第3話『金の章』
その男が現れたのは、私が6歳になる頃である。小学校就学前で「5歳以降」であるから、当然5歳か6歳でないと計算が合わない。小学1年生の年齢は満7歳(6歳から入学して、その年のうちに7歳になる)と言うことらしいが、母との流離うような生活は長くは無かったように思う。そして、私はすぐに小学校に入学したから。そしてその時には市のI町に居を定め、男との同居生活が始まっていた。
最初のうちは、その男は優しい「おじさん」だったように思う。何かの折に母に叱られた時に、そのおじさんの後ろに隠れた記憶があるから、きっと怒っている母をなだめてくれたことも多かったのだろう。そんな「優しいおじさん」も2年後には豹変するのだが。
市立の小学校に入学した。今では珍しくも無い「お受験」とは縁がない水商売の女の子供だ。当たり前過ぎることだ。
驚くことに、私は小学校1年生の2学期時点で数学の「マイナス」の概念があった。引き算で「引かれる数」よりも「引く数」が大きいと「答えは無い」ことになるのが小学校教育だ。簡単に言えば「14引く20」は答えが無い。中学校に進んで初めて「14引く20はマイナス6」と言うことを教わることになる。
今の教育課程は知らないが、私の世代では小学生に「マイナス」の概念は無かったはずだ。
ある児童が黒板に書いた「答えの無い引き算」に対して、私は答えがあると教師に告げた。面白がったその担任教師は「どんな答えかな?」と私に白いチョークを持たせた。私は暗算で答えを出した「ー12」と言う答えを。
ここでその教師の顔色が変わったのを憶えている。その後は質問攻めであったが、よどみなく答える私に恐怖を覚え、校長に報告したらしい。
「あの子はマイナスの概念を”数直線”で示したんですっ!」と。
その後、「IQ検査」があった。
私のIQは平均をかなり上回る数字になり、「カンニング」を疑った担任教師の提案で、校長室で一人で改めてIQ検査を受けたが、その数字は前回の数字よりも高くなった。
(その後、転校することになったが、申し送りで「IQ検査は独りの状況ですること」とされた。毎回校長室である)
そう言えば、「水に気体が溶け込んでいる」と言うことも知っていた。確実な知識ではなく誤解をしていたが。
お湯が沸騰する時に出る泡は「水に溶け込んでいた空気」だと思っていた。
実際は「水蒸気」であるが、なんでそんな考えに至ったのか、今でも不思議である。
いや、「人生の全ての記憶」から引き出された「知識の断片」だったのだろう。
勉強の話はもういいだろう。この後の児童・生徒(高校生までは「生徒」が正しい呼称)時代にもいくつかのエピソードが出てくるから。
今思えば、懐かない上に悪戯ばかりする「女の連れ子」だったと思う。私は高校を卒業するまで、この男を「おじさん」と呼び続けた。弟は早々に「オヤジ」と呼んでいたが…
ここではどう書こうか?親権は実父のままであるし、この男もまた不倫の果てに私の母と同棲を始めたので、私とも母とも正式な「関係」には無かった。先妻が離婚を強固に拒んでいたので、私の母と籍を入れることが出来たのは9年後のことである。ただ、同棲開始当初はそれなりに家庭に金を入れていたので、義父ではないが、まぁ「養父」と呼ぼうか。
住んでいたのはやはり「文化住宅」であった。母の収入(相当な高収入であっただろうが、マトモに申告しないのは、水商売の悪しき習慣である)ならば、市営の家賃の安い住宅に入居出来た。今で言えば数千円の家賃であっただろう。6畳二間に狭いキッチン。風呂場はあるが風呂釜一式は無い。自腹で購入するのが常識であった。その1部屋に2段ベッドを置き、子供部屋にしてくれたようだ。詳しいことは分からないが、母と養父の部屋にはダブルベッドが置かれていたから、子供が入るような仕様ではない。
養父。
そう、この男が全ての悪夢の立役者であった。母も、今で言えば悪女とか「妖女」であったが、その悪魔性や妖性を開花させたのがこの養父であっただろうから。母が「一戸建て」を欲しがり、アルバイトをしていたキャバレーの支配人がこの養父であったのだ。のちに親会社の「常務」にまで登り詰めたのだから、人付き合いに如才無き男であったであろうことも想像がつく。
そんな男にも「懐かない子」であったのが私と弟である。弟は上手くやって、そこそこ、この男からは愛されていたが。
キャバレーの支配人と言えば、早い話が「ヤクザくずれ」みたいなものである。その立場を利用して母を略奪したまでは良かったが、不倫関係であったがために、母との入籍は出来ないまま。そして先妻は諦めない。私の実父も諦めてはいなかったようだ。結局は、養父は家を飛び出して、私の母と同棲を始めた次第である。当初は「子供好きの優しいおじさん」を演じていたように思える。確かに優しかったし、母へのアピールにもなっただろう。「連れ子がいても安心出来る男」だと。
同棲が始った頃だろうか、「七五三」のお参りをしたことがあった。その時は朝から洋服屋に連れて行かれ、オーダーメイドの「子供用スーツ」を着せられ、今も憶えている有名な神社で記念撮影をした。その時のカメラも憶えている。「ゼンザブロニカ」と言う、大きな大きなカメラであった。曰く「貧者のハッセル」と呼ばれた国産のカメラだ。
おもちゃも良く買い与えてくれたものだ。当時では珍しい高価なものが多かった。毎月そんなおもちゃを買っては私たちに渡す。多少は気を惹かれるおもちゃが多かったが、大抵は1週間で空きて放置することになる。
それでもこの「おもちゃで連れ子を懐柔作戦」は1年は続いたのではなかろうか?
そしてそんなおもちゃを1週間で放置する「連れ子」に苛立ちを覚えたことも想像に難くない。やっと手に入れた「指名No1」のホステスである。棄てるには惜しかったであろうし、同棲も始めている。先妻との離婚交渉は全くと言っていいほど進展しない。連れ子は懐かない。様々な要因が男を狂わせたのだろうか?
いや、そもそもが「狂った男」であったから、単に本性を現したというところか。先妻の間には2人の子(姉と弟)がいたが、この「実子」のことを非常に可愛がっていた。離婚交渉中は滅多に会えないこともあったのだろうが。「女の連れ子」などは、所詮は他人である。遺伝子の半分は前夫のものであるし。
私は非常に何と言うか「悪ガキ」であった。買い与えられたおもちゃでは飽き足らず、家中のあらゆるものを「おもちゃ」にしていた。ある日は狭いキッチンの床を水浸しにして、裸で滑ってみたり、寝室のダブルベッドのマットレスの縫い目に沿って水を流して遊んだり。当然マットレスはたっぷりの水を含んで、母と養父を出迎えるわけだ。最悪の悪戯ではある。またある日は、「炭酸飲料の缶を振ると泡が出て楽しい」と言うことを憶えたので、養父に「缶コーラを買って来てくれ」とお使いを頼まれた時に、「サービスのつもり」で、良く振ったコーラ缶を渡したものだ。そのたびにひどく叱られはしたが、殴られることは無かった。多少はまだ常識があったのだろう。養父の「暴力性」が顕在化するのは、次の引っ越し先からである。
私は小学校1年生の2学期の中頃に転校することになった。
まだ幼過ぎるこの歳の子供のことである。よくある「転校生いじめ」みたいなことは無かった。
(クラスメイトが1人増えたな)
程度の認識だったのではないだろうか。そしてそのまま2年生になり、友達も出来た。その小学校では「クラス替え」は2年に2回であったので、1年半の間には友達も出来て当然であった。私は多少の運動音痴であったが、クラスの平均を大きく下回るほどではなかったはずだ。勉強の方は相変わらずで、特に意識しなくても、たまに行われる「テスト」では100点満点を連発、95点だと若干悔しいと言う程度であった。
小学校教育に限らず、義務教育なら成績の悪い児童に合わせたレベルのテストであるから、100点を取れない方が問題だろう。しかし、何故か級友は70点とか、65点。鬼も落涙するような30点などと言うウルトラCを見せてくれたが…
この「テスト」も中学校からは「中間テスト/期末テスト」と言う、学業評価に直結するテストに様変わりして、生徒の悩みの種になる。
実を言うと、私には「学校での記憶」があまり無い。給食の思い出ばかりだ。好き嫌いが激しかった私にとって、酢豚に入ってくる2つ割の椎茸は恋のライバルの田代君よりも憎むべきものであったし、ブドウパンに入っている干しブドウはこの世から消え去るべき物ランキング上位に食い込むような物であった。牛乳も苦手であったが、コレは「冷たいうちに一気飲みする」ことで片付けることで克服できたが、給食の配膳の都合で生温くなった牛乳(甘さが大嫌いであった)を飲み干すのは拷問に等しい処遇であった。
稀に「ミルメーク」(ご存じだろうか?)と言う、牛乳に混ぜて「コーヒー牛乳」にするザラメのような粉末が付くと、安堵したものだ。
コーヒー牛乳に改造してしまえば飲めないことも無かったから。
当時はまだ「給食を完食させることも教育」と言う考えであったから、どうしても食べられないモノがあると、昼休みは無いし、午後の教科になっても給食のアルミトレーは机の上である。それどころか、掃除の時間も着席したまま、憎っくき椎茸や、脂身の塊りである酢豚の肉を前に涙をこぼす羽目になる。夕刻になり、教室が暗くなり始めると担任がやって来て「やれやれ・・・」と言う態度を全身で表わしながら「もう、帰りなさいっ!」と𠮟りつけるのも日常の光景であった。多少は知恵が回るようになると、友達に食べてもらうと言う技を覚えるが、その場合は、楽しみにしていたデザートを差し出すことになる。
学業に関しては何の問題も無く、給食も8割がたは満足のいく食事であったが椎茸は赦さない。そんな私が学校に行くのは何よりも図書室があったからである。小学校3年生から読書ばかりするようになり、毎日2冊借りては翌日に返すことを繰り返していた。教師は「本当に読んでるのか?図書貸し出しカードを埋めたいだけじゃないのか?」とばかりに詰問するが、「あらすじを言ってみろ」との質問にすらすら答える私に驚いていたようだ。
ついには図書室には読みたい本が無くなり、資料室で「朝日年鑑」等と言う、小学生にはあまり向いていない時事ネタ・ニュースの真相を羅列したような本にまで手を出した。今思えば、あの「年鑑」等と言うモノは思想的な意味で偏っていたので、読む価値も無いモノだったが。
小学校2年生の終わり頃だと思う。養父が「おもちゃ」として私に買い与えた「コダックの110カメラ」
コレが私の人生を支えることになる。「110カメラ」は需要が激減して消えたが、「写真を撮る」と言う行為は非常に楽しかった。
もう一つ、「書籍代」だけは無制限に与えてくれたこと。写真費用も無制限だったので、この2点に関しては母と養父に感謝している。
弟は「兄ちゃんだけ本代を貰ってずるいっ!」と顔を真っ赤にして抗議していたが、本代を駄菓子屋で使い込むのは駄目なんだから、本をちゃんと読むかい?
