第5話『地の章』

淡い初恋を残しての「転校」だった。


何を以って「恋」とするかは各人によって違ってくるだろうことは想像がつくが、私は「熱量」だと考えている。「片想い」でも、想いの強さと言う熱量が大きければ「恋」であるし、「何となく好き」レベルでは恋とは呼べないだろう。ソレは人生のどこかに置いてきても構わないモノだろうから。逆に「両想い」ならば、お互いの持つ熱量の和が「熱烈な片想い」を超えても不思議はない。幼馴染との恋は・・・私には想像が付かないが、双子の兄弟の弟が車に跳ねられても「どうにかなる」くらいのレベルかも知れない。

 私の中1時代は周囲に恵まれていたとは言い難い。悪い先輩を付き合いのあるクラスメイトと言う認識であっただろうから、中々に「友達」にはなりにくいし、異性関係も散々であった。2年生になる頃には先輩の「スケ番系の女の子の手ほどき」を受けることぐらいは出来たかもしれないが・・・

そんな私を好きになってくれた女の子が1人いた。今思いだせば「可愛い子」とは言いにくいが、「好いてくれている」と言うだけで嬉しかった。関係は持たなかった。一緒に遊びに行くとか、放課後に教室で話し込むなんてことも無かったが、「お互いに異性として意識している」ことは明白であった。その子の名を「内田さん」としようか。内田さんはかなりの「お嬢様」で、おっとりとした性格であった。そのおっとりした性格に秘めた強さから、私のような問題児でも関係なく接することが出来て、あったかどうかも分からないが、私の「魅力」を見出したのだろう。


転校する日。

明日から冬休みだと言うその年最後の登校日。


内田さんは可愛くラッピングされた「小さな包み」を渡してくれた。家に帰り、ラッピングを解くと、包みの中身は「カセットテープ」であった。当時はカセットテープに「ラジカセ」が中学生の標準装備であった。録音してあったのは「エリーゼのために」のピアノ演奏。勿論、内田んさんが自分で弾いたものだろう。時折つっかえながら片面15分、繰り返し演奏される「エリーゼのために」を内田さんはどんな気持ちで演奏したのだろうか?曲のチョイスに意味はあったのか?今でも謎のままである。そしてこれが私の「初恋」となった。

 転校後も数か月はトシと遊ぶためにその町まで自転車を走らせていたわけだが、3年生のツッパリの抗争に巻き込まれ、強かに腹を蹴り上げられて、私は怖くなった。常識では通用しない人たちだと思った。偶然居合わせた下級生の腹を「トンガリ」で思い切り蹴り上げるとは、恐るべき狂暴性であろう。


私は新たな中学校で新しい「中学生ライフ」を送ることに決めた。


私が決めても周囲が許してはくれなかった時期が続いたが、腹を蹴り上げられて多少は弱っていた私を気にかけてくれる男友達も出来て行ったので結果オーライと言うべきか。

私は中学2年生になっていた。不思議なことに「腹を蹴られたこと」で、私の体の中で「何かが繋がった」のだろうか、運動神経がメキメキと上がっていった。日々のトレーニングの成果もあったのだろうけれど、ソレは「暇潰し」のサイクリングだったので、持久力は上がったが「反射神経」にはあまり寄与しなかったはずだ。筋肉は付いた。山の方まで15kmほど走って(登って)、麓のバス折り返し場まで3時間弱。帰りは降りになるので1時間半ほどの行程だったが、コレを最低週1回、多い週は3回もやっていた。春が過ぎて暑くなる頃には辞めていたが。


筋力が付き、反射神経もかなり良くなった。当然「目立つ」ようになる。ツッパリたちにとっては「面白くない話」であっただろう。相変わらず、毎週毎週、ツッパリたちとの小競り合いは続いていた。いや、小競り合いと言うか、非暴力主義ではあるが「譲らない性格」の私をツッパリたちがフクロにする展開ばかりで、流石に心が折れそうになった。小競り合いのきっかけは、大抵はツッパリたちが私にちょっかいを出すことだった。ソレを偶然、何度も見ていた教師、私の2人目の恩師とでも呼ぼうか。田中先生が言った一言が心に沁みた。


「もっとふてぶてしく生きろ」


多少揶揄されてもいいじゃないかと言う意味だったように思う。

いや、正直に書こうか。私にも多少の「ツッパリとしての矜持」があった。だからこそ、あの「激動の中2時代」を乗り越えることが出来たのだと思う。喧嘩は一切しない(出来ない)わけだが、2年生になってのクラス替えで、ものの見事に「問題学級」に放り込まれた。当時は「番長」なんてモノが存在していて、「副番」と「影番」等と呼ばれる男子もいた。女の子は「聖子ちゃんカット」でスカートが長いと言う外見的特徴があったが、「番を張っていない」けれど「スケ番」と呼ばれていたように思う。のちに「レディース」と呼ばれるようになった「アレ」のことだ。画像検索すれば、昔懐かしいお嬢様たちが勇ましい姿を見せている。


問題児を集めた学級なので、当然のように「番長」がいる。同じクラスにいる。ついでに「副番」もいるし、「影番」(影の実力者)も居たりするから厄介だ。挙句、クラス替え当初は席順が「五十音順」であり、番長と私の「名字」の最初の1文字が同じ。つまり、私の前に「番長様」がお座りになられているわけだ。


話は前後するが、まだ運動神経が開花する前であった。


「転校してきた問題児」と言う扱いであったので、番長も私に目を付けている。早い話がちょっかいを出してくる。前に座っているので、わざと椅子を大きく揺すって私の机にぶつけたり、まあ細かい「嫌がらせ」を繰り返す。私にも「ツッパリとしての矜持」があったので。

立ち上がって、番長の座る椅子に向けて自分の机を蹴り飛ばす。当然、そのまま乱闘になるわけだが、やっぱり手は出せない。本当に空手をやっていて良かったと思う・・・

この調子で始まった中学2年生時代。大怪我をしたことが1回だけある。アレは私も悪いのだが、「いつものように」袋叩きにされて、その時は番長直々に私に馬乗りになっていた。幸い、その体勢では「正拳突き」は出来ない。出来て「フック」(ボクシングの)程度である。


(コイツの顔を横殴りにしたら気持ちいだろうなぁ)


で、やってみた。

番長が吹っ飛んで、そこからはサッカー場である。私がボールである。5~6人に囲まれて蹴られるばかりで、左尺骨(左手小指側)と肋骨を折られた。若さとは怖いモノで、治療もせずに通学していたが、ある日、ようやくできた友達に軽く胸を叩かれて悶絶。そのまま近所の(今でも世話になっている)整形外科に運ばれて骨折発覚。しかも、治療もせずに時間が経っていたので「折れた部分が癒着して治りかけている」状態。今も私の肋骨1本位は盛り上がりがある。骨の2本も折られれば立派な大怪我である(はずだ)

それでも懲りずに私はツッパリたちに反抗していた。「軍鶏」(シャモ)と言う陰惨な遊びがあったのだが、私は「軍鶏」になならなかった。その遊びとは、「いじめられっ子」を2人用意して、トイレの中で闘わせると言うもので、いじめられっ子は「闘えないからいじめに遭ってる」わけで、それでもけしかけるツッパリたちの笑い声が不愉快で。

 乱入しては「お前ら、出ていけ」と軍鶏たちを追い出す。ゲームは終わりだ。続いて、私の袋叩きが始まる。この件で私の「校内での立ち位置」が決まった。「軍鶏」を見るたびに(聞こえるし)乱入してはフクロである。そこで私は思いついたのだ。空手は使えないので喧嘩は出来ないが、「木刀で殴ればいいんじゃないか?」と。


思い立ったが吉日で。早速翌日には「釣り竿」のケースに木刀を入れて校内に持ち込んだ。

 話をちょっと戻したい。私の少年時代の趣味には「釣り」もあった。それなりに道具に凝っていたが、川幅5~6mの小川での「五目釣り」がメインだった。ヤマベやフナ、たまに鯉が釣れる。ちょっと遠征して大きな川で鯉を狙うこともあったが不発に終わる日々。ヘラブナを釣るのが夢だった少年時代は懐かしくも遠い日々になった。その程度の道具を入れるケースでには木刀は入りきらないのだが、極稀に、養父の知人が「シロギス」を釣りに行こうと誘ってくれることがあったので、投げ釣り用の太い竿とリールを持っていた。そのケースになら木刀なんぞは余裕で入るし、校門で登校生をチェックしてる風紀と言うか、存在がヤクザっぽい体育教師にも「コレは釣り竿で、友達の鈴木君に貸す約束をしてるんです」程度の言い訳で持ち込めた。校区が広いので、この程度の「校内でのモノの貸し借り」は容認と言うか黙認されていた。なにせ、校区の広さから、山の方から通ってくる生徒は、冬の積雪のせいで「登校不能」になっていた。当然、「出席扱い」である。仕方がない事情なのだから。今も積雪が酷いと孤立する集落があるほどだ。


