、いきなり木刀を振り下ろしてきた。私は寝起きからでも全力疾走出来る体質だったので、初太刀を左腕で受かることが出来た。折れたが。腕が折れたが頭はガードした。その後、4~5回は木刀を振り下ろしてきたので、右手の指が折れて、防御するのがやっとであったので、無意識に上げた左脚の膝にも怪我をすることになった。多分折れていたのだろうが、学校を休まずには済んだ。「お前がボスを散歩に連れて行かないから身体が弱っていて、ボスは死んだんだっ!」と吠えながら木刀を振るう養父は確実に死に値する男だった。先ずもって、この養父が「自分が飼いたいから」連れてきた犬だ。普段、誰も世話をしない、餌すら与えないから、私が世話をしていただけだ。なのでボスは一番私に懐いていた。家族内序列では養父がトップなので、養父にも媚びてはいたが・・・

 100歩譲って、散歩に連れて行かなかった私が悪いとしよう。それならば、弟も連座するべきであろうことは理解出来ると思う。弟はボスに触ることすら無かったのだから、養父よりも冷たかったのではないか?第一、ボスを殺したのは養父である。結局のところ、全ての責任を負うことから逃げ、「当家のサンドバッグ」である私でうっ憤を晴らしただけだ。しかも、この襲撃の後、うずくまって身を護る私の髪の毛を掴んで、自分たちの寝室に引きずり込んで、どうにか上半身を起こしている私に向かって、「お前は親の前で正座も出来ないのかっ!」と、また木刀で頭を殴ってきた。膝が折れていて正座が出来るとでも思っていたのだろうか?まあ「ヤクザ崩れ」みたいな男であるから、自分の部下にも同じようなことをしていたのだろうと察しは付くが。この時点で、流石に冷たい男ランキングで言えば上位に入るシンナー男、もとい弟が飛び込んで来て「また洋二を虐めてるのか、いい加減にしろ」と怒鳴って私を救ってくれた。あの時は感謝した。

 まだ夏休みまで間があったので、私は仕方なくバイクで登校した。自転車に乗るのは無理であったから仕方が無いし、欠席は避けたかった。相変わらず試験勉強もせずに期末テストを終えて、やっと少し休むことが出来た。高校では新しい級友たちが「安元さん、どうかしたんですか?」(留年すると敬語に「さん」付けである、憶えておくように)と訊いてくるので「オヤジに木刀で引っ叩かれた」と答えたらドン引きしていた。夏休みの間にアルバイトが出来なかったのは痛手であった。アルバイトでかなり稼いでいたからこそ、家には頼らずに生きていたのだ。収入を絶たれてしまったので、私はまた実家の奴隷として扱われるようになった。毎日、掃除をして洗濯機を回し、昼過ぎに起きて来る母の「お使い」をする。こうしてやっと飯を食わせてもらえるのだ。何かが狂った家族であった。今で言う「機能不全家族」だったのだろう。弟の分まで食事の世話をする。弟もこの状態を「普通のこと」だと思っていたようだが、私が弟の飯の心配までする理由は無いはずだ。


時は淡々と進む。木刀で受けた傷が完全に癒えた頃には、高校の2学期が始まった。もう知ってる顔は無い学校生活だ。先輩は居ない3年生だし、同級生は去年までは後輩であった。その下の学年は全く知らない。部活もとうに引退していたので、本当にやることが無い。ただ単位を落とさないように登校するだけであった。いや、多少は楽しいこともあったが、先に語っておきたいことがあるので、ソレを先ずは書こうか。

 実家の奴隷階級のままその年は暮れて行った。アルバイトなんかしなくていいと、母に直々に言われてしまったから仕方が無い。ある程度の小遣いは貰えるわけだし、母と養父が出勤した後は自由時間であったし。後輩だった山田と遊ぶのは夜間である。バイクで街まで出れば、いくつかある溜まり場のどこかで山田に会えたものだ。喫茶店が多かったが、稀に居酒屋。山田のバイト先に行くこともあった。彼は小さな会社の準社員になっていた。退学していたのだ。今思えば「狡い大人」ばかりであった。アルバイトが高校を辞めたので、そのまま利用していた感じである。安い時給で雇ったアルバイトを酷使していたが、若さゆえだろう、私たちは「仕事の責任を負わされること」を誇りだと思い込んでいた。今ならまっぴらごめんであるが。