小学校時代だけで1200冊は読んだと思う。
学校の話はこのあたりで辞めておこう。面白い話も無いし。
子供が「子供らしさ」を発揮するのはやはり「遊び」をしている時である。小学校4年生ぐらいまでは「野球」をよくやっていたが、道具はプラスチックのバットに柔らかいゴムボール。素手で扱える道具ばかりで、友達10人も集まれば大抵は野球である。公園は「早い者勝ち」であるから、先に遊んでる子供たちがいると、その遊びに混ぜてもらうことも多かった。バレーボールほどの大きさの柔らかいボールでドッヂボールや、名称だけ記すが「太平洋」とか「大西洋」、「キックベース」みたいな遊びを夕方まで飽きずに楽しんだものだ。
私は養父の方針で、週に2回、剣道の道場に通わされていたので、毎日遊べるわけではなかったが。この「習い事」は本当に当時の私には憂鬱なモノであった。友達との遊びを断り、渋々剣道の防具を背負って送迎バスに乗るのだ。
当然、やる気も無いので、2年ほど通って「2級」までであった。あと2回、昇段試験を受ければ初段になれたが、やる気なしと言うことで辞めた。
すると、間を置かずに今度は「空手」である。母の知人の「近藤さん」の話を物語の前の方で書いたが、その近藤さんの次女が空手の師範に嫁ぎ、その繋がりで「コイツを鍛えてやってくれ」と言うことになった。迷惑な話である。
弟も巻き添えであったことが、多少は私の溜飲を下げたことは言うまでもない。
フルコンタクトの「格闘系」ではなく、礼を重んじる「演舞系」ではあったが、稽古はかなり厳しかった。足の裏の皮が剝けて、新たに分厚い皮が形成されると言えば、その厳しさが伝わるだろうか?夏のキャンプでは、ゴツゴツとした地面に設置されたテントで2日間寝泊まりし、朝は15m以上はある川の浅瀬を「前屈」と言うすり足で3往復から始まる。川である。足場の悪い石だらけの川底をすり足で往復すれば転ぶ者も出るし、傷だらけにもなる。
それでも「楽しい」ことを見つけるものだ。
主催する道場もそこの所は理解していて、練習の合間に「遊びの時間」を設けたり、キャンプ飯の支度は心が躍った。最終日の夜は「肝試し」だったのが惜しまれる。
花火大会でいいと思うのだが・・・
「近藤さんの繋がり」と言うことで辞めるわけにもいかず、結局は中2まで通い、初段にはなった。「演舞系」とは言え、3級から上は「組み手」もあり、初段試験は演舞に加えて、フルコンタクトでの組手もあった。「寸止め」だとは言え、本気で突きや蹴りが入るので結構痛い目に遭ったが、相手もきっと痛かったであろう。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」などと言うが、この言葉に騙されて、子供に武道をやらせることには感心しない。この言葉には誤解がある。正しくは
「健全な精神は健全な肉体に宿るのが相応しい」と言う意味だ。いくら精神が健全でもひ弱な身体ではその精神を発揮出来ないし、健全な身体だけあっても困るだろうと言う意味である。
さて、ここまで書いてきた内容から、私はそれなりに充実した少年期を過ごしていたと思われるだろうか?実際はそんなことは無かった。私は小学校3年生からは「近所では有名な悪ガキ」になっていた。今で言えば「登校拒否児童」であったし、悪さも相当やらかした。ランドセルを近くの公園の植え込みに隠し、学校をサボって遊んで歩いていた。そのランドセルは近所の優しい人(おせっかい者)がご丁寧に私の自宅に届けてくれるので、学校をサボっていたことは必ず親バレしていた。なので、ランドセルを隠す場所をあちこち探して上手く隠すことには精通するようになった。
最初のうちは、弟と二人であちこちを徘徊して、川原で遊んだり、本屋で漫画を立ち読みしたりする程度であったので、こっぴどく𠮟られはしたが、命の危険は無かった。
小学校から登校拒否するような子供は必ずいるわけで、今なら部屋に引きこもるのだろうが、私の世代では「自分の部屋」は無いので、引きこもることは出来ない。外に出て遊んで歩くのが関の山であるが、そんな登校拒否児童の「仲間」が出来た。その「仲間」を仮に「トシ」と呼ぼうか。そのトシの家は両親共稼ぎで、日中は留守なので、私たちの溜まり場になった。トシは2つ上の学年であったが、多少の学業不振(障害があったようで、モラルもあまり無かった)を抱え、学校に行くのが嫌になったようだ。
私が学校に行かなくなったのはまた「別の理由」ではあるが。
夏休み。なんと心が躍る言葉であろうか。昭和の時代の夏は現在のような「酷暑」ではなかった。本当に30℃を上回る日は多くなく、35℃を記録しようものなら大騒ぎであった。そんな「程よい暑さ」の中、友達と山に入りカブトムシを探したり、木の「うろ」の中にいるクワガタムシを探すのはとても楽しい遊びであった。たとえ収穫がカミキリムシだけであっても。
そんな夏の「お楽しみ」と言えば海水浴である。眼下に見える海ではなく、「家族旅行」として遠い海へ行く。小学生にとっては最高のイベントではなかったであろうか。我が家の「海水浴行」は多少変わってはいたが…
先ず、日程が決まっていない。出発日は土曜日であるが、いつの土曜日なのかは分からない。当時も水商売をしていた母と養父が深夜に帰宅して私たち兄弟を起こすのが恒例であった。
「ほら、海に行くから起きなさい」と母に促され、眠い目をこすりつつも心は踊り出す。
母は天袋から藤のバッグを取り出して着替えを詰め始める。小さな旅行かばんには私たちの荷物を詰めるように命令する。行きの車内で食べるおにぎりと簡単なおかずを手早く作る。
母たちが帰宅するのは深夜1:00頃、出発は深夜の2:00を回る頃である。養父は車好きであったので、ほぼ2年ごとに車を買い替えていた。今ではそんな考えは薄れたが、当時は「マツダ車に乗ると、もう他のメーカーの車には乗れない」と言われたものだ。マツダ車が素晴らしいからではなく、買い替え時に他のメーカーに下取りに出すと、とことん買い叩かれたので、またマツダのディーラーに持ち込むしかないと言うループに陥ると言う意味だ。
ただ、当時のマツダ車が他メーカーの車よりも劣っていたわけではない。なによりも「静かな車」だったという記憶が残っている。
そんな「自慢の新車」でドライブしたいと言う養父の欲求もあっただろうし、既にキャバレーの運営会社の「常務」になっていたから、家族旅行の海水浴は、そのまま「社員旅行の実踏と下調べ」と言うことになり、つまりは旅行費用は全て「経費」扱いで後ほど返還されることとなる。
今思えばかなりの「大名旅行」であった。夏の週末の海水浴である。予約も無くホテルに泊まれるわけも無いのだが、「特別なお客様用に確保してある部屋」は必ずあるので、そんな部屋を金の力で開放させることもあったし、多少海から離れた「有名旅館」の高い部屋なんぞもよく利用していた。
全て「経費」だから出来たことである。もちろん、キャバレーのNo1ホステスとその会社の常務のカップルであるから、それなりの収入はあったのだろうが、養父は離婚調停中であり、別居中である。子も2人いるので、その生活費や養育費はかなりの金額であったことは想像に難くない。「親子」と呼ぶことに抵抗はあるが、私たち家族が食うに困らない程度の収入しか残らなかったのではないか?
完全に余談だが、我が家は1回、差し押さえにあったことがある。ソレが税務署だったのか、先妻の訴えであったのかは分からないが、ある日、学校から帰ると家中の家具が乱雑に壁際から引き離されて「差し押さえの札」(後年知った)を貼られていた。
養父は金策に走ったようで、その札を母が悲しそうな顔で、水で濡らした雑巾を使いながら剥がしていたのを憶えている。
そんな調子で出発する「海水浴」であるから、例えば友達の家族と一緒にと言うことは無かった。稀に前もって日程を決めて、従姉弟を一緒に連れて行くことがあった程度だ。
遊び相手は当然、弟だけであるが、それでも楽しいものだ。必ず「浮き輪」と「エアマット」を借りてもらう。どうせビーチパラソルやら砂の上に敷くビニールを借りるのだから、ついでにお願いすれば借りてもらえた。
浮き輪は最初のうちだけで、大抵はエアマットに掴まっての「波乗り」に興じて1日を過ごす。それ故、子供心に「波の荒い海水浴場」を刻み込み、毎年のようにその海水浴場に行くことをせがんだ。正しい名称は知らないが「伊豆の白浜」と呼んでいた。砂の色が白とまではいかないが、それでも「美しい」と言える色合いで、遠浅で波が荒かった。
養父は「白浜は遠いんだぞ?」とぶつくさ言いながらもそこまで足を伸ばしてくれた。彼なりの「子供へのサービス」であったのだろう。
エアマットでの波乗り遊びもやり過ぎると「乳首が擦れて痛くなる」ので、途中で「日焼け」に精を出したりもした。子供のことである、遊んでいるうちに真っ黒に日焼けするのだが、大人の真似をして、砂浜に寝ころんでコーラを飲んだりしていたものだ。
ある夏を境に「海の家」を利用するようになった。「浜茶屋」とも言うのだろう。多くはヤクザや地元の的屋が海水浴場に出す簡素な休憩所である。利用料は安くは無かっただろうが、子連れには便利だ。店先ではトウモロコシやイカ焼きを売り、店の中では食事を出してた。店の中と言っても、安っぽい簡素な木組みにベニヤを敷いてイグサのシートを敷いた程度のものであるが。
海の家の「ラーメン」のスープは薄くてしょっぱいだけなのに、何故あんなに美味しく感じるのだろうか?
小学生時代は毎年このような海水浴旅行が3回はあった。実踏を兼ねているので、社員旅行も加えれば4回は海水浴に行くことが出来たわけだ。真っ黒に日焼けして、もう「火傷」に近い状態で、ホテルで「痛い痛いっ!」と泣く羽目になっても海水浴が好きだった。今では大嫌いだが。
嫌いになった理由は、この家族旅行に反発する心が芽生えたと言うわけではなく、20歳を超える頃から「身体が濡れるのが嫌いになったこと」である。風呂すら嫌いになり、毎日シャワーだけで過ごしている。
そう、「社員旅行」には問題があった。当時のキャバレーの従業員の社員旅行である。店のホステスはよほどの営業成績でなければ招待されないので、周りは男性社員ばかりである。「社員」と言えば聞こえはいいが、どう考えても「マトモな職」では無かったわけで、食事前に大浴場に行くと、そこはまるで美術館さながらであった。展示されてる絵画に激しい偏りはあったが。
分かりやすく言えば、壁にある鏡を見ながら体を洗うおじさんたちの背中には見事な彫り物が極彩色で描かれているわけで、絵柄はもちろん「弁天様」とか「鯉と滝」であったり、「夜叉」とか「風神雷神」と言う、今見ることが出来るのならば、数時間は見惚れる出来栄えのモノが多かった。
中には「蒼い線」だけで描かれた彫り物があり、ソレを見た私は「ねーねー、なんでおじさんの絵には色が無いの?」と言う、一般人が言ったらその場で半殺しにされそうな言葉を、好奇心でキラキラさせた眼で尋ねたものだ。
(今思えば残酷過ぎる言葉である)
私たち兄弟は「常務の息子たち」と言うことで、そんなヤクザ崩れのおじさんたちにも可愛がられた。当時の海水浴場近くのホテルには、子連れ客を当て込んで、必ずゲームセンターがあったものだ。家族だけで行く時はそのゲームセンターで使えるお金には限りがあった。大体200円から300円だったと思う。しかし、社員旅行の時は事情が違った。養父や花に「ゲームセンターで遊ぶお金」をせがむと、横にいるおじさんが、使いこなれた麻袋(多分店の釣銭入れ)から硬貨を掴みだし、「ホレ、コレで遊んで来い」と渡してくれた。2千円ぐらいはあっただろうか。使い切れない分はポケットにしまい込んで、家に帰った後のお小遣いにしたものだ。
社員旅行と言っても、マイクロバスで行くのではなく、各々が7~8台の乗用車に分乗して行くことばかりであった。数回はマイクロバスを使ったこともあったように記憶しているが、私たち家族は養父の自家用車で先導する形であった。つまり、多くの場合、ホテルの駐車場には社員ご自慢の「愛車」が並ぶことになるが、アレは壮観であった。大きくて黒いアメ車のボンネットには真っ赤な「火の鳥」の意匠が描かれていたり、真っ赤なスポーツカーであったり、とにかく一般人なら近づきたくない車ばかり。20人前後での社員旅行であるから、ホテルを貸し切りに出来るわけもなく、偶然泊まり合わせた普通の家族にとっては災難であっただろう。
私たちの家族旅行と言えばこの「実踏」を兼ねた海水浴と社員旅行が常であったが、数回だけイレギュラーとも言える旅行があった。夏の八丈島と1月中旬の東北旅行である。八丈島への旅行はきっと養父の都合だったのだろう。店でヤクザと揉めたとか、何か下手を打って身を隠す必要があって、本土を離れて八丈島で過ごしたのだと思う。今だから言えるが、私は小学生の時にタバコの味を憶えた。前回の話で「トシ」と言う2つ上の子供について軽く触れたが、このトシにタバコを吸うことを教えらえたのだ。今ほどニコチンに依存はしていなかったが(私は愛煙家である)八丈島で過ごした10日間ほどの間はタバコが吸いたくて仕方なかった。小遣いを貰っても使う所が無いわけで、そのぐらい八丈島は田舎であった。また、お小遣いを持っていたとしても、タバコを売っているのが民宿の売店ぐらいである。買えばすぐに親バレするのは必至である。数kmも歩けば雑貨屋のような店で売ってはいたが、そこまで行くのも大変である。
この経験は高校生になって活きることとなる。修学旅行が「スキー合宿」と言うことで、どう考えても現地で煙草を買うのは不可能だったので「持ち込み」と言う手段を使ったが、高校生時代の話はまだかなり先のことになる。
ある夜中、支度もそこそこに飛び出して、晴海ふ頭だったか、その付近の駐車場で夜明かしをして、あちこちの店舗がオープンするのを待って必要なモノを買ってから船に乗り込んだ。定期航路で片道12時間の船旅であった。