さて、上手く持ち込めた木刀だが置き場に困る。釣り竿のケースに入ってると言うことで、白ばっくれて教室の後ろのロッカーに立てかけて置いたのだが、番長のチェックが始まる。あの時代の「番長」と言う存在はある意味「安全装置」でもあった。要は「アメリカ」みたいなものである。圧倒的パワーで治世する存在でもあったのだ。逆らうとフルボッコにされるところもアメリカそっくりだ。私のように「折れない心」を持つ「弱者」にとっては怖い存在であるし、何度も殴られたが、今でも「嫌いにはなれない男」ではある。よく争った「いじめっ子」は今でも嫌いだが、もう町で会ってもお互いに気付かないだろうから問題は無い。


「おい、コレは誰んだぁ?」と大声を上げる番長。すかさず下っ端が「安元んです」とチクる。自己紹介が遅れたが、私の名を「安元」とする。


しばし無言で考え込んだあと、番長は「預かっておく」と言って木刀を自分の机の横に置いた。ソレが無いと困るわけだが、当然、番長としては「大きな抗争」だけは避けたい。自分のクラスに「反抗生徒がいる」と言うだけで「治世の障害」であるのに、木刀まで持ち込んだとあっては、流石に見逃せる範囲を超えている。結局は私が狙っていたツッパリたちを放課後に呼び出して、私との「手打ち」を図ったのだ。以降、お互いに干渉しないと言う「誓い」である。相手のツッパリたちもかなりビビったようで、木刀で打たれたらただでは済まないし、今後もこんなことがあれば身の危険が生じる。今回は「たまたま、私が校内で決着を付けようとした」だけで、放課後の下校時に狙われたらアウトである。

 その後、小競り合いは2回ほどで済んだ。ある意味「番長を殴った男」であるし、木刀の使用も辞さない「危ない子」だと言う認識が広まったお陰でもある。同じクラスの柴田とと言う男子が私を指して「あんなのと一緒にすんなよ」と嘲笑したことがあって、その時は私もご機嫌斜めだったので、近くにあった椅子を投げつけてみた。本当に空手の黒帯があって良かったと思う。「喧嘩」にはならないから。


多分アレが最後だと思うが、私と反目していたツッパリ勢の「下っ端」が朝礼の後、私に故意にぶつかってきて、ニタニタと笑った。既に反目していたグループとは「手打ち」になったことを知らずに。私はこの下っ端にも揶揄されていたが、もう邪魔な後ろ盾はいないわけで、取り敢えずは脅しておこうと思った。簡単なことで、胸ぐらを掴んで持ち上げて「あ?」と言えば良かった。殴る必要すら無い雑魚だったし。

 当時の「ツッパリファッション」と言えば、太いズボンに長い学ランであった。ズボンは「縫い目=タック」のあるものが主流だったが、不合理な校則で「ワンタックまではOKだがツータック以上は禁止」だとか、服装チェックが厳しかった。いや、ある程度は「泳がせておいて」一気に摘発する警察のような真似をしていたが・・・

 最上位が「ボンタン」と呼ばれるニッカポッカっぽいズボン(職人ズボンみたいなモノである)で、次が「土管」と呼ばれていた「超太いストレートズボン」であった。アイロンをかけた状態で太ももの一番上の部分を測って「30cm以上あったら指導」される状態だった。この部分を「ワタリ」と呼んでいたが、服飾で通用する言葉かどうかは知らない。まあ通常は学校指定のズボンを買うわけだし、問題は無いのだが。


田中君が勇気を出したのだ。ツッパリではなく、イラストを嗜む優等生だった田中君が「お洒落心」を発揮して、ツッパリたち憧れの「有名メーカー製」の「ワタリ25cm」のストレートズボン(ワンタック)を購入。見た目が「ちょっと不良っぽいが校則の範囲内」であったので、私のような「中間層」に爆発的に流行った。10人ほどではあったが、全員がそのモデルを買ったほどだ。私はそれでは飽き足らず「ツータック」でもう少し太いズボンと、「中ラン」と呼ばれる「膝上まである学ラン」を羽織っていた。裏地は紫がかったポリエステルで、虎の刺繍入りである。あの学ランは先輩から貰ったものであった。転校先の中学校でね。

 当然だが、そのような服装が赦されるのは「勇者だけ」である。いや、徒党を組んだツッパリ勢でもいいのだが、どこのグループにも入っていない個人では中々出来る服装ではない。普通に「ボンタン狩り」とか「学ラン狩り」もあった時代だ。そして確実に「生活指導部」に目を付けられる。大人の体育教師であるから、逆らえば首が捻じれる勢いでビンタされるし、校則違反の学ランは没収される。


だが不思議なことに、没収されても1~2週間で返してくれる。


「もう着るなよ」(ニヤニヤ)と言う感じで。ある意味「ガス抜き」だったのだろう。多少のことには目を瞑るが、稀に取り締まる。コレを繰り返すことで「ツッパリ予備軍」も炙りだせるわけであるし、一石二鳥。


運動神経抜群で、服装も不良そのもので。

何故か勉強の成績もよい私がモテないわけがあるだろうか?


あるのである。


「安元ぉー、お前随分フォームが良くなったなぁ」とは体育教師の言葉。若干前後するが、あの「トシたちの抗争」に巻き込まれ、腹を蹴り上げられた日から数日。どうにか体育の授業には出られるようになった。2日ほど「見学」したが、鈍痛を残すのみとなれば授業には出る。

 その日は「ハードル走」の授業で、鈍痛がある私は「コンパクトに跳ぶ」ようにしていた。ソレが体育教師の眼に適ったらしい。お褒めの言葉を頂いた上に、「おい、みんなの前でもう1回走れ」と言われた。跳ぶ時に伸ばした脚をサッサと地面に落とすだけなのだが、意外と出来ないらしい。タイムで有利になるそうだ。「跳んでる間」は加速出来ないからだそう。

 中学校2年生。楽しい時期なのかも知れないが、引っ越ししてきたばかりであるが故に、大したイベントも無かった気がするのだ。その頃から私は弟に「遠慮」するようになった。養父の「贔屓の賜物」である。2階建ての借家、5DKのうち、2階は6畳間と4.5畳間。私は遠慮して4.5畳を我が部屋とした。初めて確保出来た「子供部屋」である。ご丁寧に小学校時代からの「勉強机」も運び込まれていたが。


引っ越して間もない頃だったと思う。ある日、帰宅すると何やら焦げ臭い。我が家の2階の2間には「ベランダ」、バルコニーか?がくっ付いていて、どちらの部屋からも出ることが出来た。そのバルコニーが水浸しである。そして2階から聴こえる「工事」の音・・・慌てて家に入ると、弟が煙草の火の不始末で失火させたらしい。既に小学校から呼び戻された弟は応接間でソファに座っていたが、コイツはなんで生きているんだろうと不思議になった。記憶に残らない程度の理由でも、階段から私を突き落とした養父だ。もしも私が失火させたら生きてはいまい・・・なのに弟はゲンコツ2~3発で済んだらしい。私の帰宅を知った養父が2階から降りて来て


「お前も煙草かっ!吸ってるんだろうっ!」と挨拶代わりの腹蹴りと、思わず屈みこんだ後頭部を連打された。この程度で済むなら御の字であるし、私の部屋は養父が「捜索」で全てをひっくり返していたが、幸い、隠してあった煙草は見つかっていなかった。


私の弟は成人するまでに4回の失火を出している。1回目は母と一緒に住んでいたキャバレーの寮の一件だ。そして私が小1の時に、近所の里山の下草を火遊びで燃やして延焼させ、消防車が出る騒ぎになった。で、3回目がこの「煙草の火の不始末」であった。何故か、燃えたその日には床を全部張り替えて、弟は悠々自適。ここまで優遇されるとは、実子のタネ恐るべしである。私は前夫のタネなのでサンドバッグ扱い。なお、4回目の失火は高校を中退して、塗装店で働いている時に、朝飯を作って味噌汁を温めて、そのまま出勤。隣に住む奥様が声をかけてくれて、ボヤで済んだと言う話だ。キッチンから味噌汁鍋の出火で煙が出て、隣に住む人が気付いたレベル。危なく全焼の危機であっただろう。この4回目の失火は私が「家出中」に起こったことなので詳細は知らないが。

 学校生活では、弟が新1年生で入っては来たが、特に相手にしなかった。用も無いし。学校内の抗争も「番長」のお陰で落ち着き始めていた。相変わらず番長は元気で、私を「パシらせて」いたが、同時に護ってもいたわけで、あまり文句も言えない。そう、新しい中学校では「購買」があったのだが、ここの競争がかなり熾烈で。昼休みに廊下のどん詰まりに囲いを作ってパンを売るのだが、普通に買いに行ったのでは、不人気の不味いパンでも買えれば上等であった。近所のベーカリーが出店していたのだが、毎回毎回、パンが足りなくなるのなら、品数だけでも充実させればいいのにと毎回思った。既に「出来の悪そうなよその子枠」に入っていた私は、弁当を作ってもらえるわけでも無く、毎朝応接間に置いてある500円札(当時はまだ紙幣だったのだ)をポケットに仕舞い込んで登校するわけだ。弟もそうだったはずだが、これまた記憶が無い。