 その山田が年末のライブに行かないかと誘ってきた。某ビジュアル系バンド(メジャーだが)のライブのチケットが余っているらしい。私は二つ返事で「行く行く」と答えた。その日は寒い日だった。あまりの寒さに、私はバイクのヘルメットのあご紐をしっかりと締めていた。ライブに行くからにはお金が必要である。チケットは無料で回ってくるが、交通費等の経費やホテル代は持っていないと格好がつかない。アルバイトを禁じられていたので、お小遣いをせしめないとならない。幸い、その日は母に「市街地にある〇〇まで支払いに行ってちょうだい」と命じられたので、二つ返事でお使いに行き、お小遣いを貰うつもりであった。山田とは夕方に駅前で待ち合わせをしていた。時間の余裕はたっぷりとあった。しかし、昨年、いやこの年の春までは「走り屋」であった性がそうさせるのか、私はかなりバイクで飛ばしていた。とある大きな交差点を抜けると、今度は「横断歩道だけ」の小さな信号が2つ連続してあるのだが、上手くタイミングを図ると、赤信号に引っかからないで済む。私は勝手知ったるその信号のタイミング道理にフル加速した。250ccとは言え、スポーツ系のバイクだ。簡単に速度は100km/hに近づく性能はある。横断歩道の信号がこっちに青い光を向けた。


まさか、5歳にも満たない幼児が赤信号を無視して、自転車でふらふらと渡ってくるとは思わなかった。


「バカヤローっ!」と、私はヘルメットの中で怒鳴った。急制動する余裕はなかった。右手でブレーキレバーを握りしめ、左手はクラッチレバーを握った。完全な「パニックブレーキ」となった。目に焼き付いているのは、跳ね上がるタコメーターの赤い針であった。バイクは前輪を下に「竿立ち」となり、横断する幼児の自転車の前輪を弾いた。幸いにも、私のバイクが目に入った幼児は片足を自転車から抜いていたので、怪我をさせずに済んだ。いや、その後、私は大怪我で死にかけながらも幼児に「大丈夫か?」と訊いて、「死にたくないから帰る」と泣き出した餓鬼の頭を殴ったが。マジで死ねと思う。ヘルメットは頭頂部が真っ二つに割れていた。かなり速度の乗ったバイクが竿立ちになり、投げ出された私は十数メートルを飛行して頭からタッチダウン。この時、横を眺めて「あ、俺は死ぬんだ」と思った。頭から落ちた衝撃で鎖骨を折って、そのまま「ツッ!」っと滑って背中から地面に叩きつけられて、上半身打撲と、左足の骨折。全治3か月の大怪我だった。昼過ぎの大きな事故で、目撃者が多かったのが幸いした。幼児の信号無視が原因だと証言する人が多かった。ただ、目撃者は口を揃えて「死亡事故」だと思ったと言った。10数メートルも投げ出されたライダーが生きてるはずがないと。偶然、通行車両が他にいなかった。一歩間違えば私も跳ねられていたはずである。このあと、友達にバイクの引き上げを頼んだら、警官が現場検証をしていたらしい。バイクはすぐに引き渡してもらえたそうだが、警官が「えっ?彼、生きてんの?」とのたまわったそうだ。惜しいな、全治3か月で済んだんだ。