八丈島では遊びも限られていた。泳ぐには向かない場所だ。波は荒く、砂浜は無いので岩場で泳ぐことになるが、荒い波に押し負けて岩場に叩きつけられてからは、泳ぐことを諦めた。全身傷だらけになれば、大抵の子供は泳ぐ気も失せるだろう。あとは「釣り」だけである。小さな漁港の防波堤から「アミ」を撒いて釣り糸を垂れると、嫌ってほど「ムロアジ」が釣れた。島民にとってはもう見向きもしない魚であるが、そんなムロアジを民宿に持ち帰って塩焼きにしてもらうのが「遊び」であった。そう言えば「クサヤ」はムロアジなんだそうで、ソレはそうだろうなと合点がいった。「シマアジ」などは高級魚とされているが、小さな漁港で釣れる魚ではない。
養父は大物狙いで、稀に漁港内に入ってくると聞いた「カンパチ」狙いで投げ釣りをしていたが釣果はゼロであった。
島から家に帰る日も突然で。
「すぐに飛行機が出るから支度しなさい」と母に命じられたが、子供の頃の私は旅行好きであったので、帰りも船がいいと言い張り、結局は12時間かけて本土まで戻ることになった。
真冬の東北旅行は仙台だったと思う。やはりいきなり旅立つことになったのだが、真冬の仙台では遊ぶ場所も無く、宿泊していたのも普段とは違う狭いビジネスホテルの4人部屋と言う感じであった。当然ゲームセンターも無い。ここで私たち兄弟は災難に見舞われる。1月の半ばと言えばまだ「お年玉」を持っているわけだ。我が家は養父が「常務」だったので年始客が多く、お年玉もかなり多かった。8割は母に召し上げられたが、それでも7~8千円は手元に残った。そのお年玉まで取り上げようと言う魂胆で、養父は「ゲーム」を持ちかけてきた。「トランプで遊ぼう」と・・・
今の私は「公営ギャンブルはしないが、麻雀やパチンコはする」程度の遊び好きだが、この性分はあの時の養父に培われたようなものだ。何せ、コレに味を締めた養父は、その後毎年のように「ゲームをしよう」と持ち掛けるようになったのだから。それこそ「赤子の手をひねるようなもの」である。残り2千円ほどになるまで絞り取られることになる。
「上手くいけば増えるんだから」と言う、悪辣な投資詐欺よりも酷い話である。
この国には「真の教育者」がいないように思える。私の子供時代を振り返りながらこの話を書いているが、小学生時代の私には「二面性」があったように思うのだ。例えば読書量はどうだろうか?3年ほどの間にゆうに千冊の本を読んだ。学校帰りの時間も惜しいので、本を読みながら帰宅していたほどだ。本の大きさは文庫サイズではなく、雑誌サイズで表紙は硬い。そんな本を読みながら帰宅する姿は、近所のおばさんたちから「二宮金次郎」と揶揄されていたほどだ。そんな私が、こと悪戯や悪さをするとかなりとんでもないことをやってのける。
いや、殺されかけるほどの悪さであったのかは、今の私には判定不能だが。
学校は酷く退屈であったが、行けば級友も居たし給食で温かい飯も食えた。退屈と感じる元凶は授業である。分かり切ったことを延々と、滔々としゃべり続ける教師。教師に指名されて答えに詰まる同級生。私はいつも窓から見える山を見ていた気がする。午前中に4限(1限は45分)、給食と昼休みを挟んで、午後は2限、水曜日は1限で土曜日は半ドンであった。この退屈な時間よりは、弟と川原で遊んでいた方がまだマシに思えてくるから不思議なものだ。弟と遊んでいても苛つくことばかりだと言うのに・・・
学校をサボり、悪戯や悪さをするから叱られる。私はその退屈な日常から「本の世界」に逃避していただけだ。本を開けば、フンコロガシが糞玉を後ろ足で転がし、狼王は悲惨だが勇壮な最後を見せて幼い私の心を揺らした。エジソンは電球に使うフィラメントの素材探しに日本にまでやって来て、遭難した漁民の若者はアメリカの船に拾われて凱旋した。漫画は好きだったが、情報量の乏しさが欠点であった。いや、「イメージ」を固定されるのが欠点だったと言い換えよう。「絵」そのものが情報であり、世界観であったから、子供心に空想の世界に遊ぶことが難しいと感じたのかも知れない。コレものちに「テレビアニメ」を観るようになって、漫画も悪くないと思うようになったが。
夢中になったのは「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」、コミカルなものでは「うる星やつら」が最高に好きだった。放映日は水曜日だっただろうか?偶然、その水曜日に養父と母が仕事を休み、2つ3つ離れた市にある「美味いと評判の焼き肉店」に私たち兄弟を連れて行った。私はかなり強固に「行かないっ!」と主張したが、養父たちは聞き入れない。渋々、その焼き肉店のテーブルに座ることになるのだが、最初からずっと泣いていた。「アニメが観たい」と。
呆れ果てた養父と母が「もう、帰りなさいっ!」と交通費を投げるように渡してくれた。弟を伴って大急ぎで帰宅したが、真っ先にスイッチを入れたテレビの中ではEDソングが流れていた。
話が逸れたが、私の狭い知見の中では「読書が異常に好きな子」と言うのは概して被虐待児である。幼くか弱いその精神を護るために「本と言う架空の世界に遊ぶ」ことを憶えるのだろう。そして、そんな読書好きの子供は知能が高い。身内の恥を晒すようではあるが、既に縁を切ったと言うことで由とする。私には姪っ子がいる。弟夫婦の子であるが、本当に「女の子」で良かったと思う。「甥っ子」であったなら、弟の暴力に晒されて歪んでしまったであろうから。「女の子」なので、暴力を振るわれることも少なかったはずだが、弟のDVの酷さは大したもので、パトカーが何台も駆け付けたなんて話には枚挙に暇がない。そんな家庭に育ち、4LDKの戸建てに住んでいるのに、高校生になっても「個室を与えてもらえない」境遇で、姪っ子は過去の私のように読書好きの子になった。高校入学時には大好きな「ハリーポッターシリーズ」を原書で読んでいた(辞書を引き引きではあったが)
成績も素晴らしいもので、中学3年生の1学期までは学年トップ、2学期3学期は3位に転落したが、あの家庭でこの成績は驚異であろう。家でする勉強は「宿題だけ」で、部活のバレーボールに熱中する文武両道とも言える健全さを保ってもいたのだから。
高校は私の母校を選んだそうだ。単に「一番近い公立高校だから」と言う理由で。弟は教育には全く関心が無い男であった。ただ「不良にさえならなければいい」と言う思想だけのつまらない男。本人も妻も、高校時代は派手に暴れていたクチなのだが…
被虐待児ではあるが「空想の世界に逃避する能力」に長けた子供は、いつかその才能が花開く時が来るのではないか?養護施設の子(こんな言い方はしたくないが)にも読書好きはいるだろう。そんな「才」を持つ子に高度な教育をする機関は作れないのだろうか。公立の小中学校にもいるに違いない「未来のテスラやアインシュタイン」もまた「国の宝」ではないだろうか?私見ではあるが、「子供こそ国の宝」であるから、その優劣に関わらず健全な環境で育める社会になればいいなもと思うのだ。少年犯罪に手を染める児童もいるが、多くの場合はその家庭環境に問題があるように思える。極稀にだが、生れついての「悪党」もいるにはいる。この手の児童は矯正不能なので、早期に隔離しないと周囲に悪影響を与えたり、被害者を生むことになる。「サイコパス」と言う人格があるが、正しくソレである。善悪の区別が出来ないから平気で法を踏み越える。概して知能は高いと言われているので、凶悪な犯罪者になることを避け、マトモな大人のふりをして社会に溶け込んでいたりするが、中身は獣以下であったりする、。私の人生の中にもそんな人物が何人もいた。失笑を禁じ得ないことに、そんなサイコパスの仕事での評価が結構高かった。善悪の区別が曖昧で「己の快不快」だけが判断基準であるから、多少高い知能があれば、会社のために「何でもする」優秀な社員になれると言うものだ。
「教育」とはなんだろうか?私はこの根源とも言える問いに答える言葉を持っていない。しかし、子供と一緒に考えることの大切さは知っている。私は50歳を過ぎた「つまらない男」であり、知識の量もたかが知れている。それでも「子供と一緒に考えよう」と思える心のしなやかさは失いたくないと思うのだ。
今の子供たちを見ていると、薄ら寒さを覚えることがある。彼らは確かに「優秀」であるのだろう。テストで良い点を取り、有名校に入学し、一部上場企業に採用されるのだろう。このことに関して、私も異論はないのだ。
ただ、彼らは「考えることが苦手」のように思える。自分の論理で物事を推し量り、解決する能力が若干だが欠如してはいないだろうか?
「教えてもらったこと」だけを実行するだけのHuman Being・・・
日本の教育はかなり高度なモノである。義務教育の9年間で学ぶことを理解するだけでかなりのことが出来るし理解出来る。例えば、中学校3年間(今は小学校でも教える様だが)で学ぶ英語の8割を理解していれば、英会話で困ることが無いと言われている(語彙力はあとからでも付くモノだ)また、化学と言う「何の役にも立たない教科」でさえ、理解していれば一軒家ぐらい軽く吹き飛ばせる物騒なモノも作れるのだ。高校生ともなれば、一般的な教養はアメリカの大学生の平均を軽く超えることになる。アメリカの大学生の平均を知りたければB級ホラーを観るといい。真っ先に死ぬのが「平均的な大学生のカップル」だから。
トップレベルの話になると、悔しいことに我が国に人材は少ない(と思っている)
改めて、自問も含めて問おう。
「教育」とはなんだろうか?きっとそれは「教える」ことでは無いのかも知れない。子供と共に「考え」ることと、子供に「考えさせる」ことこそが大切なのではないか?今の私たちに欠けている視点がこれではないかと思うのだ。
昨年のことだが、ネットのニュースで知って寒気を覚えたことがある。テレビの特集の見出しレベルでしか知らないが、「今、人気の教育系ユーチューバーランキング」と言うものだ。数年前までは「子供をあやすためにYouTubeを見せていいのでしょうか?」と言う、新米ママさんのお悩み相談をよく目にしたが、今では積極的に「YouTubeで教育する時代」になったらしい。要は「知識を与えてくれるなら媒体を問わない」と言うことなのだろう。血の通った「教育」は非効率と断じてしまったのだろうか?
私には「恩師」と呼べる教師が二人だがいる。小学校3年生の時の担任だった「安藤」と言う女教師と、中学校2年生の時の社会科の教師であった「田中」と言う男性教師だ。
安藤先生は私が被虐待児であることを気にしてくれて、何かと言えば「本」をプレゼントしてくれた。きっと当時の小学校教師が出来ることの限界だったのだろう。贔屓するわけにもいかなかったであろうから。その本の奥付には短いメッセージが書かれていた。全て私を励ます言葉であった。
田中先生は、転校してきて周囲と上手く付き合えない私に「もっとふてぶてしく生きろ」と背中を叩いてくれた。いつだって飄々としていて捉えどころのない教師であったが、田中先生のお陰で多少は生きることが楽になったと思う。
決して評価の高い教師では無かったと思う。しかしその言葉には血が通っていた。暖かだったのだ。YouTubeは暖かいのだろうか?コメント欄は荒れてはいないだろうか?今の常識を私の常識で判断したくはないが、やはり何かを間違え始めていると思う。
では家庭の「役割」とはなんだろうか?
コレは簡単な答えで、「躾を受ける場」であり「悪い物事から守ってくれるシェルター」である。この2つは当たり前のこと。
もう一つ大事なことがある。
「超自我」の存在を子供に認識させる場であること、だ。
辞書を紐解くとこうある。
自我(じが、英語: ego、ドイツ語: das Ich または Ich)とは、哲学および精神分析学における概念。哲学において"認識・感情・意思・行為の主体を外界や他人と区別していう語"。なお、ドイツ語代名詞の ichとは、頭文字を大文字で表記することで区別される。
著作権の関係でWikipediaから孫引いたが、つまりは「自分は自分であると認識すること=自分」である。
この自我の上位にあるのが「超自我」である。
Wikipediaから孫引く。
超自我
超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我とエスに伝える機能を持つ。
(エスとは「無意識下の自分のこと)
厳密には意識と無意識の両方に現れていて、意識される時も意識されない時もある。ただ基本的にはあまり意識されていないものなので、一般的には無意識的であるとよく説明される。父親の理想的なイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので、それ故に「幼少期における親の置き土産」とよく表現される。
他にも超自我は自我理想なども含んでいると考えられ、自我の進むべき方向(理想)を持っていると考えられている。夢を加工し検閲する機能を持っているので、フロイトは時に超自我を、自我を統制する裁判官や検閲官と例えたりもしている。
※引用ここまで
欧米に於いては「父や厳格な祖父」であったり、「主=神」が超自我にあたるはずだ。日本においては兎角「神の扱いが粗雑」であるから、超自我はほとんどの場合「家長」が担うことになる。ソレは父親でも良いし、中々死なない祖父や曾祖父でも良い。
人を人たるものとしている精神的な存在のことだと言い換えてもいい。時代は変わったが、今もなお父親の権限が絶対である家庭もあるだろう。多くは家計も担う「労働者」でもあるから、どうかすれば「父親不在」になっている家庭もあるかも知れない。残業の過酷さは随一の国であるから。
「超自我」が存在しない子はどうなるだろうか?「コレが常識なんだよ、人の道なんだよ」と教える者がいないことと同じだ。それでも子供は周囲との交渉の中で「ルールや倫理を学んでいく」ことが出来るだろう。しかし、本当の意味での「超自我」が存在しなければ、容易に理性のタガが外れることもあり得るのではないか?