「パン買い競争」は激化する一方で。当然、番長も「買い食いチーム」なので、私に買いに行かせる。「パシリ」であるが、これまた狡いことをやったものだ。私も「美味しい人気パン」を喰いたいから、番長のパシリの座に甘んじていた。断るのは簡単だった。私よりもヒエラルキーの低い生徒は沢山いたわけで、その子らに行かせればいいのだ。私がパシらせるんじゃなく、私が断れば番長が「次の子」を指名するだけって話。そして、私と番長の利害は一致しているわけで、要は、4時間目(昼休み直前の時限)に勝手に席替えを敢行して、私は廊下側の席に座る。授業が終わる5分前になったら、壁の下の方にある「狭い扉」(高さ50cmも無い)から抜け出して、フライングでパンを買う。あまり早く行っても売ってくれないので、5分前が限度であった。それでも「4時間目は自習」なんてクラスがあると、既に人だかりが出来ていたりするから油断出来なかった。

 こんな調子で学校生活を送り、友達の誘いで「放送部」に入部もした。何が素晴らしいって、あの退屈な月曜の朝礼中も「放送室」で寛げた。マイクの準備と撤収さえすればあとは自由に出来たものだ。この放送部には卒業まで在籍していた。

 中学校間での「縄張り争い」もあった。本当に「ツッパリ」とは大変な種族だ。隣の校区の中学校とはかなり険悪で、しかも市内で一二を争う「荒れた学校同士」である。制服(学ラン)のまま隣の校区に入るのは危険であった。ツッパリは当然だし、私もそうだったが「ボンタン狩り、学ラン狩り」が横行していた。稀に隣の校区のツッパリが遠征してくることもあった。いわゆる「ちょっとジャンプしてみろ」である。自分たちの校区ではやりにくい「カツアゲ」も、隣の校区ならやりたい放題であったから。当然、狙われるのは私のような「名の知れてない生徒」で、私服で遊んでる子ばかり。カツアゲされかけたことしか無いけれど。上手い具合にカツアゲされそうになってる時に、私と反目しあってたグループが通りかかり、「お、どうしたよ、安元?」と言う感じで助けてくれた。グループを作ってるツッパリたちはお互いに把握し合ってるので、揉めそうになれば回避するのが当然であろう。まるでヤクザの話だが、ヤクザ社会を模倣しているのがツッパリたちである。その後、ヤンキーと呼ばれたり、チーマーと呼ばれたりしたあの不良集団は全部がそうだ。どこぞの〇〇連合みたいな「ヤクザの下部組織」と言うか、第三勢力のような大きなグループは無かったが。

 そしてツッパリの「優しさ」にも感ずるものがある。隣の中学校と雌雄を決すると言う「乱闘騒ぎ」があった。当然、私みたいなハンパ者にも召集がかかるわけだが、「安元は進学組だから事件には巻き込まない」と言うことで、お呼びがかかったのは乱闘が終わる頃だった。決闘場所は近所の神社であったが、副番が御神木に押さえつけて顔面を殴ろうとして、避けられてオウンゴール(拳の骨を砕いた)目立ったところでは、番長が余裕で煙草を吸いながら暴れていた。完全に圧勝であった。


「おー、安元。ちょっとジュース買ってこい」である。お金は?と言ったら「そこら辺にうずくまってる奴の・・・」(皆まで言うな笑)


そして私は栄えある「乱闘の参加者」となれたので、以後の校内での地位は約束された。反目しあってたグループは逃げたので、私と同格にまで下げられた。全く、栄誉もへったくれもない子供の喧嘩だが、当時は結構な騒ぎになったものだ。副番が骨折したと言う断片情報だけで、かなりの「熱い勝負」だったと語り草。


私が「自慰」を憶えた、つまりは「精通」があったのは10歳の頃だ。コレが早いか遅いかはよく分からない。この小説はパソコンを使って書いているので、調べようと思えば簡単だが、私の「経験と考え」を中心に据えて書いている。つまりはググったりはしていないと言うことだ。稀に「記憶の確認」として検索することはあるが、ソレはスマホで事足りる。

「性の知識」としては既に知ってはいたが、「射精したい」と言う欲求が無い精通前では、知識は無意味だった。幼い頃、4歳ぐらいの頃、肛門をいじっていた記憶もある。安心して欲しい、ソレは「性の発達の初期の肛門期」の発露だ。女の子の場合は知らないが。この分野では男児の研究ばかりが進んでいたし、今更幼い女の子を「研究」したら、それだけでお手手が後ろに回りかねない。さりとて、今まで付き合った女性の数は割と多めだと自負してはいるが、「お前、ガキの頃に肛門で遊んだか?」等と聞くほど馬鹿でも無かった。いや、今なら純粋な「知的好奇心」から聞いてみたいとは思うが。

 アレは真夜中のテレビ放送だった。10歳の頃はまだ弟と同じ布団で寝ていたのだが、弟はその日は早い時間に轟沈、スヤスヤと眠っていた。私はぼんやりと某HKのニュース番組の「新体操」の放送を観ていた。ふと気づくとちんこが勃起していたが、特に意味もなくいじっていた。するとどうだろう、背中を這い上がる「寂寥感」に襲われ、恐怖を覚えたが、手は停まらなかった。そのまま精通と相成ったわけだが、この経験がきっかけとなり、私は自慰をすることが好きになった。プレイ方法は、まだ包皮を被った亀頭にプラスチックの筒を被せて小刻みにクルクル回す方法しか知らなかった。精通時はどのようにいじったのか判然としていなかった。


ある日のことである。

まだ弟が起きている時間にトイレでハッスルしていたのだが「紙が無い」ことに気付いた。射精後のことであり、包皮を被った先端は、そのままパンツの中に仕舞うこともならず、弟に紙を持って来てもらった。この時に何かの怪しさを感じたのだろう、弟は「兄ちゃん、何を隠してるんだよぉ!」と言いながら私の下半身をチェック。小さいながらも屹立したちんこを見て驚愕したのだろう、いきなり泣き出して部屋の隅に座り込んだ。


泣きたいのは私の方だが、そこのところは後年理解してくれただろうか?

 しかし、私は「女性に対して射精したい」と言う欲求はあまり無かった。いじって射精すれば満足であったのだ。当時は今ほどメディアも発達していなかったので、「おかず」と言えば拾ったエロ本。大抵は湿っている。そんなエロ本を自分のテリトリーのどこかに隠しておく。自慰をするのは決まって一人の時だった。弟に見られたのが心に傷を付けたのだろう。家ではなく、大空の下、草むらに隠れてする自慰。なんとも贅沢なことではないだろうか?そのような事情もあって、私の初恋は「プラトニックラブ」であったし、「エリーゼのために」のカセットテープが夏の暑さで伸び切って切れた頃には忘れていた。その後も「好きな女子」は出来ても、単に可愛いからお話したいと言う他愛のないものであった。そんな私が初めて「性的な意味でも好きになった女の子」がいる。「サキちゃん」とするが、この子には本当に翻弄されたものだ。私の趣味に「写真」があるが、本気で打ち込んだ理由が「サキちゃんの写真が欲しい」である。学校の遠足での「写真」を買うことは出来なかった。クラスが違えば当たり前だった。


しかし、寝ても覚めても「サキちゃんLove」である。どうしても写真が欲しい。当然だが、性的な意味でも好きな女子なので「おかず」にもしたい。


ここで「放送部」であることが幸い(災い)した。


サキちゃんのクラスと私のクラスは校舎内の階数が違っていた。私は1階でサキちゃんのクラスは4階であった。当然だがクラス同士の交流すら無い。中2の「問題学級」は1階に2クラス、残り6クラスが4階にあった。中3になるとある程度は「学力での振り分け」になるが、コレはまた別の話だ。

 サキちゃんの存在を知ったのは中2の2学期。朝礼の後、下駄箱で見かけるようになって、以後は「いないかどうか探す」ようになったので、「よく見る女の子」になった。探さなきゃ「見ない」のだから、探さなければいいのだが、そこは「恋心」と言うことである。私は今でもこの頃のサキちゃんの夢を見る。多分、私の中でサキちゃんは「抽象化」され、好意的な女性の象徴となったようだ。私の夢に出てくる「女性」には4つのタイプがあり、先ずは「サキちゃん」のように、夢の中で私に好意的に振舞うキャラクター。続いては私の「アニマ」である。この「アニマ」は変幻自在なので、サキちゃんの姿で現れることもあるが、その振る舞いで区別がつくことが多い。異性にまつわる「夢」の判断や解釈の難しさはこう言う部分に多い。夢を見た本人が「アニマか、抽象化されたイメージなのか?」を判断しないと、全く違った解釈にもなり得る。3つ目のタイプはいわゆる「NPC」( non player character )であろう。私が漠然と女性に期待していることとか、「女性が現れる必然性があるシチュエーション」で、サキちゃんその他の類型が「出てこない場合」に現れる。故に私に都合の良い行動をする。例えば夢の中でのセックスとか、デートもする。見た目は好きな女優であったり、「どこかで見たが特定出来ない」外見であるが、可愛いのでどうでもいい。なお、この「NPC」がサキちゃんの姿で現れることも無く「嫁」の姿を借りて現れることも無い。「嫁」とはすなわち、私を守護する者のことだが、明確に「女性人格」であり、いつでも傍に居るので「嫁」と呼んでいる。私の夢に出てくる「嫁」はかなり異質な存在なので判別は容易である。「記憶に残る」と言う点で異質なのだ。通常、夢の内容はすぐに忘れてしまう。「忘れたくない」と思っていても、何かに書き留めておかない限り、1か月もすれば「夢を見たこと自体を忘れる」ものだ。ヒトが夢を見る理由が「記憶の整理」であるから、整理の段階で浮き上がった物は捨てられてしまう。今、先の部分「浮き上がった物云々」と書いた瞬間に少し心がざわめいたが、何が私の心の琴線に触れたのだろうか?とまれ、私の夢に出てくる4類型の話の例外が「渚」と言う少女だが、コレはいつか違うストーリーで話そう。