 救急車で病院に運ばれ、そのまま入院。鎖骨を戻す時の痛みに悶絶した。結局、鎖骨はズレたまま繋がってしまったが。なので私の右腕は左腕よりもちょっと短い。報せを受けた母と養父が私の病室にやってきた。母は開口一番、「ざまぁみろ」と言ってくれた。あと、支払いに行ったわけで、その金もしっかり回収された。私は無一文で病院に置き去りにされた。帰れるような怪我ではないので仕方が無いが、全く金が無いのも困るわけだ。ジーンズのポケットにあった小銭で紙パックのジュースは買えたが、見舞いに来る人なんざいない。当時は携帯電話は夢のアイテム(肩から提げるショルダーホンならあった)であったし、実家に電話をしても誰も出ない。電話の応対も私の役目であったのだ。仕方なしに看護師さん(可愛い子であった)にお願いしたが、最初は断られた。「私の仕事じゃないです」と言うことで。それでも頼むしかない。喉が渇いて仕方が無いのだ。病室のエアコンのせいで乾燥していた。やっと願いが通じて、オレンジジュースを飲めた時は涙が出そうになった。

 山田達が私の事故を知って駆け付けてくれたのは2日後であった。待ち合わせに来ない私を心配して、我が家まで行ってくれたのだ。そこで入院してると知り、見舞いに来てくれたのだ。私は多少デレながらも「金を置いていけ」と山田に言った。もう小銭も尽きていたのだ。それから毎日、山田や他の友達が見舞いに来てくれた。困っているだろうと、「女の人が裸になっている本とか漫画」を差し入れてくれた。とても助かった。まだ他の入院患者(大部屋)と仲良しになっていないので、このような貴重な資料が手に入らなかったのだ。なお、私のこの差し入れ品は、のちに同室患者たちに回した。本なので「回しても無罪」であろう。

 私は早速、その夜の消灯後、数時間待ってから世に言う「一人上手な行為」に及ぶことにした。ライブに行くと言うことで、私は陰嚢にしこたま精液を溜め込んでいたのだ。ライブ後はいつも年上のお姉さんと一緒に「仲良し」をするのが常であったから当たり前である。足の骨を折っているが、脛でも大腿骨でもなく、足の甲を衝撃で折っただけなので、よくテレビで見るような「足を吊るされた状態」ではない。しかも家族が面会に来ないものだから、手続きも自分でやっていたほどだ。背中一面を打撲で傷めているし、鎖骨も折れているので、ミッションは苛烈を極めたが、看護師さんは可愛いし、いい匂いはするしで限界である。長い時間をかけて、私は右手を上にして横になった。鎖骨の痛みで、私のマジックフィンガーの可動域も数センチだ。しかし、それでも男には「やらねばならぬ時がある」ものである。


小さな声で「ツッ・・・いてっ・・・痛い・・・」と呟きながらも、私は大いなる目標に向けて奮闘していた。その声がカーテン越しに漏れていたのだろう。


「大丈夫ですかっ!」

 慌てて隠したが、きっと夜勤のナースルームで「あの馬鹿・・・」と評判になったであろうことは想像に難くない。


交通事故で全治3か月の重傷を負いながら、実母に「ざまぁみろ」と言われた。3週間ほどは入院と言われていたが、事故を知った友人たちが毎日見舞いに来ては騒ぐので、10日間で追い出された。もちろん、帰宅しても何が出来るわけでは無いのだが、母は「部屋の掃除くらいしろ」と、1階の角部屋の掃除を命じた。その部屋はL字型に曲がった使いにくい部屋で、要は物置のようなもの。そこに積んであるのは、母の知人が引っ越す時に「不用品」だと言っていたものを、弟が譲り受けた家具類である。私には1ミクロンも関係ない話だが、弟は掃除する気も無いようで、奴隷の私がその掃除を仰せつかったわけだ。右鎖骨が折れたままなので、荷物を持てるわけもない。しかも普通に「買い物に行ってこい」だの、バスに乗って支払いに行って来いだのと、待遇改善のストライキでもしたい気分であった。しかし、私は無収入となっていたので、バイクの修理費も出せない。家事手伝いで貰うお小遣いだけが頼りであった。アレだけの事故で修理費が5万円ちょっとで済んだのは奇跡だろう。ただ、カウルの下半分は割れたまま廃棄となったが・・・