「超自我」の存在しない子供はどこに「己を超える者」を見出せばいいのか?
1つは「運任せ」で生きて行く選択がある。過酷な状況に追い込まれなければ「友達や教師から得たルールや倫理」だけで切り抜けていけるはずだ。この場合、想定を大きく超える過酷な状況下では精神がエラーを起こすかもしれない。
もう1つの選択肢は「自分が超自我を創り上げること」である。難しく考えることは無い。例えば幼い頃に見た漫画のヒーローのように生きたいとか、宗教の中に理想像を探してもいい。私は割とキャプテンハーロックを男の理想だと思っているし、ブラックジャックのような無免許医になりたいとさえ思っている。そんな有象無象を組み合わせて「超自我」としても問題は生じない。流石に悪党を「超自我」に据えては駄目だろうが・・・
そう、私には「超自我」が存在しなかった。離婚後も元妻に執着する父を尊敬できなかったし、恐れることも無かった。
不倫の果てに同棲を始めた養父も尊敬に足る人物ではなかった。ただ、その暴力に屈していただけだ。
私が自分なりに「超自我」を創り上げるのに4年はかかったと思う。
はっきりとした「登校拒否児童」では無かった。単に気が向くと学校に行かず遊んで歩いていただけだ。それも問題と言えば問題であるが、「よくあること」でもある。今も日本中に「登校拒否」をしている子供たちが沢山いるだろうし。登校拒否の最も悪い面は「クラスタ」を形成しやすいことだろう。
例えば、登校拒否をしていても自室に引きこもっているならば大きな問題にはならないだろう。ソレは家庭の問題でもあるし、本人の責任でもある。憂慮すべきは「同じような登校拒否児童」と繋がってしまうことだ。学校にも行かず、遊んで歩く子供は実は目立たない。いや、「目立たない術を知っている」とでも言おうか。補導されることも無く、上手く大人たちの目から隠れているのだ。そして、「仲間」を発見する嗅覚に優れている。ほんの1週間でもいい、学校をサボって遊んでいると、自然と「仲間」が出来てしまうものだ。コレが実にタチが悪い。
「水は低きに流れる」と言う。「仲間のレベル」も低い方向に流れてしまうものだ。分かりやすく言えば、学力は頭の悪い子に合わせ、素行はより「悪い子のレベル」にまで落ちて行く。例えば、仲間が「万引きしたことを自慢」すれば、その自慢と競うように自分も万引きに手を染めることとなる。「万引きも出来ない出来の悪い仲間扱い」をされることが怖いのだ。話をいきなりヘヴィな方向に振ると反応に困るであろうと思う。なので割とライトな話から始めようと思う。
ある日のことである。近所の友達と言っても年齢は様々だった。その公園で遊ぶ子が全員「友達」と言う認識であったから、下は小学校3年生から上は中学1年生までだった。中学生も2年生ともなれば、いや中学1年生でも夏休みを過ぎれば、学校の友達から「いつまで餓鬼と遊んでんだよ?」と指摘されたり揶揄されるだろう。だから「学ランを着た友達」はあまりいなかったわけだ。そんな子供たちの集団のリーダー、古い言葉で言えば「ガキ大将」の権力は絶対で、逆らうことを許されなかったものだ。
そのガキ大将がどこで知恵を付けて来たのか、私たち年少の者はその号令一下、「空き瓶を集める」こととなった。当時は飲料の空き瓶は「リターナブル瓶」と言って、いわゆる「預かり保証金」を取られていた。具体的な金額を記しておく。先ずは「ビールの空き瓶は5円」であった。真珠と呼ばれていた「コーラ瓶やジュースの空き瓶」は10円。当時で回り出した「1リットルサイズのコーラ瓶」は30円であった。そう、あの頃はほぼ全ての飲料水が「瓶詰」で売られていたのだ。知恵の木の実を齧った体のガキ大将は町中に捨てられている空き瓶を集めて換金することを思いついたのだ。酷くのんびりとした時代である。河原やドブ、空き家や非公認のゴミ捨て場を丁寧に探して歩けば、結構な数の空き瓶を見つけることが出来た。この「瓶集め」と言われる奴隷労働はしばらく続いた。酷い話ではあるが、瓶を集めてきた私たちに一切の報酬は無かった。どうかすれば「集まりが悪い」と怒鳴られる始末だ。
この「瓶集め」も、周辺にあるほとんどの瓶を集め終わることで終わることになった。当時のお金でトータル3千円ほどにはなっただろうか?子供のお小遣いとしては十分であった。小学校3年生の平均的なお小遣いは「1日50円」ほどだったから。
そうだ、思いだしたことがある。この話の本筋とは無関係だが、私は4~5歳の頃からお小遣いを貰っていた。1日20円である。駄菓子屋に行けばそれなりに買い食いが出来た。駄菓子屋の強欲婆は、チューインガム(板ガムと言う薄い板状のガム)のパッケージをほぐして1枚単位で売ってはいたが。
そのお小遣いでよく買ったのが、プラスチック製の「ブーメラン」(5円)だった。何故あのブーメランは上手いこと曲って私の手元近くまで帰って来たのだろうか?後年、思いだして買ってみたが、薄べったく出来の悪い緑色のブーメランは投げてもろくに飛ばず、地面に落ちるだけの玩具だった。
そのブーメランで遊んだ公園には思い出が詰まっている。私は地元を離れることは無かったので、駅の近く、徒歩で15分のところにある公園にはいつだって行くことが出来た。川沿いの公園で、土手からは公園内がよく見えたし、春には桜が咲いて、少ないながらも屋台が出たりした。近藤さんの旦那さん、私は親しみを込めて「じいちゃん」と呼んでいたが、そのじいちゃんと凧あげをすると、天高く舞ったものだ。竹ひごで作った骨組みに和紙を貼った凧は駄菓子屋で30円だっただろうか。じいちゃんは手製の凧を持って私を誘いに来たものだ。
話を戻そう。この「瓶集め」が私たちに知恵を授けることになったのは自明の理であろう。学校をサボっては遊んで歩くにも小遣い銭は欲しい。学校に行かないのだから「給食」もない。腹を空かせて、大人たちの目を盗むようにして遊んでいることは辛いものだ。しかし、既に周辺の空き瓶はほとんどが回収済みである。残っているのは泥だらけだったり割れていたりする「不良品」ばかりで、店が預り金を返す気にもならない代物ばかり・・・
飲料を取り扱ってる店では無条件で瓶の預り金を返す決まりがあったのだろう。断られたことは1回も無かったから。そして私と弟はとある「永久機関」を考案した。
簡単なことである。酒屋の裏に積まれた空き瓶を「盗む」のだ。勿論、その空き瓶をその酒屋に持ち込むことはしない。迂闊に持ち込んで、空き瓶の在庫が「減っている」ことに気づかれたらこっちが困ることになる。上手い具合・・・と言ってよいのか分からないが、家の近所にセブンイレブンが開店した。当時は朝の7時から夜の11時までオープンしているから「7・11=セブンイレブン」だったのだが、若い方は知っているだろうか?24時間営業なんて店は常識には無く、多くの店が夜の7時には店仕舞いをする時代にオープンしたセブンイレブンは画期的であった。驚くことに「正月の3が日」も営業しているのだ。
(時代を感じてしまう)
私が住む市の第一号オープン店はかなり遠くにあった。子供の脚では片道だけで2時間は歩いたと思うのだが、正月のお年玉を早く使いたくて、そのセブンイレブンまで歩いた。今もその店舗はリニューアルを繰り返して同じ場所にある。「私のセブンイレブン」だ。
多くの客をさばく繁盛店であるセブンイレブンならば、多少多くの空き瓶を持ち込んでも怪しまれないだろうと言う、子供らしさのカケラもない奸計である。勿論、狙うのは単価の高いコーラの1リットル瓶である。同じ本数を盗むのであれば単価は高い方がいいし、盗む回数も減ると言うものだ。
それでも週に2回3回とコーラの1リットル瓶を持ち込む怪しい子だと思われてはいたが・・・
この「永久機関」は簡単に壊れてしまったが。アレは雨の日だった。雨の日は狙いやすいのだ。通行人が少ないからであるが、その酒屋の向かいに住むおばさんが外の様子を見るつもりで窓を見ると、積み上げられたビールなどのケースから空き瓶を抜き取る子供がいた。すぐさま酒屋に電話をしてこの窃盗を報告。店主が怒鳴りながら出てきた次第である。私たち兄弟はビビってしまって、空き瓶を詰めていたスポーツバッグを放棄して逃げたのだが、近所でも悪ガキで名の通っていた私たちの家に、そのバッグを返しに来た店主を責める気はもちろん無いのである。この悪さ、いや犯罪の露見で私たちはこっ酷く叱られはしたが、いつもよりも甘い叱り方だったのが今でも不思議である。
養父は「なんでこんなことをしたんだ」と詰問する。答えなければ鉄拳制裁、答えても鉄拳制裁。私はおずおずと答えた。
「雨が降っていて、遊ぶ場所に困ったから鳳翔堂(近所の駄菓子屋兼、子供のたまり場)で遊ぶお金が欲しかった」と。
「そうか、遊ぶ金か・・・」からのゲンコツ2~3発で済んだと思う。
万引きの話をしようか。当時の私たちにとって、万引きとは「スリルのある遊び」でしか無かった。欲しいから万引きするのではなく、万引きすることが目的だった。どこまでも悪ガキであるが、誰にでも幼少期の後悔はあるものではないかと開き直ってみるが。
小学校の近所にある大きなスーパーが目標であった。盗むのは「消しゴム」である。何故「消しゴムなのか?」と問われても答えようがない。強いて言えば「戦利品」としてコンパクトで、プラスチックケースに入った消しゴムは収納にも困らないからだっただろうか?