つまりは、私の人生に大きな「水溜まり」を残した女の子がサキちゃんである。

 天使かと思える可愛さとは裏腹に、サキちゃんは「剣道少女」であった。私は彼女が「怒ったところ」を見たことが無いが、噂で聞いた限りでは、鬼神であったと言う・・・

 中学校時代に2段、高校入学時に3段。このあと、「年齢制限」だったか「昇段した後の期間」の問題で4段になるまでが遠いと言う話を聞いた。武道では、私も空手は初段であったが、初段と2段の差は小さくとも、初段と3段では実力差がトンデモないものだ。なお、少年時代に私も剣道をやってはいたが、段位には遠く、2級止まりであった。すぐに辞めてしまったからであるが、のちにサキちゃんと出会うなら、剣道を続けておけばよかったと後悔しきりである。

 サキちゃんもまた、私と同じ「属性」であったと思う。勉強をしなくてもそこそこの成績を取る。この「属性」は目立たないが稀に見ることがあった。私の高校時代の「恋人」もこの属性であった。早い話が「遊んでる子」なのに成績も不思議と良い。のちの話になるが、サキちゃんは「剣道に打ち込みたい」と言う理由で、自宅から一番近い高校に進学した。そこそこの進学校であったが、剣道を辞めるとか、休むとか言うことも無く、汗まみれになって、それでも余裕で合格していた。いや、きっと努力もしたのだろうけれど。ふと思うのだが、「進学先の決定」に、通学時間を重視する子と言うのはかなり優秀なのではないだろうか?「近い学校」の入学レベルが低いと限ったわけではない、どうかすればかなり上のレベルであったりする。または「ほぼ全入」と言えるくらいの「吹き溜まり」であったりもするが、己が知性に揺るぎが無いことを自覚すればこそ、「高校なんてどこでもいい」と言えるのでは無いだろうか?

 ツッパリたちとの小競り合いもあり、私は学年でもかなりな「有名人」であった。当然、サキちゃんも私のことは知っていたはずだが、クラスのある階が3つも違えば「遠い存在」である。私が空手の有段者であることから「一切の喧嘩をしない」と言う点での評価はあったとは思うが、ただそれだけだ。「喧嘩も出来ないのにツッパってる変な子」扱いとして。一方的な思慕を抱きながら私は中学3年生になった。全クラスが4階に移動したので、廊下でサキちゃんを見ることも増えた。1階の教室では、廊下ですれ違うことも無かったので、私は昼休みになると、ちょっとドキドキしながら廊下をうろついたものだ。当然、一応の和解はしたとは言え、反目し合ってるツッパリグループも同じ階にいる。お互いに「面白くない」わけだが、積極的に争う気は無い。第一、私は進学するので不祥事は避けたい。そして都合の良いことに、「受験のため」と言う理由で空手を辞めることが出来た。このニュースはあっという間に知れ渡り、あのグループも少々は肝を冷やしたようだ。既に書いた通り、運動神経ではかなりの上位にいたわけで、ここで「空手道場に通っていると言うリミッター」が外れたら?


お互いに無傷では済まないだろう。


この「リミッター解除」で、またもやお互いの関係に「不干渉を貫く」と言う原則の強化版が生まれたのはありがたいことだった。ある意味、「馴れ合いの関係」とも言えた。本当の意味での「じゃれ合い」をすることもあった。昨今の学校での「いじめ」をじゃれ合いと称して軽視、若しくは「いじめではなかった」と発言する者がいるが、そんな陰湿な「じゃれ合い」があってたまるかと思う。私はリーゼントのツッパリと「じゃれ合って」いたが、そこには厳然なルールがあった。お互いにダメージを与えないと言うルールがあったのだ。


さて、廊下ですれ違うだけでは話が進まない。秒で過ぎる「逢瀬」である。私は月に1~2回ほど、サキちゃんの通学路で待ち伏せするようになった。今では立派なストーカーと呼ばれる行為であるが、当時は「熱愛・純愛」と呼ばれていたように思う。歌謡曲でも「夕暮れの喫茶店であなたを見たけど女連れ」みたいな歌詞もあったし流行った。サキちゃんの家は若干遠くて、私はその通学路に途中から合流する形であった。なので、通学路の予測は簡単であった。

 やや急な坂を上り切ると「お堂」と小さな公園がある。サキちゃんはそのお堂の前を通る。私は秋の頃からそのお堂の隣にある公園のベンチで煙草を吸うようになった。もちろん私服である。当時流行っていた服装がどんなものだったかは忘れたが、精いっぱいの「お洒落」をしてサキちゃんを待ったものだ。途中、喉が渇くと缶ジュースを買いに行き、数時間はそのお堂の前で過ごした。そんなに何度も待ち伏せをしていたわけではない。多分5回か6回だろう。そして毎回、サキちゃんは坂道を上がって来ることも無く、この待ち伏せ行為も終わった。寒くなったからと言う理由が大きいが・・・


今でもその坂を使うことがある。趣味の写真で「新しいレンズ」を購入すると、その坂道でテスト撮影をするのだ。上手い具合に「解像度チェック」に相応しい景色で、坂の下から上を望めば、これもまた美味い具合に「交通標識」が見える。この標識の文字が読めるかどうかもまたチェック項目になる。


このレンズテストを「サキちゃんチェック」と呼んでいる。


中学校3年生。その2学期は大きな行事が目白押しであった。最大の行事は「修学旅行」である。行き先は思いっきりベタであるが「京都」であった。今なら楽しめるであろう「京都」も、中学生の餓鬼には魅力が無い。「こ、コレが鹿苑寺舎利殿っ!」等とほざく中学生はごく少数であろうし。ちょっと足を伸ばして行った奈良県で鹿を襲うのは楽しかったが。食事もまた「餓鬼には贅沢」なものだった。仲居さんが横につき、「すき焼き」を焼いてくれるのだが、アレは大人になって「知識を食べる俗物」になる頃に食うのが相応しい。早い話が「美味くない」わけだ。

 それよりも、就寝時に行う「枕投げ」や、「どうやったら女子の部屋に遊びに行けるのか?」と言う問題や、煙草を吸う場所を探し求めることの方が重要であった。そして何故かこの時、私は別の女の子を追いかけていた。惚れっぽいと言われればそれまでだが、サキちゃんは「唯一神」として君臨。その難攻不落さから、ちょっと安易な方向に流れたあの頃の自分がちょっと好きだ。この「恋の寄り道」は叶うことも無く終わったわけだが・・・

 京都には「三年坂」と言う坂道がある。あくまでも「俗説」であるが、この坂で転ぶと「3年以内に死ぬ」と言う伝説があり、私たちの班は全員がお互いに転ばし合うと言う信心のカケラも無い遊びに熱中した。通りがかった他の班もツッパリも餌食にした。不思議なことに、全員が生きているわけだが。あまり記憶に残っていない修学旅行が終わり、今度は体育祭である。もうこれが最後の体育祭であるから、ツッパリたちで組織された「応援団」は素晴らしいモノであった。この日だけは着用を認められた「長ラン」に太いズボン、日の丸の鉢巻きに白い手袋。長い鉢巻きのままリレーを走る「カッコいいツッパリ」に黄色い歓声が飛ぶ。中学校の「文化祭」は非常に地味であったので記憶には無いが、私もまた体育祭では割とヒーローであった。運動が得意になっていたから、特に「棒倒し」みたいなゲーム性の高い競技では先頭を切って戦っていた。


そして最後の、そう。


中学校で行われる最後のイベントは「球技大会」であった。競技は少なくて、ソフトボールとバレーボールと「ミニサッカー」であった。当時から練習相手になっていた「野球部の佐藤」のお陰で、ソフトボールはもう遊びであった、あくびが出た。佐藤は野球少年で、校内ではもう練習相手がいないってほどの練度であったから、私と練習することを好んだ。キャッチボールは80mの遠投になるし、バッティング練習では、信頼してるとは言え、背後にバックネットを背負った状態で「投球」するのは怖いモノであった。7~8mの距離から割と本気で投げて、ソレを打ち返されるわけで、ピッチャーライナーだと洒落にならない・・・