高校3年生の3学期は暇だ。授業はほとんど無い毎日。ただ期末試験に向けての補習のような授業が続くのみである。欠席すればまた留年と言うよりは、留年2連続は「放校」処分である。事故の怪我が治り切る前に新学期が始まり、登校はバスに乗らなければならない。このバスの定期代も自腹である。自腹と言っても「お小遣い」から出していたので、文句も言えないが。卒業後の進路は決まっていない。そもそも、私は高校を出たら適当に家を出ようかと考えていた。その前に細やかな復讐ぐらいはしておきたいと言うことで、私は「卒業後はぶらぶらと遊んでいる長男」と言う立場を取り続けた。いつだって出ていけるのだ、反抗だってする。家事手伝いも気が向かなければしない。アルバイトはナンボでもあった。時給の割の良い夜勤がメインだ。週に2日ほど警備員のアルバイトをしていた。あとは知人の経営するショップの仕入れを手伝ったりしていた。月に4~5万も稼げれば十分だろう。家を出る資金を貯めつつだったので、普段の遊ぶ金には不足していたが、「ぶらぶらしている石潰し」でありたいと思っていた。少年よ大志を抱けである、初志貫徹である。一応は進学する考えもあったが、母も養父も「家から通える範囲」にこだわっていたので、そんな近いところに私の進みたい学部は無かった。ならば遊んで暮らせばよいのである。就職しないからと言って、殺されはしないだろう。いや、私の場合は危険だとは思うが・・・

 弟は相変わらず塗装工をしていた。多少は真人間に近づいたようで、シンナーを吸って暴れることは無くなっていた。朝起きて仕事に行って、シンナーを吸わないだけで高評価。流石は養父の種である。人生イージーモードであろう。私はと言えば、イージーに生きる道もあった。母の経営するパブの得意客は「某インフラ企業」の人が多く、当然人事権を持つ人もいた。「コネで入社しないか?」と勧められたが蹴った。養父は「某市役所の縁故枠があるから」と言うが、この男に頼ったら確実に給料の半分は取り上げられるだろう。当然蹴った。私は夜勤が多かったので、昼過ぎに起き出してきて、雑草の伸び切った庭を眺めて過ごしていた。夜勤は毎日では無いし、友達は進学したり就職したりで疎遠になっていた。山田だけは相変わらず遊び人のままであったので、週に2日は遊んでいたが、ソレも夜である。高校3年(1年ぶり2回目)の時のカノジョは乳がデカく、クラスメイトからは「乳ゲルゲ」と呼ばれる怪人扱いで、多少上品なあだ名では「デカ乳」とか「デブ」と呼ばれていた。名誉のために書いておくが、カノジョはデブでは無かった。乳がデカいから、何を着ても「乳頭部(乳首)」から真下に服の生地が「ストン」と落ちてしまうので、痩せたウェストを認知されないだけである。顔も可愛く、乳もデカいのに、私はこのカノジョを抱いたことが無い。キスはしたがそれだけだ。いちいちうるさいし。卒業後はほとんど会わなくなっていた。抱く相手ならどうにでもなったし、煩いことを言われないのだから、私のようなナイーブな少年にとっては、年上のお姉さんの方が肌が合った。しかも、お姉さんであるから「上手い」のである。何がって・・・「上手いのである」


業して4か月が過ぎ、夏が終わる頃のこと。庭を眺めながらお茶を飲んでいたら、母が後ろに立った。母なら安心なので無視していた。コレが養父なら、いきなり包丁で刺してきても、私は納得する。その母が言う。


「お小遣いをあげるからここに行って来てくれない?」


その手には3万円がっ!手紙のようなものを言付かり、その「場所の地図」も受け取った。手書きで書かれたその地図は、隣のさらにまた隣の市であった。そこがどんな場所かは分からなかったが、母が言うには「行けば分る」と。そこそこ目立つ建物だろうと勝手に合点して、私はもうウッキウキでバイクに跨った。家を出る資金はいつだって10万円を超えることは無かった。山田と遊ぶと金がかかるのだ。ライブとかにも行くので遠征費もかかる。そこに「3万円のお小遣い」である。バイクで飛ばせば2時間、往復で4時間弱だろう。私は素直に地図通りに国道を走り、途中で左に折れて、最後の角っこを曲がった。