当時、私たちが住んでいた2Kのアパートでは「子供部屋」が無いと言うことは書いたと思う。6畳の和室に勉強机を2つとテレビが1台あるだけで、しかも母と養父の部屋に行くにはキッチンからこの6畳間を通ることになる。つまり、隠し事が露見しやすいと言うことだ。私は消しゴムを机の「鍵のかかる引出し」にしまい込んでいたが、母がこの「鍵のかかる引出し」に悪事の匂いを嗅ぎつけた。
ある日、その引出しを開けるように言われ、抵抗することも出来ずに引出しを開ける羽目になった。当然、そこに在る数十個に及ぶ「消しゴム」がどこから来たのかを問われることになり、「チョッパってきた」(チョッパるは盗むの隠語である)言葉の由来とか、今知れば顔から火が出そうなほどの恥を感じることもあるが、当時のままをなるべくお伝えしたいので、敢えてこのような言葉も使っている。この件ではかなり酷い叱られ方をした。深夜に帰宅した母は私たちを起こすと、養父の前に正座させて万引きの件を報告したのだ。今でも「あんな𠮟り方は異常」だと言えるのだが、養父はしばらくは酔った頭で考え込んで、タバコに火を着けて吸い始めた。そしておもむろにその手の甲を私たち兄弟に差し出して、吸っていたタバコを私たちに持たせた。
「もう悪いことはしないと誓え、そのタバコの火を俺の手に押し付けて約束しろ」と凄んだのだ。どこの世界に「暴力を教育に活用する保護者」がいると言うのだろう。戦時中の小国の親ならば「暴力もまた正義の手段である」と教えることもあろうが・・・
その儀式の後、養父は私たちに告げた。
「お前たちを赦したわけではない。今日は怒っただけだ。だからまた悪いことをしたら、今度はお前たちの手にタバコの火を押し付けることにする」
私の左手の甲には「根性焼き」の痕跡が今も残っている。
私の経験だけで語っているが、登校拒否児童を放置してはいけない。正当な理由があるならば家庭で護るべきであるし、そもそも「学校が必要か?」と言う所まで考えを巡らせてほしい。通常なら「必要」なのであるが・・・
外を出歩く「登校拒否児童」は発見次第通報すべきだと、私は己の経験から断言する。「登校拒否」は悪いことではない。良いか「悪い」かは家庭での対応で変わるものだ。しかし、学校にも行かず、ふらふらと遊んで歩く「子供」は非常に厄介だ。独りでゲームセンターで遊んでいるとか、隠れて漫画本でもスマホでも観てるのなら、大きな問題では無いが、「登校拒否児童が横の繋がりでクラスタを形成」することが危険なのだ。得てして「登校拒否児童」は精神に障害がある場合やその倫理観が壊れているとかの問題を抱えている。そして「同じような子と繋がる」ことで、その素行は一層悪くなる。
私たち兄弟が「トシ」と出会ったのは小学校3年生の頃だったろうか?弟は1つ下なので小学校2年生。トシは2つ上だったので小学校5年生と言うことになる。出会いは自然に・・・と言う感じであった。何せ、お互いの家が徒歩で数分の距離だ。その上「学校に行ってない」と言うことになれば、自然と出会いは生まれてしまうだろう。まだその素行がマシだった頃の話である。外で遊んで歩くにも困る寒い日や雨の日。または「面倒ぃ日」はトシの家が格好の溜まり場になった。両親が供稼ぎで家にいない日中は格好の「秘密の場所」になった。トシの家も私たちと同じく、かなり荒んでいたように思う。家に「食べ物が無い」とか、夜遊びを放置していたとかの理由からの推測でしかないが、当たらずとも遠からずと言ったところか。
トシの家ですることと言えば、何度も読んだ漫画本を読み返すとか「素行の悪さ自慢」をし合うことだった。あの「クラスタ」の中で、私は一番「マトモ」だったと思う。悪いことは大抵は弟が先に憶えて私に教えるパターンであったり、トシの「教え」で数々の悪事を働いていた。空き瓶の「窃盗」はもうバレた後だったので、一緒にやることは無かったが。そんなトシの「自慢」が子供心にも嫌悪感を抱くモノであった。私はそのシーンを今でもありありと思いだせる。
トシは隣の小学校の女の子にお金を与えて性行為に及んだのだ。学区違いだったので、その女の子のその後は知らない。取り敢えずは「合意の上」だったので、親に報告することも無かったのだろう。その金額は100円ほどだったと記憶している。渡したのがコイン1枚、10円ってことは無いであろうし、50円玉だった可能性はあるが、50円も100円も大した違いではない。
その女の子に通学路で声をかけて、人気のない住宅街の公園で・・・
陰惨な話である。私は怖くなって逃げだしたが、ソレは「共犯者」だと言うことだ。私もまたトシのことを誰かに密告することは無かったのだから。逆らえば2つ上のトシに勝てるわけが無い。だから「逃げた」のだ。「お前はやらないんか?」と問われた時に。その時既にトシとその女の子の身体は重なっていたが、大声も出せずに看過して逃げた。
トシは以後、「俺は童貞じゃねーからよ」と偉ぶるようになった。私はあのシーンがどうしても忘れられずに、自然とトシと距離を取るようにはなったが、それは今まで週に4回遊んでいたのを3回に減らした程度のことだ。
「偉くなった」トシは近所のセブンイレブンで万引きをしようと言うようになった。家には食い物が無いから、食べ物とか飲み物をチョッパろうと。
そう言えば。
当時流行っていた「仮面ライダースナック」の悪い評判を思いだした。20円ほどの小さなスナック入りの袋には「ライダーカード」(今で言えば遊戯王とか?)が不透明のビニールに入って貼り付けてあった。私たち子供は「大して美味しくないスナック」には興味を示さず、カード集めにだけ熱狂したものだ。そうだ、「ビックリマンチョコ」と同じだ。そんな「食べ物を粗末」にしながら、何故かトシと遊ぶ時にはお腹を空かせていたから不思議だ。
トシはお腹を空かせると、家にある片栗粉を熱湯で溶いて砂糖で甘みを付けたモノをすすることはあったが、「万引き」と言う手段を思いついた瞬間から「片栗粉」のことは忘れ去ったらしい。
万引きの方法は大胆であった。大きな紙袋(デパートで盗んでくる)を持ったトシが、店員の隙を突いて、紙袋に品物を入れる。私と弟は「見張り役」であった。デパートの袋を選んだわけは、当時のデパートの大きな紙袋は有料で、ビニールで覆われていて丈夫だったから。コーラの1リットル瓶2~3本ぐらいじゃびくともしない丈夫さだったのだ。
そしてこの「見張り役」をしていたことが最悪の結果を招いた。
ある日曜日の夜のこと。いつものようにトシが遊び相手を探して、私たちの住むアパートの窓に石を投げて合図してきた。日曜日は我が家にも母と養父がいるので、絶対に遊べないと言ってあったのに、トシはその禁を冒したのだ。数回は無視していた養父が、割と大きな石をぶつけられた瞬間、家を飛び出してトシを捕まえに行った。その後、15分ほどだろうか、養父が帰ってきた。日曜日は水商売も休みであったので、家で飲んでいた養父が子供にも理解出来る「怒気」を孕んでいた。トシと公園で話をしたと言う。「よその子」なのでそのまま帰したが、お前に訊きたいことがある、と。
養父を心底怒らせたのは、主犯ではなく「見張り役」と言うチンケな役回りで万引きをしたことである。この辺りの思考回路が少し理解不能なのだが、「見張り役」の方がまだマシではないのか?養父としては、チンケな役回りをした「女の連れ子」にいたくプライドを傷つけられたそうだ。故に、この日の「体罰」は常軌を逸していた。完全に「虐待」の領域に入ったのだ。動機は「憎悪」であったから。そしてこの日以降、養父の体罰は限度を超えて行ったのだ。
先ず、殴り倒された。養父なりの「配慮」であったのだろう、身体を殴ることは無かった。力任せに殴れば内臓にダメージを与え、殺しかねないから。
しかし、この後の展開で私が死んだり重い障害を残さなかったのは奇跡か「守護の者の功績」だったと思う。養父は殴り倒した私に馬乗りになり、顔面を殴打し続けたのだ。手加減があったかどうかは分からないが、小学4年生の子供に馬乗りになって殴打する。養父のイメージは、北野武の「その男凶暴につき」のアレのままである。ヤクザ崩れの男であったのだから。痛いと言うよりも、衝撃と「熱」しか感じない。そして恐怖。私は思わず馬乗りになっている養父に向かって腹筋で起き上がり叫んだ。
「おじさん、助けてっ!」と。
次の瞬間、「何が”おじさん助けて”だっ!」と思いっきり殴打され、私は強かに後頭部を畳に打ちつけて糞を漏らした。この瞬間、養父から「憑き物が落ちた」のだろう、殴打は止み、私は解放されたが動くことも出来なかった。母がどうにか私を立たせて、糞まみれのズボンとパンツを脱がせて風呂場で洗ってくれた。この時の最後の1発がトラウマになり、運動神経が抜群になった高校生時代でも「腹筋は1回も出来ない身体」になったようだ。殴打され続けた顔面は、頬骨と鼻骨骨折、眼窩にもダメージを受け、両目は真っ赤に充血して、顔全体が相当腫れあがっていたようだ。弟は化け物を見る目付きで私を見ていたし、母はその後1か月は自慢の「三面鏡」を封印し、他には唯一である風呂場の鏡もガムテープで隠していたから。それでも、3週間4週間経った頃だろうか、私は自分の目が真っ赤であることに衝撃を覚えた。ここまで暴行の証拠がある顔で外に出すほど養父も母も馬鹿ではない。2か月以上の監禁生活であった。
弟は養父に殴られたことが無いだろう。ゲンコツの2つ3つを喰らうことはあったと思うが、暴力の的になったことは無い。
そして母は・・・
あの狂気の現場では殴られ続ける私をただ見ていた。
(まさか殺しはしないだろう)
そう思って見ていた。のちに回復するまで3か月はかかった怪我である。あの場で死んでいても不思議ではなかったのだ。だから母は翌日以降は「いつも通り」に冷淡であった。いや、翌日くらいは顔をタオルで冷やしてくれたであろうか?
しかし、食卓につく私たち兄弟の向かいに座り、食事をする時に、私が「顔が腫れあがっている」ので、口のある場所や感覚がつかめずに飯をこぼすと「ほら、口はそこじゃないでしょっ!」と叱るのだ。
誤解しないで欲しいのだが、私は母を恨んではいない。養父を憎んでもいない。理由はこの後1年ほど後の話に出てくる。
ある日のことだ。養父は家に閉じ込めている私に本を買い与えてくれた。その本はノベライズされた「宇宙戦艦ヤマト」だったが、ご丁寧にも「下巻のみ」であった。そして母は私にこう告げたのだ。
「ほら、おじさんが本を買って来てくれたよ。ありがとうって言いなさい」
母は狂暴な養父のご機嫌取りに夢中であったのだろう。私は本を抱えて、寝室のベッドの壁を向いて横たわる養父の背中に言った。
「おじさん、ありがとう」
その時の養父の返事は憶えていないが。
人はこれを「魂の殺人」だと思わないのだろうか?
大人になっても、やはりこのようなセリフを言わされたことがあった。やはり素行の良くない「飲食のお偉いさん」であったが、この男の話も中々に含蓄に富んでいて興味深いが、大人になるまでまだ長い小学生時代の話をしているので、しばしのお付き合いを願いたい。
私はこの傷が癒えた頃から、また悪ガキに逆戻りした。叱られ慣れたと言うのか、自分なりに「処世術」を憶えた。こんな出来事があった。住んでいたのは3階建てのアパートの2階、端の部屋であった。ある台風の日、雑な仕事だったのであろうコンクリートの壁から水が染み込んできたことがあった。帰宅した母と養父は「また悪戯かっ!」と、眠っている私たち兄弟を叩き起こした。身に覚えのないことだが、私は「悪戯でコップの水をかけた」と、とにかく謝った。謝らなければ説教は1時間も2時間も続くのだから・・・
のちに「施工不良」だと分かった時に、母は私に尋ねた。
「なんで謝ったの?」
何とも卑屈な少年になったものだ。
しかし、私は「殺されかけるほど」の悪ガキであったのだろうか?自問自答しても答えが出ない。確かに万引きをしたり、タバコを吸ったりする小学生であったし、母の財布から小銭を無住む程度には悪い子ではあったが、エスカレートしていく養父の暴力を受けるのは私だけであった。弟は何故か殴られることも無い。話の道理では、先ずは弟が悪いことを憶えて私に教えるのだから、罪の重さでは弟の方が上である。「罪人に上も下も無い」とは思うが、罰を与えるなら「公平」であるべきではないだろうか?私はこの「暴力格差」について、ある推測をしている。
(そしてきっと間違いではない)
私は実父の「タネ」で、弟は「養父のタネ」で産まれたのではないだろうか。そう考えると合点がいくのだ。
逆ではないかと好意的に考えたこともある、私が実子だったので、養父が厳しく躾けたと言う涙無くしては語れない美談・・・本当の意味での「女の連れ子」である弟に辛くあたるのは「良識が赦さなかった」のではないかと。
そして長男でもある私に「重い罰」を与えることで、タネ違いの連れ子に「脅しをかけた」
無い。そんな話は無い。私の人生は養父のお陰でかなり妙な方向に曲がったし、かなり優しく育てられた弟は、高校を辞めて立派な暴走族にお兄ちゃんになった。
第一、長男の私が「養父のタネ」で産まれたのなら、弟を作った母の考えが理解不能である。二人とも養父のタネと言うには、私たち兄弟はあまりにも似ていない・・・
悲劇だったのは、母が「オンナ」になったと言う点であろう。まだ若かった母を責める気は毛頭ない。私が7歳の時、母はまだ28歳だったのだ。コレで「母親として生きろ」と言うのも酷な話である。しかし、男は選んで欲しかったとも思う。何でまたあんな「DV男」と所帯を持とうと考えたのか?所帯を持つ前は「子供好きの優しい男」だと思ったが、子供への暴力が酷い。しかし、養父の「男の部分」には惚れていたから別れなかった。
コレもまた真実だ。
子供心に、母が媚びた甘え声で養父の名前を呼ぶのを聞くのは、子供心に気持ち悪いと感じていた。
養父の名は「誠寿」と言うが、母はよく、「ねぇ、せいじゅー、せいじゅ-」と語尾にハートマークが付くような呼び方をしていた。
子供にだって記憶力はある。
母は養父に出会って、「母と言う役割の半分を放棄」して「オンナ」に戻ったのだ。だから、自分の子供であっても、悪いことをすれば養父の「教育的指導を受けて当然。殺すわけでもあるまいし」と考えていたのだろう。その甘さが私の命を3回ほど危機に陥れたのだが・・・
1回目は「3か月間ほどは自宅監禁しないと隠しきれない殴打痕」を残すほどの苛烈な暴力。あの時の母の目を忘れてはいない。
さて、当時からの我が家の境遇を振り返ってみよう。先ず、養父は先妻との離婚が成立していないので「内縁関係」ですら無かった(法的には「内縁の関係」も婚姻関係に準ずるから)わけで、当然別居している先妻と子供二人の生活費と養育費の支払い義務がある。
新しく囲った「オンナ」には連れ子が二人いる。かなりの悪ガキだ。仕事は水商売で、母は私が中学校に上がった直後までは「キャバレーのホステス」で、養父はその運営会社の「常務」であったから、養父の先妻の家庭と、私たちの家庭を支える程度の収入はあっただろうと思う。実際、やっと先妻と離婚が成立した後は、かなり裕福な生活になった。借家だが、広い庭にはセントバーナードを放し飼いにして、乗っていた車はアメリカ製のセダンであった。