ミニサッカーの試合中に土砂降りになった。ロングパスで滞空時間が長いサッカーボールが綺麗に洗われるほどの土砂降り。私はストライカー枠で、この時も体育教師に「安元は上手くなるぞ」とお墨付きを頂いていたほどだ。どんな体勢からでも安定した体軸でシュートを放てる。そのフォームが綺麗なんだそうだ。


(なお、球技大会でのゴール数は2点であったが)


そんな学校生活の中で、サキちゃんはオアシスであった。見てるだけで心がときめく。1日にサキちゃんを見ることが出来るのは数分もあれば上出来であったので、写真が欲しいと思うのは当然の成り行きであろう。面と向かって「写真を撮らせて欲しい」とは言えなかった。確実に、あのツッパリたちに揶揄するネタを提供することになる。と言うことで、隠し撮りである、盗撮である。恋心から行う盗撮は犯罪である。今はストーカー規制法があり、この「恋愛感情を理由に、逸脱した行為を行う」と罰せられるが、そこは中学生のやることと言うことでお目こぼし願いたい。

 手持ちの機材では撮影しにくい。盗撮なので「遠くから撮影する必要がある」わけだ。当時持っていたレンズは「標準ズーム」と呼ばれる、一般的なスナップや集合写真に向いたレンズで、遠くのサキちゃんを撮影するには望遠具合が足りない。お小遣いを貯めて買った望遠ズームは型落ちのシグマと言うメーカーの100~200mmであった。当時のサードパーティ・レンズは「安かろう悪かろう」であったが、モデルチェンジで性能は向上。型落ち品が安く買えた。200mmと言う望遠でもやっぱり遠い・・・


撮影場所は「放送室」である。そう、私は卒業するまでこの「放送部」に在籍していたのだ。校舎1階の真ん中に位置する放送室は、校庭で遊ぶ生徒たちを撮影するのに最適であった。更に、同じ放送部の「吉野」と言う男子もまた好きな女子がいて、写真が欲しいと言う点で私との一致を見たわけだ。


望遠レンズには「テレコンバーター」と言うアクセサリーがある。コレをレンズとボディの間に挟むと、焦点距離(望遠の倍率)が2倍になると言う「魔法のアイテム」であった。私はこの「テレコンバーター」を買い求めるために、県内有数の繁華街のカメラ量販店にまで行った。ここでちょっとしたアクシデントが起こった。いわゆる「キャッチセールス」の男に捕まったのだ。その男が売っていたのは「使用条件が厳しいが、半年は映画が見放題のチケットブック」であった。突っ張っていたと言ってもまだ子供である。騙すのは簡単であっただろう。首尾よく「チケットブック」を1万円ほどで売りつけられた。ここで私は泣いてしまったのだ。情けないことに、「テレコンバーターを買う予算を取られた」と泣き出してしまった。ま、この手の商売をしてる男であるから、情けのなの字もありゃしないわけだが、流石に可哀そうになったのか、お金を返してくれた。本当に良かった。

 当時は大型量販店が乱立していた。今も残っているのは「ヨドバシカメラ」ぐらいであるが、県内有数の繁華街には他にも「サクラヤ」とか「キムラ」と言う店も派手な宣伝で人気を集めていた。あの頃は店頭で「値切る」のが当たり前であった。そもそも、値札が「定価表示」である。店員さんを見つけて、「これはいくらになるんですか?」と言う所から交渉が始まる。当時の店員さんの事情は分からないが、かなりの「裁量権」があったはずだ。例えば、定価1万円の品を千円で売ってもいいが、最終的にその日の割引率を4割引きに収める等の。なので、値切るテクニック次第で価格が変わる。私がよく使ったのは、ギリギリ値引きと言う金額を引き出して、決め台詞。


「あと500円負けてくれたらご飯を食べて帰れるんだけどなぁ」とか「帰りのバス代、あるといいんだけどなぁ」である。店員さんは苦笑しながら値引いてくれることが多かった(可愛くない中学・高校生である)

 最終兵器とも言える「テレコンバーター」を入手した。吉野君も同じメーカーのカメラを使っていたので、貸してあげることも出来る。しかしここで問題が生じた。テレコンバーターは確かに望遠を2倍に出来るのだが、F値も2倍になるのだ。ズームで200mmでは開放F値(見える明るさ)が暗めのF5.6であったから、テレコンバーターで400mmにまで引っ張ると、開放でもF値は11になる。コレはかなり暗いどころか、晴れていないと何も見えないほどの暗さであった。そして、晴れた日でもF11ではシャッター速度は驚くほど遅くなった。当時はフィルムしかなく、ISO感度も400が限界であった。今のデジタルでは考えられないことだが、当時は工夫で乗り切るしかなかったのだ。今のデジタルではISO感度が50万とか言う馬鹿みたいな数字になってるし、「手振れ補正」もある。そんなものは無い時代。晴れた日に、校庭の反対側にいるサキちゃんをどうにか撮影しても、ピントが合ってないことばかりが続いた。どうにか撮影に成功したのは2学期も終わる頃であった。胸元でバレーボールを抱えたサキちゃんの写真は宝物になった。

 私は中学3年生の2学期を懸命に遊んだ。


本気で遊び倒した。


中2の頃の話であるから、毎日せっせとツッパリたちと緊張感を与えあっていた。そんな毎日でも中間試験と期末試験はやって来る。私は「勉強をしない主義」であったので、ツッパリたちとやり合う余裕はあった。そんな中、私の「班」が期末テストの「予想問題」を作る順番が回ってきた。授業の一環であろうこの「予想問題作り」はクラスの班ごとに順番に回ってくるのだ。私は適当に「生物」の予想問題を作る役を担うことになった。正直に言えば、私が「国語」の予想問題を作ると、難し過ぎてお手上げとなる生徒が続出するので敢えての「生物」であった。

 そしてこの予想問題が一波乱を起こす。実際のテストと私の作った問題が80%以上一致したのだ。当然、生物を教える教師に呼び出しを喰らうことになった。「お前、俺が作った問題を盗んだだろう?」と言うわけだ。そんなことはしていない。私は単に(自分がテストに出すならこんな問題だろう)と予想しただけだ。そもそも、その教師がテスト問題を作る前に「予想問題」はコピーされてクラスメイトに配布されていた。結局、疑いは晴れたが、私のクラスの「生物の平均点」が他のクラスを大きく上回る珍事にはなった。


「勉強はしない主義」とは言葉通りで、家で教科書を開くのは新学年になって「新しい教科書」を貰った日と、その翌日だけだった。私は重度の「活字中毒」であったから、手当たり次第に色々と読んでいた。小学生時代に「横溝正史」の推理小説まで読み、「ノストラダムスの大予言」なんぞも、養父の趣味で買ったものがあったので、あっさりと読破した。故に、私は新学年の1日目と2日目ぐらいで「1年分の予習」を済ませていたことになる。先日までは中学2年生で、授業の内容は理解しているから、その続きである3年生の教科書だって理解出来る。分からない部分があっても、私は読み進む。その「分からない部分」の答えは、得てして「先の方に書いてある」ものだ。

 この習慣は高校卒業まで続いた。その後は進学しなかったので、高校時代で私の学校生活は終わったわけだが。


3年生になって空手を辞めた。あの憂鬱な時間はもう来ない。「受験勉強のため」と言う名目で辞めたわけだが、当然勉強はしなかった。遊びに出るようになったのだ。「〇〇君の家に集まって勉強してくる」と言う具合に。勿論〇〇君も勉強はしないが、ほぼトップクラスの成績の男子であったから、昼間は私たちとバドミントンや、川遊びをしていた。彼は夜に数時間だけ勉強するんだと言ってはいたが。

 ある日、高校受験の模試があった。かなりレベルの高い模試で、わが校はほぼ壊滅的な成績を修める生徒が続出。私も軽く自信を失う点数を頂いたが、とある「化学の問題」でまたもや職員室に呼び出された。

「安元、お前、あの問題をどうやって解いたんだ?」だそうで。つまり、この化学の教師も間違えたと言うことだ。難しい問題では無かった。ただ、3つの単位系が絡み合って、挙句引っかけ問題のようになっていただけだ。私の得意科目は「国語と科学・化学・生物・英語」であったから、自信を失う点数でも校内ではかなりの上位ではあった。コレがまたのちに災厄を招くわけだが。

 2学期の終わりのこと。サキちゃんが私のクラスまでやって来て、私に手招きをする。この時は本当にドキドキした。「会話が出来る」と言うだけで、天にも昇る気持であった。そしてサキちゃんは私に残酷な宣告をした。


「ねえ、安元。この子がさ、安元のこと好きだって言うから、取り敢えずは交換日記をしてあげてくれない?」

惚れた相手に「他の女の子を紹介される」ことほど屈辱的なことも無いだろう。とは言え、ここで跳ねのけて悪いイメージを持たれるのも嫌だし、サキちゃんの後ろで「可愛いノート」を持っている女子もそこそこに可愛かった。「交換日記から始まる交際」と言うことなので、デートなどをするのは先の話であろうし、その頃には卒業することになっているのではないだろうか?