「自衛隊基地」


あのババァ、騙しやがった・・・


広い門の前の広場にバイクを停めて、(コレは単なる届け物なんだ)と自分に言い聞かせていた。手紙を渡さなければお小遣い3万円は無効になる。門の横にある小さなボックスに歩いて行って、「〇〇さんに届け物なんですけど」と言ってみた。その兵隊・・・じゃなかった、隊員さんは満面の笑顔で「話は伺ってます」と、目は笑っていなかったが答えてくれた。このままバックレてやろうかと思ったが、既に後方は自衛隊車両で塞がれている。仕方なしに案内された通りに基地内をバイクで徐行する。2階建ての古いコンクリート製の建物に〇〇さんはいるらしい。建物前にバイクを置いて受付に行くと、ここでも「話は聞いている」とのこと。私はVIPなのだろう。数分後、スーツ姿の〇〇さんが現れた。にこやかだが目は笑っていない。私が背負ったリュックから手紙を出しながら「コレを渡せと言われました」と言おうとしたら、「まぁとにかく中へ行きましょう」


罠だ。


 小汚い応接室でやっと手紙を渡せた。コレで帰れると思ったら、その手紙は入隊同意書だったので、私は人生で3回は訪れるピンチの1回目を迎えることとなった。まだ19歳なので、親の同意書が必要だとか、○○さんは熱弁していたが、「本人の意思」は無関係なのだろうか?無関係なのである。当時の自衛隊は「新卒」等と言う贅沢を言わなかった。随時募集である。自衛隊の人事とでも言うのだろうか?採用係?人狩り?人買い?の業務は「地連」と呼ばれる団体が代行することが多かったような気がする。東京では、上野駅でキョロキョロしていれば、「若い・健康・人語を話せる」と言うだけで、「兄ちゃん、いい身体してるなぁ、かつ丼でも食わないか?」と言う、優しいおじさんにお昼ご飯を奢ってもらった上に「就職」(公務員)の世話までしてくれると言われていた。


罠だ。


「じゃ、コレやってみて?」と渡された問題用紙。コレが自衛隊の入隊試験の問題かぁ。漢字が少ないのは優しさだろうし、問題の難易度が中学生レベルなのも「公務員にしてあげたい」と言う配慮からなのだろう。早い話が、当時は馬鹿でも隊員になれたと言うことだ。私は馬鹿にされてると思った。なんだこの簡単な試験は。模試に比べたら、もう足の指で鉛筆を持ってもいいレベルだ。いや、いっそのことテレパシーで答えてもいいぞ。と言うわけで、答えを間違えるのはプライドが許さないが、マトモに答えを書いたら入隊だろうってことで一計を案じた。解答欄を1個ずらせば零点じゃないか。当然、実行した。採点は即時だそうで、私はその小汚い応接室で知らない天井を見ていた。たかが20問ほどの問題の採点なのに小一時間かかった。


「あ、安元さん。解答が1個ズレてたから直しておいたよ(笑)」(目は真剣)


 本当にありがとうございます、うっかり間違えてしまいましてなんて言うと思ったか?しかし、筆記試験は合格してしまった。では、サッサと帰って母に文句の一つでも言おうかなと思っていたら、「安元さんは運がいい。この基地の担当者がすぐに面接出来るそうだ」と、もう死亡宣告だろう、ソレ。仕方が無い、偉そうな制服に、星の付いた襟章をしたおっさんの質問をかわすことにしよう。


「安元さんは自衛隊についてどんな考えを持っていますか?」的な質問に「軍隊です。憲法違反です」と答えてやった。コレで印象最悪だろう。


「そうですっ!自衛隊は安元さんのような骨のある方を必要としているのです」


コレ、もう不合格になるには、この場で死ぬしかないんじゃないか?