典型的な「ヤクザ」のような家ではあったが、養父は「ヤクザ崩れ」ではあるが、ヤクザの組員では無かった。
実を言うと、私は食に関してはかなりこだわりがある。金銭にはあまり興味がないが、コレは「生きていける収入さえあればいい」と言う感じだ。「食へのこだわり」を育んだのは、皮肉にも「食の欠乏」を経験したからである。我が家の習慣で、「日曜日の夕食は家族全員揃って美味いものを食べる」ことはお約束であった。この「日曜日の習慣」は私が高校2年生になるまで続いた。ソレはホットプレートでの焼肉であったり、豪華な寄せ鍋であったり、気が向けば「手作りの餃子」なんぞも食卓に並んだ。
だが、平日の食事と言えば、私たち兄弟はかなり冷遇されていた。ご飯は炊いてあるが、おかずは養父の食べ残しであった。見た目が汚いわけでも無いので普通におこぼれに預かっていたが、ちょっと考えて、「子供の分」は別に取り分けておくと言うことをしてはくれなかった。養父が「量の少ないおかず」を嫌ったからである。大皿に盛られた「おかず」を食べ、残るぐらいの量を出さないと不機嫌になる。
故に、私たちはその残りを食べることになるのだ。養父は常務と言うことで、出勤時間が早めであった。キャバレー・チェーンの支配人のトップであり、運営会社ではそれなりに責任ある仕事をしていたのだから、「夜の仕事」とは言え、出勤は午後の3時頃だった。母はまだホステスだったので、夕方の5時半ころから念入りに化粧を始めて、6時にはタクシーを呼んで出勤していった。週に1回ある「ミーティング」の日と、「同伴出勤のある日」は夕方5時には家を出ていた。
そんな母であるが、たまに私たち子供用におかずを作ってくれることがあった。養父の食べ残しではない、私たちのために作ってくれる「おかず」だ。コレが本当に嬉しかった。そして、そんなことを憶えている程度には、こんな素晴らしい待遇は滅多になかったのだろう。
質素なものだった。例えば魚屋で買った「ニジマス」であったり、前の日の鍋で使い切れなかった「汐タラの切り身」であったり。肉はあまり使っていなかった。コレは「養父が肉食を好む」ので、子供用に確保するのが面倒だったからであろう。稀に「骨付きの鶏もも肉」なら焼いてくれたが。
ニジマスを素揚げにしてくれたり、「タラ」と聞いて私が「煮魚にして?」と言うと、「美味しくないんだけどねぇ・・・」と言いながらも煮てくれた。
鍋で使うような「汐タラ」は確かに煮魚には向かない食材だと、大人になり自炊をするようになって理解した。
朝ご飯は滅多にない。前の晩、帰宅時にどこかに寄った時にその食べ物がテーブルの上にあれば、ソレが朝ごはんである。大抵は牛丼であったり、マクドナルドであったり。昼ご飯は、学校にさえ行けば給食があるので問題は無かった。夕食は前述の通りである。
問題は「日曜日の日中」であった。帰宅の遅い夜のお仕事なので、日曜日は寝ていたい母と養父。腹を空かせて飯をせがむと、大抵は5百円札を1枚、私たちに渡して「コレで食べてなさい」と言うだけ。日曜日の夕食は豪華なのは約束されているので、私たち兄弟はその5百円札で菓子パンなんぞを買って食べていたものだ。今も思いだす「シュガートースト」と言う名の、焼いてないパンにたっぷり塗られたマーガリンとグラニュー糖の油甘い味とか、「銀チョコ」と言う名の、質の悪い生クリームを挟んだチョココーティングされたコッペパン。「ナイススティック」の美味しさは衝撃だった。当時、新発売された菓子パンだった。今もたまにこれらの菓子パンを買うことがあるが、「甘いモノ枠」で食べるだけで、食事にはなり得ない。「おやつ向き」と言うことだ。
あとはカップ麺であるが、5百円を頂いた日はなるべく家に帰らない暗黙のルールがあった。母と養父の寝る時間を邪魔出来ないことと、買い物に付き合わされるのを避けるためだ。日曜日のご馳走の買い物はかなりの量で、そんな量の買い物に付き合っても、お菓子一つ買ってはくれないわけで。
情操面では最悪に近い家庭であった。私は「誕生日を祝ってもらった記憶がない」ほどである。誕生日の無い子供のところに、果たしてサンタクロースが来るだろうか?
割と弟は「誕生日のお小遣い」を貰っていたようだが、「兄弟格差」はここにも厳然とあったようだ。
それなのに、乏しいお小遣いを貯めておいて、「母の日・父の日」にちょっとしたモノを贈ると、母も養父もものすごく喜んだ。だったら、その喜びを子供にも与えてはくれまいか?
私は虐待されていたが、怒っていない時の母や、養父だって大好きだった。悪戯や悪事を働くととことん怖い保護者であったが、私たち兄弟も普段の生活の中では甘えていたのだ。
ここに昨今の「幼児虐待死」の哀しい実態がある。
幼い子はどんなに虐待されても「お父さんとお母さんが大好き」なのだ。あるニュースで知った女の子は虐待死する前に、お義父さんに向けて、一生懸命「ひらがな」で手紙を書いていた。「いい子になりますから」と訴える文面は私の心をざわつかせた。「涙が出た」なんて陳腐な言葉は使わない。多くの人が、この手の虐待死事件を「ネタ」にして、「涙が止まりません」と、「心優しいワタクシ」を演じているが、ならばこのような悲劇を回避出来る方法を模索して欲しいものだ。ソレがどんなに現実離れしていても、「子供について考えてくれる大人」はいい人だ。少なくとも悪人ではない。
もっと容易に「子供を捨てられる世の中」になればいい。
多くの場合、虐待の末殺されるのは母親の連れ子である。しかも加害者は「内縁関係の夫」であることが圧倒的に多い。どうかすれば、自分の連れ子なのに、内縁の夫と一緒になって虐待して笑っている畜生のような母親もいる。
または、育児に悩んだ末に「子殺し」をソフトに表現した「無理心中」を図る母親もいる。多くの場合、そんな母親が致命傷を負っていたなんてことは無い。9階の窓から子供を投げ捨てて、自分は「ブーツを揃えて非常階段に置いただけ」なんて事件もあった。そして、「無理心中を図った」母親は、大抵は執行猶予付きの判決で、また男を漁る。この国では「尊属殺人」の罪は重く、「卑属殺人」の罪は驚くほど軽いのだ。今は「尊属規定は憲法違反」と言う判例があるので、昔ほどの厳罰を言い渡されることは激減したが。
「尊属規定の違憲判決」が出る前は、親殺しは死刑か無期懲役だった。
産まれてきた「新生児」を殺してしまう若い母親もいる。「多い」とは言わないが、毎年相当数の新生児が殺されているわけだ。
子を殺す親にとっては「子供は邪魔な存在」であり、「自分の未来を束縛する存在」だったり、「悩みのタネ」でしか無いのだと言うことを先ずは考えて欲しい。
ここに「母親には甘い判決が下りるうえに卑属殺人の罪は軽めに見積もられる」事実が重なれば、内縁の夫が手を下す「虐待殺人」よりも、母親の子殺しのハードルが下がっていく。
要らない子なら捨てればいいんだ。イライラしながら一緒に暮らし、衝動的に加害に及ぶことは、実は多いのだから。「加害」レベルなので実数が分からないだけで、多くのシングルファザーやシングルマザーはこの「加害」を経験する。もちろん、その直後に猛省して繰り返すまいとする親が多数派だ。しかし、一部の親は子供が死ぬまで繰り返す。
捨ててくれ。
私はそう思う。社会の罪でもあることだ。日本の社会は「母親に無償の愛」を要求する。「母親なんだから子供が可愛く思えて当然」だと決めつける。そんなことは無いんだ。子を愛せない親は確実に存在する。ならば捨てればいいのだ。そんな子供たちを引き取る施設を作るべきだと感じる。運営費ならあるだろう。子供を集めて育てることにいくらかかると言うのだ?日本中の「要らないと言われた子」たちを全部集めて育てて、100億円ですか、200億円ですか?その程度の金は政治家がポケットに入れているじゃないか。あの東京オリンピックでどこまで予算を齧り取りましたか?この疫病下で、対策と言いながら、相反する「レジャーや外食の奨励」にいくら使うんですか?「金だけはある」人気ユーチューバーは私財の一部でも社会のために使うのは嫌なんですか?
社会も変わるべきではあるが、コレは実績を積み上げることでクリアできる。親のいない子でも高等教育を受ければ立派な社会人になれると。
高等教育=高校卒業までと言う縛りがある今の施設ではなく、才能があるならば無償で国公立大学に進むことが出来るとか。実際に、このレベルの優秀な子は「給付型奨学金」を受け取っていることがある。公立の小学校から高校まで通って、まだ伸びるのなら公立の大学に入ってもらえばいい。コレが一番費用の面で有利だ。
子供を捨てた親を差別することも、意識を変えて見ればいいのだ。「子を殺さず、虐待もせずに子を捨てると言う英断を下した親」なのだから。
愛せない子をいつまで抱いていても愛せるようにはならない。九州には「赤ちゃんポスト」と言う制度があるようだ。全国に広げていく運動もある。「内密出産」が物議をかもしたが、コレも現行法で対応出来る。
もっと子供を大切に出来る社会。
元被虐児童として、私はこの国とその民に要求したい。
「捨てること」も愛情だ。
実を言うと、私は養父に殺されかけた「2回目」を憶えていない。ただ、住んでいたアパートの外廊下で手足が自由に動くのが本当に嬉しかった記憶があるのみだ。
我が家の近所にはもう一人、登校拒否児童がいた。複雑な家庭環境であったようで、今の私の記憶に残っていないと言うことは、当時の私の理解力の外にあったと言うことだろう。なので便宜的に彼の保護者を「父と母」と表記することにする。実際は違っているのだろうけれど。
彼、高雄としようか。今はもう生きてはいないと思うが、特定は避けたい。高雄の家は私たち兄弟の養父の駐車場の横に建つアパートだった。間取りは1kだったように思う。高雄の父は優しい人で、当時は一般家庭で見ることは少なかった「レコードプレーヤーとアンプのセット」があり、そのプレイヤーを借りによく行ったものだ。我が家にはレコードプレーヤーは無かったから。
いつだって微笑みながら、私が持参するレコードを鳴らしてくれたものだ。今ではそんな機材も必要なく、1台のスマホで多くの機能を賄えるが、当時はレコードプレーヤー等の音楽プレイヤーとテレビは大きくて重い家電品であったし、情報や知識が欲しければ図書館に足を運ぶしか無かった。
そう、図書館と「市民プール」は、子供が初めて自分のために使う公共施設だった。今もわが市にある「移動図書館」のサービス外に住んでいたので、図書館までバスと電車を乗り継いで、さらに歩いて通ったものだ。いつだって、図書館と市民プールには夏が「付きまとう」ような気がする。夏休みの宿題をマトモに提出したことは無いが、友達に付き合って行った図書館の蔵書の多さには魅せられたものだ。今思えばその数は高校の図書室程度であったが・・・移動図書館に至っては、家庭用の大きな書棚2つ分ほどの本を積んで、主に山間部を走っていたはずで、本当に必要ならば、相応の交通費を払って市立図書館まで行くしかない時代。
娯楽としての「読書」はかなり面倒であった。
暑い日に、友達と一緒に図書館に行くと言うことがひどく「冒険」に思えた。ほんの1時間弱の道程であったが。
暑い夏と言えば市民プール。コレも学校の友達と通ったものだ。利用料は1日50円だったので、「プールに行く」と言えば、夏休みのうるさいガキどもが1日帰ってこないと言うことで、どこの家庭でも快く送り出してくれたものだ。交通費もそんなにかかるわけもない「市内のプール」であるし、食事代に200円も渡せば買い食いすると言うことだ。未だに「カニパン」の味が忘れられないのは何故だろう?今も数年に1回は買ってみようかと思うことがあるし、売っているのだ。学校のプールは開放日が少なかったし、市民プールの長辺50mの大きなプールが気持ちよかった。しかも友達と帰りに買い食いする楽しみまであるのだ。夏の市民プールはそれほどに魅力的であった。
そんな学校の友達との生活をしていれば、私もここまでひねくれることもなかったであろうか?しかし、運命は残酷で。いや、弟と言う災厄からは逃れることが出来ないものである。年子の兄弟で、多少の知的障害があった弟は、大抵は私の傍に居たものだ。知的障害と言っても、学校の授業についていけないと言う程度の軽いものであるから、特に医者にかかるとか、支援学級にいたと言うわけではない。
そんな弟が高雄と出会った。言葉を交わすようになったと言うぐらいの関係から、「悪い友達」に昇格するまで1週間とかからなかったと思う。私は高雄の「不良としての資質」を見抜けなかったし、高雄の父親のレコードプレーヤーに興味があっただけだ。記憶が正しければ、高雄と弟は同い年であった。その弟と高雄が私の前から「消える」日が増えるようになった。多分、二人で遊んでいるのだろうと放置していたが、まさか小学3年生程度で「シンナー遊び」をしているとは思っていなかった。私が弟の異様な状態に気付いたのは寒くなる頃であった。よだれを垂れ流しながらヘラヘラ笑って「兄ちゃんー」と私を呼ぶ弟の薄気味悪さよ。そのまま連れ帰るわけにもいかず、シンナーが「抜ける」までの数時間を寒い公園で過ごした。そして高雄は決して私をその「シンナー遊び」に誘うことは無かった。早い話が、弟にも「不良としての資質」があったと言うことだ。私たち兄弟は悪い遊びをする「悪ガキ」ではあったが、ある一線を超えることは無かった。しかし弟は違ったようだ。「悪い遊び」と言うよりも「スリルのある遊び」と言う認識で悪事を憶えていたようだ。なので、高雄は弟と仲良しで、私とはちょっと他人行儀なところがあった。
ある日のことである。私も「良い子」とは言い難く、高雄と私と弟の3人で、我が家で煙草を吸っていた。その日、私たちの両親は早い時間に家を出ていたので、寒い外で遊ぶよりは、親がいない家の中で遊んでいた方がよほどマシであったから。
ところがアクシデントが起こった。忘れ物をした養父が帰ってきたのだ。部屋に立ち込める煙草の煙に顔をしかめ、「またお前らかぁっ!」と怒鳴る養父。私は恐れおののいてしまい、「僕じゃないっ!」と逃げを決め込んだ。とにかく卑怯な子供であった。弟と高雄の間にどんな密約が成立したのか、その時も間も知り得ないが、偶然にも灰皿にあった「火のついた煙草」は1本だけ。そして高雄が全ての罪を被ってくれたのだ。
「僕が吸ってただけです、あとは燃やして遊んだんです」と・・・
その翌日から、高雄の姿は町から消えた。私はあの怒鳴られた日に、あの瞬間に。弟と高雄は目配せをして、「よその子」である高雄が罪を被るようにしたのだと思っている。そして、この別れが弟の一生を決めることにもなった。あのまま高雄と遊んでいれば、シンナー遊び程度では済まなかっただろう。いや、小3でシンナー遊びをするなんぞと言う空恐ろしい子は長生きすら出来なかったのではなかろうか?