 そんな感じで始まった「交換日記」は1か月ほどで終わってしまったが。私が面倒くさくなってきたこともあるし、何よりも同じクラスの「スケバン」がその交換日記女子にプレッシャーをかけたことが大きな理由であろう。3年生になって、クラス替えは「成績を考慮」したものになっていたが、少しばかり「ツッパリやらスケバン」が多い学年だったので、成績上位を集めたクラスにも「ツッパリやらスケバン」が配備されていた。徒党を組まないようにかなり配慮されていたので、哀れスケバンたちはクラスで孤立することとなったのだが・・・私が遊び相手になってしまった。授業は退屈で、寝ていても、指名されれば黒板を眺めて正解を答えることは造作もなかったから、スケバンと授業中に遊ぶのも余裕であった。いや、割と好きな時間だった。このスケバンを藤堂さんと呼ぶが、見事なまでの落ちこぼれで、「地頭は悪くない」のに、スケバンをやってるうちに授業についていけなくなったクチであった。聖子ちゃんカットの茶髪は完全な校則違反だったが、3年生になると「生活指導」もかなり緩く、雑になっていたから、藤堂さんはいつでも茶髪であった。そしてかなり可愛かった。校内のヒエラルキー的な立ち位置は私と同じであった。彼女にもそれなりの葛藤や争いはあったのだろうけれど、「フリーのツッパリ」と言うどこのグループにも属さない「スケバン」であった。そんな藤堂さんが偶然にも私の後ろに座ることとなったので、授業中は椅子に横座りして藤堂さんと駄弁ったり遊んだりしていた。あの遊びの正式名称は知らないが、お互いの両拳をくっつけ合って、数字を言いながら親指を立てたり立てなかったりする遊び。例えば「2」と言って指を立てるとか立てないとかする。立った親指の数が合計で2本なら勝ちである。間違えていれば「あいこ」と言うことで遊びは続く・・・

 スケバンとは言え、可愛い女子である。私は余計なモノまで勃てたりしていたが、関係を持つことは無かった、相変わらずの「朴念仁ぶり」であった。正直、お願いすれば私の童貞を奪ってくれたであろう。藤堂さんは「経験済み」だったし、まあその「関係を持つことに抵抗感をあまり持たない子」だったから。


そして藤堂さんは私のことが好きだった。通学路が反対方向とまでは言わないが、私と歩いていればかなりの遠回りとなるのに、週に1回は私の後ろを着いてきて、小石を投げたりからかったりして笑っていた。だから、交換日記が許せなかったのだろう。勿論、交換日記の相手は普通の生徒だったので、ちょっと脅かせば諦める。私からの返事の日記も隔日から2日おきになったりしていたし。この時点で「日記じゃなくてお話しようよ」となれば、甘くほろ苦い青春の1ページ目が始ったのだが。

 このように中3の2学期を全力で遊び、授業態度も最悪の一言である。「中3の2学期」の評価が高校進学時の「内申書」に直結することを忘れていたと言うか、テストで点数さえ取っていれば大丈夫だと高をくくっていた。勿論、大間違いであった。当時、県立高校の進学は「学校群制度」(グループ制)と言って、地域内で10~15校から選ばなければならなかった。県立と言っても、上は偏差値70超えから、下は偏差値40ほどまでと、かなり幅があった。私立では上は「神域」レベルの偏差値から、下は「名前が書ければ、あとは入学金を払うだけ」の高校もあった。ちなみに藤堂さんは県立に進んで、卒業後すぐに結婚したようだ。


県立高校の選考基準は「入試の点数+内申書」であった。そしてコレは今でも悪弊だと思うが、「教師の評価は担当クラスの生徒の何割を県立に放り込めたか?」と言うものであった。この憎むべき基準のせいで、私の内申書は「鬼も落涙するほど」の低評価になった。中3の2学期だけは「5段階評価の内訳」が決まっていたのだ。例えば「5を貰えるのは上位1割、4を貰えるのは2割」と言った具合に。ここである程度の「成績操作」が行われる。テストの点数が多少悪くても「内申書で下駄を履かせる」わけだ。入試で点数が取れなくても「内申書」の数字との合算で合格できると言うからくり。逆に、入試で点数が取れるなら、内申書を悪くすることで調整して、それなりに優秀な子でも「中堅校」で妥協させるのだ。

 私の友達たちは上位校を狙っていた。私も当然そうだと思っていたらしい。ある日の会話で「安元は内申書はどんな感じよ?」と質問され、「平均が2を下回った・・・」と答えた。「はぁ?お前ソレヤバいじゃんかっ!」と言うことで、友達たちには衝撃が走ったようだ。「上位校に行くはずの友達」の内申書が地を這う数字だと知ればそうであろう。そして私は「学習塾」には通っていなかった。2か月ほど、「寺子屋」みたいな塾(自習がメインで、疑問点があれば指導してくれる小規模な塾)には通ったが、教科書レベルならクリア出来ていたので無意味だった。私立高を目指す子たちはこんな「寺子屋」にはいなかった。わざわざ市外にある大きな「学習塾」まで電車で通っていたものだ。


我が家の「教育方針」がまた、酷かった。私が選択出来る「学校群」のトップ校は偏差値70あれば入れた。実際は「内申書」で下駄を履かせるのが通常であったから、本当の「秀才たち」はテストの高得点に加えて、内申書の援軍まで動員出来た。多分、入試での偏差値は65もあれば入れたのではないだろうか?

 しかし我が家は違った。「学校群の中のトップではダメだ、隣の市にはもっと上の県立高がある。越境入学でそこに行け」と養父に命じられていた。私は聞く耳を持たなかったが、アレは半ば本気で言っていた。このご託宣を頂いたのが中3になったばかりの時であった。普通なら、それなりに勉学に励んでいるべきであろう。私も渋々、(夏からは本気を出そう)と思い、学費関係はやはり無制限に出してくれることをいいことに、「参考書代」と称して小遣いをせしめたり、先に書いた「寺子屋」に通うことで「勉強する意思」を示したりしていた。当然、夏休みは勉強一色になるはずであったのだ。当時はネットなどは無かったので、教師の勧めや、親同士のネットワークで「あの夏期講座は凄い」と言われていた講座に申し込んだ。馬鹿らしいぐらい高額であった。講座は市内の「私立高校」の教室を借り切って行われていた。私は初日からまた外の風景を眺める羽目になったが、3日目以降の講座に行くことは無かった。


養父が傷害罪で拘置所に入ったのだ。


 大事な夏である。それなのに、「上位校以外は認めない」と仰ったご本人が拘置所行き。なお、出てきた瞬間にお礼参りにって、大怪我をして、挙句は「執行猶予中の傷害罪」と言うことで、県内では有数の「凶悪犯が多い刑務所」にエリート入所してくれた。なんでも、ビール瓶で殴り合って、相手に怪我を負わせたが、返り討ちに近い状態でご本人も腹を裂かれて入院。この「入院期間」も懲役期間に算入されたようで、翌年の2月には出てきた。そんな「喧嘩両成敗」みたいな大岡裁きはしないで、懲役10年でも20年でも喰らわせてくれていたら、私は検察庁に足を向けて寝られないことになったのに・・・

 なお、この事件をきっかけに、養父はキャバレーの運営会社を辞め、母もホステスを辞めて独立した。折良く、養父は先妻との離婚がやっと成立して、経済的にかなり楽にもなった。

 養父が拘置所に入った翌日、つまりは私の夏期講座が始まったばかりの朝。母は私に「拘置所まで着替えを届けてきなさい」と命じた。そして、この後も1日おきには差し入れや洗濯物の回収や配達をやらされた。何度も言うが、高校受験のための夏期講座をほったらかして拘置所通いをさせられたのだ。私には弟がいる。学力はかなり芳しくないが、少なくとも、バスと電車を乗り継いで拘置所に行くぐらいは余裕である。なのに、なぜか私を拘置所に行かせる。弟は夏休みを謳歌していただけで、何もしていない。

 拘置が終わり、出てきたその足でお礼参りに行って大怪我。今度は病院まで見舞いやら差し入れやら・・・からの刑務所である。流石に刑務所に行ったのは1回だけだが、お礼の一つもなかった。ちょっと笑えたのが、養父が刑務所から送ってきた手紙である。当然、書いた内容は検閲を受けるわけだが、そこには「事件の反省の弁」がしたためられており、それでもあちこちが黒塗りされた「菊だか桜の透かし」が入った便箋であった。立派なもんだと思った。

 本当に私は実家のサンドバッグ扱いだったのだろう。弟は煙草の火の不始末で自室を焼失させても生きていたのに、私はアレである。こんな、本人が悪い拘置所、刑務所暮らしの「お使い」までも、大事な中3の夏を潰してまで私にやらせる。