 あと、2~3の質問と言うか雑談を経て面接は終了。手応え十分です、合格出来ます。絶対に嫌なんです。

〇〇さんが「ちょっと遅いけど昼飯を食べようか。食堂の案内もしたいし」と、私はもう合格者なんですね(涙)


案内された食堂はダダっ広くて、屈強なお兄さんたちが飯をかっ込んでいた。明日は我が身である。セルフサービスで、アルミのお盆を持ってバイキング形式であった。コレがリゾートホテルならば心も浮き立つが、自衛隊基地で、並んでいる料理は茶色がメインのカロリー重視って感じである。あ、緑色と思えば、私が嫌いなブロッコリーである。味は悪くないが美味しいってほどでもない。お代わり自由であったが、1食分が多いので困る。食後はまたあの小汚い応接室に連行された。もう帰りたいんですが・・・1時間ほど待てば身体検査まで出来るそうだ。「絶対に逃がさない」と言う意志を感じた。さて、リュックは持ってるし、バイクのキーも持っているので、逃亡するかと思いながら窓からローマじゃなかった、バイクを見る。自衛隊の人が私のバイクの前に立っている。アレは見張りなんだろう。完全に詰んだようだ。薄いインスタントコーヒーを飲みながら、状況を打開する方法を考えたが、死ぬしかないよな・・・


身体検査だって落ちるわけが無いのだ。健康だし、体力には自信があった。しかしここで奇跡が起こる。高校時代の初カノジョ、圭子にうつされた「虫歯」が発見されたのだっ!虫歯は生活習慣病だが、一部は細菌感染でも起こる。その圭子菌のお陰で虫歯が悪化していた。中学卒業までは歯科医とは無縁だった私だが、この時ばかりは圭子にも感謝した。


ありがとう、圭子。


最終的な判断は「虫歯を治してから入隊しなさい」であった。自衛隊としては、入ったばかりの隊員を治療する気は無いらしい。ラッキーである。

 〇〇さんは帰り際に「糧食の缶詰」を沢山くれた。この味に慣れろと言うことだろうか?いや、そこまで意地悪では無いだろう。金の無い自衛隊が「土産で持たせることの出来る精一杯」だったのだろう。飯の缶詰は美味しかった。「鶏おこわや赤飯」、「沢庵の缶詰」は懐かしいほど素朴な味だったし、「ソーセージの缶詰」は、私の人生の中で3本の指に入る美味さだった。このしょっぱいソーセージでビールを飲めば、寿命は縮むだろうが幸せにはなれそうだ。


当然であるが、帰宅して黙っていたら、母が「歯医者に行きなさい」と言ってきた。この人売りが、治療費は喜んで出すらしい。私はとことんバックレた。悪化してるとは言え、痛むことは無いのである。1か月もバックレていたら、〇〇さんから直々にお電話を頂いた。


「入隊してから治せばいいから」


母はその日のうちに、私の荷物をまとめてくれた。家事すら満足にしないくせに、こんな時は手際が良くて感心した。翌朝には薄汚れた白いワンボックスが家の前に到着した。私は「ちょっと荷物を揃えるから」と〇〇さんに伝えて、自室の窓から逃げた。2階の窓から逃げるくらい、何でもないことである。高校時代にはこの窓から帰宅したこともある。そして、この日から私はバイクを家から離れたところに置くようになった。薄汚れた白いワンボックスが来るたびに逃げてはバイクに乗って、馴染みの喫茶店で時間を潰していた。

 しかし、いつまでも逃げているわけにもいかない。このままでは、深夜に木刀で殴られて、縛り上げられた状態で拉致されるに決まっている。私は思った。


「潮時だ、家を出よう」


 幸い、高校時代の先輩の家族が公務員で、借りてはいるが住んでいない「公務員宿舎」があると言う。そこに一時的にでも避難して、アルバイトに励めば自活も出来るだろう。しかも、どうせ住んでいないのだから家賃は要らないとまで言ってくれた。家を出る日。私は19年間だが世話になった家族や、引っ越してきて数年だが夜露を凌げた実家に感謝することもなく、最低限の食器と、米櫃にあるお米を全部と、保存が利く食品をリュックに詰めて家を出た。


19歳の秋、私は家出をした。

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