そして春になる頃、高雄が町に帰ってきた。私たちの養父の通報や、高雄の父への抗議が理由で、高雄は施設に入っていたそうだ。多分「少年更生施設」の類だと思う。そして、高雄の両親が引っ越しをすると言うことで、一時的な措置なのか、帰宅出来たようだ。長髪だったあの少年は丸坊主の頭を爪先で引っ掻きながら言った。
「もう会えねぇなぁ。遠くに引っ越すみたいだから」
最後まで高雄は「漢」であった。私たち兄弟の罪を被って施設送りになったのに、恨み言のひとつも言わなかった。私は後ろめたさから、高雄の話を聞いて「そっか、遠くか」と言い残してその場を去ったが、弟は結構な時間、高雄と話し込んでいたようだ。多分、いつかまた会おうと言う約束もしていたと思う。後年になって、弟から「高雄はヤクザになった」と聞いたから。中学校を卒業する歳になる前に小指の先が無かったとか・・・なので、もう生きてはいないだろうと思うのだ。
私は器用に友達を「使い分けていた」ように思う。トシとの付き合いも続いていたし、高雄とも遊ぶことがあった。学校の友達と遊ぼうと思えば、近所の公園に行けばよかった。いつだって、学校のクラスメイトがボール遊びをしていたから、そこに混ぜてもらうことは容易かった。しかし、弟は「真っすぐ」であった。友達とは「深く付き合う」タイプで、交友関係は狭かった。だからこそ、トシや高雄から「悪い遊び」を教わっては、私を巻き込んでいたのだろう。巻き込まれる私が悪いと言えばそれまでの話だが。
いつも私の傍に居た弟が一人で誰かと遊ぶことを決定づけたのは「自転車」だったと思う。私が住んでいる街は山と海の中間ほどのところで、早い話が「坂道の多い町」であった。道を選べば、長い下り坂を疾走して港町まで行ける、そんな場所であったので、自転車を買い与えるのは危険と判断したのだろう、私が自転車を買ってもらえたのは小学校4年生の頃だ。当時流行りの「フラッシャー付き、リトラクタブル・ライト」の黒い自転車。簡単に言えば、小学生用の自転車にウィンカーと「電動で開閉する前照灯」を装備したモノだ。ただし、「パチもん」であった。既にそのメーカー名を忘れてしまったが、やはり子供の世界にも「有名メーカー」が存在していて、そこの自転車が「ホンモノ」と言う認識であった。それでも流行りのタイプであったから、誇らしいと思っていたが。弟にはまだ自転車が無いわけで、遊ぶ範囲も狭かった。私は自転車で足を伸ばせば10kmぐらいは余裕で移動できたので、クラスメイトがちょっと遠い「グラウンドのある公園」で野球をするなんて場合でも一緒に行動出来た。それまでは、自転車で走るクラスメイトの後ろを駆け足で追うことばかりであったが。もうこうなると、遊びにもお金がかかるようになる。それまではゴム製の柔らかいボールをプラスチック製のバットで打ち返す「野球ごっこ」であったが、ボールは軟式野球用の「L球」になり、バットは木製になった。隣の小学校の誰それが「王選手と同じ圧縮バット」を買ったと言えば見に行くような、そんな野球少年の誕生である。
関係があるような無いような話だが、私は小学校2年生ぐらいから家事を手伝うように命じられていた。ここでも弟は優遇である。実に自由に生活していた。買い物は当たり前で、毎晩、台所にある使用済みの食器洗いも毎日のことであったし、風呂桶に水を張っておくのも私の仕事であった。そして、サボれば容赦なく深夜に叩き起こされて仕事をやらされる。水商売の親の帰宅は深夜0時を回る頃であったおでえ、この仕打ちは本当に辛かった。水の冷たい時期はそれだけで目が冴えてしまい、もう眠ることが出来ないほどであったし、風呂桶に水を張っていないだけで起こされるのも理不尽な話である。私が蛇口をひねっても、母が蛇口をひねっても、かかる時間は同じなのに。と、まあこんな感じで家事を手伝っていたので、多少はわがままが出来たのだろうか?素手で軟式野球用のボールを受けるのは辛いと、どうにか買ってもらえた本革のグローブは4800円だっただろうか?木製バットは子供用であるからそんなに高いモノでは無かったように思うが、これもねだって買ってもらった。
私は今でも苦手なモノがある。ソレは深夜に「車の排気音で目を覚ますこと」である。小学校の時は、この車の音に敏感であったから・・・特に悪事を働いた後なんて夜はびくびくしながら養父の車の音を聞いて心臓を跳ねあがらせていた。本当に今でも嫌いだ。
女の子には興味が無かった。いや嘘だが、特に関心が強かったと言う記憶は無い。小学校時代のクラスメイトの女の子で思いだせるのは、小1の時の「加藤さん」と、小3か小4か、そのくらいの時に同じクラスだった「湯沢さん」の二人だけだ。割と女の子はどうでもよかったのだ。興味があったのは野球と図書室の本とアニメぐらいだったわけで、そう言えばドリフの「8時だよ全員集合」の話で盛り上がった記憶も無い。まだ「荒井注」がメンバーだった頃から「ドリフの番組」は楽しみの一つだったのだが。「せんだみつお」になると、クラスではもう話が通じなかったような記憶ならある。深夜と言うか、子供にとっては遅い時間の出演番組が多かったのが「せんだみつおと和田アキ子」であった時代。せんだみつおはまだCMに出演していたから多少の知名度はあったが、「和田アキ子のゴッドねえちゃん」なんて話題は子供には通じない。それでも、割と子供向きの演出があった気もする(ジャンボ・マックスと言う着ぐるみを着たキャラとか)
登校拒否児童とは言え、サボるのは週に1回あるかないかであった。どうかすれば割と真面目に通っていたわけで。ソレはトシとの遊びに飽きた時とか、図書室に逃げ込みたい日々が続いていたり、正直、給食のメニューが楽しみであったとか、そんな理由だ。私にとって、「学校」も「サボって遊ぶ時間」も等価値だったから。勉強は退屈で、外の山を見てるだけだけだったけれど。
教育と言えば、私はかなり厳しくされた方だと思う。今はもっと凄いらしいが、私は5歳の時には平仮名・カタカナ・ローマ字の読み書きが出来たそうだ。「出来たそうだ」と書いたのは、両親の離婚騒動と、母との流離うような生活の中できれいさっぱり忘れたから。小学校に入ってから憶え直したようなものだ。そう言えば、記憶の中で私は「あ」と「お」が鏡文字になる癖があった。学校ではなく、母に何度も叱られていた記憶があるのだ。母は中卒で、東北地方から集団就職で都会に出てきた。父は電気技師でそれなりにインテリであったから、学歴コンプレックスがあったのだろう。運の悪いことに、母が離婚して一緒になった養父も強烈な学歴コンプレックスがあったこと。私は家で勉強した記憶がほとんど無いわけだが、そんな子供の勉強机の上は「物置」と化すわけで、その様々な「モノの山」を、養父が払いのけて「勉強しろっ!」と怒鳴ることも多かった。それでも勉強はしなかったが。この養父のお陰で高校入学でひと悶着あったわけだが、その話はまた追って書こう。
養父の暴力が始まって3年。当時の私は馬鹿だったのだろう、自殺も思いつかずただ耐えていた。元はと言えば、私たち兄弟が悪事を働くのが悪いとも言えるのだが、養父の「鉄拳制裁」は度を越していたように思う。更に言えば、「弟の優遇」も多少は胸に引っかかるが、当時はこんなもんだと思っていたのだろう。
その暴力は割とバラエティーに富んでいた。「根性焼き」の教訓とか、髪の毛を「逆モヒカン」に刈るとか。昨今の虐待殺人ほどではないが、「殴るだけ」ではないところが悪質であった。そして、私が働く悪事と言えば、ここに書いてきたことぐらいである。母の財布からお金をくすねることもあったか・・・
つまりは、万引きと空き瓶窃盗、あとは子供の悪戯レベルである。知られたらタダでは済まない悪事もあるにはあったが、幸いにもソレは私ですら忌避するような悪事であったので深入りしなかった。弟のことは知らない。弟はもっと悪かったのだろうと思う程度だ。
ある日のことだ。
何故そんな事態になったのか思いだせないと言う程度には「些細な悪事」がきっかけであった。私は養父に玄関から叩き出され、階段付近まで逃げ延びたのだが、そこでまた殴り倒された。この程度なら茶飯事であったので問題は無いが、後が悪かった。養父は「お前のような子は出ていけっ!」と言いながら、階段の上でうずくまる私を蹴り落としたのだ。今風のアパートではない。その階段は踊り場も無く、真っすぐ、1階までかなりの角度で降りるコンクリートが鉄枠に嵌った危険なタイプ。その2階から蹴り落とす神経が分からない。アレは死ぬか、最低でも障害を残すような大怪我をしてもおかしくない暴挙であった。
この「階段落とし」は養父の十八番で、のちに自宅内だが母も蹴り落とされていた。なんであの男に惚れていたのか、理解不能だ・・・
階段から蹴り落とされた私は頭から行った。尻を蹴飛ばされて落ちたのだから当然であるが、コレが最悪の中の「幸運」だった。私は両手と膝を使い「高速ハイハイ」の要領で階段を駆け下ることが出来たのだ。季節は暑くも無く寒くも無い、しとしとと雨の降る晩であった。あの時、僅かでも何かが「違っていたら」私の身体は裏返って宙を舞っていたはずだ。幸いにも擦り傷で済んだが。
流石にこの時は母も驚いたようで、1階の床に這いつくばったあと、よろよろと逃げようとする私の後を追ってきた。水色の部屋着の胸元が濡れていた母を私は見た。そして計算した。
(ここでこの胸に飛び込んでわんわんと泣けば今夜は助かるな・・・)
この時、私は「親を捨てた」のだ。
もう何も要らなかった。ただ痛いことが嫌だった。怖いことも嫌だった。寒いのもお腹がすくのも嫌だったから、私には「親を捨てる」決心が必要だったのだ。もう親に甘えまい、頼るまいと誓った。まだ小学生であったし、自分で稼ぐまでかなりの年数を要するはずだが、せめて高卒までは食わせてもらおう。それだけでいいと。
この「高卒まで」と言う期間設定も裏切られたが。
この日を境に、私の悪事はピタリと止んだ。弟にそそのかされても乗らないようになった。近所に住むトシとの付き合いも最小限にした。驚くことに、あの惨い「殴打事件」のきっかけになったトシは、私が外に出られるようになると、ニヤニヤしながら近づいてきて「よお、大変だったな」とほざいた。所詮はどこかが「壊れている子供」なのだ。弟も「壊れた子」だったのだ。そして私は「要らない子」だったのだろう。サンドバッグが必要だったのだろう。ソレが証拠に、私を殴れなくなった養父は、今度は母を殴るようになった。今度はDVである。本当に色々と見せてくれる男であった。この世界はきっと私に背を向け続けているのだろう。私は「自戒」を込めて、メールアドレスに、英語で「要らない子」と言う単語を挿入してある。たとえ世界が私に背を向けていても、少なくとも「世界」は殺しには来ない。世界はその程度には寛容らしい。
私は「親を捨て、同時に弟も捨てた」わけであるから、もう恨むとか憎む必要さえ無くなった。私の世界にはもう肉親はいない。これほど無残な話はあるだろうか?子供が親を捨てなければ生きていけないと考えるほどの話は。