 お陰様で、進学先に関してうるさく言われることは無くなったが、それでも「普通の高校」は許さないし、県立高校の「単願」で、落ちたら知り合いの商いの丁稚奉公に出すと脅されていた。勿論、実際の入試は単願であった。私立高校の入試費用すら出す気は無いと言っていたから。弟は県立と、名前を書ければ受かるレベルの私立の併願であったが。


あの弟の「入試騒動」は家族総出であった。私立の合格発表が先にあって、当然合格していた。そして「入学金の納入期限」が県立高校の合格発表日である。つまり、サッサと入学金を入れないと「高校浪人」(と言うか就職)になるので、私立高校としては「入学金目当て」と言われないギリギリの納入期限を設定していたわけだ。母はその私立校に入学金を持って行ったが、入金を遅らせていた。弟は県立の合格発表を見に行き、結果を我が家に電話してくる。私がその電話を受ける役だ。母は「そろそろ合格か不合格か分かっただろう」と言う時間に電話してくる。私は弟からの電話を受けている。合格なら入学金は払わない(返金されないから)、県立を落ちたなら入学金を払って、弟は「名前を書けるお友達」と3年間を過ごすこととなる(なお男子校)

 初手で躓いたのが原因だったのだが。つまり、弟は1回、県立を落ちたのだが「二次募集枠」でどうにか合格した。コレが「家族総出で入学金云々」の騒動のもとだ。二次募集の合否発表は一般発表から数日遅れであった。弟は「兄貴が毎日勉強を教えてくれたお陰だった」とのちに語ったが、そんな記憶はない。弟が言うのだから私が教えたのだろうけれど、綺麗さっぱり忘れている。のちに、とある女子高生(同い年)の子にも私が勉強を教えたそうだが、やっぱり憶えていない。その女の子は数年後に恩返しに来たが、それはまた別の話。


中3時代は大きな波乱も無く過ぎたように思う。私の内申書が酷いことになったとか、サキちゃんに「文通彼女」を紹介されたとか、山葵のように「ピリっと」した刺激はあったし、2学期の終業式で番長が体育教師とタイマンを張って惨敗した挙句、その場で死体蹴りまでされたとか。普通に日々は過ぎて行った。

 当時、まだ養父の仕事の関係とか親戚が我が家に年始挨拶に来ていた。かなりの数のお客さんが来るので、「お年玉」もかなりの額になった。それまではほぼ全てを召し上げられていたわけだが、この年だけは違っていた。思うに、年始挨拶で伯父や伯母の家に行けば、私の母もお年玉をあげなくてはならず、まだ養父の離婚が成立していない以上、家計は火の車で、子供のお年玉を取り上げて、その場でポチ袋を換えて、従姉弟に渡したり、それこそ生活費にも回していたのだろう。召し上げられなかったお年玉の総額は13万円にもなっていた。かなり凄い金額だったと思うのだが、この13万円も半年で使い切ったと思う。中3の時期はまだしも、高校入学でかなり派手にお金を使った。主にファッション関係と飲食代だが・・・

 中3の3学期に入っても、私は志望校を決めていなかった。1月中には決めないと願書の提出日に間に合わないのだが、私はサキちゃんと同じ高校に行くと決めていたから、サキちゃんの志望校が判明するまでは志望校を決めることが出来なかったのだ。サキちゃんと同じ高校に進学するのは容易いと考えてもいた。彼女は「剣道少女」である。いわば「体育系」であるから、流石に県立高校でトップレベルの高校には行けないだろう。良くて偏差値で言えば50程度の高校だと思っていた。ならば余裕であった。と言うことで、サキちゃんのクラスの男子からの情報では「H高校」(県立)に行くらしい。私もそのH高校に願書を出しに行くことにした。驚くことに、H高校とは、「トップグループ」ではないが、中堅校よりも上の学校であった。毎年、数人は東大の合格者が出るレベルである。サキちゃんは可愛いうえに頭も良かった。

願書の入った封筒を持って、クラスメイト達と一緒にH高校に行ったのだが、何故かサキちゃんの姿が無い。まさか私立高校ではないだろう・・・いやあり得ない話ではないが。と言うわけで私は中学校に帰った時に、他の生徒の話を聞いて回った。「倉田ぁ?ああ、アイツはF高校に願書を出したぞ」だそうだ。全くもって迷惑な話である。直前で志望校を変更するなど、受験生の心得がなっていないと思った。F高校は当初の噂であったH高校の1つ下のランクであった。ランクを下げた理由は、学力ではなく、単に「自宅から近いと剣道の練習をする時間が多く取れる」と言うことらしい。確かにH高校まで通うにはバス電車を乗り継ぐ必要があったが、F高校なら自転車通学も可能であった。もっと近い県立もあったが、そこは評判の悪い高校だったので避けたらしい。仮にF高校がランクアップを要しても、サキちゃんはF高校を受験していただろう。


困ったことになった。


普通ならそう思うだろう。願書を出した高校が違うのだから。しかし私は特に困ることも無かった。簡単である、「願書を差し替えればいい」だけのことだった。養父の教育方針はご自身の刑務所暮らしで効力をかなり削がれていた。トップ校である必要は無いから、私はそこそこにレベルの高いH高校を選択出来た。幸い、サキちゃんも願書を出すはずだった高校である。そこから1つだけランキング順位を1つ下げた高校に変更することにどんな支障があるだろうか?

 私は、その日に帰宅した後。養父と母が仕事に出た後、寝室に忍び込んで印鑑をちょっと借りて、勝手に願書の差し替え届を制作した。ラジオ体操のスタンプカードの偽造よりも簡単だった。そう言えばあの忌まわしい、夏休みの課題の「朝のラジオ体操に参加」は本当に嫌だった。


もうこれで心配するべきことは無くなった。あとはサキちゃんが合格してくれることを祈るのみである。県立高校の「第一志望」を落ちたら、二次募集のある高校を探して、そこに行くしかないから。私は合格するので、二次募集に滑り込むことは不可能である。まあ、打つ手が無いこともないが・・・

 実は、もしも内申書が「普通レベル」であったなら、私の進学先はかなりの数であった。国公立付属の推薦も取れたし、体育系で有名な私立の推薦も取れた。職員室でしみじみと「お前は内申さえ良ければなぁ・・・」と担任に言われたものだ。その担任が鬼も落涙する「1」を付けてくれたのだが。そして、合格基準で言えば、私には内申書の点数は不要であった。コレはのちに判明したことだが、例えば、合格基準では「内申点がコレだけなら、入試で何点以上で合格」と言う目安が公開されていた。私の内申点は地面すれすれを飛んでいるようなものだったが、テストの得点が高ければトップ校にも合格できた。内申点+入試の点数だけが基準であるから、例えば500点が必要ならば、内申で150点、入試で350点を取ればいい。私のような内申点、例えば内申で10点でも、入試で490点を取ればいいだけだ。当時の県立では5教科で満点は500点設定であった。実際は点数の幅があって、私がトップ校に合格するためには400点あれば良かった。完全に地に落ちた内申点ではなかったわけだから。この点で教師の謀略があったのだろう。つまり「安元は350点は取るだろうから、この内申点でちょうど真ん中レベルの高校には合格するだろう」と言うことだ。こんな状態だから、F高校に願書を差し替えることは歓迎された。H高校では「高望みだ」と言われかねなかったわけであるから。


私は3学期になってからは「夜更かし」するようになった。毎日スヤスヤと眠っていては、受験生の自覚が足りないと殴られそうだからだ。だから毎晩、養父と母が帰宅する時間までは起きていた。起きていただけである。養父の車の音で帰ってきたのが分かるから、そのあと1時間ほど余裕を持ってから寝ていた。大体は深夜の2時までだった。1時間ほどの余裕をみていたのは、たまに母が夜食を作って持って来てくれるからだ。「洋二、頑張ってるねぇ」と言いながら。

 全く頑張っていない。何なら車の音を聞くまでは漫画を読んでいたし、ラジオの深夜放送で中島みゆきの馬鹿話に笑っていただけだ。机の上にある教科書も参考書も触っていない。高校入試の前に「大学の共通一次試験」(今のセンター試験?)の問題と答えを新聞で見た。その問題で平均点を上回っていたので、完全に「天狗状態」であった。


 入試の朝。


珍しく母が起きてきた。普段は水商売で夜が遅いので、絶対に起きてこないわけだが、この日は違った。驚くことに「弁当」まで作ってあったのだ。母は私に朝ご飯は何がいい?と訊いてきた。面倒だったので「味噌汁に卵を落として」とだけ伝えた。もとより朝飯を食うつもりは無かったし、前日には受験場所までの交通費と昼飯代を受け取っていた。それが「弁当」である。どう考えても雨が降るような僥倖であるが、雪が降っていた。本当に雪が降っていた。雪が降っていたのである。「コレだけでいいの?」と母が差し出す味噌汁をすすりながら、(コレは早めに家を出ないと遅刻するなぁ)と思っていた。そして、家から比較的近い高校で、自転車通学だって可能なのに、バスに乗ったお陰で渋滞に巻き込まれ、途中でバスを降りて、他の受験生仲間と一緒に走る羽目になった。まだ舗装もされていない川沿いの道を走る中学生。なお、サキちゃんは親の車で余裕の到着。バスが通らない「裏道」を使えばすぐに着く距離であった。私たちは走ったお陰で試験開始15分前に到着。ちなみにこの雪のせいで、距離のある上位校を受験した友達が二人、落ちた。

 息を整えながら指定された教室に入る。完全に殺気立っていた。2/3の生徒は席に着いて参考書や教科書を睨んでいる。窓際に立つ生徒も参考書やらノートに目を落としている。私と言えば、走ったせいで中身が気になる弁当箱を軽く揺すって、中身の位置を戻そうとしていた。そもそも、カバンの中には教科書も参考書も入っていないから仕方が無いことだ。試験開始5分前、私は筆箱の中身を確認した。シャーペンは禁止だったので、鉛筆の芯が折れていないか?消しゴムはあるか?そして試験官が重々しく告げる。「今から問題と解答用紙を配る。合図があるまで問題を開かないように」だそうだ。問題は薄い冊子になっていた。解答用紙はシンプルなモノだった。問題の半分がマークシート形式で、残り半分は教科によって解答を記入する欄が違っていた程度だ。問題は前から回ってくるのではなく、試験官が一人ずつに、受験票を確認しながら配布した。「始め!」の合図で教室中に紙をめくる音が満ちた。私もサッサと開いて最後まで問題だけを見た。ちょろいなと思った。実際、答えを記入し終わっても残り時間はまだ30分以上はある。私は小学校からこの受験に至るまで、記入した答えを観なおして確認したことが無い。なので、やることが無いので寝ることにした。試験官も「寝るな」とは言っていなかったし。一応は緊張で睡眠不足だったのでよく眠れた。午前中に3教科、午後に2教科のスケジュールで、中休憩は1時間半あった。休憩時間もやはり殺気立っている。この期に及んでどうなるモノでは無いと思うのだが、参考書や教科書にノート・・・飯を食いながらである。私は言えば、弁当箱の中を見て感動していた。数年ぶりの弁当と言うだけで感動ものだが、なんと驚くことに「おかず」がきちんと並べて入っていたのだ。内容はよく憶えていないが、唐揚げと卵焼きは美味かった。唐揚げは母が経営するパブの残り物であったが。私は「今日は特別な日なのか?」と言う疑問を持ちつつも、ありがたく食べることにした。どうせ高校に入学しても「500円玉」が支給されるだけだろうし。きっとこれが私の人生で最後の「母の手作り弁当」であろう。そうそう、5百円札は駆逐され、高校受験時には硬貨になっていた。

 5教科のテスト。毎時間、私は持ち時間の後半を寝て過ごした。割と眠れるものである。静かだし。そして試験の全行程が終わる。私はサッサと鞄を持って帰ることにした。多くの他校の生徒は、テストの答え合わせみたいなことに勤しんでいたが、そんなことで結果は変わらないと知ってるのだろうか?あとは発表日に自分の受験番号が掲示板にあることを祈ればいいのに。

 入学後、たまたま同じ教室で受験していた女子に「あ、コイツは落ちたなと思ってたよ」と言われた。諦めモードで寝てると思ったらしい。単に暇だったから寝てただけである。

 一旦、中学校に帰る。担任に報告する義務があるからであるが、私としては報告することも無い。「よく眠れました」と言うわけにはいかないので、「手ごたえはあります」ぐらいは言ったであろう。その程度の処世術は身についていた。サキちゃんは、廊下で友達と両手をつないで「どうしよう、どうしよう」と言い合っていたが、まぁ合格だろうなとは思った。たまに笑みを浮かべていたから。友達の方は終始暗めの雰囲気であったが。

 受験が終われば春休み中である。もう本当にやることが無い。遊びに行くにはまだ寒い。家に居たってなにもいいことは無い。受験はどうだった?なんて質問さえなかった。四畳半に敷きっぱなしの布団の上でゴロゴロするとか、弟がいない隙に自慰に励むことぐらいは出来た。そして迎えた「合格発表の日」である。またもや母が起きてきた。「大丈夫かい?」と。ソレはこっちのセリフである。入学金とか制服代とか、3日後には必要ですよと。1回、中学校に集まる。受験校ごとにグループで行動することと言う有難い訓示を頂いた。不合格者が帰りに橋から飛び降りたりしないようにですかとチャチャを入れたくなったが、止めておいた。まさか私が不合格なわけが無いし。新聞で見た限りでは、自己採点で400点ぐらい、倍率は1.5倍をちょっと超えるくらいであった。10数人が一緒に受験したので、単純計算で3~4人は落ちる計算だが、その中に私とサキちゃんは入っていない。その日は暖かい日で、合格不合格の報告は夕方までにすればいいと言うことで、私たちは徒歩で受験校に向かった。1時間も歩けばつく距離だ。3つぐらいのグループに別れて歩く。男子グループ女子グループ、混合グループはリア充ばかりなので落ちればいいし、爆ぜればいい。到着したところで、まだ発表はない。むき出しのベニヤ板が上の方に直立してるだけ。また皆して集まってはボソボソと話をしている。私は特に興味が無いので、サキちゃんを見ていた。やっぱり友達と両手を繋いでいる。可愛いだけの存在である。10分も待たなかっただろうか、この高校の教師と思しき中年男性4人が脚立を使って合格者の受験番号が書かれた模造紙を張り始めた。群れ集う受験生たち。ソレを後ろから見ている私。あちこちで「ばんざーいっ!」の声が上がり、それをたしなめる女子の声がする。「〇〇君が落ちたんだから、万歳はないでしょっ!」いや、落ちた方が悪い。馬鹿中学で有名な集団はお通夜ムードである。合格者が村八分状態になっている。我が校は悲喜こもごもと言う感じである。「安元っ!どうだった?」まだ見ていないと言うと、サッサと見ろと言われた。何の感慨も無かった。番号があったので「あったよ」とだけ伝えた。本当に淡々とした受験であった。私からすれば、サキちゃんが受かっていればそれで良かったのだ。万が一、ここで不合格でも、またここを「二次募集」で志望すればいい。倍率1.5倍でも、必ず10人ぐらいの枠はあると教師から聞いていた。逆にサキちゃんが落ちたら面倒である。合格した高校を変更するのは大変な労力を伴うのだ。いわゆる「家庭の事情」をでっち上げなければならない。この「家庭の事情」なら売るほどあったが、中学校の教師の協力を仰ぐ方法も面倒だ。まさか「サキちゃんがいないので、学校を替えたい」とも言えないし。サキちゃんは手を繋いでいた友達と険悪になっていた。サキちゃんは当然合格であるから、お友達が落ちたのだろう。


母校に帰って報告した。その時、教師に「安元ー、お前は本当に苦労ばかりかけやがって」から始まる感動物語が始まった。えぇ、苦労をかけてくれたのは、成績表に「1」って付けた貴方じゃないですか。それに、内申点が高くたって、私はサキちゃんと同じ高校しか受ける気は無かったですし。そう言えば、ツッパリたちはどうしたかと言えば、やはり過半数は進学しておりました。レベルは様々ですが、男子校に進むツッパリたちの目には涙が・・・落ちたツッパリや端から受験していないツッパリたちは、教師の奮闘(毎年のルーチンワーク)で、地元の小さな会社に就職する者が多かった。そこで可哀そうと言うか、因果応報と言うか。


いじめに遭うのは「大人しい子」であったし、温厚な大人しい子は割と家庭がしっかりしていたりするものだ。そして、地方都市にありがちなのが「親が小さな会社を経営している」ことである。つまり、今までいじめていた生徒の親が経営する資材屋や、土建会社に就職である。かなり人生がハードモードになるであろうことは予想出来る。なお、番長はストレートに「組」に就職した。4年も持たなかったようだが・・・ヤクザの「事務所番」での下積みは辛いと聞く。「カッコいいからツッパリをしていた」なんて場合は、そんな下積みは辛かろう。副番長はと言うと、卒業後はアルバイトをしたり、喧嘩して捕まったりを繰り返していたが、25歳ぐらいの頃から「墓石を彫る仕事」に就いて、今も墓石を運んでいる。何かがそうさせたのか、少しばかり聞いてみたい気もするが・・・

 その後の手続きはすべて自分でやったと言うか、やらされた。入学金の振り込みとか、制服合わせと購入とか。教科書は中学までと違い、駅ビルにある書店で購入する方式になった。制服が出来上がった日。受け取ってきた私は今までの「学ラン」とは全く違う、黒いブレザーに興奮していた。コレを着て学校に行くんだなぁと思うと、かなりドキドキした。帰宅してすぐに着替えてみたが、ネクタイの結び方が分からない。取り敢えず適当に巻いて母と養父に見せに行った。あの養父でさえ「嬉しそうな顔」をしていた。お前が拘置所に入らなければ、このブレザーの色も違ったんだがなっ!とまれ、養父がネクタイの結び方を教えてくれた。一応は言っておこう、「ありがとう」と。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る