私は以降はひたすらに本を読んだ。養父も母も「やっと厳しい躾けの結果が出た」と安堵していたのだろうか?躾とは「死にかけるまで身体に分からせること」なのだろうか?私は割と「体罰容認派」ではある。幼い子供に分からせるためには、分かりやすい「痛み」で躾けた方がいいこともあると考えている。考えてはいるが、「やり過ぎ」は駄目であろう。のちに後遺症が残るような方法も駄目であるから、せいぜい、頭をゴツンとやるかお尻ぺんぺん程度ではないだろうか?その程度の「体罰」で十分なのだ。怒るのではなく「叱る」ことが肝要だと言うこと。少なくとも子供を体のいいサンドバッグにしなければいい。本を読む理由は、完全なる「現実逃避」であっただけだ。少なくとも本の中の世界は優しかったから。優しいだけではないか、読む本に困れば横溝正史の「八墓村」や「本陣殺人事件」等も読んでいたし、「教育的に好ましい」と言う認識で読むことを許されていた手塚治虫の漫画の中では、ゲイが世界を滅ぼそうとしたりしていたから。それでも「書籍代」だけは無制限に与えてくれたことには感謝している。
私は「平凡な成績」で小学校を卒業した。「良い成績」は不要だと思ったからだ。どうせ市立中学に入学するわけだし、高校卒業までは適当に周囲に合わせていればいい。
ここで母も養父も、そして中学校の教師も予想しなかったことが起こる。
トシの存在である。2個上の「トモダチ」であるから、中1の私と「在校時期が1年被る」ことになる。祖いて、トシは持ち前の「人格障害」と成長したその身体を以って、立派な不良になっていた。当時は「ツッパリ」と呼んでいた。その後は「ヤンキー」とか、時代によって呼び名は変わるが、どうしようもない不良のことである。私は割と平凡な中学生となるはずであったが、好むと好まずを関わらず、トシに巻き込まれていった。
先輩の命令は絶対である。体育会系の部活を経験した人なら理解出来ると思うし、「自分も不良だった」なんて人には自明の理。更に言えば、通常業務の範疇ならば「上司の命令」に置き換えてもいい。つまりは逆らうことなど出来ないわけだ。トシはあの「殴打事件」の負い目があったのだろうか、私に無理な命令はしなかった。ただ「仲間に引き込んだ」だけである。しかし、周囲はそうは見ない。私は立派なツッパリグループの構成員と認識された。そして、隣のクラスにはアメリカ人の母を持つハーフの男子がいた。コイツも相当な悪で、多分きっかけはその「ハーフ然とした容貌」(イケメン)を幼少時からからかわれ続けたことではないかと推測するが、仕上がったのは先輩もビビるほどの残虐性を持った中学生である。そのハーフ、譲と呼ぼうか。アメリカ人にも日本人にも発音しやすい名前だったから、ここでも仮に「ジョー」とする。そのジョーに早速目を付けられてしまったわけだ。廊下でトシとすれ違えばふざけ合ってる私は、同学年の「ツッパリ」からすれば邪魔な存在だっただろう。大人しくしてはいたが、空手が黒帯であることがすぐにバレてしまった。バスを待っている時に道着を結んでいる帯の色ぐらい、誰だって理解出来る。そんな私がもしもツッパリの世界に入ったら?多少の脅威はあるだろうが、なによりもトシと言う強大なバックがいる・・・
なので学校や友達関係で揉めることは無かった。何かあれば「トシ先輩」が出てくるのは予想できるわけで、だったら干渉しない、干渉されない緊張関係にあった方がいいし、何かあった場合は私を擁護することでジョーの安全も担保される。
私はまたトシと遊ぶようになった。同級生には「ツッパリの先輩に一目置かれている空手黒帯の子」だと思われていたから、同学年の友達は数人しかいなかったし、学区が広く、近くに住んでるわけでもなかった。トシの仲間の一人は学校近くに住んでいたので、その先輩の家が溜まり場になった。溜まって何をするわけでも無い。駄弁って煙草をふかして、エロ本なんぞを回し読みする程度である。それでも興が乗ってくると、「ツッパリ狩り」に出ることもあったようだ。そんな時は私を巻き込まないと言うトシの配慮でもあったのだろうか?暴力沙汰に巻き込まれたことは無かった。
ソレはある日突然始まった。先輩たちのツッパリグループにも「派閥」があり、割と均衡した実力だと噂されていたのだが、あるグループのリーダー格の少年が入院した。私はソレを聞きつけて、無邪気に「お見舞いに行った方がいいですか?」等と言っていたが、その答えが「少年院だぞ?」である。そっちの入院だと見舞いは無理である。そして、リーダー格を失ったグループは他のグループに潰されていたわけだ。リーダー格はこう言うと問題だが、当時の「朝鮮系」のツッパリと言えば、恐怖しか感じない存在であった。「鼻割り箸」とか、「将棋パンチ」等と言う残虐なこともやると噂されていた。実際はそこでの残虐性は無かったように思う。「こんなことをやった」と言う噂が尾ひれを付けて流布されていただけであろう。私たち1年生はまだ無関係であったはずだ。2学期に入る頃から、先輩たちがツッパリに目を付けて「仲間に引き込む」サークル活動が始まる程度で、戦力として数えられていなかった。同学年同士での「派閥争い」は始まっていたが、2つ上の先輩たちの争いは「天上界の戦」みたいなものであった。私のようにどっぷりと仲間になってしまった場合を除外すればの話だが・・・
当時の中学校は荒れていて、ソレは「金八先生」の世界そのもの、いやそれ以上であった。そんな中でのほほんと先輩に混じっている1年生がいる。このことに危惧を抱いた教師陣の采配で、私は中1にして、退学処分となった。公立中学なので「退学制度」は無いが、親が呼び出され、「お宅の息子さんは相当危ないですよ。悪い先輩に付きまとわれていて云々」と説得されれば「引っ越し」をすることになる。つまり、引っ越して転校することで人間関係をリセットするわけだ。
転校先が、市内でも有数の「悪い中学校」だとはつゆ知らずに・・・コレは親に責任は無いけれど。
2学期の終わりに転校することとなった。それまでは遠巻きにしていたクラスメイトや、あのジョーからかなりのプレッシャーを受ける羽目になった。「どうせ転校して居なくなるならば、我慢していた分はやり返しておこう」と言うことだろう。しかし、私は周囲に何も「我慢を強いたことは無い」と言える。勝手に「脅威だと感じていた周囲」が悪い。
大きな争いは無かったが、転校前に引っ越しは完了していた。1か月ほどだが、引っ越し先から越境登校することになったのだが、当時の中学校は給食が無かった。
嗚呼、あの弁当箱の思い出よ・・・
中学校に入る前の春休み。私は母にお金を渡されて、「コレで好きな弁当箱を買ってきなさい」と言われた。多少はマセていた私は「曲げわっぱ」の小粋な弁当箱を選ぶ・・・はずもなく、「ドカ弁」と呼ばれていた、「アルマイト処理」された大きな弁当箱を選んだ。飯の量は優に1合を超える弁当箱であった。しかし、「液漏れ」が酷いモノであったから、私は鞄を持つ逆の手に、弁当箱を包むバンダナの結び目を持って登校していた。そうしないとおかずの水分でカバンの中が酷く汚れるのだ。中学校入学当初は母も頑張って弁当を作ってくれたが、長くは続かず、そのうち「海苔だけ弁当」ばかりになった。「海苔弁」ならば白身魚フライ辺りは入ってそうだが、「海苔だけ弁」は、3段構造になった「海苔と醤油オカカ」の地層が眩しいシンプルなモノであった。それでもカバンに入れるには無理があり、やはり手に持って登校していたものだ。
越境登校ともなれば朝は非常に早い時間に家を出ることになる。そんな私に弁当を持たせるのも面倒だったのだろう、コレで途中でパンでも買いなと500円を渡されるようになった。弟はさっさと転校を済ませ、引っ越し先のすぐそばの市立小学校の6年生になっていた。私が途中のセブンイレブンで菓子パンを買って登校すると、以前は怖がって近づいても来なかった小学校時代からのクラスメイトから「セブンイレブンw」と馬鹿にされるようになっていた。もう先輩の後光は差していないのだ。ひ弱なクラスメイトにすら馬鹿にされる日々だが、どうせ1か月もすれば転校だし、大きな揉め事がなければ良かった。
転校初日。既にこの時点で空気が焦げ臭い。当時の私は養父の体罰「逆モヒカン」の時から坊主刈りにされていた。「逆モヒカン」されて、頭の中央が超短髪になれば、もう選択肢は無い。そして、その方が悪さをしないかも知れないと言うことで、私の髪型は「床屋で五分刈り」と決定付けられていた。今はまた坊主刈りにしているが、コレはもうファッションに興味を失い、楽な方を選んだ結果である。
割と不幸な境遇であったのだろう私は、転校初日から「目付きの悪い坊主刈りの悪ガキ」と言う評価が先立ち、初日放課後は体育館の裏で軽いリンチを受けた。空手をやっていたことが悪い方向に働いたのだ。すなわち、「喧嘩で拳を使ったら破門」と言うことで、そんなことになったら、また養父から鉄拳制裁を受けることになる。空手なんぞをやっていると、パンチは「正拳突き」に、キックは「前蹴り・回し蹴り」と、習った型通りに出てしまうし、動きも速い。型には無いが「後ろ回し蹴り」の軌道は2段3段になっても読めないものだ。パンチの速さでは「ボクシング」に勝てはしないが。
演舞主体の道場とは言え、マトモに「入れば」肋骨ぐらいは折る威力がある。蹴りなどは道場での組手でもほぼ使えない威力があった。結局は、喧嘩で絡まれる限りでは袋叩きである。
故に私は転校後も、トシに会いに行っていた。自転車で片道1時間ちょっとをかけて週に4日は会いに行ってトシたちと遊んでいたわけだが、元先輩たちの派閥争いで、トシのグループも分裂していたことに気づけなかった。当時の溜まり場の一つ、工場経営の家の子だったツッパリの家。その工場の2階に卓球台があった。元は工場の社員のレクリエーションだったのだろう、既に使われなくなって久しいその卓球台で卓球に興じるのも「遊びの一つ」であった。
余談だが、養父にとって私たち兄弟は「日曜日に情婦とセックスするには邪魔な存在」だったので、割と親戚の家に泊まりに行かされたり、日曜日にはキャバレーの社員で、高校時代は国体で卓球選手であった部下に預けられたりしていた。当然、市民会館で卓球の手ほどきを受けていたわけで、私の腕前は悪くは無かったし、弟は卓球に魅せられて、中学時代は卓球部の部員であった。弟の腕前は大したもので、そのラケットは「オーダーメイド」であった。私には使いこなせない「高反発ラバー」を貼られた黒い地味なラケット。アレが弟が「マトモになれる最後のチャンス」だったのだろうか?
トシたちのグループと卓球に興じていた「その日」の記憶は鮮烈だ。分裂して他のグループと合流した元仲間に急襲された。たまたま入口近くにいた私を、元は仲間だったニキビ面のツッパリが、自慢の「トンガリ」(先端が尖った革靴)で蹴り飛ばした。危なかったと思う。モロにみぞおち付近に入った蹴りは、素人にしては速かったが、咄嗟に後ろへ跳ぶことが出来た。咄嗟に跳んだことで蹴りの威力は半減して、私の身体を2~3mほど後方へ飛ばすことで帳消しになった。あの場面で後ろに跳んでいなかったら内臓にダメージが行くレベルだった・・・
「おい、おかしいぞ。なんであんなに飛ぶんだよ?」と、仲間のツッパリが喚いたりはしたが、私は腹部を押さえて呻いていた。そう、それでも相当なダメージは受けていたのだ。そしてふらふらと立ち上がり、「失礼していいですか?」と急襲してきたグループのリーダー格に訊いた。「なんだ、お前卓球はしねえのか?」と言われたが、「腹が・・・」と言えば解放してくれた。トシたちは顔から血を流して正座していたが、元々「下級生」だった私にはあまり興味が無かったようだ。
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